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2009年5月の見聞録



5月2日

 オリヴァー・サックス(吉田利子訳)『火星の人類学者』(ハヤカワ文庫、2001年)を読む。精神科医である著者が、神経学的に異常があると見なされた人たちとの往診を通じて、人間の精神について書き綴っていっている。著者の態度として一貫しているのは、彼らを欠陥を抱えた不完全な人間と見なすのではなくて、それらを含めた上で、人それぞれで異なっている人格と見なして接していること。ここで誤解してはならないのは、何も障害者は純粋でいい人だと単純に理解すべきではないことだろう。そうではなくて、たとえ接したことのないタイプの人間であっても、一度それに対する理解をすれば、それはそれで受け入れられるということだ。ひっくり返せば、人間は偏見を持つ生き物で誤解をしてしまうということである。それは別に精神的に何か異常を抱えている人間に対してだけではなく、ごく一般の人に対しても起こりうることだ。悪しき偏見を持ってしまったのであれば、それを正すことは大事だが、偏見を持ってしまうことそのものさえも封じ込めてしまえば、本書も批判の対象となってしまうだろう。
 さて、本書で取り上げられている人々は、突然に全色盲になってしまった画家、60年代から記憶が更新されず、新しいことはすべて忘れていってしまう男性、突発的に行動してしまうトゥレット症候群の外科医、生まれてから目が見えなかったが視力を取り戻してしまった様々な患者、驚異的な記憶力で風景を描く画家、動物行動学を学び酪農施設の設計を手がけており、動物のことはよく分かるのに、人間の心情は理解できない自閉症の女性、など。なお、本書のタイトルは、最後の女性が自分は火星の人類学者みたいだ、と話したことに由来している。
 一番印象に残ったのは、視力を回復した人たちの話。彼らは触覚・聴覚・嗅覚で世界を認識しており、空間という概念は理解不能である。そして、視力を回復してしまうと、最初のうちは感動するものの、視力が逆にそれまでの世界に対する認識を邪魔するようになり、段々と取り戻した視力に対して不快感を持ち始めるようだ。そして、見えているのに見えていると認識しない状態へと陥ることもあるらしい。この話を読んでいてまず思い出したのは、井上夢人『オルファクトグラム』に出てくる嗅覚によって世界を認識する主人公なのだが、続いて京極夏彦『姑獲女の夏』のトリックを思い起こした。
 そして、自閉症の女性が、人間の恋愛感情は理解できなくても、動物の気持ちは微妙な部分まで読みとれる、というのも興味深い。この世はすべて合理的に判断できると考えるわけにはいかないのだな、と。それともやがて、こうした心情も合理的に説明できるときがやってきて、人工的に再現できる時代が来るのだろうか。


5月7日

 横山秀夫『第三の時効』(文春文庫、2006年(原著は2003年))を読む。F県警捜査一課強行犯係の3つの班を中心とした全6編の連作短編集。短編ごとに主役となる人物は異なっている。短編なので大がかりな仕掛けは使えないのは当然だが、それでも各話ごとに少しずつ異なる現実離れしていない謎を上手く盛り込んであり、6つまとめて技ありといったところか。ただ、警察の中のドロドロとした部分を、恐らく本当にこんな感じなのだろうなと想像させるようなリアルさで描いているので、爽やかな気分になりたい人にはお勧めしない。
 短編というのは短いがゆえに、伏線をいくつも張りつつ物語を構築していく長編とは異なるセンスが問われると思うのだが、同じ著者の『動機』と併せて考えると、この人はその辺りのセンスは抜群ではないかと思う。大がかりな仕掛けを施さねばもはや読者を驚かせられない長編よりも、内容をうまく絞ることが肝要となる短編向きの作家なのかもしれない。『半落ち』も長編ではあっても、短編連作のような感じだったので。


