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2008年3月の見聞録



3月2日

 竹内オサム『マンガ表現学入門』(筑摩書房、2005年)を読む。マンガ表現を個々の要素に留まらぬ連続したものとして捉え、さらにそこに無意識に現れる表現を論じようとする。本書は、伊藤剛『テヅカ・イズ・デッド』で批判されていたのだが、やはり知見を得られるところは少なからずある。
 マンガは絵を中心としたメディアだから分かりやすいといわれているが、それは誤解である。マンガの物語は、コマの集積によって進展するが、コマはある瞬間の場面のみを描いているのだから情報は分断されており、読み手はそれを統合する想像力が必要とされる。逆に言えば、コマ同士の間の情報の省略が下手であれば、余計な情報を盛り込みすぎてしまうことになる(34〜36頁)。逆に、異なった時間に起こった出来事を1つのコマに詰め込むことや、物語の要となるコマとコマの間に捨てコマを置くことなどで、時間の進み方に緩急を付けることもできる(189〜191頁)。また、顔の向きをコマの流れと逆向き、つまり右開きの場合は右に向けさせることで、その人物の不安な心理や懐疑心を表現できる(54頁)。なお、きちんとした典拠は挙げられていないが、石ノ森章太郎は、読者から理解できないとクレームが来るため、飛躍したコマ割りが使えないと、1970年代後半に嘆いたことがあるらしいし(36頁)、著者も無意味な捨てコマが増えたとの疑問を呈している(191頁)。
 マンガに取り入れられた映画的手法である、読者と作中人物の目を重ね合わせる一人称の視点を、同一化技法と呼んで重視している。ただし、手塚治虫がそれを取り入れたというそれまでの主張に対して、それ以前の用例も見られるとの批判が具体例と共になされたたため、手塚とそれ以前との違いを述べている。簡単にまとめると、2つ以上のコマの組み合わせで1つの同一化を行う手法こそ手塚の独自性であるとしている。また、表現において重視されていたものも、戦前は心理<空間<動作であったのに対して、手塚は心理<空間<動作であったとする。ただし、このあたりも含めて『テヅカ・イズ・デッド』で批判されているわけだが。


3月5日

 加納朋子『沙羅は和子の名を呼ぶ』(集英社文庫、2002年(原著は1999年))を読む。短編集だが、印象に残ったのは、表題作。パラレルワールドを扱った作品で、学生時代の恋人と結婚していれば、人生は変わったのだろうかと想像していると、そうなった場合の世界の自分の娘がやってくる、というもの。気になったのは、話の筋そのものが特別に優れているからというわけではなく、主人公の境遇に考えるところがあったから。工場で操業の管理をしている主人公は、専務の娘と結婚したために、それなりの昇進を果たしている。しかし、自分の仕事に何の楽しみも見出していない。物語そのものは、別の世界の不幸をこちらの世界で処理するという形で、それなりのハッピーエンドで終わっており、家庭には平和が戻っている。だがこの主人公は、これからも仕事を楽しまずに暮らし続けねばならないのだろうか。


