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2008年8月の見聞録



8月5日

 野口武彦『小説(一語の事典)』(三省堂、1996年)を読む。近代日本以後を中心とした小説という言葉の意味するものの変遷を追う。一番最後にまとめてある文章を、そのまま引用すれば、本書の内容の概略となる。「小説 散文文学の一ジャンル。その呼称は、はじめ江戸時代には、取るに足らぬ雑説を意味する「稗史小説」を借用した外来語であったが、明治時代に主としてnovelに該当する西欧文学の一分野の翻訳語として定着し、近代日本でもこのジャンルが盛行するにつれて普通名詞化し、その概念の内部に幾つものサブ・ジャンルを擁するにいたった。小説の沿革は市民社会の消長と軌を一にする。都市人口の増大、多数の読者層の成立、印刷技術の革新などを基盤として成長した小説は、前代の写本に代わった木版版の形態で流布し、近代には活版印刷本としてさらに大量生産されて普及した。それは刊行された文字を目で読む文学であり(「物語」とは対立)、韻律には束縛されず(「詩歌」と対立)、想像力の自由な駆使が容認された文学であり(「記録」と対立)、しかも隣接する随筆、批評、伝記などを捕食して体内摂取し、環境条件に適応して様式それ自体を更新しつつ、今日まで市民社会に享受されてきた散文芸術である」(104頁)。
 実を言うと、私が知りたかったのは、小説が戦前までは高い地位にあったのか、それとも卑しいものと見なされていたのかについての外部からの評価に関してだったのだが、それは残念ながらあまり記されていなかった。しかしながら、小説の語義について史料を挙げつつコンパクトにまとめているので、人によっては便利ではなかろうか。
 というわけで以下メモ的に。滝沢馬琴には、自分の「小説」はただの娯楽作品である「稗史小説」ではなく、故実を調査して執筆している「正史」の筆法にしたがっているという自負があった。だがその馬琴を、小説は人情を描きつつ、ありのままを模写すべき、と批判したのが坪内逍遙であり、小説という漢語をnovelの訳語として排他的に用い始めた(22〜26頁)。これに対して、森鴎外にとって、小説は詩歌に対比すべき存在であった(28頁)。
 戦前の小説家達は、新しい世代が自分たちに先行する作家たちの主題・作風・技法への批判を行っていたのに対して、戦後の小説家たちにはそうした行為が見られない(85頁)。
 近代小説は伝達内容の客観性や実在性、行為の公正性と信頼性の外見を保持するために、三人称を取り入れていく。これが日本へも導入されたとき、日本語の人称の曖昧さ故にその特質を活用しやすかった(92〜94頁)。


8月10日

 曽根圭介『鼻』(角川ホラー文庫、2007年)を読む。表題作の他、「暴落」、「受難」の2編を収録した短編集。表題作である「鼻」は、「ブタ」という階級に差別される「テング」と人々がいる社会を舞台に、違法とされるブタへの転換手術を行う外科医と、少女誘拐事件を追う刑事の2人の視点が別々に登場し、その両者が絡み合った結果、意外な事実が明らかにされるというもの。服部まゆみ『この闇と光』のような舞台設定そのもののどんでん返しがあるのだが、ラストの部分が少し分かりにくい気がする。ただ、これくらいの方が余韻があって良いという人も多いだろうけど。
 「暴落」は人間そのものが株式投資の対象となっている社会で、身内が犯した犯罪をきっかけにエリートから転落していった男を描いたもの。これはブラックなアイディアの技あり作品といったところ。「受難」は訳も分からぬまま監禁された不条理を描いたもの。これは可もなく不可もなく、といったところか。全体として、短編でありながら、あっという間に終わらせるのではなく、きちんとメリハリをつけられるのは好印象、といったところ。