5月12日

 神永正博『学力低下は錯覚である』(森北出版、2008年)年を読む。学力低下と理工離れという言説について、あくまでもデータから再検討を行う。
 ゆとり教育の悪例としてしばしば取り上げられるのは、「円周率を3と教えようとした」という事例であるものの、学習指導要領には「円周率としては3.14を用いるが、目的に応じて3を用いて処理できるよう配慮するものとする」とあるにすぎない。そして、学力低下の根拠として、岡部恒治・戸瀬信之・西村和雄『分数が出来ない大学生』が取り上げられる場合も多い。この中に出てくる、大学生に試させた5つの問題は、確かに小学校レベルの計算である。だが、その正答率をよく見てみると、受験で数学を選択しなかった私立大学生で全問正解したのは78.3%であり、「3×{5+(4−1)×2}−5×(6−4÷2)」という問題4の正答率は85.5%であった。となれば、残りの4問の平均正解率は0.783÷0.855の4乗根であるので、0.978となる。100問ほど解いたら2、3問ほど間違えてしまっても無理はない。
 また、OECDの学力調査で日本が順位を落としたことも学力低下の証拠とされがちである。2000年・2003年・2006年のそれぞれの調査で、読解力は8位→14位→15位、数学的リテラシーは1位→6位→10位、科学的リテラシーは2位→2位→6位と低下傾向が見られるからである。だが実は、参加国数が32か国→41か国→57か国と増えていっており、上位から何%に入っているのかということを見れば、読解力は25.0%→34.1%→26.3%、数学的リテラシーは3.1%→14.6%→17.5%、科学的リテラシーは6.3%→4.9%→10.5%となり、数学では順位を下げているものの、読解力や科学リテラシーでは横ばいであると言える。
 大学生の学力低下も盛んに叫ばれているが、少子化傾向にもかかわらず、大学への進学率が上昇し続けており、なおかつ大学の定員数も減少していないため、以前ならば大学に行ける学力がなかった階層も進学できるようになったにすぎない。
 また、理工離れに関しても、確かに理数好きの子供は減っているのかもしれない。内閣府の「科学技術と社会に関する世論調査」によれば、科学技術に関心を持つ者は、1976年には30歳未満で7割弱で、30歳以上で6割であり、1970年代後半に少しずつ下落傾向が窺える。30歳以上で関心を持つ者は1981年で52.6%に対して、2004年で52.7%なのだから、ほとんど変化していない。にもかかわらず30歳未満においては、1981年が55.1%、1987年が48.4%、1990年が49.9%、1995年が43.4%、1998年が48.3%、2004年が40.6%と、特に2000年代に入って明らかな低下傾向が窺える。
 だが、国際数学・理科教育調査(TIMSS)の2003年度の結果で、数学を楽しく感じる生徒の割合と平均得点との相関係数を算出すれば、数学は-0.683、理科は-0.637となり、多くの国で平均点が上がれば挙がるほど好きでない子供が増える傾向が強いことが分かる(ただし、シンガポールのように、好きなものも多く平均点も高い国もある)。物理の履修率の低下も理工離れの根拠としてあげられることもある。だが、急落した年度は1973/4年と1980年代前半に集中しており、前者は物理が必修科目ではなくなった年度であり、後者は自由選択科目に含まれた年度と一致していることから考えれば、単なるカリキュラム上の問題にすぎない。
 そして、理学系の大学生のパーセンテージは微増している。工学系の大学生のパーセンテージは、1970年には21.1%であったが、2005年には17.3%と確かに減少しているものの、工学系への進学率が極めて低い女性の進学率が上昇したためである。ただし、確かに工学系への志願者は減っているが、それも理学・医歯師系へとシフトした結果にすぎない。
 これらを踏まえた上で、学力低下を防ぐ方策として、PISAで成績上位であったフィンランドと韓国、特に後者を参考にすべきとする。フィンランドでは、基礎学校から大学までの授業料はすべて無料であり、高校以上には学年という概念はなく、指定した試験に合格することでより上位の学校へと進級していく。韓国は、日本のシステムに近いが、大学の成績も就職に関係するために、勉強をし続けなければならない。それに加えて、教育課程において子供のうちに修得しておくべき事柄と言える、算数や国語の教育をした上で5年生以降に社会や理科を教えた方が能率欲深く学べるのではないか、と提言する。
 学力低下の言説について、このサイトでもデータや統計の取り方の面から何度か疑問を呈したことがあるが(たとえば、岡部恒治・戸瀬信之・西村和雄『分数が出来ない大学生』「苛立つ神学者のご託宣〜内田樹『下流志向』〜」)、それをさらに推し進めたようなものと言える。特に大学生の学力低下に関しては、うちの記事の方がやや新しいので、ほぼ同じような内容がすでに言われていたことになる。大学生を対象にした算数のテストに関しては、本書を読むまでその問題点を完全に見落としていたが、統計の印象操作でなんとでも言えるのだという実例だろう。
 なお、PISAの数学的リテラシーの成績の変化に関して、2000年と2003・2006年を比べれば、明らかに低下していることは否めない。ただし、小笠原喜康『議論のウソ』で述べられているように、2006年の1位から6位までの点数の間に統計的な有意差はなく、2003年と2006年はさほど数値は変わらないので、低下していると完全には言い切れない。ただし、市川伸一『学力低下論争』にて指摘されているように、1979年と1997年の高校2年生の勉強時間の統計を比べると、勉強をしない生徒とする生徒への二極分化はすでに1979年の段階でも生じているものの、1997年にはその二極分化のまま時間数がより減少していっているので、必ずしも策を講じなくてよいわけではない。著者もそのように考えているからこそ、対策を提案しているのだろう。
 ただし、問題となるのはやはり高校以上、特に大学の勉強が生きていくのに必須なのかという問題だろう。著者自身、1970年頃に日本職業指導教会が作成した「一般知能による学校職業選択基準表」を引用して述べているように、大学以上の知識がいる職業は7%程度にすぎない。1970年代に比べて情報化が進んだとしても、これが40%を超えることはないと思う。となれば、やはり大学の勉強はいったい何の役に立つのだ、という疑問が生じてしまっても不思議ではない。そうした状況の中で、学生に勉強への意欲を湧かせるのはは難しいだろう。
 以下、メモ的に。大学への進学率は戦後上昇を続けているが、1975年から1990年までは、男子において41.0%から33.4%へと減少している(45頁)。本書ではその辺りについて何も言われていないが、これは学力低下もしくはそれをめぐる言説と何か関係しているのだろうか。
 武者利光『ゆらぎの世界』(講談社ブルーバックス、1980年)から引用したエピソードとして、MITの大学院入試の応募者の話が挙げられている。ここでは約1000人の応募者からから30人選抜していたのだが、担当者曰く30人を選ぶよりも300の人を選ぶ方が遙かに大変だという(42頁)。
 文系と理系を比べると、後者の方が年収は低いと言われている。しかしこれは、前者に年収の高い金融関係者が含まれているのに、後者には年収の高い医師や歯科医が含まれていないためであろう(85〜87頁)。


