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2008年6月の見聞録



6月1日

 早瀬乱『レテの支流』(角川ホラー文庫、2004年)を読む。一流大学の理系学部に在籍しつつ、一世を風靡したグループ「レテ」のヴォーカルだった舘岡怜治。彼は、その解散後に過去の成功に縛られて現在の生活が上手くいかないことに悩み、高校・大学を通じた友人の山村に、音楽活動の絶頂期の記憶を消してもらう。それによって平穏な生活を取り戻したかに見えたが、高校時代に自殺したはずの同級生である小山悟の姿を突然見かけるようになり、同級生が次々と突然死を遂げるなど、不可解な出来事が次々と起こり出す。さらに、かつての妻であり高校時代からの恋人であった優子との思い出も、なぜか失われていることに気づいたため、独自に調査を開始していくうちに、世界は変革を遂げていく…。
 記憶の変革とパラレルワールドが絡み合った設定。人間の認識にとって7という数字が重要な意味をもっているという説は聞いたことがあるので、本当なのかもしれないが、だからといって、脳における別々の8人の認識がパラレルワールド化を促すというのはちょっと強引な気がする。まあ、馬杉宗夫『大聖堂のコスモロジー』などでも指摘されているように、キリスト教においても8は生まれ変わることを意味する数字ということを、この設定にこじつけることができるかもしれないが。
 記憶の変革に関しては、U.ヌーバー『<傷つきやすい子ども>という神話』が詳しいし、錯誤はシナプスレベルまで行けば間違った情報とは言い難いと指摘した、下条信輔『<意識>とは何だろうか』などと関連しているのかもしれない。


6月6日

 石山たいら・大上丈彦共著、メダカカレッジ監修『マンガでわかる微分積分 微積ってなにをしているの? どうして教科書はわかりにくいの?』(ソフトバンククリエイティブ、2007年)を読む。タイトル通りの本で、見開き頁の左側に解説文が、右側にマンガがあるという構成を取っている。なお、書誌事項には書かれていないが、マンガの作者は森皆ねじ子。
 本書の結論だけをおおざっぱに述べてしまえば、微分とは、物体をものすごく細かくすることで変化を見ることで、積分とは、ものすごく小さな変化を集めて元に戻すことを意味する。グラフでいえば、微分はある一点の変化を極限まで突き詰めていって、その一点の方向を定めることであり、積分はその一点の変化を集めていってグラフの軌跡を描く。その点で、両者は表裏一体であるが、積分が古代ギリシアの段階で求められていたのに対し、微分はニュートンやライプニッツによって発見されて、両者の関係性が判明したのもその時だった。
 単にマンガを用いれば分かりやすくなるというわけではない、ということは誰もが認識していることであろうが、本書は微積分の概念を他のものにたとえて説明する際に、上手くマンガを活用しており、非常に分かりやすくなっている。私は、理系ではないので、この辺りの入門書に関する知識はさっぱりないのだが、少なくとも専門外の人間から見れば、よくできた入門書だと思う。
 ちなみに、微分の公式である(xn)'=nxn-1が非常に便利な公式であることを説明する際に、「イオナズン」や「バルス」のような最強呪文のようなもの、という比喩がマンガの中にある(83頁)。これ以外にも、数学の初歩的な公式を「ひのきのぼう」と「かわのよろい」に喩える、といったようなネタもでてくる。ただ、「イオナズン」と「バルス」ならばかなり差があるので、「イオナズン」よりは「マダンテ」かなあ、と。ただ、「イオナズン」と「マダンテ」の一般的な知名度の差が分からないので、「マダンテ」の方が正しくても、「イオナズン」の方が分かりやすいかもしれないのだが。


