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2007年6月の見聞録



6月3日

 鈴木透『性と暴力のアメリカ 理念先行国家の矛盾と苦悶』(中公新書、2006年)を読む。アメリカの状況を性と暴力という軸から、その歴史的変遷を踏まえた上で読み解いていく。知らなかった事例を学べるという点では有益だったが、新書であるということを差し引いたとしても、ややつっこみが浅いというか、個々の事例の連関性が弱い気がする。本書は新書なのだから問題ないのかもしれないが、そうなると今度は逆に、本書の対象とする読者にとっては説明不足にみえる箇所があるのも気になる。たとえば、中絶禁止論争に関して。周知の通り、これにはキリスト教の教義をめぐる問題とそれに絡む政治的な問題が重要な意味を持っているけれども、その部分の説明があまりない。あるにはあるのだが、後半部分にやや原理主義的な派閥に触れているにすぎない。おそらく著者自身がよく知ってしまっているがゆえに、初歩的な事実に関して説明を省いてしまったのだと思う。いわば、より深い知識を得るためのものなのか、初歩的な情報を得るためのものなのかという点において、どっちつかずの本になってしまっているように感じる。
 以下、メモ的な情報を。アメリカ開拓時の男性が残した文献には、アメリカ大陸の自然を女性、しかも「母」ではなく「処女」へと喩えた文章がよく出てくる。これは未開の自然としての処女を暴力的に征服したいという願望が反映していると考えられる(5〜6頁)。ベンジャミン=フランクリンは『結婚考』(1764年)において、おさえがたい情欲を解決する最前の方法は結婚だが、それが不可能な場合には年上の女性を愛人にするとよい、と記した。妊娠の可能性が少ないし、暗い場所で性行為を行うのだから、若さにこだわる必要はないからである(20〜21頁)。初期アメリカ、特に南部と西部では決闘の伝統が根強く残り、それが暴力の美化へとつながった(74〜76頁)。独立後、各地で民兵組織の自警団が編成されたが、彼らは暴力で制裁を加えていった。これをリンチと呼ぶのは、ヴァージニアに入植したチャールズ=リンチが犯人を捕まえては裁判を行って鞭打ちの刑にしていた、という事例に由来するらしい(81〜82頁)。アメリカでは性犯罪に対して厳しかったが、特に南部では20世紀半ばまで、レイプに対する刑罰は死刑であり続けた。だが、これは黒人を合法的に処刑するために利用される側面があった(94〜95頁)。ルイジアナ州のミシシッピー川流域には、多くの石油化学工場が並んでいるが、ここはもともと黒人の居住地域であるため土地が安く、企業が進出しやすい場所であった。その結果として環境汚染が進み、ある地域ではガンの発生率が全米平均の18倍にまで達したという(202〜203頁)。


6月7日

 石田衣良『アキハバラ@DEEP』(文春文庫、2006年(原著は2004年))を読む。アキハバラに集うドロップアウトした3人のオタク青年、天才的プログラマー、元弁護士の卵から引きこもりを経て三十男、コスプレ喫茶のアイドルにして格闘家。6人の協力の下で作り上げた人格を持つサーチエンジンは、ネットにて急速に注目を浴びる。しかし、ネット業界の盟主に目を付けられて、サーチエンジンはプログラムごと盗まれてしまう。6人は、自分たちの生み出したサーチエンジンを企業の囲い込みから解放するために、戦いを挑むことになる…。
 物語の展開そのものは、悪役があまりにも分かりやすすぎる典型的な悪役という点で、後半はややトーンダウンするように感じるが、ネットに関する記述は非常に興味深い。特に人格を持つサーチエンジンというアイディアは、そのうちどこかで本当に始められそうな気がする。これがさらに進むと、自ら肉体を離れて人格をネットへと融合させた『イノセンス』の草薙素子になるのではないかと。そう思うと、『イノセンス』の世界は今からそう遠く隔たった世界ではないんだな、と改めて実感する。
 以下、気になった部分に関してメモ的に。主人公達は、ビジネスを始めるにあたって、会社の大きさを制限しようと決める。「おおきくなるのも、有名になるのもやめよう。ちいさなまま自分たちが満足のいく暮らしができて、ぼくたちの同類を手助けしてあげられるくらいのぎりぎりの利益で満足しよう」(56頁)。資本主義では、常に更なる成功による経営の拡大を求められるが、たとえ貧しくともほとんどの人間が死ぬことはないような社会では、こうした態度も必要になってくるのかもしれない。
 登場人物である理系(電気・通信系?)の研究者の台詞として、研究者にとって秋葉原はなくてはならない街だ、というのがある。特殊な実験をするための計測器が必要になったとき、大田区の町工場とつながりのあった秋葉原に頼めば、それを作ってくれるから、だと言う。だから、理工学部が秋葉原から離れてしまって研究の水準を保てるか疑問だ、とも(152〜153頁)。これが事実かどうかは、あと10年もすれば分かるかもしれない。
 また、物語の後半で重要な役割を果たすウィザード級のハッカーは、「近い将来、著作権という考え自体が古くなるだろう。知的生産物は宗教のように熱心なファンからの貴社で支えられるようになる」(343頁)と語っている。これなどは、知的生産物よりも音楽の世界ではじめに起こるかもしれない。アーティストのサイトからファンが直に楽曲を買うというシステムが一般的になるのは、現在の音楽環境を見ている限り、そう遠くない気もする。