5月17日

 柳広司『ジョーカー・ゲーム』(角川書店、2008年)を読む。戦前を舞台にしたスパイ養成機関に関連する短編集。陸軍内部に設立されたD機関は、日本軍人の気質には程遠い人材を集めた異端とも言える組織ではあったが、常人離れした異才が集められていた。かつてスパイであり「魔王」とも呼ばれる結城中佐のもとで鍛えられた訓練生は、到底不可能と思える困難に直面しつつも、任務を遂行していく…。
 短編ごとに主人公も違うし、どんでん返しを盛り込んだり、舞台設定の面白さで攻めたりと、スタイルも変えて飽きさせない工夫があり、非常に上手い。「殺人および自死は、スパイの存在を明るみに出してしまう最悪の手段」という掟をたたき込まれたスパイたちが、物語の背後で暗躍する姿は読んでいて、非常にスリリングだ。オビタタキに「このミステリーがすごい2009」の第2位とあるが、それも納得できる。
 ところで、D機関の常人離れしたスパイたちは、戦後にどうなったのであろう、と思わず想像してしまった。本書の中でも、彼らは日本が戦争に負ける可能性を前提に話をしていることもあったので、戦後において彼らがどうなったのか、という物語を書いてもらえれば、と勝手な要望をしてしまいたくなる。


