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2008年9月の見聞録



9月4日

 内田樹『下流志向 学ばない子どもたち、働かない若者たち』(講談社、2007年)を読む。副題にあるようなやる気のない若者自身こそが、格差社会の原因となっているとする。そして、消費者としての主体をまずは確立しているがゆえに、その立場からしか価値判断ができず、そうした判断を行う自己決定に何よりも重きを置く若者の風潮を批判する。
 よくあるタイプの若者批判だと思うのだが、疑問点の方が圧倒的に多い。つらつらと書いていったところ、あまりにも長くなってしまったので、雑文の文書庫「苛立つ「神学者」のご託宣−内田樹『下流志向』−」という独立した記事として書いてみた。
 本書を読んで、以前から何度か書いている、優れた研究者であったとしても現代社会の改善の提言者にはなりにくい、ということを改めて感じた。それと共に、たとえ自分自身が生きている現在の社会を題材としても、研究に対する態度と同じように、しっかりと資料を集めて慎重に吟味する必要があるのだ、ということも認識させられた。より詳しくは、雑文の文書庫にて…。


9月9日

 高野和明『K・Nの悲劇』(講談社文庫、2006年(原著は2003年))を読む。ベストセラーを執筆して印税を得た夏木修平は、妻の果波とともに新居へと移り、新たな生活を始める。しかし、新居の購入によって印税の多くを使ってしまい、新たな作品を書かなければと焦り始める。そのようななか、果波が妊娠してしまい、とても生活を支えられないと考えた修平は、中絶を勧める。それに納得した果波であったが、突如として別の人格が現れ、中絶を拒否した。果波の治療を受け持つことになった精神科医の磯貝は「乖離性同一性障害」と診断するが、修平たちは徐々に心霊現象ではないのかと疑い始める。しかし磯貝は、果波の過去と友人関係に原因があると考えていた…。
 同じ病気を扱ったものとして多島斗志之『症例A』を読んだことがあるが、あちらが病気そのものの存在をじっくり描くことを主眼に置いているのとは異なり、こちらは病気を舞台設定に用いてプロットを組み立てているといった感じか。物語としては堅実ではあるが、すこしこぢんまりまとまりすぎているかな、という気はする。この辺は個人の好みの問題なのだが。


