柳沼行『ふたつのスピカ』(メディアファクトリー、2002年)第1・2・3・4・5・6・7・8・9巻を読む。2010年、日本初の有人型ロケット「獅子号」は、打ち上げには成功したもののすぐに墜落。多数の死傷者を出す大惨事となった。墜落場所であった唯ヶ浜に生まれ育った鴨川アスミは、子供の頃からの夢であった宇宙飛行士になるために、2024年に宇宙大学校に設置された宇宙飛行士養成コースへ進学する。学校生活のなかでアスミは、幼なじみの府中野新之介、入学試験で共に協力し合った近江圭と宇喜多万里香、飄々とした鈴木秋、そして獅子号に載っていた宇宙飛行士の幽霊で、アスミにしか見えない「ライオンさん」らの仲間と共に、支え合いながら少しずつ成長していく…。
2024年という未来が舞台であり、宇宙を目指すという近未来的な設定なのに、登場人物の行動や生活を描く画風は、昭和っぽいノスタルジーを醸し出すマンガである。馴れ合いはしたくない、と付き合いを拒もうとする万里香に「一人じゃ宇宙へいけないよ」と告げたり(第2巻)、その言葉を宇宙飛行士選抜試験に派遣された秋が使ったり(第9巻)、後にその万里香が「私を捜してくれる人がいる。たったそれだけのことがどうしてこんなに嬉しい」と泣くシーン(第6巻)、ライオンさんがアスミに「戻りたい場所があれば逃げ出したいと思わないよ」と励ます台詞(第7巻)など、何とも言えず恥ずかしくなることもある。ノスタルジー小説は好みではないと何度も書いているが、このマンガの雰囲気は嫌いではない。オッサンのノスタルジーは駄目で青春のノスタルジーは大丈夫、というのは矛盾しているのかもしれないが、このマンガには過去の美化や妙なナルシズムがないからかもしれない。とはいえ、昭和育ちでない読者は、このノスタルジーをどのように感じるのか聞いてみたい気もする。
なお、著者のインタビューによると、著者は特に宇宙へ興味があるわけではないということ。
笠谷和比古『関ケ原合戦 家康の戦略と幕藩体制』(講談社選書メチエ、1994年)を読む。関ヶ原の合戦は、徳川家康率いる東軍の勝利に終わったが、実は東軍の主力であった秀忠率いる3万あまりの軍隊は、戦場に到着できなかった。そのため、戦場で活躍したのは、徳川家譜代の家臣団ではなく、福島正則を筆頭とした家康側へ付いた豊臣家の家臣団であった。そして、家康は勝利したとはいえ、公儀の序列としては豊臣秀頼の方が上であり、家康個人の力量によらない徳川家の支配の正統性を打ち立てる必要があった。そのための機構が征夷大将軍を機軸に据えたものである。こうして、豊臣家の支配体制とは別の家康を主張とする将軍型公儀が形成され、大坂の陣に至るまで二重の封臣関係が併存する時代が続く。
加えて、東軍の勝利に貢献したのは豊臣系の武将であるため、論功行賞によって彼らを厚く遇する必要もあり、決して徳川譜代が独占的に力を伸ばせたわけではない。さらに、そもそも豊臣政権では、有力な家臣たちによる対立や、中央政権的な行政から大名への干渉などが不安定を招いた原因となった。そのため、大名には領土を与える一方で、政権中枢からは排除するという体制をとることになったのである。
関ヶ原の戦いそのものに関する記述もあるが、これを豊臣政権から江戸幕府への移行の中に位置づけることで、その意義を浮かび上がらせており、非常に面白い。池上裕子『織豊政権と江戸幕府』を読んだときに、秀忠軍が間に合わなかった事実を知ったのだが、この本でより詳しい様相を知ることができた。
以下メモ的に、興味深い事項を。関ヶ原の合戦に先立つ岐阜城攻めで、福島正則と池田輝政の先陣争いが生じた。当時の武将にとって先陣を担うことは栄誉であり、これを犯すことは許されざる行為であった。この両者の争いを収めた人物は井伊直政だったが、彼は関ヶ原の合戦で福島の先陣を奪い取ることになる。これには、合戦に参加した家康の軍隊は所詮寄せ集めにすぎず、主力たり得ない状況が関連しており、この合戦を徳川の戦いとするには、規範を破ってでも先陣を努めて、徳川軍の存在感をアピールせねばならなかったためであった(113〜114・147〜148頁)。なお、合戦に参加した家康軍をなぜ寄せ集めと見なせるのかと言えば、秀忠軍との構成の違いゆえである。当時の軍団は総大将を囲む先方・中備、脇備、後備といった各隊が攻撃と防御を担っており、兵力数ではなく軍団の質こそが戦力を決めた。そこに着目して両軍を比較すると、秀忠軍には1万石以上の大名がそれぞれの備を担っているのに、家康軍にはそれはない。したがって、共に3万人台の軍団ではあっても、家康軍は防御的な部隊にすぎないと言える(120頁)。
