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2009年11月の見聞録



11月3日

 久坂部羊『廃用身』(幻冬舎、2003年、リンクは文庫版)を読む。ルポルタージュ形式の小説となっており、前半は老人医療の施設の院長が書いた新たな老人医療を導入する過程、後半はその医師の自殺後に編集者がまとめた、療法をめぐる世間の反応、というもの。
 医師の漆原は、日本の大学病院からパプアニューギニアへ移り5年間医療と研究に従事した後、日本に帰ってきて老人医療施設の院長となった。身体が動かなくなったり痴呆が進んだ老人の介護の現場において、虐待がしばしば行われている状況に直面した漆原は、ある治療法を思いつく。それは、すでに動かなくなった足や手などの「廃用身」を切断して、老人の体重を軽くすることで介護者の負担を減らす、「Aケア」という治療法だった(Aは「切断」を意味するamputationの頭文字)。許可が得られた老人に施されていくと、介護者の負担が減ると共に、処置後には性格が明るくなっていく者が増え、痴呆が改善された者まで現れた。
 ここまでは手記である前半部分であり、後半部分は編集者による文章となる。漆原が原稿を書き上げた後、マスコミによって漆原の治療法は虐待であるとの批判が行われ始め、関係者の証言も悪意を持って紹介され始める。クリニックの職員たちは団結していくが、さらに、Aケアを施して安定していた最初の治療者の精神が不安定になり、処置前に自分を虐待していた息子を殺害してしまう事件が生じてしまうと、ますます激しい個人攻撃が行われる容易になる。そして、少年時代の漆原が蝶の羽根をちぎって眺めていた、という記事が出ると、彼は失踪してしまった。その後、クリニックの関係者の証言から、院内が必ずしも一枚岩ではなかったことや、また追跡調査によって正義感に基づくやや独善的な性格があったことも明らかになっていく…。
 動かなくなった足や手を切断するという医療のインパクトや、後半で何度も出てくるマスコミによる個人攻撃の陰湿さも強い印象に残っているが、個人的に考えたのは手記という史料の背後には、幾つもの真実が絡み合っているということであった。前半部分の漆原の手記には、Aケアへの葛藤や患者への説明などを、覚悟や努力、説得で乗り越えていくように前向きに描かれているが、後半部分のマスコミの誹謗の背後にある関係者の批判や疑問などの声も、真実であるかのようにやはり感じ取れるのだ。また、確かに漆原の残虐性の集大成とも言えるラスト場面を読んだとしても、彼によって救われたと感謝している患者がいることも間違いない。より正しく見える真実が共通の事実として認識されるべきということを否定して、真実は人の数だけあるとするのは、悪しき相対主義だろう。だからといって、より正しい真実の前に他の真実は全て存在価値がない、と言い切ってしまってよいわけでも決してない。当たり前のことなのかもしれないのだが、真実は常に1つという考え方がいかに危険なのかということを、改めて認識させられた。中谷功治『歴史を冒険するために』について最近書いたばかりだから、このようなことを考えてしまったのかもしれない。
 こうした史料をめぐる問題は個人的な感想はともかく、老人医療という思い問題を扱っていながらも、エンタテインメントとして上手く仕上がっていると思うので、一種のミステリ小説としても十分におすすめできる。
 ちなみに、廃用身をめぐる問題は士郎正宗『攻殻機動隊』(リンクはコミックの第1巻)のような義体が実用化されれば、なくなってしまうのかもしれない。


