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2007年5月の見聞録



5月2日

 多賀敏行『「エコノミック・アニマル」は褒め言葉だった 誤解と誤訳の近現代史』(新潮新書、2004年)を読む。元来の言葉とは違った意味に解釈されている言葉をトピックごとに取り上げていっている。第1章はマッカーサーの「日本人は12歳」発言の真意に関して。この発言は日本人を侮蔑するものと見なされ、それまでのマッカーサーに対する日本人の敬意が急激に下落した契機となった。しかし、この発言がなされたアメリカ上院での公聴会の記録を読んでみると、日本とドイツとを同一視する発言への軽い反論として用いられたことが分かる。つまり、日本は欧米の自由を知らない前近代的な価値観のもとで暮らしてきた、いわば「12歳の少年」のようなものであるが、だからこそ教育が可能であり、自由をすでにきちんと理解していた壮年期のようなドイツとは違う、と慈父のような立場で日本を弁護していた。
 「エコノミック・アニマル」という言葉は、パキスタンの元首相であるブットが日本人記者に発した言葉に端を発する。しかし、英語の用法からすれば、チャーチルの政治的な才能を評価して「ポリティカル・アニマル」という言葉が用いられたように、この言葉に侮蔑的な意味はない。ブットはオックスフォードで教鞭を執ったこともある人物で、イギリス英語を完璧に使いこなしていた。著者は、日本人記者との間のやりとりの中で少し苛立ったブットが、日本は経済分野で優れているのだから政治のことにあまりつっこまないで欲しいという意味合いで、用いたのではないかと推測している。また、日本人の住居をウサギ小屋と揶揄したと解されていることも、原文であるフランス語の解釈からすれば、ウサギ小屋は「画一的なアパルトメントからなる建物」という単なる事実を表したものにすぎない。
 「グローバルスタンダード」という言葉は、日本人が思い描くような企業の規則や慣行の意味合いを持つ言葉としては、英語に見られない。保守派も改革派も、この言葉を「グローバルスタンダードから日本を守る」または「グローバルスタンダードを受け入れて日本の現状を改善する」といったような、自分にとって都合のいいように用いているにすぎない。
 他にも、太平洋戦争開戦前にアメリカが傍受していた日本の暗号が、ひどい誤訳であったために、アメリカが強硬な姿勢を強めたのではないかという指摘を、原文と翻訳を比較することで行っている。同じように、シンガポール陥落時の山下将軍の「イエスかノーか」も稚拙な通訳に向かって、まずは解答を聴くように促した言葉ではないかと推測している。また、ブッシュ(父)がイラク戦争を巡ってインタビューアと交わした会話の中に、「超過去完了時勢」という言葉が用いられているのだが、ここにさりげないように見えて実は緊張感あふれるやりとりが見て取れる場面は、ブッシュ(父)の知性を確認することができる興味深い記述でもある(短い会話なのに、短い言葉では説明しにくいのだが)。
 なお、ラムズフェルド国防長官は「古いヨーロッパold Europe」と発言してヨーロッパを怒らせたそうだが、これが「ancient」を用いていれば「古くて格式のある」という意味になるそうである。もっともラムズフェルドは、イラク侵攻に対してアメリカに楯突くフランスやドイツに対して、わざとこの言葉を使ったかもしれないらしいのだが。
 ページ数はかなり薄めの本であるが、内容そのものは興味深いものが多い。ただし、漱石と著者自身の留学に関する第5章は、ちょっとした箸休めのような感じでさらっと読み流せるものではあるが、本書の意図とは若干ずれている気がする。邪推だが、この章を入れないと本としてあまりにも薄くなってしまうために、苦肉の策で挿入したのではなかろうか。実際に、この章が本書の中で一番長いので。
 ところで、袖井林二郎『拝啓マッカーサー元帥様 占領下の日本人の手紙』(岩波現代文庫、2002年(原著は1985年))によれば、戦後の日本には、マッカーサーの子供を産みたいと彼に手紙を送った女性もいたようである。そうした女性は「日本人は12歳」という発言を聞いて怒ったのであろうか。むしろ喜んだのではないか、とふと思った。


