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2007年11月の見聞録



11月3日

 鈴木俊幸『江戸の読書熱 自学する読者と書籍流通』(平凡社、2007年)を読む。18世紀末の江戸の寛政期には、書物の市場が全国的に広がっていったのではないかということを、版元を中心とした史料から実証的に追う。たとえば、天明期の戯作は、武士階級を中心とした知識人の余技といった趣が強く、同好の人間を読者に想定していたので、説明めいた言辞は野暮であった。しかし、寛政期には平易な筋立てと理解しやすい滑稽さで作品が成り立つようになった、とする。そして経書にも平仮名付きのものが現れるようになり、これにより師匠がいなくともそれらを学ぼうとする読者層を掘り起こしていった。だからこそ、実際の人間像についてはよく分からない高井蘭山なる人物が、出版物の世界では「先生」と盛んに称されるという事態も生じていたわけである。
 実証部分には面白みがあるわけではないのだが、読書が広く浸透していく様を描き出している点は評価に値するだろう。なお、識字=読書能力ではなく、文章を読みその意味を咀嚼する能力を磨かねばならないという指摘は、ごく当たり前のことなのかもしれないが、重要な気がする。また、地方における印刷や出版が、近代における翻刻教科書の出版と教育授業に連続する、と簡単に触れているが、これについてもっと詳しく知りたいところである。


11月7日

 有川浩『図書館戦争』(角川書店、2006年)を読む。昭和末期にメディア良化法なる法律が成立し、公序良俗に反する書籍や映像作品が取り締まられている、というパラレルワールドの日本。それに対抗すべく不当な検閲に反対し、独自の軍隊を持つに至った図書館へ、新人として新たに配属された笠原郁。かつて、本屋で自分を助けてくれた図書館員を白馬の王子様と憧れて配属された先で待っていたのは鬼教官の堂上であった。しかし堂上は、エリート部隊である図書読書部隊へと郁を推薦する…。
 自由な読書が禁じられるという点で、ブラッドベリ『華氏451度』(ハヤカワ文庫)のような設定に類似しているものの、これらの作品ではその状況が悲観的に描かれるのとは異なり、それに対抗する勢力を設定してそちらに主眼を置くというのは新しいやり方かもしれない(SFには疎いので、間違っているかもしれないが)。「子どもの健全な育成を考える会」といういかにもな名前を持つ組織に、学生が上手く戦術を立てて立ち回っていくところは、ジュブナイル的ともいえる。「考える会」に対抗しようとする少年たちに、郁が「本当に頭がいい大人は誰にでも分かる言葉を使う」と言うところは、妙に印象に残った。また最後には、貴重図書をめぐる戦闘というクライマックスもあり、読書が制限された世界という小難しい設定に見えるにもかかわらず、エンタテインメントとして読ませる小説になっている。ただし、これはあくまでも個人的な感想で、異論も多いと思うのだが、郁と「白馬の王子様」の恋愛は余分な要素だなあ、と。途中で先が読めてしまったし。


