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2008年1月の見聞録



1月2日

 帚木蓬生『閉鎖病棟』(新潮文庫、1997年(原著は1994年))を読む。とある精神科病棟を舞台に、家族や世間から疎まれつつも、日常生活を営もうとする患者たちを描いた小説だが、そこで生じた殺人事件で物語が大きく展開することになる、という構成を取っている。とはいえ、むしろ物語の大半を占めるのは、患者たちの暮らしと思いである。小さなエピソードを積み重ねながら、リアリティを上手く醸し出すという手法は、たとえ舞台は異なろうとも、『逃亡』と変わらない。出来る限り登場人物が救われる方向へと物語が進むのは、自身が精神科医であることから来る願望なのかもしれないが、だからといって物語が不自然に感動を誘うようには描かれていないことが、かえって読む者の感情を揺さぶると言える。
 なお、最も興味を引かれたのは、患者の一人が考えた脚本を元に、患者同士で劇を演じることになって、それは成功したのだが、その後に少し変調を来す者も現れたという場面。役を演じるという、自己の相対化が必要な行為に直面することは、かえって自分自身と向き合うことを強いられるのかもしれない。


1月6日

 藤本強『ごはんとパンの考古学』(同成社、2007年)を読む。その書名通り、ごはんとパンに関して、その起源から広がりまでを概説的に述べる。これらのことに関する基本的な知識をおさえるには、コンパクトにまとまっていて便利だろう。特に繰り返し出てくるのは、ごはんは米を粒のまま煮て食べるのに対して、麦は粉にしてから調理するということ。
 以下、メモ的に。麦の農耕化はユーフラテス川中流域で始まったが、野生種の麦の利用は、この地域で1万8千年ほど前からすでに始まっていたことが確認されている。同じように山羊や羊の牧畜も、「肥沃な三日月弧」の外側で狩猟されてきたのが徐々に変化していったものである(18頁)。1970年代まで、定住生活には農耕が必要と考えられていたが、採集・狩猟・漁労を組み合わせることで、定住は可能であることが判明している。ただし、都市に暮らす集住生活へ移行すると、階層分化が始まって人口も増え、さらに食料の生産現場から離れて暮らすので、貯蓄と運搬が容易な食料を生産できる農耕が必須となる(23〜24頁)。


1月10日

 折原一『沈黙の教室』(ハヤカワ文庫、1997年(原著は1994年))を読む。記憶喪失の男が持っていた青葉ヶ丘中学3年A組の同窓会の案内。だが、それだけではなく、クラスの名簿と一緒に彼らの殺人計画のメモもあった。20年前、そのクラスでは、クラス中の生徒を極限まで脅えさせる「恐怖新聞」という新聞が発行されていた。その新聞で粛正の対象と指名された生徒は、いじめの対象となるからだ。そして、それは教員でさえ逃れることができなかった。同窓会の準備がかつてのクラスメートによって進められる一方で、復讐者による殺人計画は、着々と実行に移されていた…。
 著者お得意の多重構造のトリックが用いられているが、実のところ「復讐者」に関しては、途中で「この人物かな」と推測していたら、本当にそうだったので、意外ではあるけれども、『冤罪者』の最後の思わぬどんでん返しというほどには驚かされることはなかったかな、と。ちなみに、『恐怖新聞』のような異常な行為はないにしても、学校のクラスというのはものすごい閉鎖空間で、そのしがらみからは容易には抜けがたいものだったなあ、ということは改めて感じたりした。かつてそういう空間で苦痛を味わった人間は、同窓会へ行きたがらないだろうな、と。