5月6日

 森博嗣『すべてがFになる』(講談社文庫、1998年(原著は1996年))を読む。孤島の研究所で少女時代から、密室に閉じこもって研究に没頭している真賀田博士と面会した、N大学学生の西之園萌絵。その島にゼミ旅行として向かった萌絵と助教授の犀川創平は、真賀田博士が密室の中でウェディングドレスをまとい両手両足を切断されて殺される現場に立ち会うことになる。そして、彼女のパソコンには「すべてがFになる」というメッセージが残されていた…。
 「理系ミステリー」と呼ばれているそうだが、トリックと物語の真相を含めて、そんな気もするしそうでもない気もする。理系的というよりは近未来的というように感じる。ただ主人公の設定は、探偵役の大学教員と助手役の女子大生のお嬢様であり、両者の間にのほのかなラブロマンスを匂わせているという、古典的なものと思うが。というよりも、なんだか男の願望が反映されているような気恥ずかしさを覚える。
 ちなみに、著者は大学教授だそうだが、犀川が大学での会議の馬鹿馬鹿しさをかなりきつめにあげつらっているのは、間違いなく著者の本音だろう。


5月10日

 斎藤英喜『読み替えられた日本神話』(講談社現代新書、2006年)を読む。日本神話は、中世の頃に自由な解釈のもとに読み替えられていた事実を実例と共に指摘し、それに基づいて近代以降の扱われ方への再考を促す。
 日本神話は『日本書紀』と『古事記』において語られているが、それぞれの性格は異なっている。『日本書紀』には、混沌の状態から陰と陽の二つの気が別れて、陽が上昇して「天」となり、陰が下降して「地」となって、そこに始元神が誕生した、とある。これは古代中国の諸処の文書を組み合わせたものであり、漢文で書かれていることからしても、中国という世界的な標準を目指したことを意味する。一方、『古事記』には混沌や陰陽の気もなく、『日本書紀』には登場しない高天の原という天上世界がはじめから存在している。これは日本の地域的なアイデンティティを満たすという理由で編纂されたためである。両者の扱いの差は、『日本書紀』を学ぶ日本紀講という会があり、その教師はやがて漢文学の専門家となっていくことや、『古事記』はそこであくまでもサブテキストにすぎなかったことからも明かである。ただし、日本紀講において『日本書紀』の注釈学が推し進められることで、テキストを読み替えて新たな神話を創造する土台も形成され、それがさらに進展したのが中世であった。
 たとえば、『平家物語』では安徳天皇が三種の神器と共に海底に沈み、草薙の剣はついに見つからなかった、とされている。だが、安徳天皇は実はヤマタノオロチの生まれ変わりで、かつてスサノオに自分の尾から奪い取られた草薙の剣を奪い返すために帝に変身していた、とする。また、鎌倉初期に作成された真言密教系のテキスト『高野物語』では、アマテラスが籠もった岩屋を「南天竺鉄塔」とみなす。これは、ナーガールジュナが密教の教えを説いた教典を取りだした場所である。このように密教の起源を天の岩戸の神話と重ね合わせている。
 これ以外にも、自分にとって有利なように神話を解釈することも珍しくなかった。たとえば伊勢神宮の外宮は、アマテラスの食事を世話する豊受大神を祀っているが、イザナギやイザナミをも超える始元神と見なした。そこには、アマテラスを祀る内宮に対する優位性を主著する政治的な意図が込められていた。ただし、これをイデオロギー的な観点のみから評価すべきではない。現代から見れば荒唐無稽に見える主張であっても、それを通じてこれまでに考えられないような抽象的な思想を展開しえた思考の実験場と見なすべき、とする。こうした態度は、本居宣長の『古事記』解釈や、平田篤胤の世界各地の神話を日本起源とする見解にも受け継がれている。ただし異なっていたのは、中世においては特定の家や流派の秘説として伝えられてきたのに対して、江戸期には都市で印刷されて広く民衆にも読まれた点にある。
 やがて明治になると、近代国家として政教分離が必要になってくる。しかし、明治国家がその絶対性を点のに求めねばならない以上、政治と神話を分離することはできない。だが、神道は宗教ではないという立場を確立することで、神道を国民国家形成のイデオロギーとして活用していくことになる。
 中世的な精神を現代的な価値観とは違った観点からうまく評価しているが、この辺りは同じような題材を熱かった佐藤弘夫『偽書の精神史』よりも優れていると思う。中世における日本神話解釈の多様性について、個人的にはそれほど興味がないためか雑駁に感じたけれども、関心があればいずれの逸話もかなり面白く読み込めるのではなかろうか。
 なお、本書冒頭に書かれていた日本神話の解釈についてメモ的に。乱暴者であったため追放されたスサノオは、出雲の地でヤマタノオロチを退治する。これは、自分の中のもう一人の自分を否定し、克服することを意味し英雄へと成長するためのイニシエーションと解釈できる。オオクニヌシは神々に使える従神であったが、幾つもの試練を経て一人前のシャーマンとして成長する点で、同じくイニシエーションの意味合いを持つ。