3月8日

 繁田信一『殴り合う貴族たち 平安朝裏源氏物語』(柏書房、2005年)を読む。藤原実資『小右記』に頻出する平安貴族たちの暴力沙汰を、ピックアップして解説していく。本書を読めば、『源氏物語』に描かれているような優雅な貴族などというものは、理想化された姿にすぎないことがよく分かる。貴族としての規範はあっても、個人の倫理はないかのような印象すら受けるほどの無軌道ぶりと言える。それは、この時代の貴族で最大の有名人である藤原道長ですら変わらない。試験官を拉致して官人採用試験の結果を改竄させようとしたり、自分の妻の外出の準備を手際よく行わなかったという理由で、その役職にある貴族を監禁したりしている。さらに、自分の邸宅の増築を行うために、平安京を破壊して大きな岩石を運ばせてもいる。なお、男性のみならず女性も同様で、三条天皇の内裏女房は皇太后・藤原彰子の従者(男性)に殴りかかったことがある。また、宮廷で刀を抜いた息子を無罪放免にするように喚き散らしたのは、後一条天皇の内裏女房であった。巻末にはこうした貴族による事件の年表(901〜1031年)もあるのだが、ここにあるだけでも60件以上なのだから、現在知られていない事件もまだまだあるだろう。
 これならば、「最近の若者は…」と罵られる現代の若者と変わらないのではなかろうか。いや、上流階級たる貴族の行いだけに、もっとたちが悪いかもしれない。ただ、本書には皇族や貴族が何人も出てくるのだけれども、専門外の人間にはどうも彼らの立場やお互いの関係が分かりにくい。加えて、当時の社会の慣習や事件の背景が、やや未整理のまま挿入されているので、どうも全体的な状況をつかみにくい。色々な事例を取り上げたいのはよく分かるのだが、もう少しすっきりさせることはできなかったのかな、とは思う。
 以下、いくつか具体例と補足的な情報を挙げていく。藤原道長の兄・道隆の孫である藤原経輔は、後一条天皇が相撲を観戦していた場で、とっくみあいの喧嘩をしたという。その時相手の髪をつかみ合ったらしいのだが、平安貴族にとって、結った髪は人前で見せるようなものではなかったので、現代人からすれば人前で下着を見せるようなものだったらしい。
 大学助という貴族の教育を担う役職についていた大江至考は、観峯という僧侶の娘を強姦しようとして、藤原道長の息子である能信の手を借りたのだが、そのとき能信の従者が観峯の弟子に刺し殺されてしまったという。さらに能信は、祭礼の行列を見物しに行ったとき、先に来ていた貴族の牛車から、乗っていた彼らを引きずり出してしまった。当時の貴族にとっては恥辱的な行為であるが、自分の足で走って逃げざるを得なかった。だが逆に、自分の兄弟である教通の従者を虐待した報復として、教通の従者によって家屋を破壊されたらしい。
 また、刀伊の入寇を撃退したのは太宰権師であった藤原隆家だが、彼は兄弟の伊周と共に道長暗殺を企てており、それ以前にも太宰権師へ左遷されたことがあったという。ところで、本書を読んで少し不思議に思ったのは、この暗殺計画をはじめとして、藤原家同士の抗争がかなりの数に及ぶこと。専門外の人間からすると、同じ親族同士として藤原氏全体が結束して政界を掌握した、というイメージが思い浮かぶ気がする。よくよく考えれば、身内同士の凄惨な争いは歴史上いくらでもあるので不思議ではないのだが、平安貴族の平和なイメージ、というのに騙されていたらしい。残念ながら、本書ではこのあたりについて特に言及されていないのだが。
 以下、予備的な知識に関して。当時の通貨は銭ではなく米であったらしく、1石=10斗=100升=1000合である(ただし、桝の大きさは現在の4分の1であるため、王朝時代の1石は現代の4斗)。庶民層の1日の稼ぎは当時の桝で1升か2升の米であった(92頁)。当時の検非違使は、捜査や逮捕の実行力として官人の身分を持たない「放免」を利用した。「放免」とは監獄から釈放された身分を指し、つまり検非違使は前科者を指揮して平安京の治安維持にあたっていた(109頁)。当時の貴族社会の礼儀として、たとえ大臣の地位にある者でも、他の大臣の居宅の門前を通ってはならない、というものがあった。ただし、ここでの「通る」は「牛車に乗ったまま」という意味なので、織りさえすれば通過することは可能であった(121頁)。ちなみに、これを守らなかった藤原家の者が、花山法皇の従者に取り囲まれて石を投げつけられて、従者は監禁されたという。
 なお、大江匡房『江談抄』によれば、かつて花山法皇は天皇即位の儀式が始まる前に、玉座で女官と性交に及んだという(117頁)。また、花山法皇は愛人がいたものの、彼女一人では満足できずにもう一人愛人をつくったのだが、それはその愛人の娘であった。しかも二人とも皇子を生んでしまったため、あまりの体裁の悪さに花山法皇の父である冷泉上皇の皇子として育てられることになった(132〜133頁)。平安時代の貴族には、「妻」と「妾」の間に決定的な差異は存在していなかった(211頁)。


