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2009年10月の見聞録



10月4日

 愛川晶『化身』(東京創元社、1994年)を読む。両親が死んで東京で一人暮らしをしている女子大生の人見操の元に、見覚えのない2枚の写真が送られてくる。そのうちの1枚に写っていたラーマーヤナの絵画を見て、記憶を揺さぶられる操。サークルの先輩である坂崎の推理から、写真に写っていた保育園を突き止めたのだが、そこでかつて預けられていた幼児が誘拐された事件を知る。そして、操は自分こそがかつてさらわれた用事だったことを思い出し、両親に疑惑を持ち始める。そして、坂崎の調査により戸籍が何度も移し換えられているのを知ると、さらにその疑惑は大きくなっていく…。
 うーん、正直に言うと尻すぼみの印象が強い。写真に写っていた絵画が何か鍵を握るのかと思えば、ラーマーヤナの妻がさらわれたという話と絡めてあること以外に特に意味があるようには思えなかったし、隠されていた動機も何だかスケールの小さい話になってしまっているし、その告白も警察の調書という形を取っていて、味気ない。小粒な作品であればまだまだ読み応えがあると思うのだが、なんというか安っぽいかな、と。


10月9日

 中谷功治『歴史を冒険するために 歴史と歴史学をめぐる講義』(関西学院出版会、2008年)を読む。大学での講義録をベースにした歴史学の入門書。歴史は過去と異なり、現在から眺めた特定の対象に対する問いかけから始まる。そして、それに対することを後世に残したいと考えて書かれたものでもある。個人の自発的な思いをきっかけとして解釈が行われるのだから、歴史として書かれたものには考察を進める個人の偏見が入ることから逃れることはできない。ただし、時代が変われば、当然のことながら歴史家自身の見方や考えも変化するのであり、歴史は常に書き換えられるものでもある。
 そして、過去に対する問いかけには思いやりが必要となる。冒頭に挙げられているエピソードとして、知人の高校教師が受け持っていた世界史の授業にて、コロンブスが最後までインドと勘違いしていたことに対して、学生からそれをバカにする反応が返ってきたというものがある。過去の人々は現在とは異なる社会や概念のもとに生きていたという思いやりがあって、過去に対する想像力や共感が生まれ、それを経て歴史認識や歴史像へと至る。ただし歴史学であるためには、想像力や共感を持った上で、安易な批判や賛同に留まらず、過去を分析し解釈する必要がある。
 ただし、歴史学は役に立つのかということは、容易に判断しがたい。そもそも、ごく一般的な生活を営む人にとって、歴史的な知識はいらない。著者は自分の母を例に挙げて、ソクラテスも十字軍も知らない彼女は、和裁・洋裁や料理・算盤の免許状は持っていたと述べている。とはいえ、人類は過去を記憶し語り継ぎ、そして記録するという道を選んできたのだから、歴史を軽視すべきではないとみなされているとも言える。もちろん過去への思いやりは、現代に置いても他者との相互理解にとって不可欠でもある。そして、さらに、過去への共感や理解、批判的な考察を通じて、自分自身も変わり成長することができる。
 ただし、現代人にとって歴史学とは、近代の国民国家において強制的に学ぶべきものとして教育に取り入れられたものという側面もある。そこでは、過去の事実の暗記という性格が前面に出ている。しかし、教員が語る事実の背後にも、当然のことながらそれに対する解釈が存在している。そして、事実に関する記憶が、集団レベルで忘却化・曖昧化・歪曲化されてしまえば、状況は悲劇的結末へと向かってしまうこともあり得る。だからこそ、歴史を学ぶ者は、過去の完全な再構成は不可能であることを自覚しつつ、現在の視点から過去を解釈し、次の世代へそれを受け渡すことを意識せねばならない。