5月22日

 河原宏『日本人はなんのために働いてきたのか』(ユビキタ・スタジオ、2006年)を読む。現代社会における働くことの意味を、特に近代と現代の日本を視座に据えつつも、ヨーロッパの事例を中心に歴史的な事例や考え方を引いて考察していく。
 たとえば労働を原罪と見なすユダヤ・キリスト教的な考えとは異なり、自然の中に自由な労働を楽しむという陶淵明が語るところの桃源郷を、ある種の牧歌的な理想郷の手本とする。また、労働観に関する現在と同じ状況を1930年代のアメリカに見出している。加えて、大正時代にも拝金主義が蔓延していた事実を、自由民権運動の主張を広めるために演歌を歌った添田唖蝉坊が、最後の歌である「金々節」でそうした状況を皮肉ったことから指摘している。それ以外にも、戦前の女工や児童労働者をチャップリンの「モダン・タイムス」の類似性にも触れている。同じようなことをスタインベック『怒りの葡萄』にも見出している。登場人物の小作人が追い詰められて「戦争があれば…」と呟いている場面などは、現代でも赤木智弘「丸山真男をひっぱたきたい」が繰り返していることと言えよう。
 こうした指摘そのものは興味深くあり、歴史は全く同じことが繰り返されることはないとはいえ、遡ればいくらでも類型を見出すことが出来るのだ、という点に改めて気づかされたことについては学ぶところも多かった。だが、正直言って、全体的に見ればあまりピンと来なかった。確かに著者がいうところの働くことに喜びと生きる意味を見出す、というのは理想としては意味があるし、またそのための手本を過去から探し出すことは重要であろう。しかし、そうした指摘や現状認識が、そのまま現在という社会の中で行かせるのかどうかという点においては、本書を読むだけではなんの回答も見出すことが出来なかった。たとえば、江戸町人の「宵越しの銭は持たない」という考え方を、粋という感覚にまで高めたことに歴史的意義を見出したとして、それをどのように現代社会に実現するのか、という具体案こそが今は必要なのだ。加納朋子『沙羅は和子の名を呼ぶ』を読んだときにも書いたことだが、明らかに技術の洗練を必要としない単純作業に従事している人間は、どのようにすれば働くことに喜びを見出せるのか、ということだ。あそこまで単純化した労働は実際には少ないのかもしれないが、それでも現在の社会にはそうした労働に従事している人間が少なからずいるのだから。
 おそらく、今から20年以上前に本書を読んでいれば、本書を自分の考え方の中での1つの指針にしていたことだろう。だが、社会に対する無関心や無感動を超えて、働くことに喜びと生き甲斐を見出すべし、というテーゼそのものは、今さら言われるまでもないことなのだ。それは、学部時代に中岡哲郎『人間と労働の未来 技術進歩は何をもたらすか』(中公新書、1970年)を読んだときから分かっていたことだ。本書の基本的なテーゼは、この40年近く前に書かれた新書で提言されているものとほとんど変わらない。つまり、根本的な意味での状況は何も変わっていない。必要とされているのは、働くことに喜びと意味を見出すことを、いかにして現実の仕事の中で実例を挙げていくことが出来るのかということだろう。つまり、人それぞれの状況に応じて、それぞれにとってどのような考え方があるのかという言葉を紡ぎ出すための方策である。いわば、様々な患者に対応できる医者のようなものだ。残念ながら私にとって本書は、過去を振り返って現在の状況を認識するためには役立っても、先へ進むための道具とは成り得なかった。
 そして、もう1つ気になるのは、自分の経験に基づく考え方を、無批判に高く評価する傾向が窺えること。たとえば、中学校の頃に本を持っている人間を殴りまくる軍人がいたという経験について、国家は本を読まない学生を作るのに狂奔していたと、ややネガティヴに語る(113〜114頁)。だが、著者のいう桃源郷とは、本を読む必要のない人は本を無理に読まなくてもいい世界ではないのだろうか。本を読みたいのに読めない人がいるのは決して望ましくないが、本を読むことを絶対視する必要性もなかろう。ここを読んだときに思い起こしたのは、山中恒『児童読物よ、よみがえれ』にて紹介されていた、「本を読まなかったから日本赤軍になるような人間が登場した」というデタラメな恫喝を行った人たちである。また、戦中の工場にてごくわずかな食事だけでも何とか働けたことから、今の医者や栄養士の考え方は絶対のものではなく、人間にはもっとフレキシビリティーがあるのでは、と説く(121頁)。たとえそうであるとしても、食べられるに越したことはない。これではまるで、食べられなくても働くべしという考え方であり、著者の理想とは逆で、むしろ批判していた思想に近いのではないかと思える。この辺の整合性のなさもどうも気に掛かる。


5月27日

 谷川流『涼宮ハルヒの退屈』(角川スニーカー文庫、2004年)を読む(前巻はココ)。野球、七夕、失踪者の捜索、殺人事件などを題材とした短編集。ハルヒを退屈させないということを主題に、SOS団の個々の面々に焦点を当てたという感じか。可もなく不可もなくといったところ。ただ、前巻から少し気になっていたのだが、キョンが衒学的な知識でもって比喩をしようとする箇所がちょくちょくあるのだが、やはりこういった文体はあまり肌に合わない。


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