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2007年9月の見聞録



9月3日

 金城一紀『GO』(講談社文庫、2003年(原著は2000年))を読む。在日韓国人である高校生の「僕」こと杉原と、女子高校生・桜井の恋愛と在日韓国人への差別が物語の軸となっている。前者に関しても後者に関しても、ポップなという形容詞が正しいのかどうか分からないが、かなりテンポ良く進む。特に後者については、たとえ無視してはならない歴史的事実を題材にしていたとしても、妙に情念の強い文体で語られると、ストーリーに入り込むことは難しいのだが、本書ではそのようなことがないため、彼の目を通した在日韓国人・朝鮮人の状況を、必要以上に深くとらわれすぎずに物語の背景として受け入れることができる。ちなみに、彼の家族は朝鮮籍から韓国籍へと変えたため、その際の軋轢がどのようなものだったのかという、部外者はなかなか知ることができない状況も、たとえフィクションであるとしても、垣間見ることができる。
 ただ、前半部分の流れは面白く読めたのだけれど、後半に台詞が妙に説明臭くて長くなりすぎる箇所があり、そこが引っかかって、その部分で醒めてしまった。これに関しては個人の趣味の範疇にすぎないのだけれど、実はそれよりも疑問を感じた箇所がある。それは、彼の知性の高さに対する設定と民族意識との関連性。杉原はたくさんの本を読んでいるという設定で、スティーヴン=J=グールド『人間の測りまちがい 差別の科学史』(河出書房新社、1989年(リンクは増補改訂版))を読み、頭蓋骨が小さい人種は知能が低いというデータを、人種差別に使ったという逸話を友達へ紹介している(80頁。なお、彼は言及していないが、この結果には改竄されたデータも含まれており、はじめから差別ありきの調査であった)。その一方で、単一民族神話について関係図書を読みあさると、「差別、同化、万世一系、皇民化…」といったタームが次から次へと出てきて、その酷さにキレてしまうというシーンがある(98〜99頁)。ここでは省略するが、そうしたタームが7行にわたってずらずらと書きつづられている。そして、「韓国人や中国人の血が入ると日本人の血が汚れる」という言い分に対して、杉原は「日本人には彼等の血も流れている」という主張で反論する場面が、物語のクライマックスとも言える桜井との語り合いの箇所で出てくる。
 しかし、小熊英二『単一民族神話の起源 「日本人」の自画像の系譜』(新曜社、1995年)で詳細に論じられているように、日本の東南アジアへの進出と侵略を正当化する論理として、日本は他民族の血を引いているのだから、諸民族を支配することは間違っていない、というテーゼが用いられた。つまり、純血意識や単一民族意識を打破して、国際化を遂げて多民族国家になれば平和を維持できるという考えは、誤解であるどころか危険ですらある。もし杉原が、オヤジ譲りのボクシングだけが売りの粗暴な人間という設定であれば、杉原が誤解していてもよかろう。しかし、彼はグールドを読みこなせる人間であれば、小熊英二を読みこなせて不思議ではない。ただし、彼は後者を読んでいなかったという設定も可能である。私自身、もし杉原が小熊の本を読んでいれば、こんな主張は危険だと気づけたのになあ、と思いつつ読み進めていた。ところが巻末の参考文献には、グールドの本と一緒に小熊の本も挙げてあった。そこで、「あれっ?」と思ったわけである。
 読み直してみると、グールドの名前と書名は本文中に挙がっているのに、小熊の名前と書名はまったく挙がっておらず、単に『単一民族神話』とだけ挙がっている。ちなみに、二重カギカッコは原文のままである。学術的な出典表記のルールに従って表記しているならば、著者はこれが本だと意識してこうした表記を用いたと考えられる。何が言いたいのかというと、著者は杉原の主張というひとつの大切な軸をいじりたくないために、小熊の名前と書名をわざと書かなかったのではないか、ということだ。これは、あまりに穿ちすぎた疑念なのかもしれない。だがしかし、杉原が『単一民族神話の起源』を踏まえた上で、自分自身の主張をも問い直す過程が挿入されていれば、この本はさらに深い内容を伴ったのではないか、との思いを禁じ得ない。