8月15日

 ホルスト・ブランク(戸叶勝也訳)『ギリシア・ローマ時代の書物』(朝文社、2007年)を読む。タイトルから想像できる通りの内容で、古代ギリシア・ローマ人は文字をどのように習得し、書物をどのように読み、保管したのかということについて、手堅く述べていったもの。遺跡に残された落書きや考古遺物に残された銘文などから、当時の識字率を高めに考えている。ただ、そのことを否定するつもりはないのだが、文字を読めることと書けること、文章を読み書きできることの間には差があるような気もする。
 そのことと関連するのが、当時の読書が、前近代社会で一般的だったように、音読が普通だったらしいということ。黙読を示す資料もあるし、公共図書館では音読していたとは考えにくいものの、ヘレニズム時代の図書館は利用者のための柱廊や廊下が備えられており、音読の習慣にむいていると推測している(78〜79頁)。つまり、文章を読める人間が、音読によって文章を読めない人間に聞かせることもあり、それによって識字率が上昇した可能性もあるのではないかと。このあたりは、ロジェ・シャルチエ編『書物から読書へ』を参照のこと。単なる推測で史料的な裏付けも何もないのだけれども。
 あと、後3世紀あたりまでは、巻子本よりも冊子本が主流だったようである。当然ながらコピー機はないので、手書きで本を制作しなければならないが、ローマ人は口述筆記が一般的だったようだ(130〜131頁)。


8月20日

 ロバート・J・ソウヤー(内田昌之)『イリーガル・エイリアン』(ハヤカワ文庫、2002年)を読む。ついに地球に初めて宇宙人が到来する。彼らトソク族は、肩から生えた2本の足と、体の前後についている2本の腕、前後両面に2つずつ付いた目、頭頂部より房のように伸びた髪など、地球上の人類とは全く異なった姿をしていた。とはいえ、コンタクトは平和理に成功を収めつつあった。しかし、彼らとの交渉役を務めていた宇宙学の専門家が、足を切断され、目をくりぬかれ、内蔵がすべて摘出され、喉・下顎と虫垂を持ち去られるという無惨な死体として発見される。容疑者となったのは、脱皮をした1人のトソク族であり、脱皮によって殺害時に浴びた被害者の血液という証拠を隠滅したというのが、その理由であった。こうして、宇宙人を被告とする前代未聞の裁判が始まる。しかし、そのなかで、トソク族の住む惑星群に関する宇宙学的な解釈、そして容疑者の体に付けられた不可思議な傷などから、事態は1人の殺人という事件を越えた思いもよらぬ方向へと進んでいく…。
 私は、アメリカの裁判制度に特に詳しいわけではないのだが、エイリアンという想定外の被告を前にして、その状況が浮き彫りにされているようで興味深い。たとえば、ある黒人牧師が、白人の地方検事に対して、彼の担当裁判では白人よりも黒人を有罪になる傾向が強いとデータ他を示した後、もしエイリアンを無罪にしたら黒人はそれよりも価値がないと判断したことになり、彼が知事選に出馬したら投票しないだろうと伝えている(151〜153頁)。
 そして、その裁判過程に関する描写もなかなかスリリングだ。私は法廷小説をまったくといっていいほど読んだことがないので、比べることができないのだが、なるほど、このてのジャンルの小説の人気が高いのもうなずける。そのてのジャンルが好きな人にとっては、かなり癖のある変化球としても楽しめるのではなかろうか。ただ、上に書いた思いもよらぬ方向へ進んだ後の描写は、若干トーンダウンしたようにも感じたのだが。