 入門書であるため、もし興味があれば、以上のようにまとめた概要よりも、本書をそのものを読んでもらった方がよい。上にまとめた内容以外にも、歴史の科学性や歴史教育の問題など、歴史学を学ぶ上で必須の基礎的知識に関する内容もある。小田中直樹『歴史学ってなんだ?』は歴史学はどのように役に立つのかについての説明が中心的なテーマであったが、本書は歴史学とはどういう学問なのかという説明にウェイトを置きつつ、歴史学の有用性についても触れている。個人的に、歴史学の入門書としては『歴史学ってなんだ?』よりも本書の方がよいと思う。本書でも紹介されている望田幸男・芝井敬司・末川清『新しい史学概論 新版』(昭和堂、2002年)は入門書として最適だと思うのだが、本書も同じくらいによくできていると感じた。もちろん、巻末に入門者向けの文献目録も添えられている。
 さて筆者は、歴史学を含む人文学を「ぶっちゃけて言ってしまうと最後は『好き嫌い』というレベルに行き着く」(130頁)ものと述べている。これは、上記のように、自分の母親の例を挙げて一般的な生活を営むに歴史学は不要である、と述べていることにもつながる。そして、歴史学は社会的責任を持つべきという使命感へ向かうよりも、教条的になりすぎず事実や解釈に肝要で開かれた態度で臨みたいと述べる(157〜8頁)。さらに、戦国武将に学ぶといった考え方について、現実の自分たちが圧倒的な権限を有する実力者であるかのようにみなす想定の非現実的な考え方ではないかと批判している(222〜223頁)。これらは私自身の考え方に近い。特に一番最後のものに関しては、私自身も常々思っていたことだ。自分たちが、武将に匹敵するような優れたタマか、と。もちろん私自身も含めてのことだ。
 だが、これを踏まえた上で考えると、結局のところ歴史学は学ぶ必要性があるのか、という問題へと陥りかねない。たとえば大学での話として、学生に「先の大戦」と話しても、どことの戦争かと聞き返され、アメリカとの戦争と答えるとどっちが勝ったのかと尋ね返された、という例を挙げている(166頁)。ところが、やはりこういうことを知らなくても、働いてメシを食べていくことはできる。もちろん、過去からのつながりを現代から眺めて未来へと託す、ということは社会全体では必要だ。しかし、普通の人であれば教科書に出てくるレベルの歴史は知識として必要ない。自分の家族や地域社会のこと、そして自分の仕事に関連することを知っていればよい。ただし、これが極端まで行くと、よくない意味での民衆万歳史観となり、権力全てを悪しきものと見なす硬直的な左翼史観に陥る可能性もある。
 結局のところ答えは出ないのだが、現在の私が考えているのは、いわゆる大文字の歴史は、自分自身という小宇宙が決して孤立した存在ではなく、社会という大宇宙につながっている存在であることを再確認するためのツールなのではないか、ということ。歴史家は観測する者でありながら自分自身も舞台に立っている、自分自身も意識する必要がある。それを忘れてしまえば、高みに登って全知であるかのように振る舞う鼻持ちならないインテリに堕してしまうだろう。なんだかまとまりがない文章なのだが。
 以下メモ的に。歴史には、「現在とのつながりを重視する歴史」と「現在とは異なる世界としての歴史」の2つの見方がある。前者の連続的な思考は近現代史に、後者の断続的な面を重視する思考は古代・中世史に、それぞれよく見られる考え方である(107頁)。
 著者は、100名を超える講義を除いて、受講生に毎回感想や質問を提出してもらい、それにコメントを加えて返却しているという。そして、ふと見渡すと教員仲間の大半がにたような教育実践をしていたという(197頁)。ちなみに、私も同じようなことをしたことがあって、質問用紙を出席票代わりにする講義では、その質問の回答をレジュメにして配布するようにしていた(分量はだいたい5000〜8000字になる)。ただ、私の場合、周りを見ても同じようなことをしている人にほとんど出会ったことがないのだが。


10月14日

 秋山瑞人『イリヤの空、UFOの夏 その2』(電撃文庫、2001年)を読む(第1巻はココ)。第1巻の続きである浅羽と伊里野のデート、もう1人の新聞部員である須藤晶穂の浅羽への微妙な思いと文化祭というどちらかというとラブコメっぽい話がメインだが、最後の番外編も含めて、大人の側では重いストーリーが見え隠れしている、といったところ。


