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2009年9月の見聞録



9月2日

 ローリー・アンドルーズ、ドロシー・ネルキン『人体市場』(岩波書店、2002年)を読む。読む前には人体臓器の売買に関する本だと思っていたのだけれど、そうではなくて医師や研究者が治療と称して患者のDNAデータなどを密かに集めて研究し、それを元に特許を取って金を儲けていることを暴いた本。だいぶ前に書いた、「学術調査顛末記」という文章で、社会調査を行う学者が調査対象となる被験者を下にしか見ていないような気がする、といったことを書いたが、本書に出てくる学者の場合には、それをさらに自身の蓄財のために使っていることを暴露していると言える。


9月5日

 平山夢明『独白するユニバーサル横メルカトル』(光文社文庫、2009年(原著は2006年))を読む。タクシー運転手に仕えた地図帳の独白という構成の表題作を含むホラー短編集。「このミステリーがすごい2007年版」の国内編1位とのことだが、個人的にはあまりピンと来なかった。唯一関心を引かれたのは、芸術が禁止された近未来で、芸術を取り締まりながらその美しさに惹かれてしまった男の末路を描いた「オペラントの肖像」だった。香山二三郎の解説にあるようにこれはジョージ=オーウェル『1984年』(ハヤカワ文庫(リンクは新訳版))へのオマージュなのだろう。本作では、いわゆる絵画作品が取り締まりの対象となっているが、この「芸術」の中には、文学や映画はともかく、マンガやゲームも入っているのだろうか。それともそもそもマンガやゲームは禁止されているのだろうか。
 非日常的なおぞましいものをおぞましく描いている文章力という点では優れているものの、見世物っぽいおぞましさというか。この感想は、日常的な中に潜むおぞましさの方により恐ろしさを感じるという個人的な感覚に基づくものなので、おぞましくてそこそこ後味の悪いホラーが好きな人ならば、おそらくど真ん中ではまると思う。


9月8日

 松下麻理緒『誤算』(角川文庫、2007年)を読む。看護師の川村奈緒は、ヒモになってしまった夫のせいで、仕事を辞めざるを得なかった。夫と別れて新しい仕事を探していると、莫大な資産を持つ老人を住み込みで世話する看護師の募集を見つけ、すぐに採用された。気難しい老人の世話をするだけではなく、遺産目当ての親族たちの欲望が渦巻くなか、奈緒もその渦中へと巻き込まれていく…。
 舞台設定はよくある遺産相続ものと言ったところか。ただ、前半部分はじっくりと描いているのに対して、後半部分はよく言えばスピーディーなのだが、むしろダイジェスト的な展開になってしまっている気がして、トーンダウンしたように感じた。事件の真相も少し意外という程度な感じ。後半部分をさらに濃密に描いたら、もっと面白くなったかもしれない。