6月11日

 池上永一『シャングリ・ラ』(角川書店、2005年)を読む。温暖化があまりにも進んだため、東京は森林化されてしまい、一部の人間だけが高層都市「アトラス」へと移住していた。しかし、限られた人間しか移住できないため、元々の東京ではゲリラ活動による抵抗が行われていた。その長となった國子は、平安時代のような服装で従者を従えた少女・美邦、陸軍少佐の草薙らと共に、なぜかアトラスによりトリプルAへと指定された超重要人物であった。やがて彼らは、アトラス建築に隠された真の目的を知り、運命の糸が絡み合う…。
 内容の概略を知って読んでみようと思ったのだけれど、なんだかライトノベルっぽいなあと考えながら読んでいたのだが、初出が『ニュータイプ』だと知って、なるほど、と。通貨経済が炭素経済へと移行し、炭素を排出しすぎるとペナルティがつけられ、炭素経済市場によって世界の経済が動く、という設定はなかなか面白い。そして排出される炭素を削減するために、旧首都は森林に覆われているという設定になっている。
 ただ、多数の登場人物が登場し、彼ら同士の掛け合いは、懐かしさを感じるライトノベルっぽい文体で楽しめたものの、登場人物の描写はやや薄っぺらく感じてしまった。たとえば、両親と幸せに暮らしたいという願望を持つという設定だった炭素経済家の香凛が、最後にはその両親にことも触れずに暮らしているのは、設定のための設定になってしまっている。そしてもっと気になったのは、特に終盤になると目立つのだが、死んだと思っていた人物が生きていたというパターンが何度も繰り返されること。悪い意味での長期連載マンガに見られるパターンに陥っているように思える。全員が幸せになるハッピーエンドをご都合主義と否定する気などさらさら無いが、そこへ至る過程に、もっと説得力を持たせて欲しいな、と。それと、物語終盤に登場する地脈のような設定も、個人的には子供っぽさを感じる。これは私自身が年をとったせいでもあるのだろうが、こうしたことから考えると本書は、もう少しジュニアの読者層が手に取りやすい体裁で出版した方がよかったのでは、とも感じた。
 ちなみに、本筋とは何ら関係ない、細かい突っ込みを。國子が人々と暮らす巨大な住居に「ドゥオモ」と名付けられていて、その理由として、突き出た8本の煙突がゴシック建築のシンボルのように浮かび上がらせるとあるが、これは少しおかしい。というのは、「ドゥオモ」はイタリアの各都市におけるその都市を代表する教会堂のことだが、ミラノを除くほとんどのイタリアの教会堂は、尖塔群が林立するゴシック様式としては建造されていないからだ。この辺りは、馬杉宗夫『大聖堂のコスモロジー』が詳しい。なぜなのかははっきりと分からないのだが、どうやらイタリアでは円のモチーフが好まれていたという風土性に由来するらしい。
 また、アトラスの人口地盤の端から水が瀑布のように流れ落ちる場面を見て、プトレマイオス的世界だなと、登場人物に呟かせているが、天動説を主張したプトレマイオスは、地球を球体だと考えているので、この説明は少しおかしい。この辺りに関して分かりやすいものとして、村上陽一郎『宇宙像の変遷』(講談社学術文庫、1996年)がある。