9月6日

 伊藤剛『テヅカ・イズ・デッド ひらかれたマンガ表現論へ』(NTT出版、2005年)を読む。1990年代以降に目立ち始める、「マンガはつまらなくなった」「ヒット作が生まれていない」といった言説の背後には、たとえば『少年ガンガン』系のマンガを薄っぺらいと言って単純に切り捨てる態度に見られるように、変化しつつあるマンガの状況についていけていない問題がある。いわゆる「ガンガン系」マンガは、ゲーム文化を出自としているため従来のマンガと差異はあって当然だし、たとえ未成熟だとしても、かつての少年マンガの成長期を反復していると捉えることも可能であろう。こうした状況の原因として考えられるのは、マンガを読む者としての共同性に基づいた評論が隆盛したために、自分たちの経験からはみ出すものを語ることができなくなったことが挙げられる。
 東浩紀『動物化するポストモダン』で提示されたように、現在は「大きな物語」から「小さな物語によるデータベース化」へと転換している。これを踏まえてさらに論を進めれば、マンガのモデルも変化しつつあると言える。それは「キャラ」「コマ構造」「言葉」の要素へと収斂されるモデルである。「キャラ」は「キャラクター」と異なる。「キャラ」とは、虚構的な表現であるマンガにおいて、比較的簡単な線画で描かれた虚構としての図像に固有名が与えられることで存在感を感じさせるものであり、「キャラクター」は「キャラ」の存在感を基盤として、人格を持つ存在と想像させるものである。違ったコマに描かれたキャラも、同じ存在と認識されることで同一性を持つと同時に、その違いから時間的な連続性を示すことができる。この点において、「キャラ」は「コマ構造」や「言葉」と並ぶ要素と見なしうるし、それゆえにテクスト全体の時間から遊離する自立性も兼ね備えている。だが一方で、この「キャラ」を読みとることができず、「キャラクター」としてしか理解できない読者もいる。これが先に挙げた「共同性に基づいた評論を行う者」とも重なる。
 さらに何よりも問題なのは、実はこの「キャラ」という要素が、手塚治虫を起源とするマンガ史において、リアリズムを持つべきと見なされた「キャラクター」によって隠蔽されてしまったことである。これは『新宝島』の「映画的」な表現を、革命的な転換点と見なす史観と軌を一にする。しかし、手塚が用いていた表現技法はすでに戦中から用いられていることが、近年の研究で明らかになっている。これは、戦争による規制によって新たな表現方法の模索もおさえられたマンガ家に対して、統制下でも以前のスタイルを継承しつつスタイルを進めていた手塚のマンガが、戦前の動向を知らない読者に革命的なインパクトを与えたことと、これを映画の同一化技法になぞらえて語ったことに由来する。それでは、漫画と映画との表現技法の間に差異はないのかといえば、そうではない。映画と異なるマンガの表現技法は、「フレームの不確定性」である。マンガは複数のコマを組み合わせることで1つの紙面を構成するが、コマと紙面のどちらをフレームとするのかが不確定で、常に揺らいでいる。この不確定性の間で表現されるものは、映画とは異なった漫画的な表現と言える。
 こうして発展してきたマンガ表現を、手塚治虫自身も外部から取り込んでいくのだが、それはとりもなおさずしてマンガ表現を手塚一人のものに帰する態度へとつながっていく。こうして、手塚死後のマンガは面白くないという言説も形成されることになる。こうした構造から抜け出る視点として、先に挙げた「キャラ」の特性が上げられる。そして手塚は、「キャラ」とは内面を伴う現実の身体の表象という結びつきがあるという信念の元に、「キャラ」と「キャラクター」の分離を隠蔽していた。これが露わになったのが、手塚以後のマンガといえ、これに対する評論によって「手塚治虫の時代」を超えたマンガ評論が可能になるとする。
 正直言って、最後の部分はこれでまとめ方があっているかどうか分からない。しかし、手塚治虫というマンガの「神様」に閉じこめられたマンガとマンガ評論を、乗り越えようとする強い意志は窺えるし、「キャラ」と「フレームの不確定性」というマンガの特徴に関しては、学ぶところも多かった。マンガがその表現において独自性を持っていることを否定する者もいるが、「映画的」や「文学的」になることで大人の文化となったと見なして、マンガを結局のところ低い文化と見なしている者も少なくない。そういった単純な見方へ反論するための、最新版の研究であろう。
 なお、手塚治虫へとすべてが集約される、という箇所において、小田切博『戦争はいかに「マンガ」を変えるか』で指摘されている、翼賛的なマンガを描いた戦中世代を抱え込んだ手塚治虫を思い起こした。確かに手塚治虫は、事後に神格化されている部分もあろう。それと同時に、たとえ無意識であったとしても、彼自身がすべてを自分に集約させる神としての意志を兼ね備えていたのかもしれない。