9月11日

 池上英洋『恋する西洋美術史』(光文社新書、2008年)を読む。そのタイトル通り、恋愛に関係する絵画を集めて解説したもの。画家たちと恋愛のエピソード、神話を題材としたもの、キス・恋文などの駆け引き、結婚、秘められた愛情、禁じられた関係、愛の終わり、などの各章に別れている。以下メモ的に。
 キュプロス王ピュグマリオンが愛する彫像にキスをすることで命を吹き込まれたというギリシア神話のエピソードは、ルネサンス以後の絵画作品としても描かれた題材であるが、バーナード=ショーによって戯曲となり、これを基にしたのが映画『マイ・フェア・レディ』である。ただし、神話を踏まえて読み解くと、ヘプバーン演じる無教養な女性が、上流階級の社交性を身につけたことではじめて男性にとって完成するのであり、それまでは社会的に生きていなかったと見なされているとも言える(19〜20頁)。
 ギリシア神話において、交合を司るエロスよりもアフロディテの重要性が増していくと、エロスはアフロディテに付き従うものとなっていく。それと同時に青年から幼児へと姿を変えていくことになる(67頁)。ルネサンス期に盲目のクピドのモチーフが好まれたのだが、もともとギリシア神話ではクピドが盲目であったわけではない。これは、ルネサンス期になって、官能的な愛が不正な愛と見なされ、さらに夜=闇へイメージづけられていったことと関連していると考えられる(71頁)。ボッティチェリ「ヴィーナスの誕生」(リンクはWikipedia、以下絵画作品については同じ)に描かれているウェヌスは、重心を大きく右に傾けている。これはネオ・プラトニズムを信奉するボッティチェリが頭の中にある美的イメージを観念的に視覚化しているからである。これとは対照的に、同じく「ヴィーナスの誕生」を1879年に描いたブグローは、アトリエに経たせたモデルを写実的に模写した結果、大きく身をよじっているように見えるものの、実際の立ち方に則っている(79〜80頁)。同じくボッティチェリの「春」では、中央に経つウェヌスの後輩に描かれた木々の葉は円形に浮かび上がって見えるが、これはマリア像とその光背のように見える。ルネサンス期の絵画はキリスト教的一神教の枠組の中に古代の多神教の文化を重ねようとするためであり、ウェヌスの腹が膨らんでいるのは妊娠中のマリアだと解釈することができる(84頁)。
 ブリューゲル「農民の婚礼の踊り」には、腰を突き出してセックス・アピールをする男女や、森に消えゆく何組かのカップルなどが描かれている。当時、四旬節第1日曜日の祭りでは、男女がお互いをアピールし、その日のうちに性交を行う。共同生活を行い1ヶ月後に妊娠していれば結婚することになる。なお、ブリューゲルのこの作品は、広大にインモラルと判断された部分への加筆が行われており、倫理観の変化があったことを物語っている(158〜160頁)。
 近世における結婚は、家系を継ぎうる嫡出子を産むという性格が強かった。生まれてくる子供が本当に父親の子供であることの最も簡単な証明は、花嫁が処女であることだった。そのために、花嫁が処女であるかどうかは結婚の契約に置いて重要な意味を持ち、そのことを確かめるために初夜を見張る床入れ式が存在していた。ジョヴァンニ=ダ=サン=ジョヴァンニ「初夜」(1620年)は床入れ式を描いた珍しい作品である。(161〜163頁)。
 16世紀までは、来客といえどもベッドに腰掛けるのが一般的であり、ソファが普及するのは16世紀になってからのことであった。ただし、寝台が相続目録に記されることはなかった。主人の死後、召使いたちの手に渡る習慣だったためである(190頁)。
 なお、少し気になったのが、愛をやや普遍的なものと考えすぎているのではないかということ。直接的にそう明言しているわけではないのだが、どうもそのような節が窺える。古代における愛とは男女が対等な関係でなかったために、社会や世間などすべてから隔絶した男女だけの二人の恋愛というものは成立しなかったと思うのだ。古代に恋や愛が存在しなかったのではなく、お互いに対等な男女が結ばれあうという現代的な恋愛が存在しなかったのではないか、ということだ。この辺りは、J.ル=ゴフ、A.コルバン他『世界で一番美しい愛の歴史』を読んだときにも、インタビュアーの態度に感じた疑問と同じなのだが。
 とはいえ、ギリシア神話やキリスト教、または近世以後の風俗や概念などを踏まえつつ行われる絵画の説明は簡潔でありながら読み応えは十分にあるので、絵画のみならず神話に興味がある人には十分にお勧めできる。


9月14日

 近藤史恵『カナリヤは眠れない』(祥伝社文庫、1999年)を読む。経営者の男性に見初められて結婚をした墨田茜は、過去にカードローン地獄にはまったことがあったのだが、ハイソな暮らしをしている同級生との再会により、再び同じ道に囚われていってしまう。彼女を診察した整体師の合田力は、診察することで患者の内なる声を聞くという能力から彼女の状況を危ぶみ、たまたま診察に訪れた雑誌記者と共に独自の活動を開始する…。
 以前、同じ著者の『サクリファイス』を読んだときにも感じたが、小粒ながらもさわやかにまとめるのがうまいな、と。同じくカードローンを扱った宮部みゆき『火車』に比べれば、ものすごくあっさりしているが、ちょっとしたどんでん返しもうまく決まっていて、いい感じ。探偵役の整体師・合田はキャラが立っているので、シリーズ化すると面白いかもしれない。