6月16日

 秦剛平『新約聖書を美術で読む』(青土社、2007年)を読む。タイトル通りの本であり、絵画作品を中心に取り上げて、その描かれた方を通じて『新約聖書』を眺めていく。ただし、絵画作品に関しては解説が浅めであることが多く、そちらではあまり面白みがない。こう感じたのは、木村泰司『名画の言い分』や宮下規久朗『食べる西洋美術史』などを最近読んだばかりだからかもしれないが。
 それよりも本書が興味深かったのは、『新約聖書』に関する絵画は、実際に書かれている記述を考慮に入れていないことも珍しくなく、『新約聖書』そのものも、説明不能な出来事を強引に説明している事例も少なくない、ということを気づかせてくれたこと。宗教的な奇跡だから説明していないこともある、といったレベルの話ではない。合理的であるかのように説明しようとしている箇所においても、論理がものすごく適当な場合もある、ということ。たとえば、イエスに洗礼を行ったヨハネは斬首されたが、その首はガリラヤの領主であるヘロデが開いた宴会へともたらされた。この宴会でのサロメの希望で斬首が決まったのは、有名なエピソードである。だが、ヨセフスによれば、ヨハネはガリラヤから160キロほど離れたマカイルースに投獄されていたらしく、その首を宴会中に持ってくることは物理的に不可能である。また、「マタイ福音書」第1節では、預言者イザヤによってマリアが産む子は「インマヌエル」と予告されていたにもかかわらず、その第3節ではヨセフがイエスと名付けている。キリスト教の絵画は様々な約束事に縛られていることが多いようだが、そもそもの『新約聖書』の方にはかなりのつじつま合わせも多いようだ。
 以下、個別の事例に関して。マリアに教育を施す母アンナを描いた作品は幾つもあるが、その多くはマリアを普通の少女として描いている。聖書外典の「ヤコブ原福音書」によれば、マリアは3歳の時に神殿に預けられるので、こうした描写は明らかにおかしい。さらにいえば、そもそもユダヤ人には、それまでの歴史において、女性を神殿に奉納する事例はない。したがって、このエピソードは貴重な例外なのか、それとも「ヤコブ原福音書」の著者が無知であったかのどちらかになる(77〜78頁)。同じく「ヤコブ原福音書」には、12歳になったマリアは、婿を選ぶことになったが、主の使いは男やもめに杖を持ってこさせて、しるしが示された人間の妻になるように告げた、とある。これは、『旧約聖書』「民数記」の第17章第17節以下にある、アロンの名前を刻んだレビ族の杖だけがその先から芽を吹き、アーモンドの実を結んだという「アロンの杖」のアイデアを借用している(83頁)。
 19世紀末のオリエントで発見された粘土板により、『旧約聖書』の物語の種本がオリエント世界にあることが判明し、さらにヘレニズム時代の密議宗教の影響があることも判明した。しかし、実はそもそもこうした研究はプロテスタントによってイエスの生涯を明らかにするためになされたものであり、キリスト教がいかなる宗教の影響も受けていない純粋なものと信じていたのに、それをひっくり返す結果となってしまった(107〜108ページ)。とはいえ、そもそもユダヤ教がいつも一枚岩であったわけではない。それを踏まえて考えてみれば、イエスの活動したガリラヤは、温暖で作物が取れてよい漁場もあるので、ヘレニズムからの影響受けていたとしても不思議ではない(117〜119頁)。
