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2010年8月の見聞録



8月5日

 金谷武洋『日本語は亡びない』(ちくま新書、2010年)を読む。グローバル化が進む中で、日本語が英語に飲み込まれていってしまうという危機感を表明した水村美苗『日本語が亡びるとき 英語の世紀の中で』(筑摩書房、2008年)に対する反応とも言える書(水村本は未読)。
 著者の主張は、簡単に言ってしまえば、日本語が滅びるというのは行き過ぎた懸念である、ということになる。たとえば日本語がグローバル化の中で消えてしまうという不安に対して、日本文学はいまでも外国語に翻訳されていると主張する。例として挙げられているのは、著者が所属しているモントリオール大学東アジア研究所の図書館に所蔵されている、フランス語に翻訳されている膨大な日本文学である。本当は2ページ半にわたって続いているのだが、このサイトで取り上げたものだけ列挙してみると、石田衣良『池袋ウエストゲートパーク』、小川洋子『博士の愛した数式』、桐野夏生『OUT』、原ォ『そして夜は甦る』、宮部みゆき『火車』『R.P.G.』、村上春樹『アフターダーク』、村上龍『共生虫』などである。以上のように、少なくともモントリオールにて、日本の現代文学はしっかりと受け入れられているといってよい。そもそも、たとえば森有礼のような明治時代の知識人が、日本語は英語に負ける運命にあり、日本語では西洋の科学を学べない、と述べたものの、現在ではそれが杞憂に過ぎなかったと分かっている。日本語を受け継いで後世にしっかりと伝えてきた庶民の叡智こそを重視すべきだと説く。
 さらに、日本語は外国語を取り入れる際にカタカナでそれを表すことが批判的に指摘されることも多い。けれども、実はそうすることで日本語は防衛本能を働かせているとする。まず、カタカナ語のほとんどが名詞であり、活用する用言はほぼ日本語のままである。動詞化する場合も「する」や「な」を付け加えただけであり、結局は名詞に過ぎない。同様に基礎語彙もまだ日本語のほうが主流である。発音する場合も日本語として発音する。また日本語の基礎的な語彙には2つの音韻からなる単語が非常に多い一方で、近代化に伴って欧米の言語を翻訳する際には4つの音韻で表記した。このルールは現在のカタカナ語でも守られている。こうした要素によって、日本語は外国の言語から侵食されるのを免れている。逆に英語は中世のノルマン征服によって、フランス語に大きく侵食されている。
 さらに、著者は主語を必須とする他動詞の言語である英語に、人間を神の視点に置く人間中心主義を見出す。一方で主語を必要としない日本語は、地上の視点であり、対話者との共存を前提とする(日本語における「は」は主題であり、「が」は主格であり、いずれも主語ではない、という主張に関しては、金谷武洋『日本語に主語はいらない』を参照のこと)。そうした地上の視点を持ち、地に足についた人物の例としてあげるのが、宮部みゆきと中島みゆきである。「宮部みゆきの推理小説や中島みゆきの歌に感動する日本人は、其の視点を「地上」に持つ庶民である。空を見ても、足はしっかり地べたに着いている。そして、その「地上の視点」を何世紀にもわたって支えてきたものこそ、共生と共存の思想をその文構造に備えている日本語なのだ」(175頁)。
 以上が主な内容なのだが、著者はグローバリズムの観点から英語の勢いと日本語の劣勢をみるエリート的な立場に立つのではなく、地に足のついたローカル的なものの根強さに着目しているといえる。確かに、ほんのわずかのエリートがグローバリズムの中に飛び込み国際的な視点と能力を磨くことは必須である。その一方で、あくまでも日本という立場からものを考える著者のような立場も重視すべきであろう。ただし、日本語に危機感を覚える人は、おそらくエリート教育がきちんとなされていない点に危機感を覚えているのだろうが。したがって、本書の立場と日本語危機論は、対立するものではなく、補完しあうものなのだ。実際に著者も、水村の「日本人を日本人たらしめるのは、日本の国家でもなく、日本人の血でもなく、日本語なのである」という言葉に対して、「こういいきる水村に、私は立ち上がって拍手を送りたい」(176頁)と述べて本書を締めくくっている。
 なお、地に足の着いた心性という観点か宮部みゆきを論じる視点は興味深い。対象となっている作品は『理由』『火車』『模倣犯』である。『理由』において、悲劇の舞台を高層マンションに置くという点から、神の視点の危うさを説いているのは、なるほどと思う。『火車』に描かれたクレジットカードの浮遊感、『模倣犯』にしばしば現れる人々にもてはやされたい英雄願望なども、確かに「神の視点」と「地上の視点」という対比から見るとわかりやすい。私が宮部みゆきに共感することが多いのは、こういう視点があるからか、と納得させられた。ただ、ものを書くというのは、ある意味でどこかに第三者的な神の視点を必要とするのかもしれないという気もするのだけれど。


