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2007年7月の見聞録



7月1日

 小川勝己『彼岸の奴隷』(角川文庫、2004年(原著は2001年))を読む。首のない死体という殺人事件を発端としてストーリーは進むが、それについて特筆すべきことはない。むしろ、人間の嫌らしい部分を肥大化して描いた部分に特徴があるだろう。裏表紙のキャッチコピーに「背徳的な快楽に満ちた世界」と書いてあるが、少し違う気がする。自分を拒絶する人間しか愛せず、愛した人間を食べてしまいたくなるヤクザ、知らず知らずに人を殺すことに性的快感を覚えてしまい、射殺した後に射精した警官、などの「痛々しい快楽」に近いのではないかと。ただし、確かに人間の嫌な部分を嫌に見えるように描いているのはよいと思うのだけれども、ここまで劇的だとあまりにも現実離れしすぎて、逆に嫌悪感を感じずに「ふーん」という感じになる。むしろ、ごく普通の日常をじっくり描いた上でひっくり返した方が、人間のいやらしさを生々しく見せることができる気がする。まあ、この小説はそういったものを見せることに主題を置いているわけではなさそうなので、これはお門違いの注文なのだけれども。
 それと、これでもかと言わんばかりに、警察の悪しき部分を描いているのだが、はたしてどこまで本当なのだろうか。このサイトでは久保博司・別冊宝島編集部『日本の警察がダメになった50の事情』を挙げたが、それ以外にも多くの著作が知らせるように、日本の警察が組織としてまずい部分が多々あるのは事実だろう。けれども、どう考えても許されない犯罪を行った刑事(たとえば民家に侵入して夫の前で妻をレイプ)が、はたして捜査の手も及ばずに現役の刑事でいられるものなのだろうか。
 それでも、官舎に住む警察官の子どもたちが、親の階級に準じて序列をつくってイジメを行い、もしそれに親が文句を言えば、警察内(文中では「会社」と書かれている)締め付けられていじめ抜かれてクビになる、というくだりは妙に生々しいが。