 ユダヤでは、前66年に反ローマ派の司祭が反旗を翻し手ローマに犠牲を捧げないと宣言すると、一般の人々もローマへと密議を治めるのを拒否してしまう。イエスの「カイザルのものはカイザルに」という言葉は、この文脈がイエス時代に移され、イエスを罠にかけようとしたものの言葉とされたとの推測が可能かもしれない。そしてイエスの言葉によって、キリスト教はローマへの納税を拒否しない、帝国にとって危険な宗教ではないことを印象づけることに成功した(129〜130頁)。
 『新約聖書』のピラトは、イエスの処刑に際して「この人の血について、私には責任がない。お前たちの責任だ」といっているが、これは『旧約聖書』「スザンナ物語」の中でユダヤ人の若者が告発している台詞に類似しており、ユダヤ的であると言える。さらに、ユダヤ人が「その血の責任は我々とその子孫にある」と言ったと福音書記者たちは書いたために、ユダヤ人に対する責任を問い差別を行う後世の根拠となってしまった(178〜180頁)。
 ユダヤ教徒は、イエスがメシアを僭称したことを批判して、それゆえに死罪に値すると述べる。ただし、紀元後1世紀のパレスチナにはイエス以外にもそのような人物は何人も出ており、さらに2世紀にも「星の子」を称する人物がメシアとして現れ、ローマへの反乱を導いている。また、17世紀にはイスタンブールに、20世紀後半にはニューヨークにも現れている(212〜213頁)。
 イエスの復活の場面では、見張りの人物が居眠りをしている。これはおそらく、見張りを眠らせることで、イエスの復活の記述のディーテールを省略することができるからであろう(216頁)。このことが、絵画作品だとさらに不自然に見えるのは面白い。
 前2世紀のシリア王であるアンティオコス4世は、エルサレムを2度にわたって略奪したのだが、実はその即位時におそらく大祭司をも含むユダヤ人は彼と手を結んでいた。しかも、ギリシア文化を導入し、ユダヤの慣習を捨てる者もあったという。「マカバイ記下」によれば、「祭司たちももはや祭壇での務めに心を向けなくなり、神殿を疎んじ、生贄を無視し、円盤が投げられている競技の開始が告げられると、格闘競技場で行われる律法に背く儀式にはせ参じる始末」だったという(314〜315頁)。その後、前1世紀後半にユダヤ王となったヘロデは、田舎の部族出身であったという出自を紛らすために、次々と大型の建築を行ったと考えられる。こうした建築には、エジプトのピラミッドと同じく公共事業の側面があったと考えられる(333頁)。
 なお著者は、Web Gallery of Artの利用を勧めている。確かに、このサイトはもの凄く便利と思うのだが、著者が面白いのは、その際の言い回しだったりする。ヨハネやサロメを検索にかければ、前者は460点、後者は52点も自宅で閲覧でき、「しかも鼻毛でも抜きながら鑑賞できるのです」(15頁)とある。どうやら、かなりネタ好きらしい。
 実はまず最初に後書きをパラパラ眺めたのだが、そっちはもっと下品である。ラヴェンナの聖堂に描かれた裸のイエスに、リアルに性器が描写されていたのを見て「もしもし亀よ、亀さんよ…」と小声で呟いたらしい。しかも、テレビ撮影のためにそこを訪れていたので解説をしなければならなかったが、「そのとき、イエスのナニを指して「オチンチン」と言うべきか、「ペニス」と言うべきか、それとも「キ○タ○」と言うべきかを一瞬にして判断しなければならなかった」(357頁)とある。この部分を読んで、これは私向きの本だ、と思ってこの本を読もうと決めたのであった。こういう態度は、神学者にはもの凄く嫌われるような気もするが、私はキリスト教徒でも何でもないので、一向に構わない。


