前の月へ   トップに戻る   インデックスに戻る   次の月へ


2009年6月の見聞録



6月1日

 マリーズ・リズン(菊地達也訳)『イスラーム(1冊でわかる)』(岩波書店、2004年)を読む。書名通り、イスラームについてコンパクトにまとめたもの。この本を読もうと思ったのは、前近代のイスラームが他教徒に対してどれくらい寛容だったのかについてと、同じく前近代の地中海におけるイスラームの海洋政策はどのようなものであったのかについて知りたかったため。
 前者については、十字軍の頃にキリスト教徒が残虐であったのに対してイスラームは寛容だった、とよく聞くので具体的に知りたかったのだけれど、少しだけ記述があった。イスラーム以前の遊牧民の戦闘に関する慣習が取り入れられた結果、戦争では女性と子供、年寄りと病人は見逃された。啓典の民であるユダヤ教徒とキリスト教徒、さらにはゾロアスター教徒ヒンドゥー教徒などは、人頭税であるジズヤと地租であるハラージュを払えば、庇護を受けられたという。ただし、多神教徒は改宗か死かという選択を迫られた(173頁)。ちなみに、ふと疑問に思ったのだが、ヒンドゥー教は多神教なのではないのだろうか。私はヒンドゥー教に対して全く無知なのでよく分からないのだが、多神教であっても啓典があればいいということなのだろうか。
 後者の海洋政策については、残念ながらよく分からなかった。イスラームの中には海賊もいたようだが、彼らは商業活動も行っていたはずであり、この両者がどのように結びついたり対立していたのか、ということに少し興味があったのだが、残念。というよりも、本書はイスラームの教義や思想を中心に述べているので、そういうことを本書に求めた私自身が、少し間違っているとも言えるのだが。
 ただし、そうした部分についても知見を得られたので、メモ的に。アラビア語の「イスラーム」とは動名詞であり、「神に対して自己を委ねる」ことを意味する。「ムスリム」は、「自己を委ねる」という動詞aslamaの能動分詞であり、「自分自身を委ねる人」を意味する。ただしムスリムには、ムスリムの父の下に生まれたが、必ずしも信仰と信条上の実践に同意しているわけではない人も含まれている(4頁)。
 『クルアーン』に記されている多くの言葉の前には、ムハンマドに対する「言ってやるがよい」という神からの命令形が付されている。ただし、神が自分自身に言及する場合には一人称単数のみならず一人称複数を用いている箇所がある。これは、天使たちから話し掛けられていると解される(38頁)。これについては、単なる素人考えなのだが、ジャック・マイルズ『God 神の伝記』にて詳細に述べられている、『旧約聖書』の神に複数の神々の性質が混じり合ってしまっている現象と同じようなことが起こった可能性はないのだろうか。
 『クルアーン』にも楽園追放の物語はあるが、アダムは悔い改めて、ムハンマドへ至る預言者の最初の者として、神からの恩寵を回復する。したがって、原罪や贖罪という観念は見られない。だからこそ、イエスは預言者であるにすぎず、救済を保証する永遠の組織も必要とされない。人間に必要なのは、神に従うことであるというのが、イスラームの教義である(40頁)。
 イスラームの神学には新プラトン主義、特にプロティノスの流出論が取り入れられている。プロティノスは「真にすべての言論と肯定を超越する一者」と神を定義づけたが、創造は神が直接行ったのではなく、様々な存在を通じて行われた、という神学に合致した(90〜91頁)。
 教会のような概念が不在だったため、集団の利益が個人の利益に優先する組織は生まれにくかった。したがって、法人という概念も存在しなかった。ゆえに、近代以前の中東都市では、増殖していった路地を、公共空間ではなく私的な領域が浸食していた。公共の領域は、単に私的なものの集合体として考えられていた(130頁)。やはり単なる素人の推測にすぎないが、こうした状況だったからこそ、ポール=ポースト『戦争の経済学』で触れられていた、イスラーム特有の金融システムである「ハワラ」が成立したのかもしれない。
 一夫多妻制について、伝統主義者はそれぞれの妻が持つのは物質的な供給に関する平等であるとする。これに対して近代主義者は、心理的な平等を指すのであり、実際にはすべての妻に感情的に平等になれる男性など存在しないのだから、複婚は不可能であると主張している(144頁)。これを読んだとき、なんとなく倉塚平『ユートピアと性 オナイダ・コミュニティの複合婚実験』(中央公論社、1990年)で取り上げられたオナイダ・コミュニティの崩壊を思い出した。


