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2009年1月の見聞録



1月2日

 竜騎士07『うみねこのなく頃に』(07th Expansion)をプレイする。Episode 1だけは体験版でプレイしていたのだが、年末から年始に掛けてEpisode 2、Episode 3、そしてEpisode 4まで一気にプレイした。『ひぐらしのなく頃に』と同じく基本的に選択肢のないサウンドノベルであり、今回の第4話で出題編が終わるというのも共通している。
 1986年10月4日から5日にかけて、伊豆諸島の六軒島に起きた大量殺人事件。10月4日にこの島へ集まってきた右代宮一族の人間は、台風によって島に閉じこめられてしまったことがその惨劇の始まりだった。台風がすぎるのを待つ一族の元へ、顧問錬金術師を名乗るベアトリーチェなる人物から手紙が届く。それは、屋敷の中に設けられた碑文の謎を解けば、当主である金蔵にかつて授けたという黄金10トンと魔術師の名を譲るが、もし解けなかった場合には、右代宮家のすべてを頂戴する、というふざけているとしか思えない内容であった。しかし、碑文の内容に見立てられていくかのように、一族と執事たちは次々と殺されていく。そして、碑文通りの殺人が終わり、最後に残った5人も…。
 以上は、Episode 1のストーリーだが、これ以後の物語は同じ舞台設定でありながら、別の物語を紡いでいく。さて、事件の真犯人を推理したり、または嫌と言うほど何度も出てくる密室殺人や、とうてい人間には実行不可能な殺人のトリックを暴いたりすることには、さして興味がない。というよりも、そうしたことは不得手であるので、考える気もあまり起こらない。本サイトをご覧の方ならお分かりかと思うが、私は推理小説について何か書くときでも、そのトリックの見事さや論理を構築していく過程については、賞賛したり不満を書いたりしても、その検証はほとんどしていない。むしろ、その小説が全体として何を語ろうとしているのか、読者が何を感じるのか、そこから窺える時代性、時間と空間を超えて共通や相違する観念などを読みとる方に興味がある。したがって、『うみねこのなく頃に』(以下、『うみねこ』と略す)も、それを通じて作者は何を最も訴えたいのか、というところに関心がある。とはいえ、まだ出題編が終わったばかりで完結していないのだから、ある程度の推理を交えざるを得ない。とうてい推理とは呼べないような代物だけれども、つらつらと少し書いていくことにする。
 まず、何よりも重視すべきは、前作『ひぐらしのなく頃に』(以下、『ひぐらし』と略す)との比較であろう。作者自身も、『ひぐらし』をプレイしていた方が、すっと入りやすいといったようなことを、どこかで言っていたような気がする。まず、両者において基本的に同じなのは、第1話が終わって、第2話が始まると全く同じ設定のまま惨劇の前に時間が戻っているものの、違った過程を経て全く別の悲劇的な結末へとやはり至ってしまうという構造である。ただし、決定的に異なるのは、『ひぐらし』では物語から何を推理するのかという点が出題編ではぼやかされていたのに対して、『うみねこ』では少なくとも表面上は提示されている、ということだ。だからこそ、『ひぐらし』では、プレイヤーたちは不可解な事件や殺人、または結末の「トリック」を暴こうとした。しかしながら、『ひぐらし』において重要なのは、いかにして惨劇を免れるのかであって、そうしたトリックはそれに付帯するものにすぎなかった。そのため、人間を超えた存在を前提条件とした考え方が必要という設定が開陳された第7話の「皆殺し編」では、そうしたトリックを推理しようとしていたプレイヤーからの反発が、かなり高かったように記憶している。確か、作者自身も自分のサイトにて少し弱気な発言をしていたような気がする。
 これに関して言えば、私自身はそうした人間を超えた設定に特に問題があるとは思えない。あるとすれば、ゲーム内における情報の提示の仕方が、やや唐突すぎたこと、そしてゲーム外におけるあおり方がややまずかったことが挙げられよう。この点に関しては、割と触れている人もいると思う。だが、私はそれよりも、結局のところ真相がさほど面白みのあるものではなかったことの方が重要であると感じる。以前にも触れたように、同じ場面を繰り返し経験する特殊能力を持つ主人公が、何とか惨劇を回避しようとする推理小説には、すでに西澤保彦『七回死んだ男』という面白い作品があるのだ。したがって、人知を越えた存在がいることはあくまでも設定にすぎず、その設定を利用して物語やトリックにいかにして工夫を凝らすのかということこそが重要だ。その点で言えば、『ひぐらし』は明らかに物足りない。というのは、極端なことを言えば、結局のところ怪しい人間が一番怪しかったということにすぎなかったからだ。言葉を換えると、後で読み返したときに、物語に散りばめられている諸処の謎が、最終的な犯人や設定に関する伏線だったのか、と驚かされることは特にない、とも言える。このときに失望した人は、心の中でそのことにこそ落胆したのだろう。