8月10日

 山口雅也『キッド・ピストルズの慢心 パンク=マザーグースの事件簿』(講談社ノベルス、1999年)を読む。森博嗣『人形式モナリザ』と同じく、市立図書館にて廃棄処分となっていたものを持ち帰ってきたもの。
 パラレル世界の英国。そこでは警察が堕落してしまった代わりに、民間の私立探偵たちが市民の信頼を勝ち得ていた。いつしか組織された探偵士教会を国王は厚遇するようになり、社会的な地位も確立した。そして警察は探偵士に捜査を依頼し、その下で働くことになっていた。こうした世界のなかで、パンクス出身でありながら警察の職に就いていたキッド・ピストルズとピンク・B。彼らは探偵士に重宝され、それ以上に活躍することもあった…というシリーズの第4作らしいが、たまたま手に取った本作は、両主人公の最初の事件が紹介されているので、この巻から読んでも大丈夫なつくりになっている。短編集であり、パンクス出身というキャラが立っていて、それぞれにちょっとひねりを加えた小技も効いていて、十分に楽しめる。


8月15日

 神代真砂実『ミステリの深層 名探偵の思考・神学の思考』(教文館、2008年)を読む。キリスト教の神学者である著者が、その視点からミステリを論じたもの。
 『新約聖書』においてイエスは、殺すことどころか腹を立てることも禁じているように見える(「マタイ」5:12-13)。となると、宗教とミステリは相容れないかのように見えるし、聖職者にミステリの愛好家がいることも、禁断のものに手を出していると解釈されかねない。だが、ミステリは知的なゲームだという見方に立てば、そうとも言い切れない。さらに、ミステリは謎を探求する人間性に由来するものとすれば、人類の歴史と同じくらい古いものであるとも言える。そして読者は、世界における混沌が秩序へと解決されることに満足する。この観点に基づけば、天地創造は光をつくり時間を秩序だてた点で、ミステリと同じ構造であるとも言える。
 そして、宗教(キリスト教)では特別な霊力を持つ指導者が秩序へと向かわせるように、ミステリには探偵役を必要とする。言葉を換えれば、宗教において掲示が世界の意味を開示するように、ミステリでは探偵役が謎を解き明かし、不可解な出来事や事物の意味を明らかにしていく。この意味でも、本格物ミステリとキリスト教は意外に近い立場にある。
 ただし、ミステリは一般的に近代になってから誕生したと考えられているように、近代的な合理性の探求が反映している。そのために同じように近代に入って発展したスポーツと同じく、閉ざされたゲームの世界としてルールが確立していったのであり、たとえばヴァン・ダインの20則やノックスの十戒はその例である。だからこそ提示された謎はとけなければならない。にもかかわらず、ミステリは神秘的なものとして生まれてこなければならない、というのは矛盾しているとも言える。さらにミステリにおいては、探偵による推理によって単に犯罪者が発見されるだけではなく、合理的な法を超えた形で正義が実現される場合もある。これは、神秘を実現する儀式としてのミステリという判断を下しうる。
 なお、本書ではここから名探偵の営みを、神学の営みとしての「批判的実在論」へとつなげ合わせていくのだが、個人的には今ひとつよく分からなかったので、これ以上まとめることはやめておく。と言うよりも今ひとつピンと来なかった。ミステリを神学という観点から論じるというスタンスは興味深く、ここまでの章は学ぶ点も多かったのだが、真理を追跡するという点でミステリと学問の類似性を指摘するとともに、神学との同質性を見出すというのは、やはり信者ではない身としては、あまり納得できない。穿った見方かもしれないけれども、著者は神学とミステリを兄弟と見なしているが、部外者から見ると実は神学を親とする親子関係として論じているように見えてしまった。以前、ニコラス・ハンフリー『喪失と獲得 進化心理学から見た心と体』が、科学と非科学の違いは、前者の方が優れた考え方をするという点よりも、自分自身でなぜそれを信じるべきかを学ぶ点にあると指摘していたのを読んで、科学万能主義すぎるのではないのかと疑問を感じたのだが、ミステリの神学への還元論を読んでいると、言いすぎではないような気がした。
 なお、ミステリの語源はギリシア語の「ミュステーリオン」に由来し、この言葉には「秘密の(宗教的)儀式」という意味合いもある。さらに遡ると「閉じられる」という意味の「ミュオー」という動詞に辿り着く。入信したあとの儀式に対する沈黙命令に語源の可能性があるらしい(47頁)。


