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2008年10月の見聞録



10月4日

 笠谷和比古『主君「押込」の構造−近世大名と家臣団』(講談社学術文庫、2006年)を読む。平凡社選書版(1988年)の改訂増補版。江戸時代には、主君を家臣団が強制的に隠居させる「押込」は、決して珍しい行為ではなかった。ただし、それは時代劇などに見られるような、家臣団が主君を蔑ろにして権勢を欲しいままにしている、というイメージとはまったく異なっている。確かに、近世初期の「押込」は、暗殺と同義に近い強制的な廃位であった点において、戦国期の下克上の延長線上にあった。だが、近世社会の進展と共に、むしろ悪政や不行跡を行う主君への諫言を超えた最終的な手段として用いられる一方で、君臣間の協約によって君位の復帰もあり得るような柔軟性を備えた制度へと変貌していく。しかも、身分制の維持を重視していたはずの幕府さえも、「押込」を是認するという立場をとった。
 近世的国制においては上位者への絶対的な服従が原則であったのに「押込」という手法が認められたのは、藩政がいかにして形成されたのかということと関連している。確かに、幕藩体制の元で藩主の権力は藩領全体を覆い尽くしていく。だが、それによって今度は、家臣たちも属している藩という政治機構の中に藩主も包摂されて、藩主でさえもその意志に従属せざるを得なくなった。したがって、諫言と「押込」は専制君主への哀願ではなくて、統治を共に担った家臣団による勧告だったといえる。
 ここでは割愛したが、「押込」に関する実証的な事例も色々と挙げてあるので、上記のような主君を蔑ろにした家臣団という、江戸時代を舞台にした物語によくあるようなイメージは、十分に覆されるだろう。また逆に、殿様が好き放題にやっていたという物語もよく見られるが、決してそうとは限らないということも分かる。江戸時代の国制について、簡単にではあるが抑えることができるし、私自身は具体的な政治劇に特に関心がなかったのでその辺りは読み飛ばしたが、興味のある人はさらに楽しみながら読めるだろう。


10月9日

 西澤保彦『瞬間移動死体』(講談社文庫、2001年(原著は1997年))を読む。中島和義は、売れっ子作家である中島景子の婿養子であった。怠け者である和義はその状況に満足しているし、また、景子にいじめられることで、お互いの愛を確認するという不思議な関係でもあった。そもそもは和義が怠けて暮らすために小説家を目指していたものの、まったく才能がなかった一方で、景子がそれを真似したところ売れっ子になってしまったのだが、それでも小説書きを続けていた和義に景子が無駄だから止めれば、と言い放ったことで、それまでの愛情は一転して殺意へと変わる。そして和義は、それまで使い道がなかった常人にはない能力を活用した殺人計画を思いつく。それは、酔っぱらい時限定テレポート能力であった。けれども、なぜだか全く無関係の人間の死体が見つかり、景子の妹や秘書を巻き込んで不可解な状況へと陥る…。
 和義と景子のひねくれた愛情関係と、和義の能力の説明の部分が、読んでいて面白いのだけれども、少し長すぎて、本題の部分がやや短めに感じてしまったのが残念。ただ、和義のモノローグである、最後の二行がものすごく切ない。「何もかも、上手くいくのだ。多分。作家になりたいという俺の夢以外は」(410頁)。そのすぐ前の部分で和義は、自分は紙屑同然のような原稿しか書けないが、若い才能に嫉妬するのは面倒くさいので憧れるだけにしておこう、と考えている。しかし、それでも結局のところ書き続けてきた和義は、本心を押しとどめているかのように見えてしまう。これは、何か文章を書いて人に読んでもらいたいという人にとって、他人事ではないと感じるのではないだろうか。これは折原一『倒錯のロンド』を読んだときにも感じたことだが、同じミステリであっても作品の方向性は全く違う両者で同じような感慨を抱くのは、なんだか奇妙な気もする。