10月19日

 ジョルジュ・ギュスドルフ(小倉志祥・高橋勝訳)『何のための教師 教育学の教育学のために』(みすず書房、1972年(原著は1963年))を読む。
 著者が何よりも大事にしているのは、師と弟子の対話という意味での教育だと思うのだが、師匠や弟子というどちらかというと前近代的にも見える関係を、決して否定するつもりはない。そして、ソクラテスこそが自らを絶対の上位者に置く教師の原型であると喝破した関曠野『プラトンと資本主義』(北斗出版、1984年)のように(関曠野が本書からヒントを得たのかもしれないが)、その延長線上にある教室における教師と生徒の関係への批判にも同意するところは多い。そもそも、柳治男『<学級>の歴史学 自明視された空間を疑う』にて述べられていたように、教員の話を一斉に聞くという授業スタイルは昔からあったものではない。そのようなスタイルでは、著者のいうように、教わっている各人の精神が様々であることを読みとって、それぞれの能力を結実へと導くことは難しい。確かに、ソクラテスのように優れた生徒だけを相手にすることができないのが教育であろう(36〜37頁)。また、師匠や弟子という関係における教育の方が、弟子の才能を伸ばしやすいと思う。
 けれども、教員が多数の学生に向かって話す学校の授業という空間が維持されている限り、結局のところそれは困難だろう。なぜならば、それは一方的な話であり対話にはなりがたいからだ。というよりも、学ぶ者と教える者の関係が固定されている空間では対話は難しい。少なくとも教員が自分も学生から学ぶこともあり得るという姿勢を持たない限り、成立することはない。そして、そう考えている教員はあまりいないように思え、たいていは自分自身を知識の上での絶対者として高みに置く。さらに、そのように高みにいることには無自覚なのに、他人の権力に対しては極めて批判的な教員もいるので始末に負えない。
 そして、本書を読んでいて疑問に感じたのは、では著者が自分ではどのような教育を行っているのかについて記されているように見えないことだ。真の教師や真の教育とやらが大事なのは、十分に分かる、しかし、何よりも必要とされるのは、著者が批判的に述べる学校の教室という空間でどのように具体的に実践するのかである。残念ながらそれについては、ほとんど語られていない。本書を読む限り、理念を叫ぶことはできても、それを再現するのは難しいのだなと感じるだけで終わってしまう。
 ちなみに、著者はフランス人だが、やたらと自国の教育を批判しイギリスのそれを持ち上げるのが、何だかおかしかった。あと、本書の内容とは関係ないが、翻訳に「〜のである」がやたらと多くて読みにくい。


10月24日

 業田良家『ロボット小雪 新・自虐の詩』(竹書房、2008年)を読む。男も女も人型アンドロイドを恋人にするようになった時代。アンドロイドの小雪を恋人にした拓郎は、友達の広瀬と面白おかしく学生生活を送っていた。しかし、広瀬の家は破産し、川向こうにある貧民町へ送られることになってしまう。広瀬を心配している小雪になぜか人間の感情が宿り始め、貧民街の解放へと立ち向かっていく…。
 正直に言えば、少数の富裕者によって虐げられている大多数の貧者を解放する、というクライマックスのテーマそのものはそれほど斬新なものではないし、心を大事にしようという安直なヒューマニズムを感じさせなくもない。ただし、それが決して安っぽくならないのはこの人の味といったところか。
 『自虐の詩』ほど感情を揺さぶることはないが、考えさせられるものはある。たとえばエピローグにて、小雪をつくった拓郎の母は二度とロボットをつくらないと息子に述懐し、「邪悪な心を持ったロボットであれば/人間はそれと戦うことができる/でも本当に美しい心を持ったロボットだったら/人間はロボットに従うしかなくなる/その時/人間はいらなくなる……」(181頁)と呟くシーン。この台詞もよくあるような意見とも言えるが、前半部分のすっとぼけたギャグシーンがあるからこそ、印象に残る気がする。