9月17日

 広瀬正『マイナス・ゼロ』(集英社文庫、2008年(原著は1970年))を読む。1945年の東京、小学生だった浜田は、空襲のさなか息絶えそうな隣人の先生から「18年後にここに来てほしい」と言われる。戦後、約束の日に訪れたその場所に突如として現れたのは謎の機械であり、そこから姿を見せたのは先生の娘だった。そして、彼女と一緒にタイムマシンへ乗り過去へ戻ると、アクシデントで過去に取り残されてしまう…。
 いわゆるタイムパラドックスもの。登場人物の結婚と誕生のタイミングが凄く絶妙に絡み合っているので、もし微妙に歯車が狂っていたらどうなっいたのだろうか、というありきたりな時間と存在に関する疑問を改めて考えてしまった。主人公たちの恋愛関係が何とも調子よく成就されてしまうように見えるのは、なんだか時代を感じさせる。恋愛に関する描写はどんどんと捻くれてしまい、その揺り戻しでいまは純愛ものが再びもてはやされ始めたのかな、とふと思った。


9月20日

 伊藤正敏『寺社勢力の中世 無縁・有縁・移民』(ちくま新書、2008年)を読む。日本の中世史は、史料を豊富に残しており経済力・武力などを所有していた寺社勢力を抜きにしては語れないと主張する。
 中世の寺社は、民衆や武士・貴族などの逃げ込み場所でもある無縁所として有名だが、単に世俗を超越している空間であるからそのように見なされただけではない。内部での自由な政治・経済活動こそがその要因であり、寺そのものが「境内都市」とも呼びうる都市だった。
 そもそも南北朝以前には、神社に属する職人は朝廷や幕府の課税を受けなかった。その経済活動は重要な役割を担っており、たとえば京都の経済は比叡山なしには成り立たなかった。米は叡山領の多い越前・加賀からもたらされるが、それを運ぶ琵琶湖の舟運や京都の運送業者も比叡山が管理し、京都に300ほどあった金融業者である土倉のうち240が比叡山に属していたからである。建築業のシェアも、お抱えの公人を抱えていた寺社によって占められていた。また、根来寺のように、大名へ武器を提供する軍需産業を運営していたことも珍しくない。
 それどころか、十分な武力も保有していた。寺社勢力が管理していた土倉は、盗賊対策と債権取り立てのための武装団を備えていた。中世最初の山城を建築したのは比叡山であり、1166年のことである(なお、「城郭」は仏教用語)。警察権に関しても、朝廷や幕府の権力がまったく及ばないわけではないものの、たとえば逃亡者の逮捕を行う場合には、基本的に内部の者の手によって行われた。その際に没収された逮捕者の財産は寺社勢力のものにできるという、検断得分権を保持していた。また、支社勢力の領内武士との間に、戦功の申告書である軍忠状とそれに対して出される証明書の感状が交わされており、これは御恩と奉公の関係にあたる。
 なお、寺社の構成員には、特権を要求する貴族・武士・富裕民出身の学侶、公式行事の雑役を勤める下級僧侶の行人、寺院の信仰と権威を背負って、寄付を募り有業する聖がいた。このうち、やがて実権を握っていくのは行人であり、また聖の内外での活動が寺社勢力を支えた。いわば民衆に近い彼らの活動が力を持ったからこそ、政権に憎まれたのである。
 さらに言えば、平安時代の文書の95%は寺社所蔵の文書であり、奈良・平安時代の朝廷文書や鎌倉幕府の文書はまったく残されていない。つまり、寺社に残された史料によって中世史は再構成せざるを得ない。
 以上のような寺社勢力の重要性を踏まえて、中世の始まりと終わりは一般的にいわれているような鎌倉幕府の成立から豊臣政権の完成までではない、とする。京都において初めて、そのほぼ東半分を祇園社が境内として領有することが認められた1070年2月20日から、刀狩令によって寺社勢力も武力を否定された1588年7月8日までを、中世と定義づける。