3月11日

 西尾維新『きみとぼくの壊れた世界』(講談社ノベルス、2003年)を読む。高校生3年生の櫃内様刻は、妹である夜月に、家族を超えた愛情をお互いに抱いていた。それゆえに、妹にちょっかいを出す数沢に脅しを掛けたり、同級生の琴原りりすや迎槻箱彦らとぎくしゃくした関係にもなった。そして、りりすに告白された様刻は、その夜、夜月との関係をさらに踏み出すことに決める。しかし次の日、学校で数沢の死体が発見される。様刻は保健室の引きこもり、病院坂黒猫と事件の真相を探り始める…。
 個人的には、何とも言えないネーミングセンスや、回りくどい文体が肌にあまり合わない。もし、余計な説明の文章をそぎ落としてしまえば、3分の1くらいに圧縮できてしまうのではないだろうか。ただ、そうなると何の特色もないミステリになってしまうが。加えて、裏表紙に「本格ミステリ」と書いてあるが、ちっとも本格ではない。この小説は、ミステリを楽しむのではなく、いまどきの若者の考え方を感じるためのものだろう。この文体が合わないということは、私が十分にオッサンになってしまった証でもある。
 ところで、病院坂が様刻に語った「自分は世界と関係していないのではないか」という恐怖は、いまの若者にとっては重要な問題なのかもしれない。ラストは、それをひっくり返して世界と関係したとも言える爽やかな終わり方である。最後の文章は様刻の独白だろうが、こうある。「大事な妹。かわいい彼女。頼れる親友。好きな人。今日も世界はこんなに平和だ。気分がいいので、保健室に行こう」(292頁)。実はこのラストこそが空恐ろしい。というのは、開放感に溢れているかのように見えて、実はちっとも事件は解決していないからだ。殺人を犯した犯人は分かったものの、警察の追求はまだ及んでいない。様刻と妹との関係は一歩踏み出してしまっている。そして様刻は、病院坂に対しても愛情を持ち始めている。さらにはりりすの恋心にも答えてしまった。その先にあるのはどう考えても破綻でしかない。世の中のいわゆる幸せこそ実は空虚な絶望なのだ、という嘲笑が聞こえてきそうにさえ感じてしまった。
 ところで、様刻は人間は刺激を求めるが、読書をすればするほど、予定調和のお約束に気づいてしまうと述べる。「新しいものを更に新しいものをと貪欲に求める精神には、小説のように、所詮は枠の外から出られないものでは、対応に限界があるのではないか」(192頁)と。彼が、ミヒャエル=エンデ『はてしない物語』を読んだとき、どのような感想を持つか聞いてみたいものである。


3月14日

 BETWEEN THE BURIED AND ME「COLORS」(2007年)を聴く。このサイトでCDを紹介するのは久しぶりだ。私は基本的にメタルが好みで、それに加えてゲームとアニメのサウンドトラックをよく聴き、作業中も休憩中も流しっぱなしにするので、ほぼ一日中音楽漬けで過ごしている。だが、熱心に新譜を追いかけるリスナーでもないし、雑誌もネットも含めていくらでも情報が流れているので、自然とサイトではあまり書かなくなっていった。特にメタルに関しては、『BURRN!』を読めば、自分の好みでないものも含めて、アルバムの情報や評価を知ることができるので、あまり書く必要性を感じなかった。
 ところが、このアルバムに関しては、日本盤が発売されず『BURRN!』のアルバムレビューにも紹介されていないようなので、どうしても書きたくなった。そもそもは、ニコニコ動画の「プログレメタル好きの為のデス/コア系メドレー Part1」(登録しないと試聴できないので注意)で取り上げられていた曲を聴いて、これはすごいと感じたことがきっかけ。なお、『BURRN!』2008年4月号の2007年人気投票では、読者も編集者もこのアルバムに触れていないものの、DREAM THEATERのマイク・ポートノイを含めて数人が、このアルバムを2007年発表のお気に入りアルバムに挙げている。
 どんな音かといえば、DREAM THEATERが別プロジェクトを始めて、デス声のヴォーカリストを加入させて、70年代のプログレをデス風に再解釈したといった感じか。アルバム1枚全8曲約64分が、激しい場面転換を繰り返しつつ、途切れることなく続く。だが、決して散漫な印象を与えることはなく、最後まで飽きることなく聴けてしまう。これほどのアルバムが、なぜ日本未発売なのか不思議でならない。Wikipediaの記事にも日本語版はまだないようだ。
 メタル好きな人たちのサイトやブログでは、すでに結構取り上げられているみたいだけれど、遅ればせながら私もオススメしておきたい。DREAM THEATER系好きだけではなく、IN FLAMESやARCH ENEMYのようなメロデス系好きにもアピールするものを持っていると思うが、そうした系統を超えて、メタル好きな人にはチェックしてもらいたいなあ。
 ちなみに、先のメドレーを挙げた人は、マイリストに他にも幾つもメドレーをつくってアップしている。これがかなりいい作品を幾つもアップしてくれていて、知人に見せたら、早速チェックしてアルバムを買っていた。こういうセンスのある人が自分のオススメを挙げて、それが売り上げに貢献することもあるという点は、ネットのよいところだと改めて感じる。もちろん、ネットには著作権の侵害の問題も含めて悪いところもあるのだが、それを無視しないようにしつつ、良いところを伸ばすということも大事だろう。というわけで、権利者の方はこれらの動画を見て削除させるように依頼するかもしれないけれども、売り上げに貢献しているという点で、できればそのままにしておいて欲しい。もしこの動画がなければ、私がこのバンドを知ることはなかったし、アルバムを買うこともなかっただろうから…。