9月12日

 歌野晶午『世界の終わり、あるいは始まり』(角川文庫、2006(原著は2002年))を読む。東京近郊で児童の連続誘拐殺人事件が起こる。誘拐された児童は、すべて現金の受け取り前に銃殺されるという残忍な手口だった。そうしたなか、富樫修は小6の息子である雄介の部屋から、見知らぬ人物の名刺を発見する。すると今度は、その人物の子供が誘拐され殺害される。息子に疑いを持ち始めた修は、息子を調べるうちに、次々と息子の関与を示す証拠を発見していく…。
 解説の笠井潔が言うように、貴志祐介『青の炎』・天童荒太『永遠の仔』と同じく少年犯罪を描いているが、内面の人間性やその葛藤を前面に出したこれらの作品とは異なり、本書では精神的な荒廃がごく当たり前のものとして描かれている。現在では、内面の人間性を感動的に描くことに、読者はリアリティを見いだせなくなっている、とまで言う気は私にはないが、確かに現代の親子間のコミニュケーションの断絶がより重要なモチーフとなっているのは疑いない。実際に、後半部分はパラレルワールド的な展開を遂げるが、いずれにおいても理解不能なものとして雄介を捉える羽目になり、希望のない終わり方を遂げるので。


9月15日

 橋元淳一郎『時間はどこで生まれるのか』(集英社新書、2006年)を読む。現代物理学の成果を踏まえながら、時間とは一体どのような存在なのかという哲学的な命題を解明しようとする。前半部分は、相対論と量子論に基づく物理学的時間の説明であり、原子1個というミクロな存在の世界では、時間そのものが実在ではなく、原子の大集団であるマクロな世界の時間概念をミクロ系に押しつけることでその計測が可能となる、とする。正直言って、このあたりの理屈はあまり理解できていない。ただし、この後の説明は、一応は理解できた。生命活動は、時間が経つごとに増大するエントロピーを防ぐべく、秩序を維持しようとする。もし、エントロピーが勝手に減少して秩序が維持されるような世界であれば、エントロピーが増大することを時間の経過とは見なさないだろう。すなわち、エントロピー増大という外圧への抵抗が、生命活動の意志へとつながり、それによって時間の経過が意識されて創造されることになる、と主張している。これに関する論証過程はものすごく分かりやすいのに、スリリングな知的興奮に満ちている。前半部分で「ふーん」となってしまい、読み進めるのが億劫になってしまうかもしれないが、そこであきらめずに読み進めると面白い、と言えよう。まあ、私は物理学が苦手なので、最初からすっと読み進めることのできる人の方が多いのかもしれないが。