7月5日

 掛谷英紀『学者のウソ』(ソフトバンク新書、2007年)を読む。学者や学歴エリートによるウソを実例と共に暴き、さらにそれを乗り越えて信頼に値する言論を選ぶ手だてを模索する。
 近代科学的な学問は主として帰納法に基づいて発展したが、学問の巨大化により人文・社会・自然のいずれの分野においても、現象を統一的に説明できる法則を導き出すことは困難になる。現在では、そのような法則の単純化や捏造は歪んだ結論を導き出す存在となってしまい、たとえば男女の性差の存在を決定論的に導くために用いられている。一方で、価値相対主義的な構築主義へ行き着くのだが、価値相対主義であるために懐疑的でありながら、自分にとって都合の悪いもののみを疑う態度を取ってしまう。学問的な訓練を積んだはずのエリートやマスコミがこうした態度を取ってしまうのは、自分自身が弱者のふりをしたり弱者を守る態度を取りながら、それによって学歴エリートの既得権益を守る意識が強くなったためである。これを乗り越える手段として、言論責任を保証する事業を行い、言論を主張することによって得た利益を供託金として拠出し、その言論の正当性を認められたときには供託金を返却し、正しくないと判断されれば没収するシステムを構築する、という構想を提案している。
 前半部分の弱者をだしに使う学歴エリートという部分は、まったくその通りだと思う。たとえば、博士学位を取っても就職できない人間が多いという論調で弱者を装っているが、これは高学歴の人間が希望の職にありつけることを前提とした主張である、というのは同意する。なお、大学教員は就職する年齢が遅いので専任教員の給与は高くあるべきという見解はよく見られるが、職業ごとに収入の格差があるのは当たり前であろう。大学教員に就く人間は生涯収入も高くあるべき、というのは学歴エリートの驕りにしか見えない。
 とはいえ、著者の意気込みは買うのだが、言論責任保証事業がうまくいくとはとうてい思えない。学歴エリートが既得権益を守ろうとしているように、言論責任保証事業も必ず既得権益化するだろう。もし、本当にそのような事業を打ち立てるのであれば、出来る限り事業は集約する方が効率はよい。しかし、そうなればなるほどコントロールしやすいのは、今のマスメディアを見れば一目瞭然だろう。結局のところ、いくら理想論といわれようとも言論に対抗できるのは言論でしかないという考えて、地道な行動をする以外にない。大切なことは、ジョナサン=ローチ(飯坂良明訳)『表現の自由を脅すもの』(角川選書、1996年)の言うように、いかなる言論でも主張する自由が保証されると同時に、いかなる言論も批判できる自由を保証することだろう。
 なお、「学者のウソ」の具体例は、第1章に挙げられているのだが、以下の通り。住基ネットの安全性については激しい議論が交わされたものの、侵入することへのリスクを犯す価値はあるのかという点を考慮に入れず、単に侵入しやすいか否かという観点かしか注目されていなかった節がある。ゆとり教育を擁護する論者のなかで、その重要な課題であった個性が豊かになったという観点から批判に答えている論者は見あたらない。理系の研究は新規プロジェクトとして予算を獲得することに主眼が置かれ、研究業績よりもそちらでの功績の方が重視される傾向にある。もっとも詳しく取り上げられているのは少子化をめぐる議論に関わった学者たちの態度。少子化を防ぐ政策のデータについて疑問を呈した赤川学『子どもが減って何が悪いか!』に対して、学者やマスコミの反応はその多くが単に無視しただけであった。中には言い訳をする者もいたが、「成果を見るためには10年で判断すべきではない」という程度のものにすぎなかった。さらには開き直る者もおり、上野千鶴子は「人口減少はあまりに要因が複雑すぎて何が原因かを突き止めることができない。従って経済効果も実のところ測定できない。だから極端に言えば、やってもやらなくても同じ、とも言える」(『週刊現代』2005年4月30日号)と学者にあるまじき発言を行っている。なお上野は、自閉症は母子密着であると主張したことがあり、実際には生まれつきの障害であるとの説が有力であるため、それについて謝罪したことがあるらしい。ところが、自閉症の当事者たちには、その謝罪が「二度と自閉症に関わるものか」という訴えに見えてしまったそうである。上野は性差の存在を無くしたいために、母子密着が原因と考えた自閉症を利用したにすぎないことが明らかになってしまった(144〜146頁)。上野に代表されるフェミニズムには、さらにひどい事例があり、厚生労働省の第5回女性の活躍推進協議会において、データを取って相関関係があればそのまま出し、なければ別の言い方で主張するやり方がある、との発言があった。つまり、自分に有利か不利かで、学問的なデータを公開するどうか決めていることになる(70〜72頁)。
 ただし、以上の具体例は納得できるものであったのだが、疑問に思うものもある。たとえば、薬害エイズに関して。国の早期対策によって薬害エイズを食い止められた国は1つもなく、回収という責任判断を下さなかったことへの責任追及は難しい、とある(199〜201頁)。確かに、スケープゴートを作り上げるような全体行動は慎むべきであり、リスクのある職に誰も就きたがらないことでかえってリスクが高くなるという指摘ももっともだと思うが、少し事実の認識が違うような気もする。薬害を事前に完全に食い止めることは不可能だろう。薬害エイズに関しては、小林よしのり『新ゴーマニズム宣言SPECIAL 脱正義論』(幻冬社、1996年)を読んだ程度の知識しかないが、これによれば、アメリカですでに薬害が発生していると判明している製剤を2年以上輸入して売りさばき続けたらしい。これはさすがに責任問題なのでは無かろうか。とはいえ、小林が怒りと憎悪を隠さなかったように、薬害エイズの被害者をだしにして自分の正しさを主張しようとした知識人がいるという構図は、本書のテーマにつながると思うけれども。
 あと、事業の後継に関しては、世襲主義よりも実力主義が劣ると述べ、その理由として実力主義で選ばれた人間は長期的に会社を傾かせる危険があっても、自身の在任中には成功する事業を行いたがるとしている(192〜193頁)が、これもどうか。そうなのかもしれないが、単なる印象論にすぎないのでは。印象論で言えば、世襲企業がこけるニュースの方がよく流れる気がするし。印象論を覆すには具体的なデータが必要だと思うのだが。
 以下は、メモ的なものを。小笠原喜康『議論のウソ』において、i-podのアイディアは発想の転換によって生まれたものであり、科学技術の知識が万能であるわけではない、と述べているが、これは、ハードディスクの小型化と大容量化という「技術」の進展がなければ不可能であった事実を無視している(31〜32頁)。消費税に対する厳しい批判がマスコミを通じて行われた一方で、1999年に直接税の最高率が65%から50%に引き下げられたことはほとんど報道されなかった。なぜならば、これは高額所得者に有利な改革であり、マスコミの社員は高額所得者だからである(141〜143頁)。日本の右傾化が進んでいるように見える原因は、左翼のウソがばれているにもかかわらず、それへの謝罪をしていないことである。それどころか、東京大学の石井規衛が監修した『世界の歴史(17)レーニンと毛沢東』(集英社、2002年)では、2002年に発行されているにもかかわらず、ソ連が一大工業国に発展したというハッピーエンドで締めくくられ、文化大革命については一言も言及がないとのことである(219〜220頁)。