3月17日

 馬杉宗夫『大聖堂のコスモロジー 中世の聖なる空間を読む』(講談社現代新書、1992年)を読む。中世ヨーロッパにおける教会建築の発展の歴史をまとめる。ローマ末期に公認されたキリスト教は、信者の集会場として長方形型のローマのバシリカを模した聖堂を建造する。そして、一番奥に半円形の祭室が設けられ、そこに絶対者が君臨すると想定している点で、バシリカ式聖堂は水平的な方向性が強調されている。そこへ、十字の形に横へと区切る翼廊を設けて、ラテン十字形の聖堂となる。これによって、頭部に対応する部分が聖域となり、いわば聖なる区域と信者の区域を区分するために翼廊が用いられている。これに対して、ビザンツ式の聖堂は「集中式」とも呼べる構造であり、円形・八角形・正方形・ギリシア十字形など、中心部の円蓋に集中する形で形成されている。つまり、垂直的な上昇運動が志向されている。
 西ヨーロッパのロマネスク様式では、バシリカ形式が踏襲された。やがて、神と結びつけられた光を求めたことから、天の光へと届く高さと、内部に光を取り込むステンドグラスの発展を促し、それが垂直方向への意識を持つゴシック建築へとつながる。半円アーチに変わって尖頭アーチが取り入れられ、その重みを支えるために肋骨穹窿と、それを外部から支える飛梁を用いることで、より高く建築することを可能にし、壁面を大きく窓で開放することも可能になった。そして、ステンドグラスをつくるにあたって、当時の人々はその性質をよく理解していた。というのは、赤は光が収縮してしまうために光の強い南側で用いて、青は光を通して色を膨張させてしまうため、光の弱い北側の窓に使っているからである。
 コンパクトにまとまっていながら、教会建築物の基礎的な知識を抑えることができるだけではなく、中世ヨーロッパの心性史についても色々と知ることができるため、その手の方面に興味がある人には、おすすめできる。なお、こうした象徴付けは、プロテスタントが勃興した頃には廃れていき、現在ではほとんど考慮されていないらしい。ということは、日本の教会ではほとんどこうした象徴付けは見られないのだろう。
 以下、メモ的に。洗礼堂は八角形であることが多いが、これは8が新たな始まりを意味するためである。『旧約聖書』によると、神は6日間で世界を創造し、7日目を休息日としたゆえに、「8」は新たな始まりを意味する。キリスト教では、人間は洗礼を受けることによって、新しい人生を享けると考えられているため、新たな始まりを意味する「8」にちなんで、洗礼堂は八角形型で建てる(26〜27頁)。
 最初の人間であるアダムの文字は、ギリシア語でそれぞれ東西南北をあらわす(A=anatole(東)、D=dysis(西)、A=arktos(北)、M=mesembria(南))。しかも、ギリシア語ではこれらの文字は数字も表しており、その合計数は46である。これは「ヨハネ伝」に伝えられた、ユダヤ人が神殿を築くのにかかった年数と同じである(34頁)。バシリカ式聖堂の場合、入口は西に置かれ、東へと向かって進む。これは太陽の沈む方角である西が死を意味する方向と思われていたためであり、光に満ちた東に祭壇を置くためである。ただし、特にプロテスタントによって、やがてこうしたことは無視されるようになる(40〜41頁)。なお光は、3世紀の新プラトン主義者のプロティノスによって、ギリシア美術を規定する線や形態によってではなく、それ自体として美しい、と述べられていた(98頁)。
 円は自己完結の要素を持つため、円形のバラ窓は垂直への指向性を持つゴシック建築には。元来そぐわない。したがって、ドイツやイギリスのゴシック建築には、バラ窓は採用されていない。他方、南欧イタリアの聖堂には西正面にこれを取り入れている聖堂が多いことは、いかに円という要素が南欧的な性格を持つものであるかを示している(140頁)。また、バラ窓の中心部にはイエスが描かれるが、北側には幼児として、南側には復活者として、西側には審判者として描かれる。いわば、北側が過去を、南側は現在を、西側は未来を象徴している(146頁)。