11月11日

 ニール=ポストマン(小柴一訳)『子どもはもういない 教育と文化への警告』(新樹社、1985年(原著は1982年))を読む。第1部と第2部に分かれており、第1部はフィリップ=アリエス『「子供」の誕生』(みすず書房、1980年(原著は1960年))を下敷きに、近世までは子供と大人の境界線がなかったものの、それ以後に印刷技術による出版文化によって、それを読むことができる子供とできない大人とが分離していく過程を、概説的に紹介する。第2部では、テレビというメディアを通じて大人も子供も情報を共有できるようになったため、両者の境界はなくなってしまった状況を、批判的に説明する。
 第1部は、アリエスを通じて有名になった歴史的な子供観の変遷を、手っ取り早く知ろうと思えば役に立つだろう。第2部は、子供観の変遷というよりはテレビ批判なのだが、通俗的なテレビ悪玉論に学問的な装いを施した程度のものにすぎないと思う。R.エンゲルジング『文盲と読書の社会史』でも紹介されているように、19世紀には読書を害毒とみなす見解もあった。いま安易にテレビやゲーム、インターネットを批判することは、読書を批判していた態度と本質的な部分では何ら変わるものではない。新しいものを批判することなど、決して難しいことではない。むしろ必要なことは、俗悪視されがちな新しいものに触れることで、見落とされがちな評価すべき点を見出すことか、古くさいとされているものの中に、過去を賛美する権威主義を超えた新たな価値観を提示するという、建設的な方法論の構築だろう。
 ちなみに、テレビのクイズ番組は学校の教室のパロディであるとし、子供っぽい出場者がクイズに正解するというある種の従順さと早熟さに正当な報酬を受けている、と述べている箇所がある(187頁)。これは確かにそう思えるが、ならば皮肉なことに、そういう空間を生み出す学校こそが諸悪の根元という論の立て方も可能なのではなかろうか。
 また、アメリカでは1950年から1979年までに、子供が犯した重大犯罪は110倍に増えたことや、10代の出産率や性病の罹患率が増加したことから性の乱れを指摘して、それは子供が大人化したため述べてもいる。日本においては、こうした言説の安易さが批判されているが(たとえば、河合幹雄『安全神話崩壊のパラドックス』、浜井浩一・芹沢一也『犯罪不安社会』、パオロ・マッツァリーノ『反社会学講座』など)、アメリカではどうなのだろう。
 以下、メモ的に。ただし、どうもこの本は一次史料を参照しているのではなく、二次史料が挙げているものをかなりかいつまんで紹介することが多いので、あまり信用できない気もする。アメリカには18世紀の大部分を通して子供の誕生を祝う習慣がなかった(5頁、ただしこれは別の本の孫引きなのでどこまで信憑性があるか判断できない)。17世紀末には、プロテスタントが印刷された聖書を中心に教化を行っていたのに対し、カトリックは偶像崇拝に留まり、儀式を念入りにする方に力を注いだ(63頁、これもそこまで言い切れるのかは疑問)。19世紀から20世紀へと至るなかで、子供期はロック的な考え方とルソー的な考え方の2つの流れとなる、前者は読み書きや理性の教育によって子供は教養を持つとし、後者は教育によって生まれながらの理解力や好奇心が損なわれるとする(91頁)。
 1831年にダーウィンは『種の起源』のもとになる観察を行う航海に出発したが、その翌年にはモールスが船の上からの電信に成功している。著者は進化論よりも電信の方がすべての人々の生活に関わってくるとしている(104〜105頁)。


11月15日

 桐野夏生『OUT』(講談社文庫、2002年(原著は1997年))上を読む。深夜の弁当工場の同じラインで働く4人の主婦たち。彼女たちは家庭にそれぞれ問題を抱え、言いようもない不安を心中に抱えていた。そして、そのうちの一人が、博打にのめり込む自分の夫を殺してしまう。仲間に相談した結果、その遺体をバラバラに解体して処分したものの、遺体の一部が発見されてしまった。幸いなことに全く別の人物が容疑者となったのだが、さらに別の死体解体を請け負う羽目になる。そして、あらぬ容疑を掛けられた人物は、真犯人である4人の主婦へと迫り…。
 作中での主婦たちの行動は猟奇的であるが、その文体が妙に淡々しているため、それがさらに強調されている気がする。その一方で、主婦たちの日常生活もかなり荒涼たるものであることが、その猟奇性の背後にある醒めた精神を感じさせて、何とも言えない圧迫感を醸し出している。理解しがたいような猟奇的な事件とは、快楽殺人であるよりも、案外こうしたごく普通の日常から一歩足を踏み外したときに行われてしまうのかもしれない。
 岩田正美『現代の貧困』が指摘する通り、4人の主婦のうち師匠と呼ばれているヨシエのような苦しい生活を強いられている家庭は、高度成長期や現在でも少なからず存在していると思う。そのヨシエが「工場での仕事は自分がいなければ成り立たない」という思いを生き甲斐にしている、という描写はおそらくかなり真実に近いのではなかろうか。ヨシエのプライドは、寝たきり老人を抱え家計も苦しい過酷な現実から目を逸らすための、ネガティヴな感情かもしれない。しかし、生活をごまかすための方策ではなく楽しむ術として享受できれば、貧困という現実を根本的に解消することはできなくても、何らかの処方箋になる気もする。所詮は綺麗事なのかもしれないが。