9月18日

 篠田節子『聖域』(講談社文庫、1997年(原著は1994年))を読む。冴えない文芸編集者である実藤は、やめた編集者の荷物を整理していて『聖域』という未完の原稿を見つける。平安初期の東方を舞台とした真言宗の仏僧の苦悩の物語は、得体の知れない魅力を放っていた。その原稿を完成させるべく、実藤は水名川泉なる作者を捜して『聖域』の舞台である東北へ辿り着く…。
 現在世界での水名川自身の宗教活動と、小説中における平安時代の仏僧の布教活動とをリンクさせる形で、人間の持つ業を描いた作品とでも言えようか。何とも言えない情念の濁りとでも形容されるような毒気を放つ作品で、そういうのが好きな人にはお勧めできる。


9月21日

 小尾敏夫『ロビイスト アメリカ政治を動かすもの』(講談社現代新書、1991年)を読む。浅羽通明『天皇・反戦・日本』に紹介されていて興味を覚えたので、読んでみた。ロビイストが様々な団体から受けた献金をもとに政界への働きかけを行う点で、アメリカの政治はロビイストを通じて政府への回路が広く開かれている実態を明らかにする。アメリカの議会では、内部に約40ほどの委員会が分野ごとに組織されており、法案はこれらの委員会を通じて上程され、成立までには下院と上院を通じて幾つもの過程を経なければならない。そして、法案は1会期2年の間に1万から2万も上程されるため、それらを運営するスタッフも1990年ごろには、1万9千人ほどに上っている(なお、アメリカの公務員数については、中野雅至『はめられた公務員』も簡単に触れている)。こうして作業が複雑化したために、事情に通じたロビイストが介入する機会を与えることになる。
 アメリカがいかに金権政治に基づいて運営されているのかが、本書を読めばよく分かる。なお、著者も明確に述べているように、ロビー活動は日本の「根回し」に他ならない。また、日本でおなじみの政治資金集めのパーティも、ロビイストが協力する形で開かれており、上院議員で1枚500〜1000ドル、下院議員で300〜500ドル程度である。日本が金権政治というならば、アメリカも金権政治と言えよう。本書では、拳銃規制反対派、軍需産業などによるロビー活動とその様相を紹介しているが、興味深い具体例をメモ的に挙げてみる。
 ガソリンスタンドを経営していたカーター大統領の弟は、石油輸入促進のためのロビイストとしてリビア政府に雇われて、22万ドルを受け取っていた(9〜10頁)。ペンタゴンと軍需産業には人事交流があり、民間から政府要職に天上がり、再び民間へと天下るシステムが確立されている(54頁)。著者が紹介しているように、防衛産業の最大手たる三菱重工の社長が防衛庁長官になるようなもので、日本ではまずあり得ないだろう。ロビイングという言葉がはじめて登場したのは1808年の第10期議会とされ、利益圧力団体の代表者たちが本会議場の隣にあるロビーで議員をつかまえようと待ちかまえていた状況から生まれた造語であった(83〜84頁)。1989年、ブッシュ政権はエイズ対策研究費を削減しようとしたところ、エイズ・ロビーは国立衛生保険研究所で抗議デモを行い、それをマスコミに流すというロビー活動に出たことがある(107頁)。議員は自分の選挙区への利益誘導を行う必要があるが、日本のラジカセを叩き壊すパフォーマンスをしたミズーリ州の議員も、日本への批判と言うよりは、電機産業が多い自州の選挙民へむけたアピールだった可能性がある(159頁)。
 ところで浅羽通明は、本書を読んでアメリカ=ローマ帝国という発想へと至ったと述べる。ロビイストを通じて、冷戦下のソ連のような国でさえ、外国からアメリカの政治へと介入できるアメリカは、主権国家というよりも、不完全ながらも世界帝国とみなせる、とするのである(浅羽通明「帝国への逆襲 アメリカの戦争と日本の態度」『天皇・反戦・日本』、254〜255頁)。1936年にはナチス・ドイツに代表される外国人ロビーの寄生も行われているが、それによって完全に排除できたわけではないことは、上述したカーター大統領の弟の例から明らかであろう。最も強力なロビーはイスラエルであり、アメリカのODAの半分をイスラエルが取得しているのも、そのおかげだそうだ(189頁)。とはいえ、それに対抗するサウジロビーも活発な活動を行っているらしい。東芝も、有名なCOCOM違反事件の際にはロビー活動を行い、制裁案を骨抜きにしたそうである。なお、司法省に届けている外国代理人数で言えば、日本は4半世紀の間ずっと首位であった(214頁)。このような事実からすれば、確かに浅羽の言うことにも一理ある。実際に、新保良明『ローマ帝国愚帝列伝』で指摘されているように、ローマ帝国の正体は地中海における小さな政府であり、各地の地方名望家がローマの威光を借りつつ実地レベルでの支配を行っていたからだ。ローマ帝国は、3世紀の地中海における経済的危機により揺らぐ結果になったという。果たしてアメリカにも同じようなことが起こるのだろうか。ただし、南川高志『ローマ五賢帝 「輝ける世紀」の虚像と実像』(講談社現代新書、1998年)によれば、ローマ帝国のエリートである元老院議員には、2世紀に入る頃にはギリシアやスペイン出身の人間が増えていったという。同じようなことが現在のアメリカに起こる可能性は極めて低い気はするのだが。
 なお、本書の末尾には日本がこれからとるべき道について述べられており、その中に極めて示唆的な一文があるので最後に挙げておく。「『アメリカの主張』といっても、一部のグループの主張だったり、日本やイスラエルの主張であったりする。読者は、対日強硬法案が出たからといって日本のマスコミの報道をう呑みにすることは避け、ワシントンで起きたニュースを複眼的視点でとらえるべきだろう。そのためには、米議会への上程法案は単なる出発点にすぎず、その九割は成立しないことを理解して欲しい。仮に成立したとしても、委員会レベルでロビイストたちによって修正・圧力が掛けられるので、最終的には原案とかけ離れた内容に変化していく、と予想した上で関心を持って頂きたい」(234頁)。