10月29日

 佐藤亜紀『小説のストラテジー』(青土社、2006年)を読む。個人的に文学論はあまり得意なジャンルではないので、読んでいて理解できない箇所も多々あるのだが、小説を読むことそのもの快楽を引き出す以外の教訓を救い出そうという読み方に否定的である、らしい。たとえば、『アガメムノン』が同時代のアテナイ市民たちにとって何を意味したのかという問いを、著者は無用なものだと見なしている(38頁)。その点において、あまり私の考え方とは合わないのだが。私は、このサイトで行っているように、読者としての自分を通じることで、その作品を新しく解釈し直すと同時に、そこから何かを学ぼうとする読み手なので。
 とはいえ、すべてを分からなければならないというのは、あらゆる芸術を理解するのが現実的に不可能である以上、理解力を備えていない事柄さえ理解しているふりをしなければならない、という悪しき教養主義である(19頁)、という主張はまったくその通りと思う。そうした考えのもとで、感情を否定して、もっともらしく理屈をこね回して偉そうに見せるは、私も決して好きではない。ちなみに、これを読んだときに思い起こしたのは、はるき悦巳『じゃりン子チエ』で、アントニオJr.と小鉄がヒラメの書いたボクシングの絵を見たシーン。何か偉そうなことを言おうとしたアントニアJr.に対して、小鉄がこの絵を見たときにかっこいいと感じたことをそのまま表現することが大事なんだ、というようなことを諭したのだが、もの凄く分かりやすく言えば、こういうことなのだと思う。
 また、表現者も鑑賞者も、固有の歴史的・社会的文脈に囚われている、という視点も重要であろう。マリオ=プラーツ『ムネモシュネ』に挙げられている、19世紀末にボッティチェリの贋作として通用した作品が、今日ではまったく贋作たり得ないのは、その贋作が同時代人の鑑賞者の視点と一致するようにつくられているからであり、時代が変われば視点もまた変わってしまうからである、という例を挙げているが(29頁)、これもまったく持ってその通りだと思う。
 …と、書いていて気づいたのだが、作品から何を読みとろうとするのかという点を除けば、割と私の考え方は著者に近いのだな、と。たとえば著者は、ドストエフスキーを思想として読みとろうとするのではなく、メロドラマとして理解し、またドストエフスキーは思想がメロドラマ的動員たり得ると気づいた最初の1人であると断ずる(67〜69頁)。また、シェイクスピアの作品に当時の人々の差別主義が反映していたとして、それに依って作品の価値が傷つくわけではなく、逆にそれをあげつらったところで、読み手の読解の狭さをさらけ出すだけとする(213頁)。これらは、読者ゆえに作品からは絶対に傷つけられない神の視点を持つと自己を理解するのではなく、読者である自分自身も作品を含む世界の一員であるという点から小説に向かおうとする私の考え方と、立ち位置としては案外にている。
 そうなってくると、読み方は違うからこそ、私には到底できないような鋭い見解や学ぶ点も少なからず提示されているものだ。それらも含めて以下メモ的に。
 人に何か伝えようとするらならば箇条書きで十分であり、わざわざ詩にしたり小説に組み上げたりせずに、粗筋だけを短くまとめればよい。「わざわざ小説に書き延ばすのは、物語を伝えようとするからではなく、物語を場面に展開し、人と人、人と物、人とことをであわせ、そこで起こる運動に言語による変速を加え、移行やコントラストで固有の形を作り出したいから」である(17〜18頁)。
 M・ナイト・シャマランの映画『サイン』は、信仰を失った牧師が弟と自分の2人の子供と暮らしていると宇宙人が攻めてきたが、地球人の都合とは関係のない理由で撤退していったという、筋書きだけを聞くと駄作にしか思えない映画である。しかし、この映画はプロットではなく、映画として実現された記述を見なければならない。この映画では、受けての視界は常に何かに遮られていて狭さと息苦しさを感じる。しかし、最終的に狭い場所から解放されると同時に、様々な未解決の要素が明かされてハッピーエンドへのカタルシスへと向かう(43〜46頁)。
 必然性のない固有の店名や商標は、小説の古典的な技法では避けるべきとされている。だが、たとえばスターバックスではなくドトールへ行く必然性が読み手にもはっきり感じられるのであれば、固有の店名であるドトールを書かないのは不自然である。もし作品の中で店名を確定する枠組を提示しているならば、100年後の読者は、語科の作品に現れるドトールの意味を推測する手がかりになると感じて、感謝するだろう(105〜106頁)。
 プラトンはイデア論に基づき、真なるものの模倣にすぎないと見なしたフィクションである詩を否定した。しかし、逆に言えば、プラトンが理想としない人間と社会のあり方こそ、フィクションには最適の土壌であり、ミハイル=バフチンが近代小説をポリフォニックなものとして提示した際に、その本質は民主的なものだと主張した理由もそこにある(134頁)。
 欧米人は功成り名遂げたら回想録を書き、同時代になにがしかの役割を果たした自分を自身の口で語ろうとする。そして、日本の中間管理職が歴史小説を読んでリーダー論を学ぼうとするのと同じように、欧米では伝記が読まれる(179〜180頁)。


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