11月19日

 大塚英志『「まんが」の構造 商品・テキスト・現象』(弓立社、1987年)を読む。マンガに関する評論を集めたもの。作品論に関しては、民俗学の見地から『風の谷のナウシカ』や『めぞん一刻』などを解釈していくのだが、最初はそういう見方もあるかと思いつつ読んでいたものの、同じ手法ですべてを解釈しようとするのにだんだんと飽きてしまった。したがって、個人的に興味をひかれたのは、そうした手法を用いずに、もしくはそこからはみ出した評論を行っている部分ばかりだったりする。
 宮崎駿の初期のアニメ『未来少年コナン』において、主人公コナンは高い塔に閉じこめられていた少女ラナを助け出したものの追い詰められてしまうが、軽やかに飛び降りて何とか危機を脱する、というシーンがある。押井守はこのシーンを評して、作画として優れていることは認めるものの、ピンチを解決したのが登場人物の叡智ではなくアニメーションの技術であったこと、さらにはそうした技術や画面構成を見せるために、物語の方向性が定められてしまっているのではないか、との疑問を呈したという(10〜11頁)。
 コミケやマイナーコミックは、マニアにとっての日常からの避難場所であり、社会からの逸脱を可能とする。しかし、これらは同時に1つの経済システムとしても機能している。いわば、彼らの避難場所は、経済効率を持つがゆえに社会から存在が許されている(59頁)。ちなみに、ここで「アジール」という言葉を使っているのだが、確かに分かりやすく説明しているように見えるけれども、別にそれを使わなくてもいいのじゃないのかな、と感じてしまうのだが。
 コンピューター上でRPGをプレイすることは、主体的に物語を演じているようで、実のところ物語というプログラムを操作しているのと変わりがない。こうした現象は『週刊少年ジャンプ』のシステムにも見ることができる。というのは『ジャンプ』の物語を決定づけているのは、「努力・友情・勝利」という「プログラム」であるとみなすことができるからだ。マンガ家は創作者というよりもプログラマーにすぎない。「『ジャンプ』のまんが家の大半が『ジャンプ』を去ったあとに描き手としての生命を終えるのは多分、そのせいなのである」(68頁)。
 1984年12月と1986年6月のコミック単行本の発行点数を比べると、229冊から252冊へ増加している。しかしながら、実は過去のコミックを新たに出版し直したものが、それぞれ18冊と49冊ずつ含まれており、純粋な新刊の出版冊数は減っている。これはマンガ産業が読者のニーズに対応して、新たに商品を生み出す力が弱っているといえるのかもしれない(218〜219頁)。この意見は、中野晴行『マンガ産業論』の主張を先取りしているといえる。
 1980年代後半より、石ノ森章太郎『マンガ日本経済入門』をきっかけとして情報コミックが売れ筋となる。これは、マンガがハードカバーでも出版されるようになり、書籍の風格を備えているようにみなされた状況と関連する。「コミックに手を出したいものの、何となくプライドが捨てきれなかった<書籍>の人々が、うしろめたさを感じつつも、これならなんとかなりそうだと手を出し、しかも、同じようにつまらない内容ならコミックの方が売れるというのが、現時点での奇譚のない<情報コミック>出版の現状である」(237頁)。「しかし、読者はなんだか<まんが>で読んだせいか、わかり易かった気がしてしまう。日本経済について理解した気がしてしまう。<まんが>なんだから、わかり易いに決まっていると読者も信じて疑わないのだ」(239頁)。そして、これは『週刊少年ジャンプ』が「努力・友情・勝利」のプログラムを用いたように、一定のプログラムに従ったマンガを生み出す結果へとつながることになる。「日本の文化すべてがコミック化し、<まんが>は「ジャンプ」になる」(245頁)。これはかなり本質を突いた指摘だろう。ということは、「努力・友情・勝利」が不況以後の価値観の変化に合致しなくなった現在は、「ジャンプ」の価値も薄れていき、販売減につながった、と言えるのかもしれない。