6月21日

 井上夢人『オルファクトグラム』(講談社文庫、2005年(原著は2000年))上を読む。姉のところを訪れた片桐稔は、姉が全裸で縛られているのを目撃するも、犯人に殴られて気絶してしまう。目を覚ました稔は姉が殺害されたことを知り、自分自身も何か視覚がおかしいことに気づく。しかしそれは視覚のせいではなく、彼の嗅覚が異常発達したために起こった変化だった。その嗅覚を利用して、失踪したバンド仲間をも併せて追跡していくなかで、両者は結びつき、連続殺人犯の姿へと少しずつ迫っていく…。
 嗅覚が発達するという設定が面白いし、そのように発達したとしても、それを他人に言い表せる言語を持っていないというところも興味深い。稔の嗅覚は匂いとして感じられるのではなく、「アイボリーのような色をした太鼓型の結晶」といった風に(ちなみに、これは犯人の匂い)、何かを見ているような感じで知覚される。しかし、人間は嗅覚が退化しているために、嗅覚を表現する語彙があまりにも少ない。この小説は、こうした中で嗅覚が発展した人間が、どのようにコミュニケーションを取り、そして世界をどのように変わるのかということを疑似体験させてくれるところに、面白みがある。その反面、犯人やトリックといったところにはあまり面白みを感じない。確かに嗅覚を利用した捜査は新しい感覚で楽しめるのだが、それは捜査方法が面白いのであり、事件や犯人そのものには、特に捻った設定がある訳ではない。もし、その辺りまでさらに凝ったものになっていれば、推理小説としてさらにスリリングなものになっていたのではなかろうか。
 ところで、匂いを表す言葉がないというところで、ふと思い出したのが柳田國男『明治大正史世相編』(リンクはちくま文庫版)に記された色に関する記述。柳田によれば、日本は天然の色彩が豊かな割には、色の種類に乏しい国だったという。その理由として、民衆が目に見る色と、手で染めて身に装うことの出来たもの間に差があったからではないかと推測している(19頁、ちくま文庫版)。たとえ言語があろうとも、知覚できることと言葉で表しうることの間には、大きな隔たりがあるということなのだろうか。