1月14日

 小林英夫『日中戦争 殲滅戦から消耗戦へ』(講談社現代新書、2007年)を読む。日中戦争を、短期決戦を目指す日本の殲滅戦略と、長期戦を狙う中国の消耗戦略という構造の相違から捉え直そうとする。結論としては、それまでの戦争を殲滅戦略で戦ってきた日本が、日中戦争当時に国際的な主流となっていた消耗戦略をとった中国へと引きずり込まれ敗北を喫した、ということになろう。日本はそれまでの戦争で局地戦での勝利が戦争全体の勝利という戦いばかりを経験してきたために、長期戦に慣れていなかったというわけである。
 確かに、この構造から読み解くと、日中戦争の流れが非常にスムーズに理解できる。たとえば、蒋介石が開戦直後に中ソ相互不可侵条約を締結して、英米各国大使に外交戦を展開した、というのも長期戦を予想した消耗戦略の一環と考えれば分かりやすい。蒋介石は、国際連盟が消極的な姿勢であることを悟ると、すぐにアメリカを動かすことを狙ったという。その際に行ったのがロビイ活動であり、それがおそらく効果的だったのは、小尾敏夫『ロビイスト アメリカ政治を動かすもの』を読めば明らかだろう。南京事件も、殲滅戦争的な視点で兵士を動かし、南京を陥落させれば国民政府は降伏すると考えた日本と、長期戦を考えて戦略的撤退を行った中国の意識の差の現れと言えるだろう(60頁)。大橋良介『京都学派と日本海軍』によれば、開戦してしまった戦争を最小限の被害で食い止めるかべく、海軍は短期集結を主張していたらしいが、大局的に見れば、これも結局のところ流れに逆行していたのかもしれない。
 また、「蒋介石は、日本軍が規律を守ることに優れ、研究心が旺盛で、命令完遂能力が高いという長所を持つ反面、視野が狭く、国際情勢に疎く、長期持久戦には弱いという弱点をもっていることを指摘」(65頁)していたという。これは、軍隊のみならずマスコミ活動にさえ窺える。中国が世界のジャーナリズムを利用して日本軍の非道さを巧みに宣伝していたのとは対照的に、日本ではあくまでも日本人向けのニュースをつくるのみにであり、諸外国に自分の立場を訴えるような記事が作成されなかった(136〜139頁)。こうしたことは、本書の最後の章で新たに発掘された史料として取り上げられた、戦時中の検閲文書を集めた検閲月報からも窺える。
 著者が主張するように、日中戦争にて浮き彫りになった日本の長所と短所は、いまでも残り続けていると言えよう。


1月18日

 山形石雄『戦う司書と恋する爆弾』(集英社スーパーダッシュ文庫、2005年)を読む。死者の魂は化石から本となり、その本を読めば生前の記憶が追体験できる世界。その「本」を集める図書館は、武装司書によって守られていた。世界最強と見なされつつ、冷酷で戦闘好きとも評される女性館長代行ハミュッツ=メセタを狙う人間爆弾が現れるも、その背後にはすべての欲望を肯定する神溺教団の影が蠢いていた…。
 死者が本となり、記憶がそこに封じられる、という設定を聞いて興味を持って呼んでみた。ただし、まだ1巻であるためか、そうした設定のほんの一端が語られただけで、期待からは少し外れてしまった。ただ、爆弾となった少年が断片となった本に描かれた「常笑いの魔女」なる少女に恋していたら、本の中の少女も時を超えて少年を見ていた、という設定は面白い。本を読むということは本の世界へと没入する孤独な作業であり、作者と語らうといっても、それはあくまでも読者の空想にすぎない。しかしこの世界では、読者と作者が相互に思いを通じ合わせることも可能になるらしい。ある意味で、読書家にとって理想的な世界なのかもしれない。とはいえ、「ぐるぐる回る恋の円環」と記されているように、一人ではなく二人の閉じられた関係にすぎないのかもしれないが。