11月8日

 メアリアン=ウルフ(小松淳子訳)『プルーストとイカ 読書は脳をどのように変えるのか?』(インターシフト、2008年)を読む。文字を認識して本を読むにあたり、人間は脳をどのように使うのかという観点から、最新の脳科学の理論を交えつつ語っていく(なお、前半の3分の1は文字の歴史そのものを中心に取り上げている)。幾つか興味深かったトピックを見ていこう。
 たとえば、アルファベットは表音文字であり文字数を制限したために処理の効率が良く、逆に漢字などの表意文字は知覚資源と記憶資源をロスしている、といった見方があるが、脳をどのように活用しているかを見ていくことで、これを批判する。アルファベットの場合には左半球の口頭領域に大きく頼っており、かわりに右半球は用いない。一方で漢字を読む際には、両半球のいくつかの領域を組み合わせた自動プロセスを動員して、処理を行っている。つまり、「効率性のタイプが言語によって異なっている」(97頁)にすぎない。
 また、幼児にはいつから文字を学ばせたらよいかについても脳科学の観点から指摘する。ニューロンが情報を伝える速度は、軸索のまわりを包むミエリンの層が厚くなることと関係している。たとえば、聴覚神経は出生前6ヶ月でミエリンが形成されるが、視神経は生後6ヶ月後となる。脳の情報を統合する能力の領域においてミエリンが形成されるのは、大半の人間は5歳を過ぎてからである。したがってその前に読み方を教える努力は、逆効果である可能性すらある。なお、その能力が形成されてからは、話をすることそのものが読字能力につながっていく。そのため中耳炎を放置しておけば、言語発達を阻害するそうである。
 また、読字障害を遺伝子の問題や「頭が悪い」という知能レベルの問題に還元するのではなく、脳の働きから解明していく。たとえば読字障害を持つ者は、通常ならば左半球で文字の情報を処理するのに対して、右半球を優先的に用いるようになっている(276頁の図)。なお、ある読字障害を持つ者が、ピサの斜塔を逆さまに描いたのだが、その理由を聞かれると「簡単だから」と答えたという(288〜289頁)。なぜこんなことが可能なのかは、現在の脳科学でも分からないようだが、これを読んだとき、エリザベス・ムーン『くらやみの速さはどれくらい』やオリヴァー・サックス『火星の人類学者』に出てくる異能者たちを思い出した(前者はフィクションだが)。また、下条信輔『<意識>とは何だろうか』で言われていた、「ミクロのレヴェルまでいけば、その過程においてはそのレヴェルでの科学的な法則に従っているに過ぎない」という文章とも重なり合う気がする。
 さてこのように、なかなか興味深い知識は得られるのだが、どうも著者の考え方に釈然としないところがある。それは本に対する特権化とでもいうもの。
 著者はインターネットにより、膨大な量の情報へ簡単にアクセスできてしまうことに懸念を抱いている。「継続的な注意力の断片かと多重課題を特徴とする現代の学習に、言葉、思考、真実および徳の掘り下げた吟味は広く根付くだろうか」と(121頁、訳注は省略。なお、多重課題には「マルチタスク」とルビが振ってある)。これが正しいか否かは、とりあえず置いておく。
 ところで、本書ではソクラテスが書き言葉の普及を非難した事例が紹介されている。そして著者は「口承文化から文字文化への移行と、それが特に若者たちにもたらす危険についてソクラテスが危惧したことが、デジタルの世界に没頭している現代の子供たちにたいして私が懸念していることとぴったり重なる」(110頁)と述べる。しかし本書は、ソクラテスが非難したまさにその文字文化に基づいて作製されているのだ。
 いや、文字文化によって以前よりも良くなった部分はあった、と著者は言うのかもしれない。本書を読む限り、ソクラテスの文字文化批判に反論している部分はないが、文字文化の発達によって新しく得られたものがあるのは疑いようのない事実だろう。しかしそれならば、インターネットによっても何か新しい良いことがもたらされるものがあって当然である。何も私はインターネットを全面的に賞賛したいわけではない。良い面もあれば悪い面もあり、それは文字文化も口承文化も変わらない、というだけだ。ソクラテスが非難した文字文化を、何の弁明もなく自身の意見表明の手段として平然と採用しているにもかかわらず、新しい表現方法をしたり顔で非難している態度に、うさんくささを感じざるを得ない。これならば、インターネットがさらに進んだ近未来を舞台にした『攻殻機動隊Stand Alone Complex』の最終話(リンクはAmazonのDVD)にて、情報の並列化によって個性が失われていくなかで、好奇心こそがその袋小路から抜け出る手がかりではないか、と話した草薙素子の方が何歩も先に進んでいる。
 現状を認識し、誤った物の見方の問題点を指摘するために、データを研究によって積み上げることは大事だろう。そして、問題点を指摘し批判するのは、決してそれほど難しいことではない。だが、単にあげつらうだけではなく、その長所と短所を分析し、さらにより良くするための提言を行うためには、自分自身を客観視することなくしては不可能だ。それに気づかなければ、本書のように無意識のうちに自分の立場を特権化することへつながってしまうだろう。加藤徹『漢文の素養』の項をはじめとして何度か書いたが、優れた研究者が現実に対する優れた提言者となるのは、やはりなかなか難しいのだろうか。