6月26日

 ポール=ポースト(山形浩生訳)『戦争の経済学』(バジリコ、2007年)を読む。戦争は経済的に利益を生み出すのかについて、20世紀以後のアメリカを主たるサンプルとして、現代の戦争に関連するトピックを多面的に取り上げつつ考察していく。
 一般的に、戦争することは経済にプラスの影響を与えると考えられているが、開戦時の低経済成長、開戦時点での低いリソース利用度、戦時中の巨額の継続的な支出、戦争が長引かないこと、本土決戦ではないこと、資金調達がきちんとした戦争であることなどが必要とされる。第1・2次世界大戦や、朝鮮戦争はこれに当たる。しかし、ベトナム戦争以降の戦争は、これらの条件を満たしていない。また、戦争が終わると、そのために鋳造された貨幣が民間部門でも使われるようになり、インフレの原因となる。そもそも、理論的には軍事支出と民間の投資の間にはごく弱い負の相関関係しかないものの、軍拡競争は民間部門からリソースを奪うので、フロンティアの小さい経済にとっては有害になりやすい。なお徴兵制は、すべての兵士を志願兵で賄うよりも軍事支出を抑えられるが、軍人としての資質がなく他の職に就いた方が国や経済に役立つ人間をも無理に軍隊へ入れてしまうため、同額での軍の有効性は低くなる(なお、この辺りは、P・W・シンガー『戦争請負会社』が詳しい)。
 本書を読めば、戦争をすることでアメリカは自国の経済を潤しているという推測には、少なくとも20世紀後半に入れば、あまり根拠がないことが分かる。ただし、小尾敏夫『ロビイスト』を読む限り、軍需産業と結びついた政治家や官僚は儲かっているのかもしれないが。そして、戦争の実行が経済的にプラスにならないと分かっていても、そうした合理的な判断を超えた感情によって、戦争は実行されてしまうのかもしれない。たとえば、このことを裏付けているように見えるのが、テロリストの出自に関するデータ。パレスチナの自爆テロリストのうち、高卒より高い教育を受けていたのは57%を占めており、しかもそうした高学歴層はパレスチナ全体で13%しかいない。テロリストの出現条件は、所得よりもむしろ市民権の低さに依拠しているらしい(313〜314頁)。ロジェ=カイヨワ『戦争論』を読んだとき、あまり高く評価しなかったのだが、合理的な判断を超えたところに戦争の要因を見るという視点は、思っていたよりも重要な気がする。
 なお、各章の最後には、復習問題がついており、これを経済学の教科書として使うことも可能だ。というよりも、それを見越しているのかもしれない。田中秀臣『経済論戦の読み方』の項でも書いたように、私は経済学にものすごく疎く、さほど関心もないため、それらの問題がどの程度の難易度なのかよく分からないのだが。なお、デザインに関して1つだけ注文をつけると、図表に付いているキャプションのフォントを、もう少し大きくした方がいいのでは。出典は小さくしないと収まりきらないだろうが、キャプションは大きめにしても特に何の問題もないと思うので。
 以下、メモ的に。アメリカの基地閉鎖によって地域コミュニティに引き起こされた経済へのダメージは、それほど甚大なものではなく、2000年のデータに基づけば、影響を受けた地域のう69%の失業率は全米平均以下だった。これは、基地が近隣コミュニティとは経済的に隔離されている、地域社会は政府支援を通じた再開発により雇用を作れる、基地閉鎖の時点で経済的に健全な状態が多い、などの要因が挙げられる(127〜131頁)。
 殺傷力が高く、信頼性もあり、価格も武器としては安いAK-47の値段は、需要があるとき、つまり戦争状態にあるときには上昇する。たとえば、アメリカでは中古で200〜400ドルだが、闇価格が1000ドル以上に跳ね上がったら、紛争間近、または拡大の警告と見ていい(277〜278頁)。
 イスラムの金融システムでは、過去から現在に至るまで「ハワラ」と呼ばれる制度が用いられている。まず、送金したい顧客はハワラ仲介業者に、場所・時間・金額を告げる。業者は少額の手数料と共に金額を受け取り、顧客に合い言葉を告げる。そして、業者は相手の業者に、顧客は送金相手にその合い言葉をお互いに告げ、送金相手は業者に合い言葉を言ってその金額を受け取る。場合によっては業者間で、送金が行われる。この仕組みは、コミュニティの信頼関係に基づくもので、信用できないと見なされれば、取引できなくなる。これにより、送金の証拠が残りにくいやりとりができる(330〜333頁)。このシステムについては、恥ずかしながら全く知らなかったのだが、欧米先進諸国がイスラム圏の金融の動向をつかみにくい要因になっているのだろう。
 北朝鮮はプルトニウムを闇市場に流して利益を得ようとするかもしれないが、プルトニウムはそれほど出回っていないために、市場価格そのものが下がってしまう可能性が高い。そのため、核兵器そのものを闇市場に流し、新しい市場を創出するかもしれない(382頁)。
 ちなみに、ローマの軍隊についてのコラムに関して(170〜171頁)、本書の議論とは全く関係しない、ものすごく細かい突っ込みを。ローマ共和政の歴史が、「前500年から前24年」となっているが、「前6世紀末」と曖昧に書くのではなく具体的な年代まで書くのならば、「前500年」ではなく「前509年」とすべきだろう。初代ローマ皇帝の名前がカエサル・「アウグストス」となっているのは、「アウグストゥス」の間違い。なお、これは単なる誤字か意図的なのか分からないが、後者であった場合を考えて補足を。
 「-us」で終わっている人物を「−オス」と読むのは、ギリシア人の場合だけである。そもそもギリシア語には、複母音か長母音にならない限り、「ウ」の母音はなく、「u」単独だと「ユ」の音になるので、「-us」という語尾で「−ウス」と読む人名は、「u」の前に母音がつかない限りあり得ず(たとえば「ペルセウス」)、ほとんどの場合もともとは「-os」である。そして、はっきりとした理由は分からないのだが、ギリシア語だと「-os」で終わる人名をラテン語で記す際に、そのままではラテン語の語尾変化にうまく対応しいためか(ギリシア語・ラテン語は人名も語尾変化する)、「-us」へと直してしまうことが生じていたらしい。当然ながら、ラテン語の人名には、こうした原則は当てはまらず、「-us」で語尾が終わっている人名は「−ウス」と読むことになる。よってローマ人であるAugustusは「アウグストゥス」もしくは「アウグスツス」と読み、「アウグストス」とは読まない。
 あと、ローマ共和政では、兵役は志願制だったとあるが、これは微妙。兵士として戦うことが市民としての権利を得ることにつながっていたのだが、これは志願制とは少しニュアンスが異なると思う。それと、兵士がローマという国ではなく将軍個人に忠誠を誓うようになった結果、「ローマは133BCから内戦状態にむしばまれた」とあるが、前133年はTi.グラックスの改革に端を発する騒乱が起こった年に過ぎず、彼は護民官であり軍隊を率いたわけではないので、将軍個人に忠誠を誓うことと結びつかないのでは?


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