1月22日

 東浩紀『ゲーム的リアリズムの誕生 動物化するポストモダン2』(講談社現代新書、2007年)を読む。前著『動物化するポストモダン』の続編。前半の理論部分は前著の改訂版と言えるだろう。たとえば、ライトノベルのキャラクターは、登場人物を物語のなかで描かれる人間というよりも、行動様式の束が外面化されるキャラクターであり、だからこそ、その活躍の舞台をホラーにも日常にも、青春小説にも自由に広げることができる、と位置づける。そして、ポストモダンは大きな物語の衰退と認識の多様化を意味するが、そうした変化がキャラクターに最も先鋭的に現れたとする。なお、伊藤剛『テヅカ・イズ・デッド』の「キャラ」をめぐる議論も引用されている。
 作品論で取り上げられているのは、ライトノベルから『All You Need Is Love』、ゲームから『ONE』・『Ever17』・『ひぐらしのなく頃に』、小説から舞上玉太郎『九十九十九』と清涼院流水の作品。これらのほとんどに共通しているのは、何らかの形で「ループ」が設定に取り込まれていることである。一般的にリセットを繰り返すゲーム的な手法は、物語として低く評価されることが多い。だがしかし、そうした表面的な設定ではなく、上述したポストモダン的な物語の構造を踏まえた解釈が必要だとする。『All You Need Is Love』は異星人の侵攻を受けている近未来の地球で戦う兵士が主人公なのだが、彼はある1日を繰り返すループにとらわれてしまう、という設定が取り入れられている。ここでは、主人公以外を物語として描き、主人公のみがメタ物語的なプレイヤーとして描かれる。これによってゲーム的な物語を小説に落とし込もうとしている。読者は主人公の視線と一体化、つまりゲームのプレイヤー的な立場となるのであり、それゆえに物語のリアリティではなく、物語がデータベース化したポストモダンのリアリティという構造的なリアリティを描き出している、とする。
 他の作品に関する解読は省略するが、大きな物語は既になくなった時代に生きつつも、それでもプレイヤーでありたいと願う現代人の実存的な問題が、ポストモダン的な物語の有り様と密接に結びつていると指摘している。だからこそ、ゲーム的なリアリズムに基づく物語を文芸評論は切り捨てるべきではなく、新たな文学史として書き始めるべきではないかと提言している。
 前著に関しては、「オタク系文化の特徴からポストモダンの概念を論じるのかと思って読み始めたのだが、逆でポストモダンの概念をオタク系文化にあてはめた印象を受けた」と書いたのだが、本書では前半の理論でも後半の個々の作品の解説でも、サブカルチャーこそがポストモダンの概念を現代社会で体現している、との説得力のある説明を丁寧に試みた印象を受けた。これは、本書の方向性が変化したのか、それとも私自身の考え方が変わったためなのか、よく分からないのだが。いずれにせよ、個人的には、前書よりも本書の方がおすすめ、かな。
 最後に、本書に挙げられている具体例のなかで、唯一プレイしたことがある「ひぐらしのなく頃に」について書いてみたい。選択肢のないADVとして知られる本作品では、本書でも解説されているように、最終話である第8話以外はバッドエンドで終わり、しかも1つの話が終わるごとに最初へと戻り、同じ設定のまま全く違う展開が始まる。プレイヤー自身はループだと薄々気づくのだが、なぜループしているのかについては全く説明がない。それがはっきりと分かるのは、「2人」の人物によるループであると明かされる第7話に入ってからである。しかも、そのうちの「1人」は別のもう1人にしか認識できず、自分から他の人物に話すこともできなければ、他の人物からは話すどころか見ることもできない。この「1人」が読者を暗示していることは、本書でも指摘されているが、それを示す場面が第7話の最後にあるため、ほとんどの読者はそう感じるようになっている。そして、「1人」=読者が、第8話でそれほど難しくないフラグ立てのような選択肢を探し出すことで、物語は大団円へと向かう。
 人によってはご都合主義に映るだろうし、ミステリとして体をなしていないとの意見もあるだろう。ただし、著者が主張するように、データベース的な環境という現代社会の構造から眺めた場合には、ご都合主義だという批判は大した意味はない。本書はそうした問題とは別に、第8話の最後において、これから幸せが訪れることを確信するかのような文章において、人称が曖昧になっている点を指摘する。これは、物語を読み続け、ついには介入するに至った読者が、物語の中に同化するかのような感覚へと陥る錯覚を生じせしめるとする。「ひぐらしのなく頃に」がギャルゲー的な非現実とご都合主義を含むにもかかわらず、オタクたちの圧倒的な支持を得たのは、こうした構造を直感的に認識した読者にとって、現在の生を力強く肯定してくれたからである、との見解には説得力がある。そして、だからこそ、最後の「もっともっと私たちは幸せになれる」という文章は、ご都合主義とはまった区別の水準で、「あまりにも非現実的で多幸症的なのではないか」(246頁)と疑問を呈している。
 実を言うと、この文体による同化は、私は第7話から気になり始めた。本作は基本的にすべて誰かの一人称によって語られるのだが、第7話の後半あたりから、物語の背後に潜む謎が語られる際に、誰が語っているのか分からないかのような文章が混じり始めている。状況を手短に説明するには仕方がないのかもしれないが、一人称で記して構築することで、地に足についてゆっくりと積み上げられてきた物語が、まるで地上から離れて高みへ上っていってしまうかのような違和感を感じてしまった。私自身は、ご都合主義と感じることはあっても、それを批判するつもりはない。要は、何を語りたいかの問題だと思うので。ただ、誰の語りかよく分からない文章は、登場人物ではなく作者への思想の誘導であるように思えてしまったのである。
 「ひぐらしのなく頃に」に関して妙に長くなってしまったが、これについてはいずれどこかで書いてみたい。