7月9日

 筒井康隆『虚人たち』(中公文庫、1984年(原著は1981年))を読む。妻と娘が誘拐されたことを知った「彼」は、その捜索に出る。ただし、「彼」は自分が小説中の登場人物だと言うことを意識して行動することになる…。著者の本は、遙か昔に『家族八景』(新潮社、1972年))を読んだことがあるだけなのだが、ちょっと気になるので読んでみた。小説の形式を実験的に取り扱った作品と言えるのだろうけれど、個人的にはあまりピンと来なかった。あくまでも個人的な好みの問題であり、こうしたメタ小説的な作品はあまり肌に合わないということもあるのだが、それでもここまで長く引っ張る必要はない気がする。とはいえ、「彼」がカツカレーを食べる描写についてこれでもかと詳しく書いている場面などのように、皮肉っぽい面白さを感じる箇所もあるのだが。


7月13日

 大日向雅美『母性愛神話の罠』(日本評論社、2000年)を読む。子育てには母性愛が必要というのは、近代に入って形成された神話にすぎないと主張し、それこそが女性を苦しめていると批判する。
 『広辞苑』に「母性愛」が「母親が持つ、子に対する先天的・本能的な愛情」と定義されているように、母性は女性特有の生得的な特性であると、一般的に認識されている。そして、母性愛に寄せる慕情は至るところで窺える。だが、全国から6000通以上の回答を得たアンケートによれば、子供がかわいく思えないことがあるという母親は71.4%、子育てがつらくて逃げ出したいと思う母親は91.9%にも上った。こうした母親への「いまどきの母親は…」という批判も見られるが、これは大正時代の育児雑誌にも確認できる批判であり、子育ては母親がすべきという考え方がこの頃に登場したことと軌を一にしている。
 また、3歳までの子供は母親の手で育てられるべきだ、という意見も非常に強い。女性が家庭と仕事を両立できる支援体制を必要としながらも、3歳までは母親が育児を行うべき、という考え方が圧倒的である。また、男性並みに働くことが難しいと感じる女子学生の間では、専業主婦願望は強まっており、就職して働くこと以上に価値のある仕事として母親の役割を見出す。しかし、母親が幼少期の子供の世話をするスタイルは、資本主義の台頭と共に誕生した近代家族における必要性から生じたものにすぎない。
 さらに、母性愛は崇高なものと信じているがゆえに、我が子を愛せない自分を受け入れられなかったり、逆に子供を愛しているのだから自分は正しい、と自己正当化する場合も見られる。加えて、母親になることで人間として成長できるという意見を振りかざし、子供を産んでいない女性を未成熟と批判する言説も生産されている。必要なのは共働きで共育てを行うことであり、そのための支援であると主張する。
 それほど分量のある本ではないが、母性愛という言説を疑うに足るだけの説得力を十分に備えている。かつての村落共同体は共働きであり、「近隣地域が一体となって、子どもを見守り育む体制がとられていた」とあるのは、広田照幸『日本人のしつけは衰退したか』でも主張されており、その通りだと思う。ただし、その正しさを受け入れた上で敢えて言うのだが、一度正当性が認められた通念をひっくり返すのは難しい気もする。本書の中で、ある相談が挙げられていて、32歳の公務員が、子供が生まれてから出版社の編集者をしているパートナーが家事の分担をしてくれなくなったため、離婚を考えている、という相談なのだが、これに対する回答として「夫も仕事をしているのだから理解すべき」というものや、「夫が態度を改めるべきで、妻の不満はもっともだ」というものは、すべて間違っている。なぜならば、この質問で不満を述べている公務員とは、男性だからである(103〜107頁)。私も見事に引っかかったのだが(わざとらしい質問なので、何かの引っかけだろうな、という風にしか考えられなかった)、著者によればこれまで正解した人間はたったの2人しかいないそうである。これはいかに「男は仕事、女は家庭」という概念が強固であるかを物語っている。そして、本書でも挙げられているように、こうした概念が資本主義と共に登場したのであれば、資本主義体制である現在において、この概念は強固に維持されざるを得ないということでもある。