9月14日

 西岡文彦『モナ・リザの罠』(講談社現代新書、2006年)を読む。「モナ・リザ」の評論は、レオナルド=ダ=ヴィンチの手によるものと誤解されていた作品からの連想によって行われ、また文学的な表現で述べられることが多かった。そうした絵画史の流れを抑えながら、「モナ・リザ」の見方を紹介していく。
 「モナ・リザ」のモデルが誰かということは、まだ確定していない。また、レオナルドは「モナ・リザ」というタイトルを付けたとは確認されておらず、後世の人間による命名と考えるのが一般的である。その「モナ・リザ」という呼び名の由来は、「モナ」は婦人の意味で、「リザ」はモデルとして最有力視されているリーザ=ゲラルディーニである。ただし、イタリア語やフランス語では、別のモデル候補である「ジョコンド婦人」に基づき、「ラ・ジョコンダ」と呼ばれる。なお、「モナ・リザ」は英語読みであり、イタリア語では「モンナ・リザ」である。「モンナ」はイタリア語で「婦人」だが、「モナ」は俗語で女性器を意味するため、イタリア語で「モナ・リザ」とは読むことはあり得ない。
 「モナ・リザ」の微笑みが謎めいているのは、当時の絵画技法が南方と北方で異なっていることと関連している。南方の画家が風景を描く際には、理念的な本来あるべき姿を描くため、現実っぽく見えなくなってしまうことが多い。逆に北方の画家は、見えた通りの姿をリアルに描く。このために不可欠なものは油絵の具であったが、レオナルドはこれをいち早く取り入れ、しかも北方の写実的な作画にも到達した。「モナ・リザ」の背景は、模型のような自然界にない風景であるものの、実際の描写においてはきわめて写実的に描かれている。
 そして、南方の肖像画は古代のメダルの伝統に則り、横顔で描かれるのが一般的だった。他方、北方ではモデルが斜め正面を向いた姿で描く技法が確立していた。「モナ・リザ」には、この技法が取り入れられている。つまり「モナ・リザ」は、南北の精神をブレンドして描いた作品と言え、しかもレオナルドの観察眼に基づいて描かれたリアルな人物が微笑んでいるからこそ、一筋縄ではいかない印象を観覧者に与える。
 本書において、「モナ・リザ」やレオナルドそのものに関する記述は、それほど詳細なものではない。むしろ、その周辺から包み込むように「モナ・リザ」の特徴を理詰めで追っている。それ以外にも「モナ・リザ」評論の流れも記されている。たとえば、サロメの首をグロテスクに描いた絵画がレオナルドの作品と見なされていたがゆえに、「モナ・リザ」もその観点から論評されたという。文学的な評論もあったが、実際に文学としても描かれている。たとえば、ロシアの作家メレジコフスキーが1901年に執筆した、レオナルドについての伝記小説「神々の復活」は、彼とモナ・リザの間にほのかな恋愛関係があったとという設定を用いている。なお、この小説を高校時代に読んだ梅棹忠夫は、レオナルドが肌身離さず手帳を持ち歩いたという逸話に基づき、『知的生産の技術』のなかで知的生産の基本と見なす「発見」に関して解説している(78〜80頁)。
 ちなみに、ダン=ブラウン『ダ・ヴィンチ・コード』にも触れている。ルーブル美術館の館長が殺された間際に残された暗号を解読すると、「Mona」という文字でこれは「モナ・リザ」を暗示しているのだが、フランス人であるにもかかわらず、英語で表記している。これはまだしも、実は「モナ・リザ」の名前がアナグラムになっていると主人公の大学教授が解明するのだが、レオナルドまでもが「Mona Lisa」という英語表記のタイトルを使っていることになっている。著者も指摘しているように、当時の英語は別に国際語でも何でもないので、レオナルドがわざわざ英語を使う理由はない。
 ところで、皆神龍太郎『ダ・ヴィンチ・コード最終解読』を読んだとき、少し気になって『ダ・ヴィンチ・コード』を手にとって、「最後の晩餐」に加えて「モナ・リザ」についてどういうことが書かれているのかをパラパラと眺めてみた。「最後の晩餐」については批判されてる通りの記述だということを確認したのだが、「モナ・リザ」の部分については「これは本当だろうか」と少し調べてみたことがある。結果として分かったことは、非常に疑わしい、ということだった。まずは『ダ・ヴィンチ・コード』で展開されている説を簡単にまとめてみる。
 『ダ・ヴィンチ・コード』によれば、レオナルドはキリスト教では抑圧されていた女神を崇拝していたため、「モナ・リザ」が男性にも女性にも見えるように描いたという。そして、そのことは「モナ・リザ」というタイトルにも込められているとする。というのはこの題名をアナグラムにすると、エジプトの神であるアモン神(AMON)と古い象形文字でリザ(L'ISA)と呼ばれていたイシスに並び替えることができるからである。そして、アモン神とイシス神は夫婦であったことからその両者を同一人物のなかに描くことで、両性具有者として「モナ・リザ」を描いたことを暗に込めたと説明する。なお、シオン修道会の文書によれば、パリのサン・シュルピス教会はイシスの神殿跡につくられたという。
 以上が主な内容だが、そもそも上述のように、「モナ・リザ」はイタリア語ならば「Monna Lisa」なので、このアナグラムは成り立たない。そして、レオナルドがエジプト神話に関する知識を持っていたかどうかについてはよくわからない。それを間接的に示すものとして、サン・シュルピス教会がイシスの神殿跡につくられたという説が挙げられているので、その流れで秘密裏に知識を受け継いだという主張は可能ではある。とはいうものの、この説はシオン修道会の文書に基づいているとあり、シオン修道会の存在そのものが怪しいので、歴史的な根拠はまったくない。あえてこれらの点に目をつぶったとしても、エジプトの神話に対する解釈がどうも疑わしい。
 まず、アモン神の妻は一般的にコンス神であり、イシス神はオシリス神の妻であることが通例であり、イシスとアモンを対にして描くということはおそらくなかったはずだ。そもそもエジプトにて男神と女神が対になっているのは、あくまでも二元論に基づく考え方であって、両者が融合するという概念ではない。なお、アモン神はラー神と融合することはあったが、それは男女という対の神々が融合したわけではない。そして、イシスの古い名称に「リザ」というのがあったことが、特に確認できない。
 なお、私は古代エジプト史の専門家ではなく、イアン=ショー・ポール=ニコルソン(内田杉彦訳)『大英博物館古代エジプト百科事典』(原書房、1997年(原著は1995年))リチャード=H.=ウィルキンソン(内田杉彦訳)『古代エジプト神々大百科』(東洋書林、2004年)で調べた程度にすぎない。なので、もしかすると非常に珍しい事例だけれども、アモン神とイシス神の融合を示す史料や、後者を「リザ」と呼ぶ史料が本当にあるのかもしれない。だが、この説をまるでごく一般的な通説であるかのように主人公の大学教授に話させているのはあまりよくないだろう。というよりも、その程度の関係性でよいのであれば、想像力さえあれば何でもありなのではなかろうか。もちろん、いかに想像を面白く見せるのかというのも小説家の力量として評価すべきなので、その点において世界中の人を楽しませた『ダ・ヴィンチ・コード』は優れているのかもしれないが。ただ、これほど簡単に突っ込まれないような、もうちょっと深みのあるネタにして欲しかったところではある。
 まあ、小説に対して細かい突っ込みを入れることは、遊び心に欠けているのかもしれないが、あくまでもエンタテインメントとして楽しむにとどめておき、ハイソな教養を得たと勘違いしないように気を付ける必要性はある。なお、本書では、晩年のレオナルドが殆ど評価されない寂しい人生を送っていたことについて簡単に触れられている。『ダ・ヴィンチ・コード』に書かれているように彼が秘密結社の総長であれば、どれほど幸せだったのか、という著者の言葉は、なかなか重みのあるものだと思う。