6月6日

 ジェイムズ=P.=ホーガン『星を継ぐもの』(創元SF文庫(東京創元社)、1997年(原著は1977年))を読む。近未来の地球から派遣された月面調査隊は、宇宙服を着た死体を発見する。その死体を調査した結果、現世人類と全く同じ種族であるにもかかわらず、5万年前に死んでいたことが明らかになった。さらに木星の衛星ガニメデでは、地球のものではない2千5百万年前の宇宙船が発見される。そして、小惑星帯にあるミネルヴァは、かつて大きな星であったものの、戦争か何かの結果として破壊されたものであることが明らかになると、月面の死体はミネルヴァ出身ではないかと考えられ始める。しかし、この死体の人間は地球人と別個の進化を辿ったことが絶対にあり得ないと判明しており、謎はますます深まっていく…。
 ミステリではあるが、そこかしこにSF的なガジェットが挟み込まれているので、そういう方面に興味がある人も楽しめる作りになっている。どうやって落ちを付けるのかなと思っていたら、「1つの月」という解決策を提示して鮮やかに締めくくったと思いきや、さらにもう1回どんでん返しを持ってきて、旧人から新人への移行という歴史的事実と絡めるあたり、やられた、といったところ。SFはあまり…というミステリファンがいたら、真っ先におすすめしたい。


6月11日

 秦剛平『旧約聖書を美術で読む』(青土社、2007年)を読む。全体的な傾向は、同じ著者の『新約聖書を美術で読む』と同じで、『旧約聖書』に関連する絵画作品を紹介していく。『旧約聖書』に対する本作の方が、『新約聖書』に対するものよりも先に出版されたようなのだが、だからなのかどうかは分からないものの、上手くバランスが取れていないように感じる。絵画の説明よりも『旧約聖書』の解釈に対する説明の部分が多く、それに比べて絵画の説明はあっさりとしすぎているように思えた。ただし『旧約聖書』の解釈として興味深いのは、たとえば「創世記」などに言葉遊びが見られる点から、厳粛な本として読まなくてよい、と指摘しているところ。たとえば、ヘブル語では「地」のことを「アダマー」というが、ここには「アダム」との間のだじゃれめいた言葉遊びが窺える(28〜29頁)。いかなるテクストであっても、読む人と時代によって、お笑いにも厳粛なものにも解釈されることから逃れられないと言えよう。なお、『旧約聖書』の登場人物は、道徳的にいかがわしい人間が多いことも確認出来る。この辺のことを描いた作品を見たキリスト教徒は、どのように考えていたのだろうか。聖典の権威が落ちてしまうようなものであるような気もするのだけれど。
 なお、気になった部分も、絵画についてよりも『旧約聖書』に関しての部分の方がが多い。以下メモ的に。ギリシア語版の『旧約聖書』では、神が人間をつくるとき「われわれの姿に似せて」つくった、と複数形で語られている(20頁)。このあたりについては、ジャック・マイルズ『God 神の伝記』が詳しい。なお、「ヨハネ福音書」では、キリストが神と共にいたとされている。これは、キリストが神と共に古くからいたということで、その存在を多神教の信者たちにアピールしようとするヨハネの意図があった、と考えられる(22〜23頁)。
 「旧約聖書」にてカインが子供を作ったとき、その相手の名前は挙がっていないものの、世界に存在する女性はエバしかいなかったのだから、必然的にカインは母親たるエバとセックスしたことになる。中世のラビたちは、これをごまかすために「リリツ」と言う人間の目には見えない存在者をつくりあげた。これは、聖母マリアによる処女懐胎のアイディアを拝借したのではないか、と推測している(55〜56頁)。
 ギリシア語版「出エジプト記」にて、エジプトの国王が子供たちを河に捨てるようにと命じているが、この河には固有名詞が付いていない。これは河と言えばナイル川を指すエジプト人の発想であり、ギリシア語訳がエジプトにいたユダヤ人によってなされた証拠である(190頁)。
 「出エジプト記」の第35節に、モーセの顔の肌は光を放っていたとあるが、ラテン語訳をしたヒエロニュムスは、「光」ではなく「角」と理解してしまい、そのように訳した。そのため、以後の画家は角のあるモーセを描くようになる(218頁)。
 ルネサンス時代の「スザンナ物語」に関する絵画は、その殆どがスザンナの水浴びを2人の長老がのぞき見する場面であった。なぜならば、裸の女性を描く絶好の好機だったからである(350頁)。