6月11日

 深谷克己『江戸時代の身分願望 身上りと上下無し』(吉川弘文館、2006年)を読む。兵農分離の時代であった江戸時代に存在していた、武士身分への上昇願望と、百姓になることで上下のない身分を望む心情について、諸処の事例を用いながら述べていく。このように要約した内容そのままの本であり、叙述もあっさりとしているので決して読み応えのある本とは言えないが、江戸時代が完全に規格化された身分社会であるわけではなく、それを必ずしも当たり前と受け入れていたわけでもないことが知れる点では有用である。「士分化」願望の事例として一番面白かったのは、農工商身分が残した肖像画の多くに刀を脇に置き裃を着ているものが多いという指摘。その例として伊能忠敬の肖像画が挙げてある。ただし、1770年に出された一揆禁令では、一揆を押しとどめた村役人には、帯刀を認めたとあり、このあたりには身分制度を維持するための支配者側の知恵だとも指摘している。18世紀後半に盛んになる家元制度も、こうした身上り願望の反映だとする。
 なお、東アジアでは「民は国の本」という民本主義が支配思想と一体化しているため、「自由」「民主」の思想とは差があると述べている。「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」のように、超越的な物を別格に置いた上での相互の平等という考え方だとしている(22頁)。だが、フランス革命での「理性の崇拝」やそれに関連する祭などを見ていると、決してそうとも言い切れないような気もするのだけれど(この辺に関しては、立川孝一『フランス革命と祭り』(筑摩書房、1988年)を読んだにすぎないのだが)。


6月15日

 D.E.ウェストレイク(木村二郎訳)『斧』(文春文庫、2001年(原著は1997年))を読む。パオロ=マッツァリーノ『つっこみ力』で紹介されているのを見て読んでみた。製紙会社をリストラされた「わたし」が、ライバルとなりそうな求職者を次々と殺していき、さらに再就職を狙う企業のポストにいる社員を殺して、そこに入り込もうとしていく話。悪い意味で、こんな方法があったか、と気づかされた。主人公が結局のところ偶然に助けられる流れは、あまり好みではないが、もしかしたら一種のブラックユーモアなのかもしれない。
 ところで、主人公が運良く管理職に雇用された人物を知るたびに、なぜ自分ではなくこいつなのだ、と思う一方で、それが女性か黒人だと分かると、雇用機会均等法のせいで自分のせいではないと気分がよくなる、という描写がある。これまた嫌な意味で優れた描写だと思う。とはいえ結局のところ、なぜあいつが雇用されたのだと「わたし」は考えて、そういう人物の履歴書を見てみようとして架空の会社をでっち上げて人材募集の嘘の広告を掲示して、その流れとしてライバルの殺害へと走るのだが。