9月24日

 恒川光太郎『夜市』(角川書店、2005年)を読む。表題作と「風の古道」という2つの短編が収録されている。
 大学生のいずみは高校時代の同級生の祐司に誘われて、夜に開かれるという市場へと向かう。そこで売られている品は奇妙なものばかりで、いずみは帰ろうとするも何かを買わないと帰られないと、祐司は告げる。実は祐司は子供の頃に「売ってしまった」自分の弟を買い戻して連れ戻すために、いずみを連れてきたのだった…。
 もう一本の「風の古道」は、普通の人に見ることもできない異世界のような道へと入ってしまった小学生たちが、その中で旅する青年と出会って…という物語。表題作は、第12回ホラー大賞を受賞したとのことだが、個人的にはあまりピンと来なかった。面白くないわけではないのだが、どうも回想が長い作品はあまり好きではないので、あくまでも趣味の問題。幻想的な雰囲気はよく書けていると思うし、決してストーリー展開やオチがまずいわけではないので、趣味があえば結構いいのでは、といったところ。なお、誰でも気づくと思うが、「夜市」の冒頭部分で石を売っている商人が出てくるのは、つげ義春へのオマージュだろう。
 ところで、「夜市」の主人公は、好きな女の子を振り向かせたいために、かつて野球の能力を買ったのだが、やがてバスケ漫画がはやって、流行はバスケットになった、とある。これは当然のことながら井上雄彦『スラムダンク』(ジャンプC)を指していると思うが、確かに当時はバスケ部に入る学生が増えただろうけど、野球の地位を脅かすほどではなかったような気もするのだが。