9月19日

 高橋克彦『緋い記憶』(文春文庫、1994年(原著は1991年))を読む。記憶に関連するホラーの短編集。そのほとんどが東北地方と関連して描かれている。裏表紙に「選考委員の激賞を受けた「ねじれた記憶」」とあるが、個人的にはこの短編はあまり面白いとは感じなかった。幼い頃に母に連れられた記憶を辿って岩手の山深い旅館に向かったある作家は、子供を連れた女中の相手をしていたところ…といった話。これを読んで思い起こした手塚治虫『火の鳥 異形編』の方が、深みがあるように感じてしまったので。この短編が2番目であり、最初の短編の「緋い記憶」も可もなく不可もなくといった感じなので、うーんと思っていたら、3話目から俄然面白くなる。
 3話目の「言えない記憶」は、子供の頃に事故死した女友達が死ぬ直前との出来事を記憶に封印していたが、その女友達の兄に問い詰められて真相を告白したところ、おぼろげながら彼女の死が事故死でないことに気づいていき…というもの。最後の大根の件が、読んでいるこちらも吐き気をもよおすような気持ち悪さが、えぐくてよい。同じように、幼い頃に盛岡で過ごしていた記憶が欠落していたが、現地に行って忘れていた幼なじみと会い、最後には恐怖と憎悪に燃えた目で自分を見つめる母を思い出す「遠い記憶」も、おぞましくてよい。なぜか食あたりを起こした原因となったミネラルウォーターの原産地を尋ねたところ、自分の命に関わる悲劇を知った「虜の記憶」も、物悲しさがさらりと伝わってくる。ロンドンでの男女の恋愛をめぐる悲劇を描いた「霧の記憶」も人間のエゴをいやらしく描いていて、まずまず。最後の「冥い記憶」は、特に印象に残らず。
 全体的にレベルが高く、短編を描くのがなかなか上手いと思う。直木賞受賞作品とのことだが、ホラー好きならば読んで損はないだろう。