11月13日

 宮部みゆき『名もなき毒』(幻冬舎、2006年)を読む。今多コンツェルンの妾腹の娘と結婚した杉村は、相続に一切関わらないという約束の元で社内報の編集部に勤めていた。ふとしたきっかけで連続毒殺事件と関わるようになり、さらには経歴詐称と能力不足で解雇された契約社員からの脅迫行為がエスカレートしていくなかで、事件の思わぬ真相へと迫ることになる…。
 思わぬ真相と書いたけれども、それほど大げさなものではないし、『模倣犯』などと比べると物足りなさを感じてしまうのは仕方がない。死期の迫る探偵の北見が杉村に話した「普通とは何もないという意味で、つまらなくて退屈で空虚だ」という台詞や、それに対する編集部の新しいバイトの女の子の「自分がどこかの何者かにならなければいけないと考えねばすむけれども、もうそうしなくちゃならないことを知って目覚めたからそうはいかなくなった」という言葉は、『模倣犯』をはじめとする著者の現代社会観に対する慧眼へとつながるものだとは思うけど、そういうものもあまりない。
 ちなみに、本作は何かの続編らしく、また杉村が妻との生活観の違いに違和感を持つこと、また探偵という職業に興味を覚え始めることなどから考えると、たぶんシリーズ化していくのだろう。


11月18日

 保坂高殿『ローマ史のなかのクリスマス(異教世界とキリスト教1)』(教文館、2005年)を読む。クリスマスは、ローマのサトゥルナリア祭や太陽神の祝祭を受け継いだものか、それともキリスト教の教会伝承から発生したものかという起源論争について論じていきつつ、初期キリスト教における異教的要素の重要性を再確認する。
 そもそも、ユダヤ・キリスト教には生物学的な出生を祝う習慣はなかった。むしろ誕生日や命日を祝うのは、特に権力者の場合に多大な出費も惜しまなかったペルシア人であった。その影響を受けて、ヘレニズム王家の政治権力者の場合には、死後にも誕生日が祝われることがあった。これは、ギリシア世界では神々が各月に聖日を有していたことに因む、自己神格化に由来する。ヘレニズム期以後には、エピクロスやプラトンのような特性の優れた人士の誕生日が祝われることもあった。ローマ人は、神殿奉献日を神々の誕生日として祝い、さらに都市の誕生日である4月21日も祝った。したがって、誕生を祝うという習慣は、キリスト教ではなくギリシア・ローマの文化的風習に端を発するはずである。
 やがて4世紀にはキリスト教が公認されて、改宗者が大量に増加したものの、信徒が異教の祝祭に参加するために、教会へ来ない事態がまだ生じることもあった。そうしたなかで、帝政期に広く崇拝されていた太陽神に対して、キリストが「真の太陽」「新しい太陽」であると説明することで、キリスト教的な解釈が提供され、それに伴う年末の祝祭をクリスマスとして取り込んでいった。したがって、祭り好きの異教徒を新たに獲得するためにクリスマスが導入されたわけではない。
 これはクリスマスに限られることではなく、教会の指導者たちは、一般信徒の異教徒的な行動を一方的に抑圧せずに、教会の未来へ向けて建設的な目的と結びつけ、改変を加えて実行していった。キリスト教に関連する祝祭だけではなく学問や芸術、日用品など、その範囲は幅広い領域に及んだ。テルトゥリアヌスが父祖の慣習を重視するローマ人に対して「君たちは古い時代を賞賛して止まないが、日々真新しい様式の生活を送っている」(『弁証論』6.9、訳は227頁より)と述べたことも、こうした態度に由来する。
 一般読者を対象とした書き方だが、史料に言及する際にはその所在の典拠を明記し、またその分析などは本格的な研究書に類するレベルのものである。なお、続編ではキリスト教後任以後もキリスト教は異教と対立していたのではなく、キリスト教の中に異教的要素が窺えることや、こうした初期キリスト教の異教的要素を排除しようと後世の人間が考えたために、クリスマスの起源について教会伝承説が生じたことなどが論じられるらしい。キリスト教の聖なる教義は決しても不変ではなく、その時代を生きる人たちによって解釈されていく中で変質を遂げていく、という事実が透かし見える点では、田川建三『書物としての新約聖書』と似ている。