 もう1つは、子供を産むのは女性であるということ。何も「お腹を痛めて生んだのだがから、女性は我が子をかわいいと感じるはず」などということを言いたいのではない。そうではなくて、生物学的に子供を生むのは女性にほぼ限られてしまっているということである。もしかすると将来的には、女性も子供を産ませることができるようになるのかもしれないが、少なくとも現在はそれが不可能だろう。つまり、そうした生物学的な理由を持ち出して、女性がまずは子供を体内で育むので「お腹を痛めて生んだのだから…」という言説を強化することに対抗できない気もする。理屈としてもっともだということと、それを社会で徹底できるのかということには開きがあるのかもしれない、などと他人事のように考えてしまった。
 以下、メモ的に。著者が母性愛神話を批判する講演を行うと、必ずと言っていいほど50代・60代の女性に子供がいないからそのようなことが言えるのだ、と発言され、男性はその傍らで満足そうにうなずくことが多い、という(27頁、なお著者には子供がいる)。産後間もない母子の接触は重要であろうが、それを過剰に訴える傾向が見られる。NHKが1986年に放送した番組にて、新生児が母親に抱かれると母親を必死で見つめて泣きやむシーンがあり、母親が側にいることを促すコメントが付せられた。しかし、このシーンを見た助産婦たちは、この新生児が口の中のものを吸引して貰えなかったために、泣き声を出せなくなっている状態だと解釈した(97〜98頁)。昭和初期と戦後のお茶の水女子大(戦前は東京女子高等師範学校)出身の母親へのアンケートでは、育児を生き甲斐と見なしたのは、それぞれ78.0%と34.7%であった。しかし、就労率は前者が62.0%であり、後者は24.5%であった(123〜125頁)。


7月17日

 小川洋子『博士の愛した数式』(新潮文庫、2005年(原著は2003年))を読む。家政婦の「私」は、ある数学者の世話のために派遣されたのだが、彼の義姉は、彼の記憶が80分しかもたない、と告げる。彼の記憶は1973年で止まっており、そこから先は80分ごとに失われてしまっていた。しかしながら、こうして始まった数学者との生活は、彼によって「ルート」と名付けられた「私」の息子も交えた、数学と阪神タイガースを軸とした暖かなものだった…。
 ところどころに完全数や素数といった数学の知識が、博士の説明によって挟み込まれるのだが、80分しか記憶の持たない数学者という悲劇的に見える設定を、楽しげな世界へと転換する上手いアクセントになっている。そして、完全数である江夏の背番号を足がかりに、数学者と「ルート」の心温まる交流へとつなげていく。こういったハートウォーミングな世界観に、あまり入れ込めない私のような人間でも十分に楽しめるのだから、第1回本屋大賞受賞というのも十分にうなずける。
 いわば、数学が世界を認識する学問であることを、文学によって示した作品だと思うのだが、特に気に入った描写は、完全数・過剰数・不足数の説明を聞いた場面において、「私は18と14を思い浮かべた。博士の説明を聞いたあとでは、それは最早ただの数字ではなかった。人知れず18は過剰な荷物の重みに耐え、14は欠落した空白の前に、無言でたたずんでいた」(70頁)と描かれているところ。また、「実生活の役に立たないからこそ、数学の秩序は美しいのだ」(178頁)という数学者の台詞も、よい。これは「ルート」の、世の中の皆を驚かせたり、わくわくさせたり、喜ばせたり出来ることは自慢になる、と博士を褒めるシーン(122頁)と対になっている気がする。