9月24日

 藤田達生『秀吉神話をくつがえす』(講談社現代新書、2007年)を読む。百姓の子供として生まれて異例の出世をして天下統一を成し遂げた秀吉は、江戸期には庶民の英雄となり、近代には軍国主義の象徴となり、戦後には改革者として平和の実践者と見なされていくという、神話の書き換えが常に行われた人物であるとして、その神話の底にある彼の実像に迫ろうとする。特に、戦後には、太閤検地によって家父長的奴隷が農民になり得たと強調されたり、秀吉が発布した惣無事令を、大名間での交戦権を否定することで、平和政策を推し進めた「豊臣平和令」と見なすことで、秀吉から徳川の平和へと至る過程が強調されてきたことに対して、疑念を呈している。
 そもそも秀吉は農民出身と見なされているが、これを疑い、賤民的な行商を行う商人集団の出自ではないかとしている。その出自にこそ、彼の情報収集能力の高さは由来していると考えられるからである。そして、このことは信長の戦争のやり方とも重要な関連を持っている。戦国大名同士の戦いは、兵站の確保に限界があったため、敵領に侵入して刈田や放火を行って心理的な圧力を加えたり、敵方の内応を確保してから主力戦に望むのが基本的な戦略であり、長期的には所領の境目をめぐって一進一退する戦争が繰り返されていた。これに対して信長は、敵城周辺に攻略の拠点となる付城を築き、徹底して敵城の陥落と殲滅を狙う戦術をとった。そのためには当然ながら土木工事が必須であるが、これに適していた人物こそ秀吉であった。
 そして、秀吉が本能寺の変の後に明智光秀を破って地位を確立したことは、当時の信長陣営の状況と大きく関連している。そもそも、明智光秀は、和歌やお茶を嗜む教養人であり、本能寺の変の1年前に定めた家中軍法でも、主君への忠孝を重視している姿勢が窺える。こうした様相からは、主君殺しを感情から行うようとは考えにくく、それゆえに実行したとしても単独で行ったとは考えにくい。
 もともと信長陣営の内部では、勢力拡大に伴って、家臣たちによる生き残りをかけた競争も日常化していた。そして、晩年の信長は、畿内の領土に自分の親族や近習を配置し、麾下の大名は命令ひとつで自由に転封しうる存在にしようとした。また、信長によって樹立された足利義昭の政権は傀儡政権と見なされてきたが、近年は義昭が幕府機構を整備して、それが機能してきたことが明らかになっている。さらに義昭は、信長に対抗するような行動を幾つも行っている。
 これを示すのが、天正6(1578)年に、機内の要地である摂津を任されていた荒木村重が謀反を起こした事実である。この背後には、義昭から毛利氏を経ての寝返りの説得があったことと、彼が遠征軍の司令官をめぐる出世争いに負けたことがあるとする。そして、同様の構図が明智光秀にもあったとする。これと関連するのは信長の対四国政策である。信長は、長宗我部元親と結び四国方面への足がかりとしていたのだが、その元親の正妻は、光秀と血縁関係にある臣下の縁者であった。しかし、光秀は畿内に勢力を持っていたため信長の親族や近習と対立する関係にあり、一方で秀吉は彼らと血縁関係を結び、また中国での勢力拡大を狙うなど生き残りを画策していた。こうしたなかで、信長は長宗我部家との関係を解消する。これは、光秀が秀吉との争いに敗れたことを意味する。結果として、元親と光秀、さらには秀吉の攻撃目標でもある毛利家が、義昭と手を結ぶ状況が生じる。そうしたなかで、信長が将軍職に推任されることになってしまった。こうなると義昭の権威が損なわれる前に信長を排する必要が出たため、光秀はクーデターを起こしたとする。
 しかし、先にも見たように、光秀との勝負に勝った秀吉は、光秀がどのような行動を取るのかについて常にアンテナを張っていて、クーデターの情報を得ていたと推測される。さらに秀吉は、外交によって備中から姫路を経て北上し京都へ向かうルートを開拓していた。
 そして秀吉は、晩年の信長が行った麾下の大名は命令ひとつで自由に転封しうるようにするという政策を引き継いでおり、彼の惣無事令もその延長線上にあるにすぎないとする。秀吉が経費がかかるにもかかわらず大規模な遠征を行ったのもこれと関連しており、軍事行動を現地の民衆の脳裏に刻み込ませ、有無をいわせず社会の変革を強制することが目的であったと捉える。
 この辺に関しては素人同然なので、史料の解釈がどれほど正しいのかどうかは分からないが、それなりに説得力があり、面白く読めた。ただ、上のまとめの分量から分かるかもしれないが、本能寺の変以降の秀吉の軍事活動に関しては、結論は興味深いものの、その内容は面白みという点ではやや落ちる。
 ただ素人ながら少し不思議に思ったことがあって、それは長宗我部元親と明智光秀のつながりに関して。上述のように著者は両者の間に人脈を解したつながりがあったとしており、その根拠として光秀の姉妹と結婚した男性の(元は斎藤家に使えていた)息子が、養子にいった家の義理の妹が元親に嫁いでいる事実を挙げているものの、これはものすごく遠縁のように思える。これで人脈ができるならば、そこかしこに人脈が網の目のように張り巡らされていたので、ことさら光秀を重視する理由にはならない気もする。
 あと、本編の最後には秀吉の神話化に警鐘を鳴らす形で、「欺瞞というほかない現代の「秀吉神話」が、新たな「帝国」を寿ぐ物語となることを祈るばかりである」(262頁)という文章が書かれている。確かに、秀吉は歴史物語として人気を博しているし、またその成功から訓戒を引き出そうとするビジネス書も陸続と出版されている。こうした傾向はこれからも続くことだろうとは思う。だが、あくまでも個人的な見解だが、秀吉の物語が国家レベルで利用されることは、今のところもはやないと思う。すでに、歴史学が国家において有用性を持つ時代はもはや終わってしまっているように感じるからだ。むしろ、そうした力が歴史学にあるという考え方こそ、歴史学者の思い上がりのように感じる。何も私は、歴史学は取るにつまらない学問だとか、そのような展望を抱かずに実証だけしていればよい、といいたいのではない。そうではなくて、国家や政治といった大きな物語に貢献しうる方向性を模索するのではなく、個人や家族、地域共同体といった小さな物語に必要に応じて話題や指針を提供するという、方向転換が必要ではないのかと感じているにすぎない。
 以下、メモ的に。江戸時代の秀吉物語には約束事があり、秀吉の死以後の物語を描くと、家康の簒奪が明らかになるため、秀吉の死の直前で完結せねばならなかった(22頁)。
 秀吉は、天下の実権を握ったときには皇胤説を喧伝したが、後には日輪受胎説を主張するようになった。これは、支那の歴代王朝では始祖神話として同様の説が唱えられているためであり、大陸進出に向けて秀吉が討った布石と考えられる。秀吉は一度つくった「神話」でも時と場合に応じてその変更をためらわなかった人物であった。さらにいえばば、日吉丸という幼年時代の呼称も、日輪受胎説に登場する日吉山王権現に由来する創作である可能性が高いし、秀吉は信長に「禿鼠」と呼ばれていたことは史料から判明するが、「猿」というあだ名の確証は存在しない(17〜18頁)。なお、秀吉に関する史料において、父親の影が非常に薄いのは、日輪受胎説を主張するにあたっては邪魔な存在だからだろう(36頁)。
 戦国大名は天下統一を目指したというよりも、地域支配の安定を図っていたとしているが、天下統一を目標としたという考え方が流布している背景に、シミュレーションゲームである「信長の野望」の存在があるのではないかとしている(46頁)。