8月25日

 大塚英志・大澤信亮『「ジャパニメーション」はなぜ敗れるか』(角川書店oneテーマ21、2005年)を読む。国策としてジャパニメーションの振興が訴えられているが、それは日本の経済が脆弱化したために、アニメだけが海外で通用する産業と見なされたからに過ぎず、不況を脱すれば忘れられると警鐘を鳴らす。さらに、そもそも日本のアニメが世界に通じるのは、それがディズニーの延長にあるからにすぎないと断ずる。日本のマンガの興隆をたとえば鳥獣戯画や浮世絵のような歴史と結びつける発想は、西洋的視点の日本文化論に忠実な立場にすぎず、そのような日本の歴史的な伝統と同時代の事物との連続性を主張する志向は、昭和初期に全般的に窺えるものであった。
 このように考えたとき、マンガの特質の歴史を知るには、むしろ同時代の文学との対比から捉える方が有効である。日本の近代文学では、「私」という主体を前提とする自然主義小説が発達したが、マンガは記号的なキャラクターを用いる点でそれと対立する。初期のマンガにおいて、キャラクターの雛形として重要だったのがミッキーマウスであった。この点で、日本のマンガは二次創作としてつくられたことにもなる。
 そしてさらに、こうした歴史的な観点が、印象批評と記号的な分析が主流となった現在のマンガ批評には欠けていると指摘する。歴史的な観点からすれば、戦時下のマンガが特に戦争を描いていく際に、科学的なリアリズム、記号的な身体性、戦局を見る視点、映画的な演出理論といった特徴を採用していった。この4つの融合こそ、リアリズム化された世界観のなかに、身体性を感じさせないキャラクターが動くという、日本的なマンガの源流と見なす。さらに、戦前の転向者の受け皿としてマンガ界があったのではないかとも推測している。そして、こうした流れのなかで技術を発展させたアニメは、技術化されていくことで逆に翼賛体制のために利用されやすくなってしまったとする。
 そうしたキャラクターに近代文学的な内面を与えたのが手塚治虫であった。戦争を経験した手塚は、キャラクターに「血の通った死にゆく身体」を与えることになる。その典型例が『ジャングル大帝』である。『ジャングル大帝』は、貴種流離譚としてのディズニーの『バンビ』を、ライオンに置き換えたにすぎないとも言える。だが、マンガ版のラストでは、自分を殺してくれといって襲いかかっていたレオをヒゲ親父が思わず刺してしまい、レオの肉を食べて毛皮を剥いで山から下りていっている。この点において、ディズニー的な着ぐるみのキャラに、身体を与えている。
 そして、現在の状況は、「少年まんがにおける身体性の解禁が、暴力性の暴走へとつながっていき、少女まんがにおけるそれは、性行為の問題に特化されてしまう。そして、ロリコンまんがにおいて暴き出されたキャラクターの身体性は、単純に「萌え」=ポルノグラフィとして消費されるようになる」(171頁)ことへと至ってしまった。さらに、現在のアメリカで日本のマンガやアニメが受け入れられているのは、ディズニー的なものから生まれた日本の亜種を、宗主国アメリカが回収しているという立場を取る。
 それを示すかのように、日本のアニメ作品は何らかの賞をもらっても、興行的にはたいしたことはない。たとえば、「千と千尋の神隠し」は、第75回アカデミー長編アニメーション映画部門のグランプリだったが、他のノミネート作品に比べて航海関数は明らかに落ち、2003年3月の段階では他の作品すべてが3000館を超えているのに対して151館にすぎない。2005年までにはかなり伸びたがそれでも700館強である。ポケモンは第1作こそ8000万ドルの興行収入を稼いだが、回数を重ねるごとに徐々に落ちていき、最終的には100万ドルを切っている。この状況を打破するためには、思い切って、今後10年間はアニメーションの著作権料を只にして、その間に海賊版対策をしつつ、各国での著作見料はクリエータの育成に使ってもらい、アジア市場をハリウッドから自立した市場にするくらいの思い切った政策が必要ではないかと訴える。しかし、おそらくそれができないだろう日本のジャパニメーションは「破れる」というわけである。
 新書ではあるが、非常に中身の濃い本だと思う。日本でマンガが勃興した原因を、日本文化の伝統へ安易に結びつけることは、本書を読んだ後であれば、もはやできなくなるだろう。また、マンガおよびマンガ評論から政治的な視点が排除されることの危険性は、小田切博『戦争はいかに「マンガ」を変えるか』で指摘されていたように、アメリカで同時多発テロが生じた際に、関係者が一斉に愛国者へと転向したことからも窺える。この辺りの手法は、サブカルチャーだからこそ、政治的な意識がそこに投影されるとの観点から書作品を俎上にあげて批判した佐藤健志『ゴジラとヤマトとぼくらの民主主義』(文藝春秋、1992年)に近い気がする。
 以下メモを。占領下の日本でアメコミの出版に携わったのが民族学者の岡正雄だった。岡は、戦時下に民族学研究所を設立して、その国策化の中心にいた人物である。だが、この研究所に属する人々は、戦後GHQに雇われる。ここには、成功はしなかったものの、アメコミを日本の占領政策に用いようとして、民族学者が協力したという構図が推測できる(121〜122頁)。
 萩尾望都ら24年組は、台詞を吹き出しの外に置くという手法で、内面を表現させるようになるが、これはキャラクター的な記号のなかに生身の体や心があるという手塚治虫のアナロジーである(156頁)。