牧野修『だからドロシー帰っておいで』(角川ホラー文庫、2002年)を読む。何事にも鈍くさい平凡な主婦の伸江は、買い物に出かけたところ、突然異世界へと入り込んだことに気づく。同時に、現実世界では彼女と思しき人物による連続殺人が次々と起こる。そしてその被害者は、秘密裏に加害者への報復を実行する会へと参加し、犯人を追いかけていく。やがて、異世界と現実は混じり合い、幻想と狂気もまた融合し始める…。
「ドロシー」というタイトルが示す通り、また物語のなかで伸江も気づくように、モチーフとなっているのは『オズの魔法使い』だが、当然のことながら本書はファンタジーではなく、ホラーである。しかも、そのホラーを引き超している張本人は、異世界にて色々と苦難に巻き込まれながらも、子供のように楽しんでいるところが、怖い。
後書きにて著者も述べているように、これは現実から夢想の世界へ逃避する物語である。そして、『オズの魔法使い』のライオン、かかし、木こりに相当する人物も出てくるのだが、彼らはすべて現実には不幸な境遇にある。しかし、ライオンに相当する乞食は、現実には散々振り回されたにもかかわらず、最後には感謝しながら物語から退場する。この乞食は腕の立つ職人であったものの、機械の導入によってその技術は不要になり、会社を辞めさせられて妻子には逃げられる、という人生を送ってきた。その最後に、楽しませてもらったと感じ、さらには「ライオンという名に相応しい、勇壮で雄々しい人生の断片を得たのだ」と述懐する。作者は「普通であることは、この中途半端に耐えること」と記しているが、伸江とその一行のように刺激でしか楽しみが得られない、というのは平和に暮らせるという最大の贅沢においてさえ癒せないものがあるという点で、ものすごく不幸なのかもしれない。
原武史『滝山コミューン1974』(講談社、2007年)を読む。戦後、東京都久留米市に建設された公営団地である滝山団地に住んでいた著者が、1975年に卒業した自分の小学生時代を振り返る。
1959年に日教組から生まれた全国生活指導研究会は、個性の尊重と平和・民主主義の確立という公教育の基本原理を、個人主義に染まりつつある子供へ集団主義教育で変革する、という意義に基づいて学級指導を行い、さらにはそこから地域集団全体をも射程に含むことを目的とした。そして、著者の通っていた東久留米市立第七小学校に、その導入を図る片山という教員がいた(ちなみに、これは仮名かもしれない)。その指導法は、クラスを班ごとに分けて、班の数よりも一つ少ない数の係をことあるごとに振り分け、総会でその点検と評価を行って競争させる、というものであった。著者はその隣のクラスに属しつつ常に違和感を感じていたが、進学塾へ通って出来る限り関わらないようにしていた。そのうちに、そうした集団教育の影響力は他のクラスの児童にまで及んでいく。「鬼のパンツ」という一種の踊りでは、全校生徒が一致して同じ動きをするようになり、いわば遊びにさえも集団教育が浸透していった。しかし、6年の秋の運動会の運営に異を唱えたために、児童委員会より追求を受けることになる。だが、1980年代にはいると、班競争に基づく集団教育が、いじめの温床になるという批判が生じてくると、やがて廃れていくことになる。
以上、ダイジェスト的に書いてきたが、本書は回想録のようなものなので、小説のストーリーを追うような形になってしまった。小熊英二は連合赤軍の事件を契機に「政治の季節」は終わって生活保守の流れが定着したと述べ、前田愛は郊外の巨大な団地が、私生活主義の象徴であると説いた。しかしながら、著者がこうした戦後史観に疑問を呈して本書を書き起こしているように、分解した個はかえって1つの主義に帰ってまとまりやすいのかもしれない。このあたりは、小林よしのり『新ゴーマニズム宣言SPECIAL 脱正義論』(幻冬社)が描き出した、運動へのめり込んでしまった現代の学生に通じるものがある。集団の中に入り込んで団結するというのは、抜けがたい高揚感を得るものになってしまうようだ。そのことは、林間学校の合唱訓練で、違和感を感じていた著者でさえも、歌っていくうちに認めたくはない一体感を味わってしまった(206頁)、ということからも分かる。また、6年生の7月の林間学校の際には、中心的な指導を行ってきた片山が、キャンドルファイヤーのイベント時に林間学校の準備を担った人物たちを褒めていき、最後に全員を讃えた際にすすり泣く者がいたということも、こうした得も言えぬ一体感ゆえだろう。