5月14日

 笠井潔『オイディプス症候群』(光文社新書、2006年(原書は2002年))を読む。ナディア・モガールと矢吹駆は、自らが研究していた不治の病に冒された医師の友人に頼まれて、クレタ島にいる彼の師匠へ書類を届けることになったが、様々な偶然の重なりによって、クレタ島南岸に浮かぶ「牛首島」へと向かうことになる。そして、その島に建てられた「ダイダロス館」へと停泊することになったのだが、そこには彼らを含めて10人の男女も呼ばれていた。だが、彼らは次々と殺されていき、不治の病「オイディプス症候群」に絡む、その背後に隠された幾つもの秘密が徐々に明らかになっていく…。
 矢吹駆シリーズの第5作だそうだ。はっきりとした時代背景は書いていないのだが、おそらく1980年前後のことと思われ、不治の病は「同性愛者に感染」・「アフリカが最初の発症地」とあることから、明らかにエイズを指していると分かる。なお、『監視する権力』なる著作を書いたミシェル・ダジールという人物が登場するが、これもやはりミシェル・フーコーのことだろう。作中では、ダジールだけではなく現象学を駆使する矢吹も含めて、哲学的な議論がこれでもかと繰り返されるのだが、正直言って、推理的な物語と上手く融合しているようにはあまり思えない。議論そのものがおもしろくない、というわけではない。誰か分からない殺人者がいるという状況で、普通の人間ならば長々と哲学的な議論をする気力はないように思えるので。何となく、議論が「主」で、物語が「副」のような印象を受ける。そうした議論が読みたいならば、はじめからフーコーを読めばいいや、という気になる。私が読みたいのは、議論が「副」で、物語が「主」の小説なので。
 ただ、男性と女性との間に性的な非対称が見られる、という議論(240頁)は、何となく印象に残った。つまり、近代社会になって男女同権が謳われても、女性が大切にしなければならない財産、あるいは最後の武器はセックスであるという状況は変わらない、とダジールは作中で主張している。
 ちなみに、物語の本筋とは関係ないものすごく細かい指摘をしておくと、ミュケナイ文明は南下してきたドーリア人によって滅ぼされた、と書かれているが(165頁)、これは現在ではほぼ否定されている。この辺りに関して記した新しい文献としては、周藤芳幸『古代ギリシア地中海への展開』(京都大学学術出版会、2006年)が挙げられる。