6月19日

 田川建三『キリスト教思想への招待』(勁草書房、2004年)を読む。被造物としての人間、隣人愛、イエスによる救済、終末論という4つのテーマを軸に、『新約聖書』の思想についてエッセイ風に語る。とはいえ、『新約聖書』について語られている内容は、聖書の原文にまで踏み込んで本格的に語られている事例も少なくない。後書きを読むと、『書物としての新約聖書』に続く『新約聖書』概論の『事実としての新約聖書』(仮)までのつなぎのような感じらしいが、十分に面白い。ただし、日本について語り出すと、途端につまらなくなってしまう。たいていの場合、現代の状況に対する批判であり、言っていることは正しいと思うのだが、それ以上のものではなく通俗的な批評のレベルにすぎないので。とはいえ、『新約聖書』に関する部分は取っつき易くもあるので、入門書とは少し違うかもしれないが、『新約聖書』の知識をさらに広げることに使うことも可能だろう。以下、内容をメモ的に。
 使徒行伝のパウロの言葉として、「神は一人の人から全人類を作り出し、大地の全面に住まわせ、秩序ある時を定め、また彼らの住むべき場所を定めて下さった」(17・26)と訳すべき箇所がある。だが、新共同訳聖書には「一人の人からすべての民族を造り出して、地上の至るところに住まわせ、季節を決め、彼らの居住地の境界をお決めになりました」とある。「民族」とあるのは、人間を他の生き物と区別して1つの族と見なしている箇所だから、民族という概念をあてはめるべきではない。さらに口語訳聖書では、「秩序ある時を定め」という箇所が「それぞれに時代を区分し」とある。これは古代のアッシリア・ペルシア・ローマといった帝国主義的時代区分に影響を受けすぎた訳である(21〜22頁)。
 キリスト教絶対主義者であったバルトは、神の子イエスを信じなくても可能な信仰を許容しなかったため、自然を見ればそれを創造した神を知ることができるという自然神学を排斥しようとした(31頁)。使徒行伝17章では、自然世界に関してギリシアの詩人も言っている、と記されているが、これは前4世紀末頃のストア派のアラトスが記した『現象論Phainomena』を指す。この本は、詩の形で天文学の知識をまとめたものであり、当時の人々が自然世界に対して詳細な知識を持っていたことが分かる(40〜42頁)。
 キリスト教公認後に古来の宗教を復活させようとしたユリアヌス帝は、キリスト教が受け入れられている原因として「人間愛」を挙げていた(128頁)。
 「使徒行伝」のなかに「自分に属する財産を自分のものだというものは一人もおらず、すべての物が皆の共同のものであった」(4・32)とあるのは、ヨーロッパの思想における共産主義の源流である(138頁)。ルカ福音書に、ある金持ちが死んで地獄に堕ちたとき、貧乏人のラザロがアブラハムのところにいるのを見て、自分も助けて欲しいといったところ断られた、という話がある(16・19-31)。この話は、ロマネスク初期(著者は英語であるロマネスクという語句を用いるのはおかしいといっており、それはもっともだと思うが、ここでは慣例に従っておく)の教会建築の彫刻によく見られることから、当時人気があったことを示している(183頁)。
 イエスが逮捕されたとき、弟子達は彼を見捨てて逃げてしまった。それを理論化するために、イエスは彼らの「贖い」や「宥めの供え物」として死んだと解釈されている。しかし、こうした言い訳めいた宗教的思弁は、古代の宗教的慣習を超える役割を果たすことになる。イエスは子羊に喩えられることがあるが、これは古代の宗教儀式において羊を犠牲に捧げることが多い事実に由来している。儀式の際には祭壇で生贄の動物を殺してその血を振りかけるのが一般的であった。そして、こうした儀式を何度も行わねばならなかった。しかし、イエスの死による「供え物」は一度でよく、しかも無料でよかったので、人々は宗教から救われることになったのである(205〜216頁)。イエスは終末がすぐにやって来るという信仰を批判しており、その後の指導者の多くも死後の世界の存在を訴えつつも、その姿勢を継承している。しかしパウロのみは、彼自身が生きているうちに終末はやってきて、死ぬことなく天へ召されると考えていた(250〜255頁)。
 ただし、歴史学の観点から、少し付言しておきたい箇所もある。イエスのたとえ話の中に、仕事にあぶれていた者に途中からの仕事を与えて、最初から働いていた者と同じだけの賃金を与えた(マタイ20・1-15)というのがあるが、ここにすべての労働者に安心して働ける場所を保障する思想を見出し、これが失業保険や健康保険へと受け継がれたとしている(144〜155頁)のは正しいと思う。ただここには、ギリシア・ローマ社会で見られた、上位者は下位者に無償の施しをすることで、下位者からその地位を認めもらえるという、現代の学者がエヴェルジェティズムと名付けた慣習の影響もあると思われる(エヴェルジェティズムについては、ピーター=ブラウン『古代末期の世界 改訂新版』(刀水書房、2006年))ポール=ヴェーヌ『パンと競技場』(法政大学出版局、1998年)などを参照〔2009年1月2日追記:ただし、この両者は日本語訳があまりよくいない。前者の改訂新版が出たのもそのためである)。
 「ヨハネ黙示録」が書かれた1世紀頃、「帝国は支配下の住民に帝国への忠誠を誓わせるために、皇帝礼拝を強要した」(300頁)とあるが、皇帝礼拝を帝国側が支配の道具として強制することはなかったとするのが通説だろう(弓削達『ローマ皇帝礼拝とキリスト教徒迫害』(日本基督教団出版局、1984年)を参照)。
 ローマ帝国は地中海の海運経済が支えた帝国資本主義経済である(302〜305頁)という認識は、結論としてはおそらく間違っていないものの、そこには紆余曲折がある。第2次大戦前は古代資本主義が積極的に肯定されたが、戦後になると、経済的合理性は古代人特有の価値観のもとでは有効に働かなかったとして、古代地中海世界の未開性が強調され始める。しかしながら、碑文やパピルス史料によって提示されるデータの数量化や、考古史料に基づく多面的な検討の結果、その経済活動はやはり活発なものであった、と1980年代から修正されつつある(このあたりについては、ケヴィン=グリーン『ローマ経済の考古学』(平凡社、1999年)を参照)。ただし、そこに近代的な概念である資本主義というタームを張ることはもはやできないであろう(その概念を借りることはできるだろうが)。
 とはいえ、こうしたことはあくまでも細かいことにすぎず、初期キリスト教の思想的な入門書としては非常に面白いことは間違いない。
 ところで、著者のサイトを見ると、新約聖書概論のみならず、膨大な註を付した『新約聖書』の翻訳も刊行が始まりそうであり、さらには私塾を通じて教育活動も行っているようである。すでに70歳を超えているにもかかわらず、これだけの仕事を自らの使命のごとくこなしているのを見ると、敬意を表しつつ、自分自身の仕事量の少なさを恥じてしまう以外ない。