 以上のような、寺社勢力を自立的な勢力と見なす視点は説得力があるし、その傍証として挙げられている事例も非常に興味深いものが多い。著者自身も言及しているが、境内都市を無縁所に含めなかった網野善彦を批判的に受け継ぎ、さらに発展させたと言えるかもしれない。日本史の専門家からすれば突っ込みが入る箇所があるのかもしれないが、専門外の人間からすれば読み物として非常に面白い。日本史のみならず歴史に興味がある人には、強くおすすめできる本だろう。
 以下、メモ的に。1181年、源頼朝は居を定めた鎌倉にて鶴岡八幡宮寺の若宮造営に着手したが、その工事を行うだけの技術を持った大工がいなかった。そのため武蔵浅草寺の大工を呼んで普請を行った。同じく信長の城の石垣づくりを行った穴太衆は、叡山参加の職人であった。また、法隆寺の宮大工も、二条城や江戸城の作事に関与した(84〜85頁)。
 親鸞は妻子を持ち不邪淫戒を破ったために苦悩したと語られているが、寺社勢力という観点から見れば、宗教弾圧に際して性的に貶めることが口実となってしまう事態を避けるため、と考えられる。実際に、法然の教団が弾圧されたときには、弟子の密通がその口実であった。そのために親鸞は、世襲の職業集団となっていた僧の家を積極的に合法化しようとしたと推測される。ただし、彼らを破戒僧として非難する考え方が、特に水戸光圀や新井白石以下の儒者によって定着してしまった(100〜101頁)。
 1173年に興福寺が延暦寺に出した果たし合い状の下書きは、自分たちの始祖を挙げる点や、戦場を定めて両軍の対決で勝敗を堂々と決めようとしている点などから、武士の果たし合い状の先駆的な文書と言える(102〜105頁)。
 遣唐使が廃止されて、事実上の鎖国となったというのは間違いで、実際には民間の貿易が盛んになったため、もはや遣唐使は不要になったに過ぎない。これ以後の日中貿易に乗り出したのが、比叡山や石清水八幡宮、東大寺などであった。だからこそ、建国間もない明は、九州を支配していた懐良親王を国王と誤認して国書を出す一方で、日本天台座主宛の国書を携えていた(118〜121頁)。
 高野山奥の院の発掘調査によれば、墓所を破壊してその上に墓所をつくることが繰り返されていた事実が判明している。また根来寺はドブのフタとして墓石を用いていた(127頁)。なお、古代ローマにおいても碑文の刻まれた石碑が建材として再利用されていたことは、ローレンス・ケッピー(小林雅夫・梶田知志訳)『碑文から見た古代ローマ生活誌』(原書房、2006年)にも、簡単に紹介されている。
 いわゆる「村の歴史」は、室町時代後期に始まる。古代の村は律令制下の古代豪族の家族とその所有地であるが、王朝国家の悪政と共に破壊された。続く中世の村は住民の流動性が大きく、村の範囲も確定していなかった。御成敗式目には、年貢を完済した村民はその後どこへ行ってもよいとされていた。世襲の家制度が富裕層の庶民で確立したのは15世紀であった(226〜228頁)。


9月23日

 北村薫『夜の蝉』(創元推理文庫、1996年(原著は1990年))を読む。前作『空飛ぶ馬』と同じく、女子大生の「私」が遭遇する日常の謎を、円紫師匠が解き明かすという短編集。前作に比べると「私」の個人的な心情が前に出てきているようで、少女マンガを読んでいるような感じだ。ただ、少し乙女チックな感じで、やはりあまり肌に合わないのだが。さて、次作もあるようだが、今度はどうしようかな…。