著者は、指導者の一人舞台に付き合わされただけだ、という醒めた感情を持っていたという。こうした著者の感情から、この小学校における何とも言えない空虚な高揚感を感じ取ることはできるのだが、いかんせん直接関わった人物の声が少なすぎて、どうにもフィルター越しに除いているようなもどかしさがある。関係者といえば、片山という教員と、彼のクラスで指導的だった女生徒くらいであり、いずれも直接的な証言はほとんど引用されていない。ただ、本書執筆のために後者と会って話をしたところ、実は重圧を感じていて、大腸炎になったり、鼻血が出たりなど、ストレスによる症状が現れるようになっていたらしい。しかも彼女は、当時の話をするうちに「トラウマ」という言葉を思わず使い、誰にも話せなかった胸のつかえが取れたと泣き出した、という。このあたりは実に圧巻なのだが、残念ながら関係者自身の証言のうち印象に残るのはこれくらいしかない。このあたり、著者が学者ではなくフリーのライターだったら、事情はもう少し変わっていたかもしれない。まあ、淡々としているからこそ、余計に生々しいと見ることもできるが。
以下、メモ的に。集団方式と同様に当時の注目を浴びたのは「水道方式」による教育であった。これは、「量から数へ」という原則に基づくのだが、たとえば足し算の場合、桁が揃っていて繰り上がりのないものから、つまり「234+52」は「234+512」よりも後に教えなければならない、とする。典型的なものから型くずれへ移るこのやり方を、水源から水道のパイプへ枝分かれすることになぞらえて「水道方式」と呼んだわけである(42〜43頁)。西武電鉄はストをしなかったが、そこには堤康次郎による自分こそ民主主義を実践している人間、という自負が関係していた。彼の言う民主主義とは、使用人を大切にして彼らを思いやることであり、だからこそ使用人にあたる社員は家族のようなものであり、労働組合の存在は原理に反している、と考えていた(83頁)。小学生だった頃の著者の周りで、一戸建てに対する憧れを持っている児童は多くなかった。団地こそが現代を象徴する新しい住宅であり、地震や火事が起これば木造の一戸建てなど倒壊してしまう、と信じていたからである(147頁)。
清涼院流水『Wドライヴ 院』(講談社文庫、2001年)を読む。ある日、目覚めると突如2人に分裂してしまった。しかも、さらに分裂して4人になってしまった。このまま増えていったらどうなるか。それを恐れた結果、誰かを殺してみるという事件をしようということになる…(「木村さん殺人実験W」)。とある中学校の教室で回される「誰かに回さないと幸福になれない」と書かれたメモ。しかも、そのメモではなぜかカウントダウンが始まっていて、自動的に時間が減っていっていた…(「Wカウントダウン50」)。
テンポが良くて、すっと読めたのだけれど、個人的には今ひとつピンとこなかった。何の前触れもない不条理な設定、というのが嫌いなわけではなくて、なんだか無理に伏線をつくって驚かせようとしているような印象を受けたので。まあ、分かってない奴といわれるかもしれないが、仕方のないということで。
大石慎三郎『将軍と側用人の政治(新書・江戸時代1)』(講談社現代新書、1995年)を読む。政界の腐敗や癒着の原因と見なされるがちな、江戸時代の側用人について再解釈を試み、その役割を肯定的に評価する。
江戸時代の役職は複数制であり、1月ごとに何かの業務担当になり合議で処理していた。これには、権力を独占させないという長所はあるものの、迅速な対応に欠ける短所がある。その問題点を解決すべく取り入れられたのが側用人制度である。側用人という少数者が政治を動かすことは危険であるものの、実際にはそのような事態が生じることはなかった。たいていの側用人は、将軍になる人物の側衆を努めており、その時に能力や人柄をチェックされているからである。