9月29日

 深町秋生『ヒステリック・サバイバー』(宝島社、2006年)を読む。アメリカに住んでいたものの、通っていた高校で同級生による銃の乱射事件に巻き込まれ日本へと帰国した和樹。しかし、編入した日本の高校では、周囲からの期待を背負う体育会系の生徒と、オタク的な生徒の集まりとが対立していた。和樹はアメリカで柔道をやっていたものの、後者のリーダー的存在である半藤と仲良くなる。両者の諍いの間に立ちながらも距離を置いていたのだが、対立が引き返せない臨界点へとついに達する現場に立ち会うことになり、その渦へと引き込まれる…。
 同じようなことが、表紙の折り込み部分の宣伝文で書かれていたので、読み始めた当初はバッドエンドへと向かう小説かなと感じていた。体育会系対オタクという、今の高校のネガティヴな部分を増幅して描いている部分が、前半部分にはかなり多いので。体育会系の生徒による暴力事件のもみ消しなどは、今でも決して珍しいわけではないが、その要素を上手く盛り込んでいるな、と。だが、そうした構図は中盤の終わりには解消される方向へと向かい、和樹が過去を克服するためのプロットへと変化していく。それが悪いわけではないのだが、前半の流れがさらに深まっていき、どうしようもない破滅的な結末を迎えるのかな、と構えて読んでいたため、少しはぐらかされてしまったように感じてしまった。まあ、個人的な思いこみのせいに過ぎず、面白くなかった訳ではないのだが。


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