 だがしかし、私は『ひぐらし』が語ろうとしたことは決して失敗だったとは思わない。『ひぐらし』のメインテーマとも言えるのは「困ったときやつらいときには、友達を疑うのではなく信頼して話をすること」というテーゼだろう。実際に、疑心暗鬼に陥って一人で抱え込んだ人物は、やがて惨劇を引き起こすかその渦中へと巻き込まれてしまう。そうではなくて、仲間を信じ合うことこそが、何よりも惨劇を乗り越えるのに必要だということが、第5話以後には繰り返し出てくる。これを安っぽいと否定するのは簡単だし、その意見を決して否定するつもりもない。だが、長々と惨劇を書き連ねて、他人を疑うことによって破滅してしまった悔しさと、それに対する自戒が繰り返し提示されているため、このテーゼにもかなりの説得力がある。そして、このテーゼを信じたからこそ、主人公たちは「誰も殺すことも死ぬこともない」という「奇跡」とも言える逆転劇を成し遂げることに成功した。「トリック」ではなく物語に浸っていた人たちには、そうしたメッセージと大団円に至るまでの悔しさと達成感にこそ魅力を感じたと言えよう。バトル場面ではご都合主義を感じたものの、私もそこに魅力を感じた一人だ。
 さて、ここでようやく話は『うみねこ』へと至る。Episode 1では人間にはとうてい成し得ないような様々な謎が提示されていく。そして、『ひぐらし』と同じくプレイ終了後にキャラクターたちが語らうオマケシーンにて、色々な推測が成され、魔法でしか成し得ないという結論が導き出され掛けたとき、右代宮戦人だけがこれに強く反発する。ところが、話は急に展開する。黄金の魔女ベアトリーチェが君臨し、事件は魔女が引き起こしたと宣言するからだ。そして、Episode 2では、惨劇が展開されると同時に、その世界に魔女が現出してしまい、さらにはメタ世界とも言える世界からベアトリーチェと右代宮戦人がそれを眺めて議論する場面が平行して、物語は進行していく。いわば、オマケシーンは単なるオマケではなくなり、作品世界へと取り込まれてしまった。ベアトリーチェはすべてを魔法で説明しようとし、戦人は魔法を全否定して人間によるトリックですべての事象を説明しようとする、2人の対決が開始される。基本的には、これがEpisode 4まで続く。それどころかエピソードを重ねていけばいくほど、魔法で引き起こされたとしか説明できない現象が次々と増えていく。『ひぐらし』は人知を越えた能力というものに関して曖昧にしていたから、批判と反発が生じた。それならばといわんばかりに、『うみねこ』ではそれを隠すこともなく全開にしている。これならば、『ひぐらし』のような形での批判は生じないであろう。もし万が一、魔法が登場人物の妄想にすぎなくても、それを批判するプレイヤーは皆無だろうから。
 というわけで、物語が魔法を前提としてしまっている、という批判は成り立たない。というよりも、そういった面で『ひぐらし』に失望したプレイヤーはもはや『うみねこ』をプレイしないであろう。むしろ、魔法を前提にしていることを武器にさえしている。公式サイトにおける『うみねこ』の舞台設定も、それをかなり前面に押し出しているように見える。
 そして、先に述べたように、私自身はもとより別に魔法という設定があることに何ら不満はない。しかし、このことこそが重要な意味を持つ。すでに作中でも示唆されているように、魔法を否定する戦人の態度には大きな矛盾が潜むからだ。もし、すべての惨劇が人間によって成し遂げられるのであれば、六軒島に右代宮一族とその使用人以外がいないはずなのだから、彼ら、つまり戦人が見知って信頼している人間が惨劇を引き起こしたことになる。それならば、魔法を使う魔女のせいにしてしまったほうが、誰も疑わずにすむのだ。ベアトリーチェによれば、戦人が魔法を認めて屈服すれば、全員が幸せな黄金郷へと至ることも可能なのに、戦人が拒否しているものだから、それが成し得ないということらしい。もし、単に幸せということを考えれば、戦人は魔法を認めてしまった方が真相と幸せを手に入れられることになる。『ひぐらし』では信じることこそが奇跡とも言える成功の鍵だった。しかし、『うみねこ』では奇跡を信じることこそが、戦人の敗北へとつながるのである。
 しかし、この奇跡をめぐる対立は、見かけ上の問題にすぎないように感じてならない。むしろ、『うみねこ』で本当に乗り越えるべき問題は、惨劇を説明することでもなく、惨劇を回避することでもなく、ベアトリーチェと戦人がなぜ魔法の肯定と否定をめぐって延々とゲームを繰り返し続けねばならないのか、というところにこそあるのではなかろうか。実際に、Episode 3とEpisode 4、特に後者を読む限り、ベアトリーチェには戦人に魔法とは別の何かを思い出させたいという意図があることが、何度も仄めかされている。もちろん、これはEpisode 3のラストまでで多くのプレイヤーが騙され続けたことからすれば、ブラフの可能性はある。だが、少なくともEpisode 4のクライマックスを読む限り、決して戦人を陥れるための罠とは思いがたい。
 となれば、この物語で救うべきは、戦人やその仲間ではなく、ベアトリーチェではないのか。ベアトリーチェは誰か、もしくは誰かの思念のもしくは誰かたちの結合なのかもしれない。もしかすると、地獄の七杭をはじめとする悪魔たちは、現実の人間を映し出したものなのかなあ、と感じていたので。実は、ベアトリーチェは何となく口調が戦人に似ているなあ、と感じた瞬間もあったので、ベアトリーチェ=戦人と考えもした。ただ、先程から繰り返しているように、こうした推理には基本的に興味はない。外れようが当たろうが、それを悔やむことも誇ることもない。単に、この物語は何を訴えたいのか、ということを探るときの指標にすぎない。
 ならば、テーゼとなるのは、Episode 4で繰り返し述べられた「魔法は愛がなければ視えない」という言葉だろうか。ベアトリーチェのみならず、登場人物から具現化した魔女たちは、何らかの形で愛を欲しているので。いずれにせよ、この物語がどこに着地するのか、私にとって興味があるのはそこである。戦人をはじめとする右代宮一族の生還なのか、ベアトリーチェの救済なのか、それとも支援者でありながらも無責任な傍観者にすぎない魔女たちの憂さ晴らしにすぎないのか…。