10月14日

 市川伸一『学力低下論争』(ちくま新書、2002年)を読む。そのタイトル通り、ゆとり教育の導入後、2000年頃より生じた学力低下をめぐる論争を眺めていき、自分自身の見解を述べていく。
 まず、論争の見取り図として、ゆとり教育のために学力の低下が生じたとする立場と、ゆとり教育の推進を訴える立場という立場の対立では不十分として、ゆとり教育に反対か賛成かという軸に、学力低下に対して憂慮しているか楽観的かという軸を組み合わせた上で、論者の立ち位置を再検討している。こうしないと、著者自身のような、学力低下を憂慮しつつも、ゆとり教育には決して反対ではない論者を見落としてしまうことになる。そのうえで、論争の展開を時間の経過ごとに追いつつ、各論者の主張を見ていっているわけだが、重要なのは、それぞれの利害関係が主張に重要な意味をもっている傾向が窺えることだろう。
 まず、子供たちが勉強しなくなったという意見は、特に大学受験に何らかの形で関わっている論者を中心に提示された。学力低下が生じているならば、文部省の指導を優先せざるを得ない公立校に比べて、私立や塾は、自分たちの元で学べば学力が伸びるとのキャンペーンをしやすくもあった。一方で、ゆとり教育改革を推進していた立場からすれば、受験勉強のためのカリキュラムに基づく詰め込み教育を改善しようとしていたにもかかわらず、学力低下を論拠として、せっかく養ってきた総合的な学習のやり方を揺るがされたくない、と考えていた。
 論争のまとめ方は非常に分かりやすく、著者自身もこの論争に加わっていたけれども、出来る限り客観的な立場に立とうとする努力が窺え、記述もバランスの取れたものになっていると思う。以上をまとめた上で、著者の見解を改めて表明する。まず、学力というものがそもそも何をさすのか、ということに注意を払う。たとえば、論争に直接関わったわけではなお毛利衛は、学力低下を訴える論者と対談したとき、分数計算能力などの低下は大事な問題であっても本質的ではなく、コンピュータの操作能力のような、今までの体系で整理できないものもあると述べている。著者も、学力低下が必ずしも生じているわけではないと見なしつつも、自身の経験から英語では三単現のsなどの文法的な概念を持たないまま高校へ進学する生徒もいるという(ただし、これについては、少なくとも本書を読む限り、個人的な経験と伝聞以上の論拠はない)。勉強の仕方が、あたかも作業をこなすような中抜き的なものに変化しつつあるのではないか、と危惧している。
 だが、それ以上に著者が問題視しているのが、この論争の背後に、これによって利益を得る者がいるのではないかということのようだ。それは先の自分たちの立場に立った主張と関連するのだが、公立校の地盤沈下によって自己の振興を計る私立校の思惑だったのではないか、と推測している。その論拠として、東大進学者の出身校において公立校がほとんど見られなくなったことを挙げている。個人的には、偶然によって生じた状況を、私立校側が利用したように見えて、誰かが背後でシナリオを書いたとは思えなかった。このあたりは、著者が公立校から東大へ進学したという自分自身のバイアスが掛かっているようにも思える。ただし、結果としてそのようなことが生じた、という指摘それ自体には、決して意味がないわけではないと思うのだが。
 なお、著者は学力の低下は民主的な社会を維持できなくなることへとつながる、と述べているが、これについては少し考え方がずれているような気がする。歴史的に見れば、古代アテナイにおいて、同じ年代のものがあつまって一斉に教師による授業を聴くという近代的な意味での学校は存在しない。別に学ぶことが必要ではないといいたいのではなくて、本書で焦点となっている学力と民主主義との間に関連性があるというのは疑わしくみえるにすぎない。そもそも、民主主義をそこまで重視することそのものが、あまりにも近代的なものの見方にすぎないと思うのだが。
 それはともかく、学力低下論争を俯瞰するには、「中央公論」編集部・中井浩一編『論争・学力崩壊』以後の状況もまとめられているので、この辺りに興味があれば、まずまず満足できるだろう。
 ちなみに、メモ的なことだが、1979年と1997年の高校2年生の勉強時間の統計を比べると、確かに勉強時間が減少している。ただし、勉強をしない生徒とする生徒への二極分化はすでに1979年の段階でも生じており、1997年に見られるのは、その二極分化の状況はそのままに、より時間数が減少していくという、いわば下方へのスライドであったことがわかる(57〜58頁)。