1月26日

 西澤保彦『死者は黄泉が得る』(講談社文庫、2001年(原著は1997年))を読む。死者を蘇らせる装置がある謎の館。この装置で蘇るたびに、死者は死んだ当時の年齢へとリセットされる。ただし、この装置で蘇ると、この館に昔からいたということ以外の記憶をなくしてしまう。そして、この館に辿り着いた者が現れると、秘密を守るために殺してしまい、そのたびに装置で蘇るため、住人は自分たちがどのようにしてここに来たのかを知ることもない。それでは、最初にここにいたのは誰なのか。その記憶を遡っていくと同時に、近隣の町ヒドゥンバレイ市で起こった美女をめぐる連続殺人も語られていく…。
 著者お得意の、SF的な設定を組み込みつつも謎や筋道は論理的という推理小説。ただし、これまで読んだ『人格転移の殺人』『7回死んだ男』に比べるとやや弱いかな。


1月30日

 ロバート=N=プロクター(宮崎尊訳)『健康帝国ナチス』(草思社、2003年(原著は1999年))を読む。原題をそのまま翻訳すると「癌に対するナチスの戦争」といったところで、ナチスが癌に対する当時の研究の最先端を行き、また癌を撲滅するために、健康対策、特にタバコに対する規制を推進していたことを詳しく紹介している。
 ナチスというと、純血主義や人体実験などのマイナスイメージがつきまとうが、実は当時の科学と医学は注目を集めており、研究者が世界中からやってきていた。特にタバコと癌の発生の関連性については、最も先進的な研究が行われた。彼らによって、癌の発生に関連する物質の研究が推し進められたのだが、その研究成果は国民を予防措置の管理下に置き、健康を害するおそれのある仕事には外国人や「劣等民族」をあてがうという目的のために利用されていく。まさに著者が序文で述べているように、科学者たちの多くは「政治から絶縁された修道院にでもいるかのように黙々と研究を続け、結果としてナチに協力していた」(11頁)のであり、さらに「大衆はナチズムに、その健康志向をはじめとするさまざまな分野での若さの回復を見た」(13頁)。
 以下、メモ的な事項を。自然療法の信奉者であるヒムラーは、民間療法やホメオパシーの研究を行ったが、これをもってナチスは似非科学的であり、それに対して正統派の医師は似非ではないのでナチスに手を貸さなかった、と言われることがある。事実、大戦後、ナチスの下で従事した医師たちの中には、ヒムラーと無縁であることから無実を主張しようとした者もいた。しかし実際には、正統派の医師もナチスの下で研究に従事していたのであり、そのような主張には根拠がない。なおヒムラーは、人間の肌を暖めるには「自然な」人肌の方がよい、ということで、凍死寸前にした人間を女性収監者に全裸で抱かせる、という実験を行っている(71〜72頁)。