11月23日

 小野不由美『月の影 影の海』講談社文庫、2000年)上を読む。できるだけ目立たない優等生として日々を過ごしていた女子高生の中嶋陽子は、突然、景麒という謎の人物の訪問を受け、同時に正体不明の怪物からの襲撃を受ける。そこから逃げた先は全く見知らぬ異世界であった…。
 本書は、十二国記シリーズの最初の巻であり、12の国がある異世界において、陽子はある国の王となる運命にある。そうなると、こういった現代社会から異世界へと向かうファンタジーでは、主人公が紆余曲折を経つつも堂々たる振る舞いで偉業を成し遂げる活劇シーンが続くのが通例ではないかと思うが、本書はそういったものと無縁で、はっきり言って暗い。戦闘場面もあるにはあるものの、それには全く重きが置かれず、むしろ異世界へ放り出された主人公が、裏切られて疑心暗鬼に陥っている部分の方が圧倒的に長いからだ。というよりも、もし本当にこのようなことがあったならば、こうなるのが普通だろう。また、十二国記というシリーズ名から、勝手に国家間の争いに主題をおいたものと想像していたのだが、そういうものは全くない。それどころか、国王が他国へ攻め入ることは、決して犯してはならない罪らしい。この辺も通常のファンタジーものとは違うところだろう。
 ちなみに、陽子はこの世界の王であるため言葉に苦労しないものの、普通に迷い込んだ者たちは言葉が分からないらしい。もし本当にこうしたことが生じれば当然起こりうる問題と推測できるものの、小説の設定の上では新鮮な気がする。
 あと面白い設定として、十二国記の世界では子供が母親の胎内から生まれるのではなくて、里木と呼ばれる木に実としてなるというのがある。となると、性行為はどうしていたのだろうと思うのだが、どうやらこの世界にも遊郭はあるらしい。ということは、性行為は単なる快楽のためにのみ行うとうことになるのだろうか。そういった世界での、夫婦愛や恋愛感情はどういったものになるのか、ということが少し気になる。性行為を営んでも子供が生まれないのであれば、性行為に対する歯止めが感情的にきかず、単なる快楽だけのものとなってしまい、そうしたなかで男女間の愛情とも呼べるものは芽生えるのだろうか、と。阿部謹也『西洋中世の男と女 聖性の呪縛の下で』(筑摩書房、1991年)やJ.ル=ゴフ、A.コルバン他『世界で一番美しい愛の歴史』で述べられる前近代の姿とも少し異なっていそうな感じだ。
 それと、ふと思ったのだが、国王が他国へ攻めることは罪であったとしても、国王以外にはそれが罪にならないのであれば、そうする人物が出てきてもおかしくない気がする。この辺は、設定がまだ完全によく分かっていないので何とも言えないのだが。
 なお、下巻に収録されている解説に、陽子はこの異世界での経験を経て自己のアイデンティティを確立して近代的自我に目覚める、とある。確かに、本作において陽子は誰にも嫌われずに、誰にも気に入られようとする生き方をしている自分を恥じ、それを怠惰で卑怯な生き方と感じるようになっている。それは、私たちの目で見れば近代的自我と言えるだろうが、この異世界での経験を安易にそう呼ぶことはできないだろう。なぜならば十二国記の世界には近代という概念はないからである。それを近代的自我と呼んでしまえば、その概念の特質を分かりやすく理解することにはつながっても、近代とは異なる特質を勝手に捨ててしまうことになる。まあ、こんな歴史学的な指摘を、言葉尻を捉えてする必要はないのかもしれないが。


11月27日

 畑村洋太郎『失敗学のすすめ』(講談社、2000年)を読む。その書名通り、失敗を批判するのではなく、失敗から学ぶべく、失敗をきちんと知識化することを勧める。
 失敗を否定するべきではなく、失敗から学ぶことにより再び失敗することを避けられたり、新たなものが生み出されたりするというメリットがあるという本書の主張に、何ら疑問はない。それを知識体系化して、誰もが利用できる形にするということにも依存はない。著者はすでにデータベース化を推進して、JST失敗知識データベースという形での公開の統括を担っているようであり、これは高く評価すべきだろう。
 だが、結局のところ、これは実際に現場で活用できる人材の問題に帰されるのではなかろうか。本書でも述べられている通り、ミスにはその時点での技術からすれば想定できないものもあれば、明らかに分かっていたのに対処しようとしなかった、または隠蔽してしまったという作為的なミスもある。前者のミスは仕方がないのだろうけれども、それを仕方がないと判断してくれる組織を創り上げることこそが必要だろう。そうでなければデータベース化しても使い道はない。そして、どこまでが許される失敗なのかを決めるのもやはり人間なのだ。
 あと、気になったのがトヨタに対する評価。CE(チーフエンジニア)制度というのがあり、新しい車を開発する際には、責任者であるCEが重役よりも重い権利を持つという。著者は、この制度にトヨタの強さの秘密の一端を見ているようだ(71〜72頁)。一方で、三菱自動車が引き起こしたリコール隠しを、失敗を忌み嫌うシステムが引き超したものとしてみている。しかしながら、トヨタも悪質なリコール隠しをしていただけでなく、ここ数年で凄まじい数のリコールが生じていることは、マスコミなどでは語られていないものの、どうやら事実のようである(たとえば、MyNewsJapanの記事「リコール王トヨタ 過去3年欠陥車率99.9% トップは三菱ふそう1840%」など)。となると、トヨタにも失敗を隠蔽するひずみが生じつつあるのではなかろうか。
 その最も最近のものとして2007年のF1日本グランプリで、ホンダが後援する鈴鹿から、富士スピードウェイへと会場を移したトヨタのあまりにもお粗末な運営が挙げられるのかもしれない。まとめサイトである「トヨタの富士スピードウェイF1グダグダ運営」を見ると、凄まじいまでの怨嗟の声が書き連ねられていると同時に、ネット上にて同一IDでトヨタ擁護を続ける間抜けなトヨタ関係者の工作のいやらしさも垣間見ることができる。この辺のトヨタの対応は、どう見ても失敗学の理念に反するように見えてしまうのだが。


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