11月23日

 山口芳宏『雲上都市の大冒険』(東京創元社、2007年)を読む。昭和27年、東北にある山上の鉱山都市にて、秘密裏に監禁されていた座吾朗という囚人が、20年前の予告通りに脱獄する。その直後、座吾朗が復讐を宣言していた通り、鉱山の社長が殺害される。その会社の顧問弁護士である殿島は、畑違いの事件の解決を求められる。そこに現れる義手の自称探偵である真野原と、有名な私立探偵の荒城。しかし、第2の事件までもが生じてしまう。そもそも排泄孔と空気孔、食事を差し入れる穴以外は鉄板で完全に密閉されていた牢獄から、座吾朗はどのように脱獄したのか…。
 生活のための基本的なインフラが整っている鉱山都市を舞台にした探偵活劇といったところ。典型的な探偵のキャラでありながら推理力はいまいちである荒城と、変人めいているが優れた推理力のある真野原という2人の探偵が、ストーリーにいいアクセントを付けている。特に後者は、金ではなく興味こそが人間の活力だと断言したり、「探偵の存在意義は、金ではなく記録にあるのだからいつかこの事件を発表して、自分の存在を永遠のものにして欲しい」と頼んで死地へと赴きながら、最後にはまんまとお目当てのものをかっさらっていくなど、人を食ったところがなかなかキャラ立ちしている。なお、脱獄のトリックと犯罪の方法は、「半分」だけの脱出に成功というなかなか面白いものだが、ちょっと無理があると感じる人もいるかもしれない。また、個人的には真相の説明の部分が少し長すぎるように思えた。
 …などと偉そうに注文めいたことを書いてしまったが、古き良き冒険活劇の変化球が読みたいという方には十分にお勧めできる。


11月28日

 岡田温司『マグダラのマリア エロスとアガペーの聖女』(中公新書、2005年)を読む。改悛した娼婦と見なされてきたマグダラのマリアは、キリスト教の歴史において、聖母マリアやエヴァと並んで最もポピュラーな女性である。にもかかわらず、図像表現としては両極端なモチーフとして描かれ続けてきた。たとえば、改悛の場面にしても、カラヴァッジョは謙虚に悔い改める清楚なマリアと、肩をはだけて恍惚の表情を浮かべる官能的なマリアという、全く異なった姿で描いたことがある。さらに、ふくよかな女性として描かれることもあれば、痩せ細った痛ましい姿で描かれることもある。
 そもそもマグダラのマリアは、福音の旅のほんの一場面、キリスト磔刑・埋葬の立会人として、キリスト復活の証人として、の4つの場面で登場するにすぎないのだが、そのどこにも回心した娼婦という記述はない。だからこそ、初期キリスト教美術での彼女の出番は、磔刑や復活の場面に限られている。
 そして、その福音書においても、描かれ方を見ていくと、4つそれぞれで彼女への評価が微妙に異なっていることが分かる。たとえば「ルカ伝」では、イエスの復活を伝えた彼女に対して、使徒たちは不信感を持っている(24:11)。それ以外においても、イエスの復活を目撃した彼女の態度は違っており、「マタイ伝」では恐怖しつつも歓喜と信頼する様子が(28:8)、「マルコ伝」では驚きや動転のみの強調が(16:8)主軸となっているが、「ヨハネ伝」ではイエスがやさしく語りかけ、いわゆる「我に触れるな」を唯一記録している(20:17)。これらは、初期キリスト教において、女性の地位と役割が一定していなかった事実を示しており、それを体現する存在がマグダラのマリアであった状況を示している。
 そして、中世にはいると、このマグダラのマリアと様々な女性が同一視されていくことになる。たとえば教皇グレゴリウス1世は、「ルカ伝」に登場する罪深い女と、イエスに香油を塗ってそれを髪でぬぐったラザロとマルタの姉妹であるベタニアのマリアを、マグダラのマリアと同一人物であるとする。さらに、娼婦であったものの発心してエジプトの砂漠で修行をしたマリアのイメージも重ね合わせられる。そしてこうした様々な要素を持つマグダラのマリアのイメージは、13世紀の『黄金伝説』で1つの集大成として完成させられた。
 竹下節子『聖母マリア 「異端」から「女王」へ』によれば、聖母マリアも『新約聖書』では重要な位置にはなかったゆえに、先行する女神のイメージに重ね合わされて、信仰を自在に形成されていったらしいが、マグダラのマリアもそれと同様なのであろう。両者はネガとポジの関係なのかもしれない。
 以下、本書ではマグダラのマリアの図像と共にそのイメージについて検証していっており、巻頭のカラー画像も含めて色々と紹介されているのだが、なぜか個人的にはこの辺りはピンと来なかった。絵画作品の意味を歴史的背景から読みとることには、かなり関心があるはずなのだが。単にこちらの美術史に関する知識不足と関心を持つ方向性の違いのせいだとは思うのだが、あまりも多義的であるがゆえに、今ひとつ全体像がつかめないという理由もある気がする。
 1つだけメモ的に。15世紀後半から16世紀前半のイタリアでは、イエスの死を前にして激しい身振りで嘆き悲しむマグダラのマリアの彫像が作成された。当時のイタリアにおいては、身振りや表情で哀悼の気持ちを表すことは禁じられ、女性は公の場ではなく家庭で死者を悼むことが求められていた。当時の人々は自分にはできないことをマリアの彫像を見ることで発散していたと思われる(74〜75頁)。


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