1月3日

 遠山美都男『古代の皇位継承 天武系皇統は実在したか』(吉川弘文館、2007年)を読む。天平期の天皇は天武系であったが、平安期には天智系へと戻りそちらが正統であると見なされたと一般的に理解されているが、そうした見方が同時代にあったのかについて再検討を行う。本書を読む限り、確かに天智系を正統と見なす見解は、中世以後になってから主張されたようであり、同時代においては天皇位をめぐる争いを防ぐために、継承者を少数に限定する政策をとっていたにすぎないようである。その辺りの継承を巡る事情について、文献史料を様々に駆使して論じていっている。ただし、この辺に関しては素人同然なので何とも言えないのだが、結果として天武系へと偏っていたことは間違いなく、別にそうした見解を否定するほどのことなのかな、と。否定して打ち立てた見解は、結局のところ倉本一宏『奈良朝の政変劇』の理解とあまり変わらない気がするし、さらに言えば自体を複雑にしただけであまり分かりやすいように感じなかった。まあ、これは私に知識がなさすぎるせいでもあるのだろうが。
 なお、漢語である天皇は道鏡において最高の神格の呼称であり、「不老不死の象徴であったという(40頁)。さらっと触れられているだけで、これについてどれほど本当なのかよくわからないのだが、辰巳正明『悲劇の宰相長屋王』によれば、長屋王は道教を用いて呪ったという疑いをかけられたために滅ぼされ、さらに大山誠一『聖徳太子の誕生』によれば、その結果としてイメージ化された聖徳太子から道教の要素が薄れたとされているので、やはり日本には道教の影響が強かったということなのだろうか。