10月19日

 入間人間『嘘つきみーくんと壊れたまーちゃん 幸せの背景は不幸』(電撃文庫、2007年)を読む。小学生兄妹の失踪事件と連続殺人事件が起こっている田舎町。実は8年前にも同じような失踪事件が起こっており、その時は犯人の死亡によって事件の幕が下りた。高校生の「僕」はクラスメートの御園マユを尾行していったところ、彼女の家に失踪した小学生兄妹を発見する。しかし実は、彼らこそ8年前に誘拐された「みーくん」と「まーちゃん」だった…。
 「第13回の電撃小説大賞の最終選考会で物議を醸した問題作」と表紙の説明に書いてある通り、この小説はかなり痛い。児童虐待を受けた者は、自分が親になると子供を虐待してしまう、という俗説をよく聞くが、最初の部分はまるでそれを悪意を持って再生産しているかのようにも感じた。ちなみに、表側の表紙にはまーちゃんを前から見た姿が描かれているのだが、それと対応するかのように描かれている裏表紙の後ろ姿では、実は背中に血の付いた包丁を持った姿で描かれている。このようなどこか歪んだとしか思えない性格が、ほとんどすべての主要人物に共通している。それは、まーちゃんをかばうみーくんが犯罪に直面しても妙に醒めているというだけではなく、連続殺人の真犯人、そして彼らの主治医である女医やその友人である女刑事、さらには誘拐された兄妹たちでさえ同じ。悪意を煮詰めたあとで、極端に冷やしたスープといったところか。とはいえ、登場人物全員がひねくれていると、かえって狂気めいたものが薄れてしまうようにも感じたのだけれども。桜庭一樹『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』、新堂冬樹『鬼子』、ジャック・ケッチャム『隣の家の少女』などのような、後味の悪い小説好きな人にはお勧め。ただ、同じく後味の悪い西尾維新『きみとぼくの壊れた世界』と同様に、いわゆるライトノベル的な回りくどい文体は、やっぱりどうにも肌が合わないのだが。


10月24日

 秋田孝宏『「コマ」から「フィルム」へ マンガとマンガ映画』(NTT出版、2005年)を読む。19世紀末から20世紀初頭にかけて、マンガがコマによるストーリー展開の携帯を整えていくなかで、アニメーションとどのような関係を持っていったのかについて、アメリカと日本の事例を見ていく。アメリカの場合、コミックストリップと呼ばれる物語マンガの構造を取り入れて、マンガ的なコマ割りを意識したアニメーションが制作されていた。しかし、ディズニーは音楽をアニメに取り入れて、フィルムの枚数と時間をぴったり合わすことによって表現方法をミュージカル化させていくことで、アニメはマンガと別のメディアになっていく。
 これとは逆に日本では、マンガのコマ割りを受け継いだアニメーションの形式が発展していく。特に重要なのは『鉄腕アトム』であり、制作コストと時間を抑えるために、動く部分と動かない部分とを分けて描き、また使用済みの作画・セル・背景等を保存して再使用するシステムを導入した。口の動きの簡略化や高架線を付け加えるという少ない変化で動きを出そうとするといった手法は、現在のアニメの基礎となった。こうした手法は、マンガが持っている、1つの場面を描いたコマでありながら、吹き出しや効果音や線の動きによって時間の進展を見せることができ、さらにはコマ同士の組み合わせによって、その進展の緩急まで示しうる技法と類似性がある。実際に『ドカベン』のアニメを原作マンガと比べてみると、原作のコマ割りを活用しつつ、さらにその中で動きを見せようとする工夫が随所に見られる。山田太郎がフライを捕るために相手チームのベンチに突っ込む場面では、アニメでも止め絵が用いられており、描くのが難しい動きのあるシーンを、陳腐にせずに迫力ある場面として描こうとしているのは、その例であろう。それは、たとえば『頭文字D』のようなレースシーンをCGで制作しているアニメにさえ受け継がれており、レースシーンの間に挟まれている物語の場面では、会話のシーンで口と僅かな部分だけを動かしているなど、旧来の作り方を用いている。
 こう書くと本書は非常に面白そうなのだが、実は最後の日本のアニメとマンガのコマ割りを比較している部分は、全11章のうちの1つの章にすぎない分量だったりする。しかも、『ドカベン』を取り上げただけで、それ以後どうなっていくのか、という部分はごく簡単に展望を述べるだけで終わっており、詳しい分析がない。それよりも、戦前の日本のアニメーションの流れや手塚治虫のアニメに関する説明、また竹内オサムが訴えた同一化技法の説明、さらにマンガというメディアが持つ、読者自身が読み進めるスピードを管理して、なおかつ直線的に情報を追うだけではなく二次元に広がった情報を組み合わせて読みとるという特質など、どちらかといえば主題の基礎固めと言える内容が大部分を占めている。
 その辺りの基本をおさえたり、歴史的背景といったような基礎事項を確認するには便利とも言えるのだが、それは本書のタイトルから推測される内容とは少しずれがある。むしろ、一番最後の章を本題に据えていれば、本書はマンガ研究にとってもっと意味があり、読み応えのあるものになったであろう。
 ちなみに、『鉄腕アトム』が異常なほどの低コスト制作を始めてしまったため、アニメの制作費は低く抑えられる結果になった、というよく紹介される逸話が本書にも出てくるが(154頁)、「「アニメの制作費が安いのは手塚治虫のせい」というのは本当か」(『愛・蔵太のもう少し調べて書きたい日記』)を読むと、手塚治虫にすべての功罪を帰するのは避けた方が良さそうなようである。