3月20日

 北山猛邦『少年検閲官』(東京創元社、2007年)を読む。書物を持つことが許されず、すべて焚書されてしまう、近未来と思しき地球。イギリスから日本へと旅行に来た少年クリスは、妙に静かな町へとたどり着く。森に囲まれたその町で、森に迷い込んだ人間の首を打ち落として惨殺する「探偵」の存在を聞く。「探偵」は謎を解き明かす人物のはずなのに、殺人を犯しているという事実に混乱するクリス。そして、ついに町にはミステリを調査するための少年検閲官エノが派遣されてきた。エノによれば、ミステリが弾圧された後に、日本の推理作家がミステリの要素をバラバラに分解して、密かに色々なものに封じ込めたガジェットが利用されている、という…。
 明らかにブラッドベリ『華氏四五一度』(ハヤカワ文庫)を意識したと思われる作品で、書籍の代わりにすべての情報はラジオから流れてくる、という設定になっている(54頁)。それゆえにか、町の大人は外の世界に興味を失っている。そして、諸悪の根元は「ミステリ」であったと認識されており、「『ミステリ』には、人間が犯しうる罪の数々が記されていたという。死と暴力と悪意と姦計と…」(61頁)とある。従って町の人間は、「衆人環視」の「密室」といったミステリについての基本用語を知らない。さらに、すべての書籍は焚書されたため、野蛮な思想は断たれ、あらゆる凶悪犯罪は撲滅された、ということになっている(57頁)。だからこそ、首のない死体という明らかに不可解な状況に対して、クリスは何かあると疑っても、町の人間は自然死として片づけてしまおうとする(136頁)。このあたりは、東野圭吾『名探偵の呪縛』を思い起こさせる。
 トリックとそのネタはちょっと強引な気もするのだが、それを楽しむというよりは、こうした世界観を味わう小説と言えるだろう。せっかくの設定なので、続編を期待したいところだ。というのは、クリスの成長を見てみたいから。クリスは、周りの人が死んでいこうとするのを一度も救えたことがない、と自嘲する(124頁)。後からやってきて、すべてが終わった後に事件を説明する探偵、というネガティヴな意味での探偵像がそこには反映している。しかし、彼はラストでミステリ作家になるという自分の目標を見つける。世界を説明するのではなく、自分にとっての意味を自分の言葉で語るようになったクリスによって、この世界がどう変わるのかを見てみたい。
 ちなみに、かつては書物と同じく音楽も禁止されていたが、制限が緩くなった後には、デジタル技術によって再現されているため、実際に楽器を弾ける人は少ないらしい、という設定になっている(78頁)。