1月7日

 法月綸太郎『生首に聞いてみろ』(角川書店、2004年)を読む。推理小説作家の綸太郎は、後輩の写真展で芸術家の川島伊作の娘である江知佳と出会う。伊作は人体から直接直型取りして造った石膏像の作品で有名な芸術家であった。その彼の遺作となったのは江知佳の直取り像であり、またそれはかつて造った彼の妻の石膏像の対となる作品であった。しかし、遺作となった石膏像は誰かによって首が切り取られてしまう。そうしたなかで江知佳は失踪するのだが、遺作が懇意にしていた美術評論家の元に江知佳の生首が届けられる。そして、この事件には江知佳の出生の秘密も関連していた…。
 石膏像の「目」が重要な鍵を握ってくる部分はなるほどと思わせるのだが、事件そのものは、怪しい人間がやっぱり怪しかった、という結末でそれほど大きなひねりがあるわけではない気がする。この辺は好みの問題でもあるのだが。
 ちなみに、カラオケに行く場面でモーニング娘。と「LOVEマシーン」に言及しているのだが、彼女たちがすでにかなり地位を落としているのは、時代の流れの速さを感じさせる。というか、この小説の初出年である2001年の段階ですでに古い気もするのだが、もしかして作品中の年代は少し古めに設定されているのだろうか。


1月12日

 前田勉『兵学と朱子学・蘭学・国学 近世日本思想史の構図』(平凡社選書、2006年)を読む。タイトル通りの本なのだが、最初の1章が全体の見取り図であり、第2章から第5章がそれぞれに関する内容となっている。仕事の必要上から読んだのだが、正直に言って、後の4つの章は個別論文の様な感じであったため、こちらの知識が足りずに読み流す形で終わってしまった。けれども最初の1章は、特に蘭学と国学に関する部分がなかなか面白かった。著者はこの両者を江戸時代の身分制的な社会が徐々に変質していくなかで登場した、個々人の社会的な活動と見なす。
 江戸近世は中世的な権威や権力を徹底的に抑圧して成立した国家であり、江戸幕府の武威に基づく「法」こそが何よりも重きをなした。だが、貨幣経済や商品経済の進展により、そうした社会秩序は揺るがされるに至り、社会では身分制を越えた競争が生じる。そうした変動する時代において、個人の才能を元に何か功業を成し遂げようとした者たちこそが蘭学者たちであった。たとえば杉田玄白は『蘭学階梯』のなかでオランダ語を引きつつ、「人は飲食のみする為に生を受くるにはあらず」と述べている。他方、国学者たちは経済が発展していくなかで、その流れに乗れなかった者たちへの哀れみや、または自己のルサンチマンが原動力となっていると見なす。成り上がれなかった者たちは、「『日本人』に自己を同一化することによって、失われたプライドを取り戻して、自己の才能と努力で成功した者たちを激しく攻撃するのである」(37頁)。そして、貧しい立場にある苦しみや懐疑に耐えることは、魔術的な救い手である天皇に絶対的な服従を遂げることでなし得ると考えた。やがて、後者の国学こそが明治国家によって鼓舞され、臣民に注入されたのである。その意味において福沢諭吉が唾棄すべき悪徳と説いた「怨望」こそが、日本のナショナルアイデンティティの起因となったと言える。
 これが正しいと言えるかどうかを判断するだけの知識はないのだが、この見取り図に沿えば、江戸後期から明治時代へと至る日本の思想史的な流れをすっきりと理解できる。しかも、蘭学と国学の役割まで同時代の中に置くことができて、この見取り図を使えば、日本史を習っている高校生も理解が容易になる気がするほどだ。というわけで、少なくとも第1章は、江戸から明治に至る思想史を総体的に把握したい人にお勧めできるだろう。ただし、先にも言った通り、この見取り図がどこまで正しいのかはよくわからないのだが。
 ちなみに、生類哀れみの令を江戸幕府の武威的な法律優位の悪例と見なしているが、大石慎三郎『将軍と側用人の政治』を読む限り、殺伐とした戦国時代以来の慣習を抑制して、安定した社会を築くための法令であったようなので、単純にそのようには言い切れないだろう。