7月21日

 ディアドラ・N・マクロスキー(赤羽隆夫訳)『ノーベル賞経済学者の大罪』(筑摩書房、2002年)を読む。現在の経済学が陥っている問題点を批判する。まず、統計的優位性の検討を検討するばかりで、それが社会においてどのような意味を持つのかを考えないとし、統計的優位性をどのように解釈するのかは、人間が考えることであると主張する。たとえば、1940・50年代のイギリスでの自動車事故に関して、死傷事故に対する厳罰化は事故減少に対する有意性があまり見られなかった、と結論づけた経済学者がいる。実は有意性が低いものの、厳罰化すれば数千件の事故が減少する計算であった(93〜94頁)。有意性にとらわれた結果、実際の社会で持つ意味を見失ってしまっていたと言える。
 続いて、実社会と関連しない理論の証明や構築のみに専心している、と批判する。さらに、これら2つに基づいて経済政策の策定に適用できるとする態度をとっている、とする。これらを踏まえた上で、経済学者は「砂場で遊ぶ坊やであることから卒業して、人生というビジネスの場での真剣な説得者に成長する必要がある」(168頁)と指摘する。
 アメリカ合衆国の主要大学の経済学部に質問状を送り、「現実の経済に関する知識を持つことは、経済学者にとって望ましいことであるか」と聞いたところ、大変重要だと答えたのは3%にすぎなかった、という事例(157頁)は確かに危機的状況といえる。だがしかし、実社会と関連しない学問、著者の言う「砂場遊び」という批判は、経済学のみならず、ほとんどすべての大学での学問に当てはまるだろう。たとえば、経済学者の以下のような行動が挙げてある。「1919年のインフルエンザの流行によってインドの小農民の10パーセントが死亡したことが判明した後年、ある経済学者はこういって喜んだそうだ。小農民たちが経済にとってどれだけ価値があるかを明らかにしてくれる、比較的「混じり気のない」歴史の実験が行われたのだ、と」(48頁)。これはおぞましくもあるが、経済学者だけではなく、研究成果を出そうとする学者は、何かことが起こればそれをネタにすることが出来ると考える人種なのではなかろうか。
 それはともかく、素人考えながらふと思ったのだけれど、ビジネスの場で役立つ経済学とは経営学のことではなかろうか。そして、それがあまりにもビジネスでいかに儲けるのかに集中してしまったので、経済学では理論への揺り戻しが生じたのではないかと。経済学についてはまったく分からないので、単なる想像にすぎないのだが。
 ちなみに、タイトルを「ノーベル賞経済学者」とする必要性があったのだろうか。確かに、本書で批判されている、よくない動向を築いたのは、ノーベル賞経済学賞を受賞した人たちだが、原著の通り「経済学者」でいいと思うのだが。
 なお、本書で一番びっくりしたことは、著者が53歳で女性へと性転換した、と書かれている著者紹介だったりする。