9月27日

 浅羽通明『ナショナリズム』(ちくま新書、2004年)を読む。10のテクストに基づき、近代日本のナショナリズムを読み解く。ちなみにテクストを挙げておくと、石光真清『城下の人』四部作、橋川文三『ナショナリズム』、金田一春彦ほか『日本の唱歌』、志賀重昂『日本風景論』、三宅雪嶺・芳賀矢一『日本人論』、小熊英二『<民主>と愛国』、本宮ひろ志『男一匹ガキ大将』、司馬遼太郎『坂の上の雲』、村上泰亮『文明としてのイエ社会』、小沢一郎『日本改造計画』。あくまでも非専門家も読むテクストから思想を読み解く姿勢は、以前から変わらないと言える。
 本書の鍵となっていると感じたのは、司馬遼太郎『坂の上の雲』と本宮ひろ志『男一匹ガキ大将』を取り上げた章である。というのは、これらが現代日本のナショナリズムの問題点を最も強く焙り出しているかのように見えるからだ。司馬遼太郎『坂の上の雲』から読み解いた「近代というプロジェクトX−歴史のナショナリズム」は、同作にナショナリズムの戦後版カスタマイズを見る。戦前の体制を否定して、日本人の自責意識へ訴えた左翼のナショナリズムは、高度成長のなかでリアリティを欠くことになる。そうしたなかで登場した『坂の上の雲』は、日露戦争という民族譚から、天皇と陸海軍への讃歌を除いて、当時の日本人の自尊心を満足させるナショナリズムを語ったものとなっていた。本作では、特定の著名人を取り上げるというよりも、共同体に集う様々な有能な人物にスポットが当てられている。当時のサラリーマンや技術者は、後に戦後の高度成長を支えたことを讃えられて「プロジェクトX」に登場するが、『坂の上の雲』の作中人物は、戦前の近代日本の形成を担った者たちとして描かれている点で、戦前版の「プロジェクトX」と言える。だからこそ、戦後の進歩的な思想に飽き足らなかった産業人や財界人にも広く受け入れられた。
 一方、日露戦争以後の日本が精神主義へと対抗していくが、『坂の上の雲』は戦後の日本が日露戦争までの能力主義を取り戻したと意識しうる作品でもある。しかし、そうした司馬の意図とは異なり、日露戦争期の軍隊でも精神主義や規律主義がなければ兵士を鍛え上げることは不可能であり、日本企業では戦後も愛社精神に基づいた団結こそが、その発展を支える土台となっていたのである。
 本宮ひろ志『男一匹ガキ大将』を扱った「少年よ、国家を抱け−男気のナショナリズム」では、近代から同時代へ至る日本のナショナリズムの特質の写し絵を本作に見出す。ナショナリズムを読み解いた1971年から1973年に連載された本作は、ガキ大将の万吉が腕っ節と度胸と人情で次々とライバルを倒して仲間を増やしていくというストーリーだが、それまでの敵が味方になり、新たな敵がインフレ的にパワーアップしていくジャンプ方式の元祖とも言える展開となる。現在出ている文庫版は、富士の裾野において、全国の番長グループと対決するシーンで終わる。たった4人で立ち向かった万吉たちを待っていたのは1万2千人の不良であったが、彼らは10万の学生の大群にさらに包囲されていた。万吉の参謀とも言えるドクター佐々木が、番長グループという「悪」へ立ち向かう「善」の学生たちを人民軍のごとくオルグしてきたのであった。
 しかしこの先には、本宮自身が後に否定するストーリーがさらに続く。日本の財閥を継いだ万吉は、日本財界乗っ取りをたくらむアメリカの大財閥と対決する。しかし勝利後、いつもの展開と違いアメリカの大財閥は万吉の傘下には入らない。さらにその先には、財閥のかつての総帥の隠し子が、財閥を乗っ取って北海道へ移転させてその独立を計るという展開になる。万吉のやり方は、日本のナショナリズムに欠けているものを反映している。つまり、正々堂々と戦った者は仲間にするというコミュニケーションは、浪花節が通じない異文化圏の人間とは相容れない。加えて、敵からの攻撃や侵略をきっかけとして勃興したナショナリズムは、あくまでも防衛的で受け身なものであった。ここに富国強兵や日露戦争での勝利を皆の共同で成し遂げた、日本の対外的戦友共同体としてのナショナリズムを見ることができる。しかし、当時の日本は経済的繁栄を遂げており、財閥の隠し子が試みた民主革命によるナショナリズムはもはや必要とされない時代となっていた。