1月17日

 篠田節子『ロズウェルなんか知らない』(講談社、2005年)を読む。かつてスキー客用の旅館経営によってそこそこ栄えていた駒木野町。しかし、スキー場が閉鎖されてしまい、さらには温泉を売り物にした近隣の村にも客を奪われてしまって、寂れる一方だった。村でくすぶるすでに中年へとさしかかろうとする若者グループは、金に困って都会から引っ越してきたコピーライターの案に乗って、破れかぶれでミステリーゾーンを幾つもでっち上げて観光客を呼び込もうとする。インターネットによる口コミにより、ついにはマスコミまでもがやってくるのだが…。
 この小説の軸となっているのは、適当にでっち上げたくだらない超常現象的なものが、それを信じたい人によって本物と祭り上げられていく馬鹿馬鹿しさ、さらに当人たちの感覚が徐々に麻痺していく過程だろう。しかも若者衆だけではなく、当初は批判的だった老人たちでさえ、それに乗っかってカメラの前で演技してしまうのである。その馬鹿馬鹿しさを醒めた視線でじっくりと描いているからこそ、逆に空恐ろしさが強調される。そして、その馬鹿馬鹿しさを語るコピーライターの言葉が秀逸だ。「そんなの見た人がそれぞれ想像するもんで、へたに説明されたらサンクチュアリの意味がなくなると思いませんか? だいたい学者だって本当のとこはわかりゃしないんですよ。自分の業績のために捏造するやつだっているわけだし」(153頁)。
 最終的に彼らの作戦は、正攻法とも言える批判によって破綻してしまう。そこからラストへと至る過程は、物語の筋として面白いけれども、個人的にはそれ以上のものでもない。むしろ、本書で一番興味深かったのは、その舞台となっている駒木野町の田舎臭さであった。作品としての性格は全く異なる岩井志麻子『ぼっけえ、きょうてえ』や小野不由美『屍鬼』と同じく、田舎の嫌らしさがこれでもかと出てくる。スキー客が次から次へと来るのに任せて、客をぞんざいに扱いぼったくりのような商売をしていた老人たち。そして客が来なくなると、他人をくさして愚痴を言うだけになる。さらに、村おこしをしているはずなのに、客が興味を抱けないような長ったらしい話しかできない。若者衆の作戦に対して疑念を呈し続けていたのに、いざ儲かるとなるとそれに擦り寄ってくる。しかしその試みが破綻すると手のひらを返すかのように猛烈に批判する。因習にまみれ自分勝手な田舎の人々のいやらしさがこれでもかと描かれている。この舞台設定があるからこそ、荒唐無稽な超常現象をでっち上げてまでも村おこしをしようとする若者衆の足掻きも、真に迫るものとして印象に残るのではなかろうか。