そして、側用人が綱吉の時代に登場したのは、江戸城内で刃傷事件が起こって将軍と家臣の場所を遠ざけたため、その連絡役が必要だったためであるものの、その頃に元禄期の経済成長が停滞し社会が不安定になったので、その立て直しが急務になったことも関連している。実際、最初の側用人である柳沢吉保が抜擢した荻原重秀は、経済政策に手腕を振るっている。たとえば、当時は借財の結果による土地の売買と貸し借りの契約関係が、田畑永代禁止令と絡まって非常に複雑化していて、年貢を誰から取り立てるかが分かりにくくなってしまっていた。荻原は、そのとき土地を預かっている人間に年貢の納入義務を課すことで、土地の契約の異動がスムーズにするとともに、年貢の取り立て問題をも解消させた。貨幣改鋳も非難されることは多いが、国内の金銀が貿易によって海外へ流出してしまったために、貨幣の金銀含有量を下げて貨幣の量を増やすために行ったものだ。荻原は「お金は瓦でも構わない」とまで述べており、近代的な貨幣を先取りすらしている。ところが、荻原をあしざまに罵った新井白石は、以前の品位と同じ貨幣に改鋳した結果、猛烈なデフレによる不景気を引き起こさせてしまう。
そして、実は吉宗も実質的には側用人を用いている。候補者が次々と没したため将軍となった吉宗は、側用人政治を廃止するという条件で将軍職に就いたものの、彼はその代わりに「御用(側用)取次」という実質的には側用人と変わらない役職を設置して紀伊藩時代からの家臣を配している。そして、彼らを重用しながら、新田の開発、判例付きの法令集に基づく法治主義などを実行した。さらに大岡忠相は、米の価格を安定させるために他の商品の物価を下降させようとし、各商品の取引をそれぞれの問屋に限定することで、高く売りさばこうとする行為を妨げようとした。加えて吉宗は、各地の特産物をくまなく調べそれらの農作物や商品の育成をはかる。これによって、農村部の経済も発展し生活に余裕も生まれるようになる。
これを受け継いだのが田沼意次であった。田沼は、吉宗が当時の年貢率である3割から3割5分に引き上げることさえ苦労した様子を見て、増税をせずに財政を改善する方法を考える。まず、それまでは支出が必要になるとその都度適当な額を払っていたが、前もって予算を定める制度に切り替える。これによって将軍の身の回りや大奥などの費用を抑制して、支出の増大を妨げた。さらに、商品流通が全国規模に幌がったことを受けて、流通税という間接税を取り、その見返りとして流通の独占権を持つ株仲間を商人たちに認めた。さらに、貨幣の安定を図るために、銀の量や質に関係なく5匁と定めた貨幣を発行して、金銀の交換比率を一定化することで金銀貨幣を一本化した。こうした制作によって社会は安定と開放の時代を迎え、さらに元禄のように都市に限定されず農村や地方へも波及した。だからこそ、享保頃から、農民が伊勢講を行ったり、子供に教育を受けさせると言うことも一般化したわけである。
しかし、これを逆行させるかのような政治を行ったのが松平定信であった。農民を農村に帰し、文化を弾圧し、旗本の借金をすべて帳消しにするなど反動的な政治を行い、たったの6年で失脚する。そして定信は、田沼意次をあしざまに罵り、それが後世の評価として定着してしまったために、側用人政治の本来の効用も見失われてしまった。
側用人の重要性を浮き彫りにするだけではなく、江戸時代に関するさまざまな知見が詰め込まれていて、非常に中身が濃いので、自ずとこの文章も長くなってしまった。日本史に少しでも興味があれば、ぜひ読むことをおすすめする。専門家ではないので、これ1冊だけでは、どこまでその内容が正しいのかは判断できないけれども、それを抜きにしても面白い。以下メモ的に。