5月18日

 浜井浩一・芹沢一也『犯罪不安社会 誰もが「不審者」?』(光文社新書、2006年)を読む。治安対策は必要であるものの、統計の検討に基づけば日本の治安は悪化したとは言えないのに、なぜそのような言説がまことしやかに語られるのかを分析していく。
 統計によれば、犯罪の認知件数の急激な上昇が2000年より生じており、検挙率も減少している。だがこれは、1999年の樋川ストーカー事件の影響により、警察が積極的に被害にあった市民への申し出を進めるように方針を転換した結果である。また、若年者の他殺人数も1984年から2004年の間に、0〜4歳は180人強から60人弱、5〜9歳は80人強から20人強へと減少している。さらに、著者が2006年に行った、2年前に比べて犯罪が増えたかどうかを問うアンケートでは、日本全体では約90%の人間が増えたと考えているのに、自分の居住地域ではそう考えているのは30%弱にすぎず、60%強は以前と変わらないと答えている。
 そして、凶悪犯罪、特に少年犯罪に対する語られ方も1990年代後半より変わっていく。それまでは、少年犯罪が学校教育や社会のゆがみを体現するものとして、それらを批判するための道具として用いられることも少なくなかった。ところがそれ以後には、犯罪を犯す少年たちは理解できない存在と解釈されるようになる。時を同じくして、それまであまりにも不当に扱われてきた犯罪被害者の訴えが注目を浴びるようになる。さらに、こうした傾向の原因は以前と比べて地域コミュニティが空洞化したことにある、という保守的な色合いを持つノスタルジーも語られていき、治安悪化の言説が強化されていく。そして、防犯活動がサークル活動の様相を帯びつつ、参加者は地域コミュニティの復活を喜ぶという現象が生じている。これは好ましいことのようにも思えるが、共同体の中に見知らぬ不審者を見れば犯罪予備軍と見なしてしまう「相互不信社会」を生む結果にもなっている。その結果として、不審者と見なされやすい社会的弱者が排除され、失職者や家庭を失った者、老人、さらには外国人や精神障害者が刑務所へ収容される比率が高まってきている。
 データ部分に関しては非常に説得力があると思うのだが、それに基づき著者の見解を提示する部分に、どうも納得できないことが多い。過去と比べて現在を批判する論者(たとえば、岡部恒治・戸瀬信之・西村和雄『分数が出来ない大学生』)も、そうした現在を否定的に見る動きへ懐疑を示す論者(たとえば、本田由紀・内藤朝雄・後藤和智『「ニート」って言うな!』)も、批判の道具としては統計を用いるのに、自説を補強するにあたっては、なぜか自分の個人的な見聞に基づくことが多いようで、本書にもそれが窺える。たとえば、「見知らぬ人を見たら不審者と思え」という風潮が強くなったという傍証として挙げるのは、ほんの数通の新聞投書であり、「最近このような声をあちこちで耳にするようになった」(172頁)と記すのである。治安が悪化したという言説を論破するにあたってはきちんとデータを提示しているのに、相互不信社会という自分たちの見解を提示する際にはごく一部の経験に基づいているように見えてしまう。私も、相互不信社会というのはそれほど間違っていない現状認識だと考えているけれど、論の持って行き方としてあまりよくないのではないだろうか。
 また、「子どもの安全な場所を狭めているのは、大人たちの根拠なき犯罪不安とコミュニティ再生へのノスタルジーであり、そして不安と快楽によって支えられた私たち自身のセキュリティへの意志なのだ」(180頁)とあり、古き良き時代と見なされている昭和30年代こそ、「少年非行がもっとも凶悪かつ増加した時代でもある」(235頁)とあるのは、前者がデータに基づいたものではないとしても、的確な現状認識であると思う。フィンランドなどの北欧諸国は厳罰化や大量拘禁などを実施していないのは、格差の少ない弱者に優しい社会だから、というのは事実なのだろう。ただ、パオロ=マッツァリーノ『反社会学講座』によると、スウェーデンでは警官もしっかりと有給休暇を取るため、ひどい地域では半径50キロ以内に警官が一人も以内という状況が生じ、それを狙って外国から犯罪者が来るそうである。きちんとデータを確認したわけではないので、これが本当かどうかは判断できない。それでも、新聞の投書という個人の感覚に基づくものを根拠とするならば、このスウェーデンの事例も実態の根拠として認めねばならないだろう。つまり、単純にスウェーデンやフィンランドを持ち出しても、さほど意味があるとも思えない。
 ところで、外国人の犯罪者が日本でも増加しているらしい。はっきりとは言っていないものの、本書では外国人の犯罪者が増えたのは弱者に優しくない社会だからだと述べているように思える。一方で、マスコミの情報を見ていると、外国人の犯罪は大規模な窃盗団によるものが増加していると感じる。これなどもマスコミによってつくられた幻想なのだろうか。その辺の統計データはどうなっているのだろうか。
 結局のところ、どうすればよりよいのかということについても、著者たちはどのように考えているのかがよく分からない。本書で提示されている改善案は、犯罪被害者の関係者に対するケアは重視すべし、という程度もので、これは別に専門家でなくとも考えつくようなことであろう。そもそも、諸外国のやり方が優れているならば、それを現在の日本でも実行するにあたって、具体的にはどうすべきなのかということこそ、専門家にしか出せない知恵だと思うのだけれども(この辺については、広田照幸『教育言説の歴史社会学』や加藤徹『漢文の素養 誰が日本文化をつくったのか?』の項で書いたこととも重なる)。
 そして、第2章で紹介されている、犯罪被害者の救済を行っている弁護士・岡村勲の体験談は、重要な意味を持つ。彼は、もともと犯罪加害者や被告人の人権を救済することに自分の指名を感じていた。しかし、自分のことを逆恨みした男性に妻を殺されることで彼の信じていた世界は一変してしまう。犯罪被害者に対する対応があまりにも貧弱であることに気づかされて、それ以後は被害者の救済を行うようになったという。彼の態度の転換を、理想に殉じる覚悟がないとして非難するのは簡単だ。当然のことながら、言いたい人間には言わせておけばいいけれども、私が言いたいことは少し別のところにある。それは、本書の著者達にとって大切な人間が次々と犯罪の被害にあっても、本書で提示されている論を貫く覚悟が彼らにはあるのだろうか、ということ。もちろん、このような仮定は無意味である。ただ、こうした体験談を紹介して、犯罪被害者の救済はもちろん必要だと述べていることそれ自体、治安は悪化していないという言説が、何らかの現実の事件によって批判されたときの言い訳のように見えてしまうのである。詰まるところ、治安の悪化という言説も、著者達にとっては他人事にすぎないのではないか、と。