7月25日

 宮部みゆき『龍は眠る』(新潮文庫、1995年(原著は1991年))を読む。雑誌記者の高坂は、東京へと車で向かっていた嵐の夜に、高校生の稲村と出会う。偶然に遭遇した事故をきっかけとして、稲村は高坂に自分が超能力者であると語り、高坂の心理を読むと共に、自身が知った事故の真相を語り出す。しかし、事故の追求はよくない方向へと向かい、二人は気まずい分かれ方をする。だが、それは始まりにすぎず、もう一人の超能力者の存在と絡みつつ、新たな事件の幕が開いてしまう…。
 正直言って、舞台設定や筋書きなどは特に特筆するところはない。高坂が調査中に出会う、話すことのできない女性の保育士である三村とのラブロマンスも、読んでいて恥ずかしいような青臭さ満載だ。そして、こうした超能力者が出てくるミステリーも、別に珍しいものではないだろう。だがこの小説は、もし超能力者が本当にいたとすれば、彼らはどのような生活を送らなければならないのかをミステリにおいて描いたという、ただ1点において読ませると言える。もちろん、他人の声が聞こえてしまうエスパーの苦悩を描いた作品がないわけではない。しかし、推理小説においては、肯定的に描かれる側面を持ちやすい。たとえ、コミカルに描かれたとしても、それは変わらないだろう。いずれにおいても、その能力が事件を解決するために絶対的に役立つことは約束されているためである。しかしながら、望みもせずに人の声が聞こえてしまうというのは、決して精神的な安らぎを与えてはくれないはずだ。推理小説という枠組の中に置かれてしまうと、そうした当たり前のことをつい忘れてしまう。その点がこの小説ではくどいほど描かれている。もし、本当に超能力を用いた捜査官がいれば、その人間はとてつもなく丈夫な精神力を必要とされるのではないだろうか。逆に言えば、そのような苦悩や精神力を感じさせないような自称超能力捜査官など、信頼に値しないだろうし、本当に能力があればマスコミに出るようなことは避けたいと望むだろうとも言える。
 ところで、三村のことを考える高坂が、テレビ電話が実用化されれば聴覚障害者はどれだけ楽だろう、と考える箇所があるけれども、これは携帯電話のメールによって実用化されたと言えるのかもしれない。私はまったく分からないのだが、もしかすると携帯メールは、この点において多大な恩恵をもたらしているのだろうか。


7月29日

 周藤芳幸『物語古代ギリシア人の歴史 ユートピア史観を問い直す』(光文社新書、2004年)を読む。賞賛される「記号」と化した感のある「古代ギリシア」を、ギリシアという土地や人間の顔を持つ存在として描き直すにために、史料へ基づきつつも敢えて推測や創造も交えた物語として、オムニバス形式で記していく。題材として取り上げられるのは、ナイルを遡ったロドス人傭兵、アテナイでの僭主殺害を語る少女像、オリュンピア祭とボクシング選手、アテナイ人殺害犯に仕立て上げられたミュティレネ人、ソクラテスを裁いた市民、弁論に潜む姦通事件における妻と夫の視点、ポリュビオスの7つ。それぞれの物語の後ろには、短い解説が付けられている。ギリシア史に馴染みのない人でも教科書に書かれるような歴史的事件の背後に広がる、実際に生きていたギリシア人の生活を垣間見させてくれるような意欲作だと思う。にもかかわらず、あまり評判になっているような気がしない。やはり、創作を交えた物語は、歴史家には評価されないのだろうか。
 以下、興味深かったところをメモ的に。日本人の一般的な感覚だと、平地の方が土地は肥沃で山間部は土地がやせていると考えがちだが、ギリシアを実際に歩いてみると、平地の方が石ころだらけで、丘陵地帯には肥沃な段々畑が広がっている、という(9頁)。ただし、あくまでも個人的な感想にすぎないのだが、肥沃であったというよりは、傾斜のため畑が作りにくい山間部でさえも農地にしなければ、生きていけないくらい厳しい環境だったのだろうか、と思えてしまう。著者のいうように、実際にギリシアを自身の目で確かめて歩いてみれば、違う印象を持つかもしれないので、あくまでも感想にすぎないのだが。第1章の解説で語られているのだが、初期ギリシアの歴史は、いわゆる古代ギリシアの領域だけではなく地中海のネットワークのなかで考える必要があり、エジプトとの関係も無視できない。たとえばヘロドトスによれば、前7世紀のエジプト王プサンメティコス1世は、即位に際してイオニア人とカリア人の傭兵の力を借りており、後に彼等をエジプトに定住させたという(65頁)。なお、第1章はアブ=シンベル神殿に記されたロドス人傭兵に関する碑文に基づいた物語である。エーゲ海北部のタソスで信仰されていたヘラクレスは、ギリシア神話のヘラクレスではなく、実はフェニキア人の太陽神バールであった。タソスは、この近辺で金が産出することに目を付けたフェニキア人が、もともと開発していた(112頁)。


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