10月29日

 飯田譲治・梓河人『盗作』(講談社、2006年)上を読む。海辺の町に暮らすごく平凡な高校生の越ヶ谷彩子は、突然、天啓を受けたかのごとく頭の中にインスピレーションが浮かび上がり、傑作とも呼びうる作品を描きあげてしまう。その作品は著名な画家によってすぐに認められ、彼の名前を付けた賞の大賞として即座に選ばれる。しかし、実はその絵と全く同じような作品が、すでに描かれていた。身に覚えのない盗作の汚名を着せられた彩子は、高校を卒業すると逃げるように東京へと移る。すると、今度は頭の中にメロディが浮かぶ。その曲をミュージシャンのところに持っていくと、すぐに録音され大ヒットになるも、海外の無名のミュージシャンがすでに発表した楽曲にそっくりであり、またしても盗作とのレッテルを貼られる。プロポーズしてくれた男性と逃げるようにアメリカへ渡り、子供も産んですでに老境に入ったある日、今度は頭の中で物語が浮かび上がり、それを仕上げずにはいられなくなる。またしても同じことが起こるのではないかと恐れた彩子だが、その小説は高く評価されていくことになる…。
 …というメインストーリーに、彩子の故郷の友人、特に画家を目指していたお嬢様が最後の小説編の部分にも絡んできて、許しをモチーフにした感じで物語を盛り上げるのだが、個人的にはその辺は余り関心はない(面白くないというわけではない、念のため)。それよりも、天啓を受けたかのごとくインスピレーションが湧く、ということへの陶酔と焦りの感情を描いた部分の方に惹き付けられる。以前、とある論文を急に思いつき、結論に至るまで2日で書き上げたことがある。私は「神が降りてきた」と表現したが、何かをつくることに携わっている人間には、突然その作業が進んでしまうことがあると思う。ただし、別の機会に同じことが起こったのだけれども、その論文は史料の読み間違いが判明して、ボツになってしまい、これを「邪神が降りてきた」と表現したこともあるのだけれど。
 個人的な経験はともかくとして、何かを生み出す作業に携わっているものは、新しいものを生み出すことを求め続ける。彩子は、天啓が再び降りてこないことを思い「一生あれが来ないと思うとぞっとする。あの濃密な味を一度知ってしまったら、どうしてあれなくして生きていくことができるだろう」(上巻・91頁)と恐怖する。その一方で、同じようなものを誰かがすでに発表しているのではないか、という恐怖は常にある。意識的に盗作する人もいるだろうが、そうではなくとも偶然似ている場合や、むかし見聞したものに知らず知らずのうちに影響を受けてしまうこともある。最後に彩子は、授賞式の場で自分の過去を告白して、同じような物語を書いた者がいても、その人を責めないで欲しい、とスピーチした。盗作は許されることではないが、彼女の心情もまたよく分かる気がする。


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