 この2つの章は、確かに現代日本のナショナリズムの問題点を指摘しているかのように見える。しかし、以下の文章を見ると、それだけではないことが分かる。「論壇人の言説は、ナショナリズムの欠乏を憂えるいわゆる右からの檄と、ナショナリズムの過剰に脅えるいわゆる左からの警告ばかりだからだ。こうした状況の背後には、収斂型ナショナリズム=エゴイズムでしかない日本を恥じて、日本はもっと立派なはずだと思いたい切ない心理がおそらくある」(285〜286頁)。収斂型ナショナリズムとは、普遍的価値で破壊されかねない個別的な伝統に基づく結束を指す。これは、著者が一貫して主張し続けてきた、戦後日本の知識人たちが経済的な繁栄に何ら寄与できない自分を直視できず、実社会から乖離した理念や思想を語ることで自らを底上げしてきた、という批判と重なる部分がある
 このことは、以下の批評を透かしてみればよく分かる。「あまりに生硬で読みにくい『日本改造計画』の官僚的文体。あまりに調子がよく上滑りした石原慎太郎の政治エッセイの美文調。結局「与太話」と自ら認めざるをえない福田和也のクーデター構想。そしてあまりにロマンティックな『沈黙の艦隊』のストーリー。これらはいずれも生活者の日常からかなり浮き上がったところでしか、いわばSFとしてしか語りえない、日本ナショナリズムの現在を、知らずして物語ってはいないだろうか」(268頁)。『坂の上の雲』や『男一匹ガキ大将』が、たとえそこに自己を投影する自惚れ鏡であったとしても、等身大の物語をそこに見出すことができたが、現在ではそうではないといえよう。
 とはいえ、確かに現実から乖離した理念しか語れない知識人は批判されてしかるべきとは思うものの、ナショナリズムという思想に関しては、現在のところ日本ではその主たる役割を終えている気もする。それは、色々と問題はあるとはいえ、現在のところ諸外国からの驚異といえるほどの干渉はなく、内部も動乱や暴動が起きないほどには安定しているからだ。別に、ナショナリズムを批判して、脳天気なコスモポリタニズムを称揚したいわけではない。そうではなくて、現状を改善する言葉としては、ナショナリズムが今のところ最適ではなくなっている、という気がするのだ。何しろ、日本ということを強く意識しなくても生きていけるほど、世の中は便利になってしまった。もちろん、たとえば貿易の仕事などをやっていれば、道具としてナショナリズムの思想が必要となることもあるだろうから、完全にいらないわけではない。ただ、思想を道具として用いるならば他にもっと重要視すべきものがある、というだけだ。だからこそ、ナショナリズムだろうがその裏返しのコスモポリタニズムだろうが、単にそれを賛成したり批判したりするだけならば、いまの状況が見えずに偉そうなことを語っている自分に酔っているにすぎないように思える。
 以下、メモ的に。「戦友」という唱歌は、全12編の唱歌の一編であり、その最後の2つは「実業」と「村長」であった。つまり、戦場から帰ってきた後にも、実業に勤しんで国家繁栄に尽くし、最終的なゴールとして村長に就くという誉れがこの唱歌には想定されていた。「従軍のナショナリズムと実業のナショナリズム、さらには狭義の政治のナショナリズムとを一続きのものとして歌っていたのである」(82頁)。こうした唱歌による徳性の涵養は、アニメや特撮の主題歌へと受け継がれた。戦後には「国のため」はタブーとなり、昭和30年代には「正義」、40年代には「平和」「地球」、それ以降には主に「愛」が、ヒーローやヒロインの戦う目的として歌われるようになる(88頁)。ただし、これはリアリティを帯びていないお題目に留まっているのではないか、という指摘は鋭い。だからこそ、主題歌のタイアップがいいプロモーションになると分かれば、そちらに取って代わられていったと言えるので。
 浅羽が通っていた中学は、生徒の7割が進学しない学校だったが、その中にも少数派ながら活字派がいて、司馬遼太郎『龍馬がゆく』を愛読していた。一方で『花神』は、冒頭での村田蔵六のガリ勉ぶりの描写を見て読むのを止めたという。このエピソードから、『龍馬がゆく』の人気は、直感型天才である坂本龍馬への憧れと、そうした才が自分にもあるのではないかと夢想して慰撫できたところにあったのではないか、と推測している(167〜168頁)。