3月23日

 竹下節子『聖母マリア 「異端」から「女王」へ』(講談社選書メチエ、1998年)を読む。『新約聖書』には、実はマリアの記述はあまりない。最初の福音書である「マルコ伝」では、私の母とは誰のことだと言い放たれているほどある。やがて少しずつ扱われるようになり、「マタイ伝」では処女懐胎とエジプト逃避に触れられ、「ルカ伝」ではイエスのしもべであり貧しき者の代弁者として、人々から「祝福されたもの」と呼ばれる、と賞されている。「ヨハネ伝」では、イエスの受難にも立ち会っている。つまり、時を経るごとに格が上がっていったと言える。そして、「ヨハネ伝」に出てくるカナの婚礼のエピソードは、マリアはイエスに素っ気ない態度を取られようとも客人のワインが切れていることを告げ、それによってイエスは水をワインに変えるという最初の奇跡を行っているが、これは重要なものである。というのは、これによって、マリアを通して頼み事をすれば、イエスに取り次いでもらえるという「代願」の根拠になったからである。だからこそ、出産においても死者のためであっても、マリアへと祈りが捧げられる。
 やがてマリアは、エフェソス公会議にて神の母と定められ、生涯を通じて処女であったと決められる。これによってマリアの神性は確定していく。そして、マリアが『新約聖書』においてさほど存在感を持っていなかったことが、逆に後々マリアが重要な位置を占める原因となる。そもそも、女神はいかなる神話でも重要な位置を占めていた。マリアは元々重要でなかったがゆえに、そうした先行する女神のイメージに重ね合わされて、信仰を自在に形成することが可能となった。
 以下本書では、マリアに込められた社会における位置づけを、時代順に眺めていっている。個人的には、マリア像が涙を流すといったようなエピソードがある近代以降に関しては、特に興味を覚えなかった。とはいえ、そちらの方がおもしろい、という人もいるだろう。というわけで、印象に残っている部分についてメモ的に。
 キリスト教にとって『旧約聖書』は、イエスの登場によって救済が完了される『新約聖書』を準備するものと考えられた。そのため両者の間には対応するものがあると考えられ、アダムとイヴに対応するものが、イエスとマリアであるとされた。イヴが禁じられた木の実を食してしまい楽園を追放されて救済を求め始めたが、マリアはイエスをこの世に送って救済を完成したと見なされた。さらに、イヴが元々は原罪を背負わずに生まれてきたように、マリアも神によって母の胎内に宿る、つまり原罪なき者として誕生した、という伝説が付加されていった(49〜51頁)。
 『旧約聖書』『列王記』にて、エチオピアあたりの国であったサバの女王がソロモンのもとにやってきて、次々と質問を発するものの、彼が正しく答えたことに感嘆して、贈り物を贈って自国へと帰ったという逸話がある。イエスが、彼女は裁きの場にやってくると告げたため、最後の審判に関わる人物と見なされ、12世紀以降には図像としてよく用いられるようになる(53〜56頁)。
 マリアがイエスを抱く図像を描く際には、中央前か左手に抱く。これは『旧約聖書』「詩篇」45:10に、「王妃はオフルの金を飾ってあなた(王)の右に立つ」とあることに依拠する(68頁)。
 プロテスタントは、偶像崇拝を批判したため、マリア信仰に対して厳しい態度を取るようになる。そのため、宗教上の女性を崇めるよりも、実際の女性の地位を高めようとする傾向が強まった。一方でカトリックは異端審問でプロテスタントを弾劾するときに、マリアへの礼拝を一種の踏み絵に用いることもあった(74〜75頁)。また、フランスでは、ルイ14世の宰相・コルベールが、民衆の移動を嫌って、巡礼者を乞食や非定住者と同じカテゴリーに入れるなど、17世紀から巡礼が下火になる。巡礼が再び息を吹き返すのは19世紀後半であった(100頁)。
 中世末期には、受難するイエスへの礼拝が推進されると、同じようにマリアもイエスの苦難を嘆く姿が強調されるようになっていく。中世には見られなかった、マリアの嘆きを前面に押し出す図像が、17世紀には全盛期を迎える(88〜89頁)。
 マリアもイエスも、この世を去るとき肉体ごと天に昇ったので、聖遺骨は存在しない。髪の毛や涙などの肉体の一部、身に着けたもの、触れたもの、信者に授けたものだけである(97頁)。