5月22日

 折原一『冤罪者』(文春文庫、2000年(原著は1997年))を読む。かつて取材した拘置中の連続婦女暴行放火殺人犯・河原から、ノンフィクション作家・五十嵐の元へ届いた手紙には、冤罪の訴えが綴られていた。最後の被害者であり、河原の逮捕のきっかけとなった被害者が自分の婚約者であった五十嵐は、それを受け入れることなどできそうにもなかったが、かつて関わった者として調査を再開する。被害者の家族、河原の支援者、河原と獄中結婚した女性などの取材を通していくうちに、新たな証言が発見されて河原の無罪が確定した。しかし、素行の怪しい河原の周辺で次々と犯罪が生じ、河原を執拗に追いかけて記録をネットに公開する被害者の家族、彼を取り調べた刑事などが絡んでいく中で、ついに新たな殺人が生じる…。
 河原の無罪が確定した後に、様々な人物の視点が交錯していき、最後にどんでん返しとも言える真相が待っている。以前に読んだ『倒錯のロンド』のような叙述トリックの部分もあるが、あちらがトリックのためのトリックのように感じるのに対して、こちらはもっとストレートに意外な結末へ至るスリリングな展開を楽しめる。その手の推理小説が好きな人は、十分に楽しめるだろう。これ、TVドラマ化か映画化すれば、売れると思うけどなあ。
 ちなみに、解説でも語られている通り、本作のモチーフとなっているのは、小野悦男に関連する事件であることは疑いない。カリカチュア化されているとはいえ、冤罪の孕む問題について、本作を読めば非常に考えさせられる。