9月30日

 東野圭吾『超・殺人事件 推理作家の苦悩』(新潮文庫、2004年(原著は2001年))を読む。推理作家の事情をパロディ的に扱った短編8本が収録されている。同じ著者によるパロディものならば、『名探偵の掟』の方が面白いと個人的には思う。とはいえ、興味を引かれるものもあり、メモ的に上げていく。
 「超理系殺人事件」は、中学校の理科教師が偶然手に取った推理小説に科学関係の記述がやたらちりばめられていて、読み進めていくと犯人は似非理系テロリストなる人物という展開になり…というもの。何となく清水義範を思い起こさせる展開だ(…というよりも、本書は全体的に清水義範っぽい)。
 「超高齢化社会殺人事件」は、読書離れが進んで誰も小説家になりたがらなくなった結果、小説家の高齢化が進んでしまったという設定で、ぼけが進んでいる小説家・藪島のはちゃめちゃな小説を編集者の小谷が直していくというもの。ただし、小説界の人材の高齢化という点で最後に一捻りある。
 「超読書機会殺人事件」は、裏表紙の解説文に紹介されているだけあって、いちばん面白い。駄作にしか思えない推理小説を褒めなければならなくなった書評家・門馬のもとに、黄泉というセールスマンがやってきて「ショヒョックス」なる商品を提示する。それは、本を読み込ますことであらすじをまとめてくれるだけではなく、5段階でおべんちゃらから酷評までの設定を変えて書評を書いてくれる機械だった。しかし、門馬以外の書評家もこの機械を用いているため、まったく同じ書評ができあがるという事件が生じる。すると黄泉は、個々人の原稿を読み込ますことでそれぞれの個性を盛り込んだ文章を書き上げるオプションを売りにやってくる。こうして瞬く間に「ショヒョックス」が広がっていくと、黄泉は作家のところへ行き…というオチが待っている。
 この小説の最後に出てくる文章は、「超理系殺人事件」や「超高齢化社会殺人事件」のみならず、おそらくこの短編集に共通するテーマでもある。「本物の本好きなどいないのだ、というのが黄泉たちの考えだった。今の世の中、のんびりと本を読んでいられる余裕があるものなどいやしない。本を読んでいないということに罪悪感を覚える者、自分を少々知的に見せたい者などが、書店に足を運ぶにすぎない。彼等が求めているのは、本を読んだ、という実績なのだ。〔中略〕本という実態は消えつつあるのに、それを取り巻く幻影だけがにぎやかだ」(301頁)。これまでも何度か書いているように、本は読みたい人間が読めばいい、と私自身は考えている(たとえば、佐野眞一『だれが「本」を殺すのか』の項を参照)。ただ、R.エンゲルジング『文盲と読書の社会史』などが示しているように、本を読むことが娯楽であった時代はそれほど長いわけではなく、それ以前は知的な権威であっただろう。その意味で、「求めているのは、本を読んだ、という実績」というのは、時代を超えて変わらぬ特徴なのではなかろうか。ただもしかすると、本を読むことはもはや知的なアクセサリーにすらならない、と見なされつつあるような気もするが。


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