9月26日

 東山彰良『路傍』(集英社、2008年)を読む。2人のチンピラによる荒んだ生活とその延長線上にある犯罪を描いた短編集。ドラマティックな盛り上がりもなく、暴力的な言動を淡々と描いているが、読んでいてうんざりするような粗暴さを感じる。だからこそ、(単純に言ってしまえば)低社会層の救いのなさをさらけ出しているといったところか。本書で描かれているような犯罪でしかない出来事が、いわゆるチンピラのような人たちにとってここまで日常的なのかどうかは分からないが。
 1つ興味深かったシーンは、主人公達が北朝鮮の状況やアメリカのイラクへの派兵を話しつつ、憲法第9条の改憲問題をとりあげて自衛隊の軍隊化を声高に訴えている場面。彼らが論じたところで何も変えられるはずもないのに、偉そうに論じているところになんとも言えな憐れみを感じてしまう。とはいえ、一般人が世界情勢を論じるという無意味さと虚しさは、彼らのようなチンピラだけに限られたわけではないのだが。


9月29日

 越智道雄『誰がオバマを大統領に選んだのか』(NTT出版、2008年)を読む。2008年のアメリカ大統領選挙とほぼ同時進行で執筆した最新のアメリカ社会論。そうしたスタイルで書かれたからか、全体の流れを把握しにくく、人名が頻出するために、決して現代アメリカに詳しくない身としては分かりやすい本ではなかった。そのため、全体を要約することも難しい。とはいえ、これは本書のせいというよりも、アメリカ社会は非常に複雑でありなおかつ流動性が高いためでもあろう。現代のアメリカに対してより詳しい知識を持つ人が読めば、感想は変わるのかもしれない。ただ、アメリカを人種だけで区分するのではなく、地域に分けてみる必要性があることだけは、十分に理解できたが。以下、メモ的に。
 トクヴィルは、アメリカ社会において上下関係が消えて平等になると、誰もが自立し孤立すると主張した。その孤立から救われるものこそ選挙でのボランティア活動への参加である(72頁)。
 オバマの父親は黒人奴隷の子孫ではなくケニア黒人であり、前者の黒人が白人の姓を受け継いでいるのに対して、アフリカ系の姓を受け継いでいる。そして、オバマの母親は南部白人である。片方の親が白人であることは、一般的に自身の存在自体が同胞に対する裏切りと見なされてしまう。しかし、奴隷の子孫ではないオバマにとって見れば、そのような過敏な意識は無縁であった。だからこそ、白人からすればオバマに対して人種差別的な身構えを必要としないように映るし、アフリカ系からすれば反発を感じるために2007年2月時点で、アフリカ系の支持率では40%ものリードを許していた(95〜97頁)。
 ブリテン諸島からの移住は4つの波があったが、最後発のスコットランドと北アイルランドの気性の荒い人々は、残された地域である南部高地帯へと移住した。この気性は現在でも残っており、たとえば1982年の殺人率を見ると、アメリカ全体では10万人につき9.1人だが(これは西欧諸国の4倍)、北部帯は0.9〜4.4人(州ごとにばらつきがある、以下同じ)、その南のミッドランドは5.7〜7.2人、沿岸南部は10.9人であるが、高地南部は14.7人と極めて高いことからも分かる。1996年でも、同様の傾向は続いており、旧南部同盟の諸州は殺人率トップ20州に入っている。なお、この年の殺人率の全米平均は10万人につき7.8人だったが、同年の日本は2.6人だった。ちなみに、ブッシュ父は北部帯育ちで大学からテキサスだが、息子は幼児期からテキサス育ちである(139〜141頁)。
 中絶や終末に関するキリスト教右翼の価値観は、2008年の大統領選では衰退を示している。2007年10月に行われたキリスト教右翼の一般信徒を対象としたCBSニュースの調査では、大統領候補から聞きたいテーマはイラク戦争の終結と国民皆保険で、中絶反対や同性愛結婚反対は最下位であった。2008年7月では貧困との闘いが圧倒的な1位となっている。また、終末思想を訴える指導者層は、地球の環境保護など余計なお世話だと主張してきたが、それに異議を唱える信徒も増えてきた。こうした動向を示した信徒の多くは「ミレニアルズ」と呼ばれる30代以下の者たちで、親の世代とは異なり学歴を積んだ場合が多く、ブッシュ支持から民主党支持へと流れたとされる(169〜172、180頁)。


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