5月26日

 パオロ・マッツアリーノ『つっこみ力』(ちくま新書、2007年)を読む。メディア・リテラシーという批判的な論理では、たとえば血液型性格診断に代表されるように、批判される側の主張よりも多くの人間に受け入れられることはない。批判は減点法による評価であり付加価値を生まない。だから、批判されてしかるべき論でも、それを批判した本の方が売れるということはまずない。したがって、正しい議論よりも面白く語ることが必要であり、おかしな主張を「ボケ」とみなして、それにつっこみを入れることで、さらに笑いを増幅させてしまおう、という宣言を行う。前半では、つっこみ論の定義づけ(…といっても、ところどころに「ボケ」主張へのつっこみが入っているのだが)を行う。後半では、職業に関する小話を幕間に挟みつつ、「データとのつきあいかた」と題して、コーヒーと自動販売機、たばこと経済成長、自殺と失業率と住宅ローンなどの諸データに、つっこみ力を実践していく。
 語り方そのものが芸になっているので、内容をまとめることは困難であり、実際に読んでもらった方が早いのだが、「つっこみ力」という著者の意図に反すると思いつつも、まずは興味深いデータをメモ的に。
 インセンティブ理論は、後付的に物事を分析して、損得勘定が働いていたという解釈をする結果論である。「インセンティブで説明できる」というのは、「人間の行動は深層心理に基づいている」という論と変わらない(85頁)。この見解は、U.ヌーバー『<傷つきやすい子ども>という神話』でのトラウマ理論批判を思い起こさせる。新聞の投書欄において、自分の肩書きを「無職」にしたくない人は「元○○」という肩書きを名乗ることが多いが、1990年代頃に最も多かったのは、教師と校長であった(125頁)。厚生労働省の平成17年度賃金構造基本統計調査によれば、年間賃金が最も多いのは弁護士(女)で2230万円である。以下、弁護士(男)の2067万円、航空機操縦士(男)の1328万円と続く。なお、教員は全体として高めであり、大学教員(男)が1179万円、大学教授(女)が1056万円、大学助教授(男)が918万円、大学助教授(女)が838万円、高校教員(男)が791万円、大学講師(男)が787万円、大学講師(女)が652万円、高校教員(女)が638万円と、男女を別にした職種194種のうちベスト20に入っている(130〜133頁)。ちなみに、少し不思議に思ったのが、ここにマスコミ関係者がいない点。
 缶コーヒーのメーカー別のシェアとメーカー別の自動販売機の台数の比率はほぼ一致しており、缶コーヒーのシェアは味ではなく自動販売機の台数で決まることになる(149〜152頁)。日本とフランスでは、失業率と自殺率との間に関係性が見られるものの、アメリカやオーストラリアではまったくと言っていいほど見られない(182〜185頁)。日本での自殺の原因は1999年の調査では、3分の2前後が負債と事業不振であり、自殺の急増と一致して住宅ローンが返せなくなる件数も増加している(200頁)。
 ただし、著者はデータを積極手活用しながらも、それのみに頼ることはしない。いい意味での地に足に着いたバランス感覚の良さを窺えるのは、大人が子供を叱ることに対する見解。若者を叱るコラムを書くよりも、相手に面と向かって伝わる言葉で言えばいいのにそれをしないのは、小心者であるにすぎない。ただし、だからといって昔の大人が子供をしかっていたのは社会道徳や公共心に満ちあふれていたわけではない。昔の大人はいい意味で自分勝手だったので、子供の行動に腹が立てばストレートに自分の気分を伝えていたにすぎない。ところが、現代人は変に学がついたため知的で文化的で紳士的な態度を取らねばならないと考えて、自分勝手な人は減った。一方で、そのために抑止力がなくなり、自分勝手な行動をする人が目立つようになった、とする。このあたりのバランスのとれ方は、何となく橋本治を思い起こさせる。
 とはいえ、『反社会学講座』よりも語りは面白いかもしれないし、ネタの質は維持できているかもしれないが、量が圧倒的に不足しているように感じてしまうのは仕方がない。この方向性で、さらに読み応えのある分量で続けていければよいと思うのは、贅沢すぎるのだろうか。
 なお、このつっこみ力は、学者たちへの批判ともとれる。三谷幸喜が「NEWS23」に出たとき、お笑いと笑いは違う、笑いを研究するなどという思い上がった人とは一緒になりたくない、といった発言をしたところ、笑い学会に所属する学者の逆鱗に触れたという(44〜45頁)。この話を踏まえた上で、笑いを分析することと笑わせる作品を作ることでは、前者の方が高尚に思われているが、後者の方が遙かに労力と技巧を要するとする。前者、つまり研究論文は、材料を積み上げていけば秀才でも作れるが、後者はそうはいかないからである。また、前者は笑いの要素があってもせいぜいユーモアにすぎず、それで読者が笑わなければ、お笑いではなくユーモアだからと逃げをうち、それどころかユーモアを解さない人間として、相手に責任転嫁することさえある。この指摘は非常に鋭いと思う。インセンティブ理論に突っ込みを入れて、「学者の書く本が面白くないのは、大学教授の給料が高くて、本をたくさん売って儲けようというインセンティブが働かないからだろうか」(80頁)というのもある。
 さて、他にも色々とあるのだが、次の文章こそ、そうした学者批判のなかでも最も力の入った部分だろう。「世間知・専門知なんて区別が、いつのまにか学問の世界にはびこっているんです。専門家の知識が社会を正しい方向に導けるはずなのに、世間やマスコミには愚かな間違った知識がはびこっており、それが社会の進歩を妨げているのだ、という俺様モード全開の鼻持ちならない考えです。〔中略〕でも、〔学者の知識が受け入れられないのは〕学者や専門家の説明があまりにもヘタで、わかってもらう努力をしないせいもあるんじゃないですか。〔中略〕なぜなら、学者が書いた本でも、わかりやすくておもしろければ、何十万部も売れるじゃないですか」(21頁)。
 ただ、あまりにも学者批判に気合いを入れすぎではなかろうか。学者にもまともな人はいるから、そこまで批判しなくても、と言いたいのでは全くない。そうではなくて、放っておきゃいいのに、ということ。おそらく、これまでの著作を学者に叩かれて腹が立っているのだろうし、やり返さなくては批判をした学者が勝ったと思いこむことに我慢できないのだろうけれども、言わせたいだけて言わせておいて、自分は面白い本を書けばいいのではないかと。そして、面白ければ何十万部も売れるのは事実だけど、そういった本は読者の生き方や考えに強い影響を与えるような本に成り得ない気がする。何も、真に優れた本は売れないなどという、どこぞの学者が偉そうに言いそうなことをほざくつもりはない。そうではなくて、嗜好は人それぞれなのだから、面白くても深い本は何十万部も売れることはないと思うのだ。売れたのが何万部であっても、読者がそれを使ってメッセージを発すれば、結局のところ社会により浸透するのではなかろうか。実際に、このサイトでは、『反社会学講座』にかなりお世話になっている。何十万部も売れても、よほどの名著でないかぎり、長くても数年のブームとして過ぎ去っていき、せいぜい後代の学者に時代の動向を探るための素材として使われるのが落ちだろう。もし、何十万部も売れる本を出すのであれば、それを使ってより深いところに誘う仕掛けを作るという戦略はありと思うのだが。
 あと、一つだけつっこみを。「小論文の指導なんかだと、テーマを一つに絞りなさい、みたいなことをいいますが、貧乏人はこれだから困ります。ラーメンだって、煮タマゴ、チャーシュー、メンマにナルト、具がいっぱいのってた方が嬉しいんです。たくさんあった方が楽しいに決まってます」(32頁)とあるが、ものすごく具が豪華なラーメンでも、麺とスープがいまいちだったら、ラーメンとしては不味い。そして、豪華な具の分だけ高い金を取られたら、ドンブリをひっくり返したくなる。麺とスープが上手くてはじめて豪華な具も生きてくるのであり、テーマを絞れというのは、派手な情報でごまかすなよ、まずは根元的な部分をしっかりやれよ、という意味ではなかろうか。
 最後に、ふと思ったことを。「つっこみ力」は基本的に「トンデモ本」と同じスタンスなのではないかと。