1月22日

 関口知彦・鈴木みそ『マンガ物理に強くなる 力学は野球よりやさしい』(講談社ブルーバックス、2008年)を読む。その名の通り、マンガで物理の初歩から学んでいこうとするマンガ。野球部で4番のエース、通称「デンチュー君」こと松山は、次の物理の成績が悪ければ夏休みに補修をさせられることになってしまう。そんなとき、やけくそな気分で打ち上げたボールが、学年成績トップの久保聡美にぶつかってしまった。それをきっかけとして、聡美による松山への物理学講座が始まることになった。そして、松山に気があった田所えいみと、何か面白そうだと参加してきたキャッチャーの増田も加わって、にぎやかに勉強会は進んでいく…。
 理系の学習マンガだと、話の部分はマンガなのに、公式などの説明になると、突然文章による説明と簡単なイラストだけになってしまっているものも多い。石山たいら・大上丈彦共著、メダカカレッジ監修『マンガでわかる微分積分』は、見開き頁の左右にそれぞれ解説とイラストを配置して分かりやすく解説しているものの、それぞれが完全に融合しているわけではない。しかし、本書はマンガとして自然に流れており、ストーリーも前作の高松正勝・鈴木みそ『マンガ 化学式に強くなる』に比べて内容がこなれていて面白い。
 そして、途中で1箇所だけ練習問題が挿入されていて、それまでの理解度を確認できる仕組みになっているのだが、秀逸なのはこの後の展開である。松山もこの筆記問題を試してみたところ、物理を楽しみ始めているものの、問題にはほとんど正解できていなかった設定になっている。えいみは、このままではテストで赤点を取ってしまう、とこれまでのやり方に疑問を呈するのだが、聡美はテストのことをすっかり忘れていて「そういう話もあったっけ」(212頁)と答える。そして、公式を暗記すべきというえいみに対して、そんなのは時間の無駄で、分かることが面白いから学ぶのであり、公式を暗記するだけではなくて、一生覚えていたくないの、と問い返す。このやりとりを陰で聞いた松山は、この話に重ね合わせて自分は甲子園しか見えていなかった、ということに気づく。そして、「本当に先のことを考えるなら、今を楽しんでいないとダメってことかな」(222頁)と増田に語るのであった。
 この話がもの凄く綺麗事だといわれれば、確かにその通りだろう。でも、学ぶということが、いったい何のためなのかということに対する、シンプルな回答の1つではあるような気がする。また、「野球で投げる球も宇宙で回ってる星も同じ簡単な法則で動いているって、とっても面白くてステキな話じゃない?」(214頁)という聡美の言葉を聞いて、吉野源三郎『君たちはどう生きるか』(岩波文庫)にて、ニュートンの偉いところは林檎が落ちていく場所を上空へと伸ばしていったらどうなるだろうと考えたところだ、と主人公の小学生へ説明するおじさんの台詞を思い出したりもした。
 しかし、この場面がさらに良いのは、えいみに「みんなはあなたみたいな天才じゃないから」(216頁)とも語らせているところだろう。結局のところ、松山はこの後の展開で急激に理解していくので、聡美のやり方が正しかったとも言える。けれども、天才ならざる凡人にいつもこうしたやり方がよいわけではない、とさりげなく挿入していることもまた重要だろう。凡人には凡人なりに生き方もあるということだ。そして、すべてのことに関して天才である必要もないのだから。せめて、内田樹『下流志向』もこれくらいの深さを持っていてくれたらなあ…。


1月27日

 石持浅海『扉は閉ざされたまま』(祥伝社文庫、2008年(原著は2005年))を読む。大学の同窓会で級友たちが集まることになった邸宅を改装したペンションに集まることになった伏見。その場所をあらかじめ知っていた彼は、その状況を利用して後輩の新山を密室での事故死に見せかける工夫をして殺害した。しかし、彼らが大学時代にまだ高校生だった碓井優佳だけは、その状況に疑問を抱き、伏見を追い詰めていく。密室の扉はまだ閉じられたままだが、伏見は少しずつ優佳に追い詰められていく…。
 最初に犯人が分かっていて、動機が最後に分かるという形式をとっている。確かに理詰めで追い詰められていく過程は面白いのだが、優佳というキャラクターがあまりにも人工的に感情をコントロールしすぎている点が、たとえそういう性格設定だとしても引っかかる。優佳はかつて伏見に告白をしたのだが、その感情さえもコントロールされたものだと気づき、伏見はその告白には答えなかったという説明もあるのだが、殺人の動機が語られない状況と相まって、醒めすぎているように思えてしまう。ただ、パズルを汲み上げていくような展開は面白いといえば面白いので、そういうのが好きな人には十分楽しめるだろう。


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