庶民の生活レベルが向上し、大きな変化が訪れたのは元禄期だった。たとえば、庶民がハレの日を飾る基本的な衣類として絹製品を着るようになり、初物を食べたがるようになり、住居の中に便所を組み入れるようになる。そして、綿実油や菜種油などの灯油が普及したことで、夜に灯をともす習慣が生じて夜の生活時間が延長され、それに伴い食事回数も1日2回から3回へと増えた(30〜33頁)。そうした元禄期の成長が止まる頃、材木商の奈良屋は、自分の遺産の金利と貸家からの上がりだけで生活して、新しい商売に手を出さないように遺言したという(1714年)。ただし、井原西鶴の絶筆である『西鶴織留』には、「近頃、破産して乞食になる大商人が数知れずいる」と書かれていた(41〜42頁)。その原因の最たるものとして、大名が商人たちに借りていた借金を踏み倒したことが考えられる。生活レベルの上昇と共に、武士たちは華やかな消費生活を営むようになった。そのために支出が拡大すると足りない金銭を商人から借りることで補った。しかし、領主財政の好転材料は何もなかったので、返済が滞り、返済そのものが打ち切られる、という事態が生じていた(44〜45頁)。
江戸時代の賄賂に対する感覚は現代と違う。というのは大名から賄賂をもらうことで、大名の経済力を少しでも削ろうとしており、それどころかそれが幕府への奉公だと考えが一般的だったからだ(66頁)。一方、幕府は大名に対して絶対的な権限を持っていたというわけではない。側用人時代には幕府による改易もほとんどなくなり、出来る限り諸大名の権利には余計な口を挟まなかった。参勤交代も、大名の経済力を弱めるためというよりは、これは幕府が持つ軍事権の発露にすぎない。幕府は諸藩から収入を得ているわけではないので、国防を諸藩に負担してもらうのは当たり前のことである。また、幕府は通貨発行権を独占していたが、認められれば領内で藩札を発行することが可能であり、独立国家でもあった(74〜76頁)。
なお、本書の主題ではないものの、赤穂浪士の逸話はかなり脚色されているという。たとえば、幕府隠密の調査では、吉良義央は妻を大切にする人物として高く評価されている一方で、浅野長矩は無類の女好きで政治に興味を示さず、大石内蔵助はそうした殿様に意見も全くしないという低い評価しか与えられていない。そして事後処理も、私闘を禁じた武家諸法度に基づき、刀を抜いた浅野が切腹とお家断絶、抜かなかった吉良はおとがめなしという真っ当な結末となった。にもかかわらず、赤穂浪士は討ち入りをしてしまい、しかも世間が彼らに同情し始める。ここに至り、浮ついた生活が身に付いてしまった武士への規範として、彼らを利用しようと考えた幕府首脳部は、打ち首ではなく切腹を命じてしまった。こうして、忠臣蔵の物語が作られていくことになる(72〜73頁)。
同じく生類憐れみの令に関する説明も興味深い。幕藩体制が安定してくると身分が固定化し始め、幕府直参である旗本の中には、外様大名よりも格下であることに不満を持ち、反抗的な態度を取るものも現れる。そして、戦国時代であれば商人の長男は家を継ぎ、次男は武士になることが多かったため、江戸期になって武士より格下であることに不満を示す町人も見られるようになる。こうした連中は「かぶきもの」として町中で暴れ回った。そしてこの時代には、捨て子や年老いた牛馬の追放などの風習も残っていた。こうした殺罰とした戦国時代以来の慣習を抑制して、安定した社会を築くための法令が、広義な意味での生類憐れみの令であった(103〜105頁)。
ミヒャエル=エンデ『はてしない物語』(岩波書店、1982年)を読む。いじめられっ子のバスチアンが、古本屋で見つけた『はてしない物語』という小説には、舞台となる世界であるファンタージェンを蝕む虚無から救うために、旅をする狩人アトレーユの物語が綴られていた。やがて、アトレーユの呼びかけに応じて、ファンタージェンの再生のために、女王「幼ごころの君」に新たな名前を付けるべく、バスチアンは本の世界へ飛び込む。そして、ファンタージェンは救われたのだが、勇者となったバスチアンがファンタージェンの物語を新たに創造していくたびに、現実世界に関する彼の記憶は失われていく…。
小学生の頃に映画で見たときは、バスチアンがファンタージェンを救ってめでたしめでたし、で終わったと思っていた。それからだいぶ経って、佐藤健二『読書空間の近代』(弘文堂、1987年)で本書が取り上げられているのを読んで、実はそうではないということを知ったのだが、自分自身で読んでみても、むしろ映画になっていない部分の方が、本当に書きたかったことなんだなあ、と改めて感じた。映画だけを見たならば、夢を忘れてはならないという感想を持つことになるだろう。確かに、それも本書のメッセージの1つではある。しかし、それよりも言いたかったのは、夢を持ち自分の中にこもってしまいそこから帰れなくなってはならない、ということだ。