6月16日

 道尾秀介『カラスの親指』(講談社、2008年)を読む。かつてどん底を味わった「タケさん」こと武沢と「テツさん」こと入川は、いまは詐欺を生業として生きていた。そんなある日、彼ら2人はある女の子を助けたのだが、その女の子こそ、武沢がかつて借金取り時代に追い詰めた女性の娘だった。彼女を家に匿うとその姉と彼氏もくっついてきて、奇妙な共同生活が始まる。彼ら5人は、自分の過去と決別するために、かつての武沢を追い詰めた金融業者への詐欺を決行することにする…。
 この小説は評価が高いようだけれど、個人的には最後の大どんでん返しを見せたいがために、物語を型にはめてつくっているような感じがして、あまり面白いとは思わなかった。人情話的なミステリが好きな人には向いているかもしれない。


6月21日

 水月昭道『高学歴ワーキングプア 「フリーター生産工場」としての大学院』(光文社新書、2007年)を読む。いわゆる一流といわれるような大学の大学院へ進学して博士学位を取ったとしても、満足な就職ができずにワーキングプアのような状況に置かれている実態を、当事者たちの声を取り上げつつ述べていく。
 まず断っておくが、私自身も大学院へ進学して、その後は現在に至るまで定職を得ることができず、教育産業の片隅で非常勤職に就きながら金を稼いでいる人間だ。実際にはそれすらままならない人もいるのも理解している。私が非常勤の職を幾つか得られたのは、非常に運が良かったからであり、声を掛けて下さった方がいたことに感謝もしている。だから、本書に描かれた状況は他人事ではないし、事実であることも承知している。
 しかしながら、その上で書くのだが、大多数の世間一般の人が本書を読んでも、おそらく共感することはないだろう。1991年からの大学院重点化によって大学院生を増やしたのは、教授職という既得権益を確保するための文科省と東大法学部による政策であった、というのは正しいのかもしれない。実際に、いわゆる名門大学出身者が、中位・下位大学の教員のポストについて、それを握って離さない事例が多いことは、よく知られた事実である。さらに、2001年には大学院重点化に対する批判が始まり、むしろ大学院生の数を減らす方向へと転換したのも、そもそもの始まりが安易な政策決定だった可能性は十分にあり得る。また、本書に出てくるような、教育をまともに行わない教授や、自分が博士号を得ていないために、教え子が外国で博士号を得ると嫉妬心から冷たく扱う教授がいるというのは、残念ながら事実である。これらについては、世間の人から見ても疑問に感じてもらえるだろう。
 だが、納得してもらえるとすれば、せいぜいそこまでだ。結局のところ、大学院へ進学したのは自分自身の責任なのでは、としか感じてもらえないだろう。本書の中にも、「そうした境遇にあるのは考え方が甘いし自己責任だ、と言われるかもしれないが…」といった感じの文章がそこかしこに出てくるが、間違いなくそう思われてしまうに違いない。たとえば湯浅学『反貧困』を読んだ読者の多くは、どれほど努力しても貧困から抜け出るスタートラインにすら立つことができない人もいて、自分もそうなるかもしれないという危険性を感じるはずだ。本書には、全くと言っていいほどそれがない。大学院へ行くことができるのは、生きるのに精一杯という人では決してないはずだし、大学院にまで行く年齢にもなっているのであれば、自分が進む先の業界はどうなっているのか、という調査をしておけば回避できるか予測はできたのでは、と普通の人ならば考えるに違いないからだ。大学院重点化が始まったときに、10年後のことなど分かるはずがない、とでも言いたいのかもしれないが、そんなことはどの業界でも同じだ。もし、高度な(と自分たちでは見なしている)学問をしている人間はそのような目に遭うべきではない、と考えているならば、それこそ傲慢な考えで、共感を決して得られないだろう。