8月30日

 中島らも『ガダラの豚』(集英社文庫、1996年(原著は1993年))TUVを読む。アフリカにおける呪術医のフィールドワークにより、彼らの社会の中ではそれが実際に効力を持つことを論じた研究によって評価を高めた大生部多一郎。だが彼は、調査地のアフリカでの気球事故で長女の志織を亡くして以来、フィールドワークを辞めてしまい、アル中となり、アフリカの呪術をへんてこに紹介するテレビ文化人となっていった。一方で、もともと研究者であった妻の逸美は精神を病み、誘われた新興宗教に入信し、教祖の奇跡を目の当たりにして深入りしていってしまう。しかし、テレビで知り合った「超能力はトリックでも再現できる」と主張して実行していく奇術師のミスター・ミラクルと教祖のいんちきを暴いた結果、教団は崩壊する(第T巻)。
 その後、大生部にテレビ局の特番取材の依頼があり、妻と長男、研究助手、テレビ番組で競演したこともあるスプーン曲げの超能力を自称する青年、TVクルーらと共にケニアへと向かう。そこで見つけたのは、大呪術師として怖れられているパキリのキジーツと呼ばれる呪具として軟禁されていた、死んだはずの志織であった。むりやりこれを奪還して、死者を出す犠牲を払いながら日本へ戻ってきた一行(第U巻)。だが、志織を奪い返すために日本にやってきたパキリは、大生部の周辺の関係者を呪術で殺害していき、両者の対決企画を持ち出したTV番組を利用して、放送により視聴者を呪術にかけて大生部一家を追い詰めていく…(第V巻)。
 あらすじをまとめると、何がなんだがさっぱり分からないような感じになってしまうのだが、実際にこのようなストーリーなのだから仕方がない。ちなみに、わけが分からなくて面白そうに見えないとすれば、このまとめ方のせいにすぎない。実際には、幾つも散りばめられた怪しげな、それでいてきちんと学術的な裏付けもある知識が上手くストーリーにはまったアクセントとなり、物語そのものもとんでもない方向へと展開し続けていくにもかかわらず、逆にそのとんでもなさに読む者を惹き付けるだけのパワーを持っている。
 ちなみに第T巻に出てくる教祖はいんちきで空中浮揚を行っており、明らかにモデルは麻原彰晃だろうが、この本の出版はオウム真理教への本格的な捜査が始まる1995年以前である。また、この時点ではまだ暴かれていなかった弁護士一家誘拐事件を再現したような場面もある(この小説ないでは未遂に終わっているが)。とはいえ、この教祖は第1巻のキーパーソンであるものの、以降はまったく出てこないので、もし第V巻辺りで再登場したら面白かったかもしれない。まあ、そういうプロット的な面白さをこの小説に求めるのは筋違いのような気もするが。
 ところで、ミスター・ミラクルはTV番組で、超能力と偽って騙す手段を披露している。ミラクルは番組が用意した超能力者と対決するのだが、その超能力者は出演者にもスタッフにもどう見ても超能力としか思えない能力を披露する。しかし、実はその超能力者がミラクルの知り合いであり、ミラクルがサクラの役をやっていたのである。その超能力者は自分以外の人間には超能力と称してタネのある手品で番組スタッフをも騙していたのであった。これは、フーディニが超能力の研究所を騙したときのやり方を参考にしたのだろう。重要なのは、種明かしをした後にミラクルが言った台詞。「よく、超常現象に関して、『自分の目で見るまでは信じない』とおっしゃる方がある。頭から否定せず、狂信もせず、一見、たいへん合理的に思われますが」、そういう人だって実は危ないわけです。"自分の目"というのは、それほどたよりになるなるものではない。現に今日、このスタジオのほとんど全員は"自分の目"で見てなおかつコロリとだまされたわけですから』(第T巻・75頁)。この辺りは、菊池聡『超常現象をなぜ信じるのか』でも指摘されていたことであるが、何事においても実際に経験したのだから、ということだけを根拠に論を組み立てることがいかに危険なのかということを改めて教えてくれる。
 ちなみにミラクルは、マジックをタネも仕掛けもあるものとして楽しんで欲しいのであり、「妙な宗教家や似非超能力者がメシの種にして善男善女をたぶらかすのは断じて許さん」(76頁)と訴える。この辺りはエンタティナーでもあった著者自身の考えなのかもしれない。


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