5月30日

 田中芳樹『魔軍襲来』(光文社カッパノベルス、2005年)『暗黒神殿』(光文社カッパノベルス、2006年)を読む。中世ペルシアをモチーフとした「アルスラーン戦記」の第11巻と第12巻にあたる。私が高校生の頃にはこのシリーズはすでに刊行されていたはずだから、もう20年は経っていることになる。しばらく続きが出ないままになっているなあと思ってすっかり忘れていたのだが、いつのまにか角川文庫から光文社へと出版社を変更して新刊が出ていたので読んでみた。懐かしく思いつつ、素直に楽しく読めた。『銀河英雄伝説』(リンクは徳間文庫版)のように架空歴史小説風だが、本作はそれにファンタジー風味の味付けがしてあるため、エンタテインメント性が高くて取っつきやすい気がする。両作品を読んで歴史に興味を持った人間は私の周りに少なからずいたが(あとは吉川英治『三国志』横山光輝『三国志』)、今はどうなのだろう。
 そういえば『アルスラーン戦記』は、彼の作品の中では珍しく、主役格の人間があまり死んでいない。というよりも陣営に隔たりなくばたばたと殺されていくことが多いのに、アルスラーン側の人間は死んでいない。ただ、なんとなく『暗黒神殿』を読んでいると幾人かに死亡フラグが立った感じがするので、これから退場する人間が現れることだろう。
 とにかく、完結させる意志があることは分かったので、この調子で『灼熱の竜騎兵』(リンクはスクゥエア・エニックス版)『タイタニア』(同)を完結させて、『七都市物語』(ハヤカワ文庫、1990年)の続きを書いて欲しい。


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