 そうした事例を挙げていってみよう。まず冒頭では、2004年の日本の博士課程修了者における「死亡・不詳の者」の割合が11.45%であるというデータを挙げて、日本の自殺者の割合が0.024%と比べて著しく高い、と大学院生の苦境を際だたせようとしている(14頁)。そもそも、「死亡・不詳者」か「自殺率」の同じデータで比較しなければ意味がない。正確なデータがないので断言はできないのだが、大学へ行くこともできなかった人々も同じような状況にあるはずで、そうした人々に比べれば、考えが甘くてひ弱と言われるのがオチだろう。
 進学するように強く勧められて、大学院を修了してみたら職がなくて、「〔指導教官に〕引っかけられるとは思いませんでした」と話した人もいて、大学へ払った学費は1000万を超えているのだが、著者は「大学にとっては誠に結構な金づるだろう」と述べる(35頁)。すでに書いたように、単なる調査不足としか言えないし、少なくともマルチや詐欺に比べれば学費を明記している点で良心的であろう。
 ある学会で、自分よりも下の年齢の者が専任になって発表をしていたけれども、自分はその水を換える係でしかなく心が折れた(149〜150頁)、などという話を書いていて、世間の人に嘲笑されるとは考えなかったのだろうか。それがいいか悪いか、ということではなくて、年下の者が上司などということは世間一般にありふれた話だからだ。
 非常勤は、授業のための資料や文献の経費にお金がかかり、その穴埋めのためにバイトをしているという人の例も挙がっている。授業を掛け持ちしているなかで、これはつらいとこぼしている(108〜109頁)。確かに文献費は自費で払わなければならない。専任教員に比べれば厳しい立場にある。しかし、少なくとも講義用の資料揃えあれば、図書館を活用すればいいのではないだろうか。非常勤講師が担当するのは、基本的に大学院ではなく学部の講義なので、よほど特殊な分野以外、図書館の本で事足りるはずだ。幾つも掛け持ちしているのであれば、それらの大学の図書館をすべて利用できるはずである。特殊講義の様なより専門的な分野であるならば、自分の専門と重なるはずなので、自腹を切ったとしても自分の研究に生きるはずだし、自分自身ですでに資料を持っていることも十分にあり得る。専任の教員が得をしているのは事実であっても、外部の人々にまだまだ工夫が足りないと思わせてしまえば、結局のところ共感してもらえない。
 つらつらと問題点を指摘してきたが、私は何も現在の大学院生やその修了者の状況はこのままでよい、と言っているわけではない。そうではなくて、現在の状況を他者に理解してもらって、なおかつその改善に支援してもらうにはどうすればいいのか、という考え方が本書には欠如していると言いたいのだ。たとえば、大学教員にはリストラがないと指摘していて、これは事実だ。しかし、本書の中に出てくる境遇に不満をこぼす研究者たちは、その状況を指摘しつつ、自分も上手くいけばその後釜に座りたいと考えているようにしか見えない。世間では、安易な終身雇用こそが批判されているのだから、こうした考え方が支持されるはずもない。だからこそ、中野雅至『はめられた公務員』で指摘されているように、国立大学の独立行政法人化が議論になったとき、世間は全く同情せず、進歩派の新聞さえも世論形成を行わなかった、という状況に陥ったのだ。
 世の中の大多数の人々は、自分自身の生活にすべて満足しているわけではない。そういう人たちとうまく利害関係を一致させて協力しつつ、彼らの状態をより良い方向へと向かうように仕事をしながら、自分自身の境遇をも改善する、というやり方こそが必要なはずだ。大学院まで進んでいるような自分たちが、このような境遇にあるのはおかしい、と声高に訴えても誰も協力してくれるはずがない。その態度は、「苛立つ神学者のご託宣〜内田樹『下流志向』」でも批判したように、教育を神学と考え絶対視する立場と何ら変わらない。
 結局のところ本書は、大学院へ進学しても就職がない者同士が、傷を舐めあうかのように自分自身の状況をまるで悲劇の主人公のように美化するために内輪で消費されるものでしかないだろう。倉阪鬼一郎『活字狂想曲 怪奇作家の長すぎた日々』を読んだときに、「大学院へ行って、勉強しているというプライドだけ高めた社会不適合者が、どうやってプライドと折り合いの付かない仕事をしていくことになるのか、ということについては、いずれ問題になるだろう」と書いたが、まさにそのことが当てはまる気がする。