 レイチェル=カーソンにも影響を与えたウィルヘルム=ヒューパーは、アメリカにおいて環境要因による発ガン研究の先駆者であったが、元々ドイツからの移住者であり親ナチスであった。そして、有色人種はタールなどが皮膚に及ぼす発ガン作用に免疫力を有すると主張して、それらに関わる職業には有色人種が就くべき、と1956年になっても主張していた(90頁)。ちなみに、もし万が一にもこれが科学的に実証されてしまえば、本当にこのように言われてしまうのではないかという気もする。それが差別になってしまうか否かは、これとは逆に「エリート的な職業に耐性があるのは有色人種」と証明されてしまったときの白人の反応次第だろう。たとえば、宇宙に進出するようになれば、そういう状況が生じるかもしれない。
 ヒトラーやヒムラーは、それ以前からの自然食品論者の主張と同じく、肉の過剰摂取を敵視した。肉食を減らせば健康に良いだけではなく、剰余分を輸出に回せるという主張もあったし、それどころか肉食による動物虐待を反対すらしていた。ちなみに、19世紀には果実や野菜の摂りすぎが癌をもたらすと考えられていた(152〜155頁)。
 ただし、ナチスによる禁煙運動は必ずしも成功したわけでもないらしい。1964年1月22日号の『シュピーゲル』の調査によると、ナチスが反タバコキャンペーンを行っているにもかかわらず、1人あたりのタバコの年間消費量は、1930年の490本からから1940年の1022本と、2倍以上に増えている。なお、同じ頃のアメリカでは、1485本から1976本へと増えている(272頁)。消費量の増加は、1930年代の好景気のおかげであるが、タバコが重要な財源であったのはナチスも他の諸国と同じであった(276頁)。
 なお、本書の著者は、ナチスが禁煙運動を推進していた事実を援用して、禁煙運動をナチスへとなぞらえる行為を強く否定していることに触れておかねばならない。本書を利用して、「ナチスが純粋主義者だったのだから純粋主義者はナチスである」(18頁)という理屈を振り回す人が出てきそうなことは、想像に難くない。それどころかフィリップ・モリス社は、1997年の広告で、非喫煙者をナチスに見立てて、彼らはユダヤ人をゲットーに押し込めるのかのごとく喫煙者を囲い込んでいる、と揶揄している(321頁)。なお、タバコ会社の多くは、禁煙が人体に悪影響を及ぼさないとする科学的な研究で反論しつつ、喫煙に対する反対を乗り越えようとしている(275頁)。いずれにせよ、ナチス時代の科学者が証明したり指摘したことであっても、肺ガンと喫煙の因果関係の数字が下がるわけではないのであれば、そのことは受け止めなければならない。なお、だからといって禁煙は絶対的な正義だから、どれだけ推し進めても良い、などと言うつもりはないので、念のため。
 ただ個人的には、喫煙が健康を重視する昨今の風潮に則さないのであれば、喫煙者がタバコを吸うこと認めてもらいたければ、タバコを吸うことの楽しさやメリットについて、健康以外の面から上手くアピールしなければならないのではないか、とは思うが。「ファシズム」などというレッテル張りをしても、時代は変わっているのだから、敵をつくるだけで味方を増やすとは考えにくいので。


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