3月26日

 しりあがり寿『箱船』(太田出版、2003年)を読む。いつものように降り出した雨のはずなのに、その雨はやむことを知らず、いつまでも降り続けた。やがて大地はどんどんと水に覆われていき、人々は水に圧迫されていく。残された箱船にも絶望が広がっていくなか、雨がやんだとき何が残されているのか…。
 物語の半ばまで、いずれ雨がやんで日常生活が戻ると、ほとんどの人たちは考えているが、それは徐々に蝕まれていく。たとえば、降り続ける雨に対してどこか他人事のようなテレビ番組。だが、雨の中を泳ごうという企画をしていたら、水難事故で出演者は死んでしまう。そして、本書の表題である箱船は、もともとある会社の販促キャンペーンとして、商品の購入者から抽選でこの船で世界一周、というものだったのだが、上がり続ける水位前に不安が爆発した人たちによって強奪される。その時、この船を企画したサラリーマンは、妻に電話して自分のキャンペーンの成功を嬉しそうに語り、新しい家を買おうと持ちかけていた。
 そして後半には、しとしとと降り続ける雨の前に絶望が広がり、ついに精神が壊れていく。たとえば、家族のねじれ。世界の最後は彼氏と過ごしたいと娘が出ていった後、降り止まない雨の中、昔の思い出ばかりを楽しそうに語ることしかしなくなった妻。辟易していた夫は、ある日、その妻が、マンションのベランダの外の水中に醜い顔をして浮かんで死んでいるのを見て、執拗に棒でつついて沈めようとする。箱船の中でも、虚ろに未来へと希望を持ち出す中で、絶望にとらわれて暴れ出す若者が現れる。恐ろしいのは空虚な希望を持ちだして彼を説得しようとしている、というところ。いわば、描かれた絶望が、普段の日常生活とリンクしているので、読んでいてとてつもなく鬱になる。精神が疲れているときには読まない方がいいだろう。逆に言えば、これだけの絶望を描きうるだけの力量は素晴らしい。


3月29日

 P・W・シンガー(山崎淳訳)『戦争請負会社』(日本放送出版協会、2004年)を読む。現代の戦争において、戦争に関連する各部門が、国家からアウトソーシングされる形で、民営軍事請負企業(PMF=Privatized Military Firm)に担われている状況を描き出す。
 冷戦の終了と共に高度な兵器システムが市場に流れるだけではなく、価格の安い歩兵兵器も拡散した結果、民間部隊でさえも国家の軍隊を打ち負かすことができるようになった。この結果、国家軍さえもその運営を市場に委ねる状況が生じている。そして、兵士や軍人は民間部隊へ転職した方がより高給を得られるようになるし、企業は訓練と技能評価を国家に任せることで経費を掛けずに済むし、国家は退役兵を社会の不安要素として放置せずに済むという、それぞれの利害関係も一致する。
 PMFの業務は、実践俊樹、助言と訓練、非殺傷的援助と補助など多岐に及び、その活動範囲もほぼ全世界的になっている。たとえば、エグゼクティブ・アウトカムズ社は、シエラレオネの人道団体に感謝されるほどの活躍をした。そもそもシエラレオネは、国連にもアメリカにも介入要請を拒まれており、最後の手段として同社へと依頼したところ、戦術の改革によって反乱軍を打ち破っていった。
 しかし、PMFにも問題点がある。まず、業務契約がきちんと履行されているのかを監視しにくい。ちなみに、エグゼクティブ・アウトカムズ社はもともと南アフリカのアパルトヘイト政策に従事していた兵士達が中心を占めていた。そして、あくまでも契約による活動なのだから、企業や社員が危険を冒すに値せずと判断すれば、持ち場を離れて撤退する可能性もある。また、軍事援助の提供者はもはや国家である必要はなく、裕福な団体や人物が、間接的に軍事的均衡を傾けることも可能になる。さらに、政府がPMFに援助を申し出た結果、国内の軍隊が不信感を抱き、緊張が高まる恐れもある。
 考えてみれば、資本主義下の法人化に、現在の動向であるアウトソーシングが組み合わされば、当然起こりうる事態ではあるのだけれども、ここまで先鋭化しているとは思いもよらなかった。おそらくこの流れは現在の状況や体制が続く限り止まることはないような気がする。現代の世界での軍事について知りたければ、非常に興味深く読める本としておすすめできる。


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