6月26日

 吉田修一『悪人』(朝日新聞社、2007年)を読む。福岡で一人暮らしをしており、保険外交員を勤めていた石橋佳乃の死体が山中で見つかった。彼女は出会い系サイトにて複数の男性との関係を持っていたが、捜査線上に浮かんだのは彼女がバーで知り合った裕福な家の息子であった。こうしたなかで、長崎の土木作業員・清水祐一は事件当日に彼女と出会う約束をしていたと判明したのだが、出会い系サイトで知り合った別の女性と逃亡した…。
 被害者の女性の父親と、事件をネタに盛り上がる誤認逮捕された軽薄な若者の対峙、その父親が現場で見たという娘の幻、犯人と女性の逃避行とその別れ、といった部分に感情を揺さぶられる人もいるのかもしれないし、安っぽいとドラマだと見なす人もいるのかもしれない。私自身はどちらかと言えば後者なのだが、それではこの小説を陳腐と見なしているのかといえば、全くそうは思っていない。むしろ逆で、自分の身の回りで起こりかねないような不幸な出来事は、他人から見れば取るに足りないことなのだという、実に冷酷な事実を伝えるには、物語は陳腐でなければならない。
 実際にこの小説は、現代の地方都市の、特にそこに暮らす若者の閉塞感を当たり前のように描いているからこそ、もの凄く怖い。いまの世の中は自由であって、それを謳歌している人もいるし、メディアでは華やかでリッチな暮らしをしている人たちが紹介される。しかし、だからこそ、自分はそこに属しえないという不幸を何とか埋め合わせねばやっていられない気持ちになるのだろう。そうした描写が、本書には嫌と言うほど出てくる。
 たとえば、殺されたOLとその友達は、幻想の恋物語をお互いに騙っている。もう1人の共通の友人は純朴なので素直に驚いてくれるが、この2人はお互いに相手は嘘をついているのではないかと薄々感づいている。その気分を「まるで偽物のブランド品を自分が身につけているような、そんなやましい気にさせられるのだ」(33頁)と記すが、これこそまさに言い得て妙だろう。
 または、何もない日常生活を劇的に変えるような物語に出会いたいという願望。たとえば、容疑者になってしまった友人について、どうせ捕まるならば自首などせずに、警官に囲まれながら「自分にははけそうもない台詞を叫んで、自ら命を絶って欲しい」(199頁)と願う大学生。自分自身が当事者になりたいのではない。そうしたドラマチックなことが身の回りにあった、と吹聴したいのだ。そして、今度は容疑の晴れた当事者が、警察に追われた自分自身の経験談で盛り上がる。そのようなことでしか、自分自身の生活に変化を求めることが出来ない。
 そして、自分を変えてくれるのは恋愛しかないという思いこみ。殺されたOLも、本当の自分とやらを探し続けて、自分が救われるというその夢をまだ見ぬカッコイイ彼氏に託そうとした。そして、衝動的に犯人と逃避行をした女性も、自分自身の生活のつまらなさへの覚醒がその引き金となった。
 物語が陳腐な不幸であることは、現実社会を映し出す鏡でもある。この小説を読んで、たとえば犯人たちの逃避行に純愛を見出して感動する人も、または出会い系サイトにはまった女性が殺されたというつまらないストーリーと貶す人も、世の中の大多数の人々の生活は陳腐なもの、という事実を見ようとしていないという点においては、同じではないかと思える。
 ちなみに、この小説の舞台の1つである久留米に、数年前たまたま行ったことがあるのだが、新幹線から乗り継いで夜のJR久留米駅に降りたときに、駅前がえらく静かだなと思ったのだけれども、その辺りについても描写されていた。久留米ラーメンをはしごするついでにぶらぶらしたのだが、西鉄久留米駅の周辺はかなり賑やかだったので、JR久留米駅との違いに少し驚いたのだが、本書によれば西鉄の方が時間は掛かるけれども、博多まで600円とJRよりも720円も安いからという理由が大きいようだ。もの凄く細かい個人的な疑問が解決したネタだった。


前の月へ   トップに戻る   インデックスに戻る   次の月へ