バスチアンは、現実から逃避する傾向があることは再三強調されている。たとえば、ごくありきたりの事柄が書いてあるような本は嫌いで、読んでいて夢のあるものや登場人物が途方もない冒険をするものが好きである(上38頁、なお、このページ数はエンデ全集版の頁数を指す(以下同じ))。また、アトレーユには父も母もいないと知って、誘起も決断力もない自分にも母親がいないということが共通していると喜んでいる(上・71頁)。そして、ファンタージェンに来たバスチアンは、自分が美しく変身していることに気づく。そして、それ以前の自分はなかったことのように考えてしまう。さらには、そのことを他者に自慢したくなる。
しかし実は、閉じられた世界の創造者になってしまい、外の世界との関係を失ってしまうバスチアンの姿は、自分の世界に閉じこもるオタクの末路とも言える。しかしバスチアンは、自分自身が失われることに気づいて、苦心の末に自分自身を取り戻して現実世界へと戻ってきている。現実世界のバスチアンは、本の中と違い、やっぱり冴えない少年にすぎない。それでは、つまらない日常へ逆戻りというエンドかというと決してそうではない。もしそうなっていれば、桜庭一樹『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』の友彦のようになってしまったであろう。しかし、そうではなく、バスチアン少年は自分自身を受け入れながら前へと進む終わり方をしている。なぜ、そこへと至れたのかと言えば、自分の経験を言葉にすることができたからではなかろうか。
友彦は、家の中では「神の視点」を自在に操っていたが、家の外に出ればしどろもどろの説明しかできなかった。バスチアンは自分の父親と、盗んだ本のあった古本屋の主人に自分の経験を語ることができた。つまり、自分自身の生き方や世界を、他の人間にも分かる言葉で伝えられた。この時点で、彼はもはやオタクではない。実際、バスチアンが家へ帰った後に、古本屋の主人は「君は、これからも何人もの人に、ファンタージェンへの道を教えてくれるような気がするな」(下・396頁)と呟いている。バスチアンは、言葉でもって経験を語ることで、その素晴らしさを人に伝えることができることを象徴している台詞であり、これこそが希望に満ちあふれた終わり方へとつながっている。
そして、その直前には、古本屋の主人がバスチアンに、「新しい名前を差し上げることができれば、きみはまた幼心の君にお会いすることができるんだ」とも告げている。たとえ、ひきこもる内なる世界が自分の中にあったとしても、新たな経験を外の世界で積むことができれば、それは決して単なる閉じられた世界ではないことも示されている。これは、炎のライオンであるグラオーグラマーンがバスチアンに言った「物語は新しくても大昔のことを語ることができるのです。過去は、物語と共に成立するのです」(下・56頁)という言葉と対応するように思える。それができなければ、バスチアンが自分を取り戻すときに出会った、本の世界から抜け出られなくなった人間達のようになるのだろう。「ここの連中は、記憶をすっかりなくしち待った。過去がなくなったものには、未来もない」(下・289頁)。
この本は、オタク的志向を残しながら脱オタクを果たすための、いわば教養小説としても読める気がする。ただし、あくまでも第一歩を踏み出すことで終わっているのだから、それから先はどうするのか、ということについてはまた改めて考えなければならないのだが。
ちなみに、バスチアンは自分を取り戻す際に船員となっているのだが、そのときみんなで一緒に働くことへの喜びを得ている。けれども、調和してしまったがゆえに、苦労もなくなったことがバスチアンには不満に思えて、一人の個人でありたいと望むようになる(309〜310頁)。これを読んだとき、原武史『滝山コミューン1974』のクライマックスでもある、キャンプファイヤーでの合唱を思い出した。