6月23日

 牧野修『スウィート・リトル・ベイビー』(角川ホラー文庫、1999年)を読む。保健所で働く傍ら、ボランティアで児童虐待の電話相談をしている秋生。彼女自身も育児ノイローゼとなり、幼子の事故死から離婚した過去をもつ。彼女の頭にあるのは、「なぜ幼い子供を虐待しなければならないのか」という疑問であった。そうした中で、彼女の周りの人間が次々と消えていき、「天使」という謎めいた言葉が浮かび上がる。彼らは一様に「天使」を可愛がっていたらしい…。
 佳多山大地・鷹城宏『ミステリ評論革命』で紹介されていて気になったので読んでみた。「児童虐待とは、人間が「天使」から自分たちの種を守るために身につけた手段」という設定は、遺伝による決定論を前提としているが、著者自身は後書きであくまでも作劇上のものにすぎず、児童虐待は必ず癒される病だ、と断言している。私自身も、作者自身が「家族病理としての虐待」と言及しているように、「現代社会という規範の枠組の中では」という保留を付けたうえで、これに賛成はする。ただ、無理な要求かもしれないし、ホラー文庫という枠組から外れるかもしれないが、そのような意識を持つのであれば、後書きに書くのではなく物語そのものに組み込んで欲しかったなあ、という気もする。


6月27日

 飯干陽『日本の子どもの読書文化史』(あずさ書店、1996年)を読む。タイトル通りの本で江戸時代から1970年代に至るまでの子供の読書状況を追う。「はじめに」において、「子どもたちは、「活字ばなれ」しているのでしょうか」とあるため、それに対して史料を提示しつつ反論するのかと思っていたら、どちらかといえば、各時代の読書状況を淡々と挙げていっている。史料やデータとしては便利だけれども、もう少し具体的な検討が欲しかった、というのが正直なところ。
 いくつかメモ的に。江戸時代の「物をよむ」行為は、「書をよむ」と「和字の本を読む」との2つに分かれており、これを一括して「読書」と呼ぶことはなかった(33頁)。明治末期には、文部省のみならず坪内逍遙のような人物でさえも、課外読み物としての子供の読み物一般には消極的であった。それは、そうした作品に教育的価値がなく、きちんとした指導者がいなければよくない作品を子供が読む、と一般的に考えられていたからである(153〜154頁)。松田道雄の回想によると、彼が少年時代を過ごした京都では、周りは商家ばかりだったので、親は子供に商売人になってもらえばよいと考えていたため、本を好きになってもらっては困ると考えていた、という(171頁)。


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