8月20日

 北村薫『盤上の敵』(講談社文庫、2002年)を読む。自宅に猟銃を持った男が立て籠もり、妻の友貴子を人質に取られた末永純一。警察とテレビカメラに包囲されたなかで、末永は犯人と独自に交渉を行い妻を救出しようとする。しかし、それとともに現れた女性の死体…。
 事件と女性の告白が相互に繰り返されて、それらが組み合わさることでどんでん返しへとつながっているという形式を取っている。正直に言えば、そうしたどんでん返しそのものは、確かに意表を付くものではあっても、それほど唸らされるほどのものではないように思える。むしろそれよりも印象に残るのは、女性の告白によって描きだされる、その女性の魂を引き裂かれるがごとき悲しき過去の方であろう。解説で光原百合が述べているように、最終章が女性の夢見る森の場面で終わっているのは、ハッピーエンドに至りますようにという著者の祈りなのだろう。だからこそ著者は本書の冒頭にて、本書が決して心安らぐ物ではない、とやや言い訳めいて述べているのだと思う。そうしたほろ苦くもリアリティを感じさせるラストが、何となく米澤穂信『犬はどこだ』に似ている気がした。


8月25日

 笠井潔『探偵小説と二〇世紀精神 ミネルヴァの梟は黄昏に飛びたつか?』(東京創元社、2005年)を読む。第1次世界大戦後、直接の戦場となった大陸諸国では、大戦後にモダニズム=アヴァンギャルド芸術運動が巻き起こる。他方イギリスやアメリカは、第1次世界大戦の直接の戦場とはならなかったがゆえに戦場での大量死を経験することがなかったが、そうした戦場での名もなき人物の無意味な死に対して、計画された殺人とそれを解き明かすという点で意味を持たせることがミステリの隆盛につながったとする。その意味で、探偵小説は20世紀的なものでもあった。ただし、探偵小説は単なる近代小説の再現ではない。犯人、被害者、探偵として復活した人間は、謎を解明するプロットに組み込まれる記号的なキャラクターにすぎないからである。
 基本的なテーマをまとめると以上のようになり、さらに戦後の日本のミステリの流れについても諸処の推理小説に基づきつつ、年代による区分を行っている。つまり、英米にて生じたミステリの勃興は、日本では第2次世界大戦という大量死を経験した後に生じたとする。さらに新本格ブームは、思想としての日本型ポストモダニズムが勢いをなくしたあとに、ゲーム性や記号的な登場人物を意識したメタフィクション性を備えた上でポストモダン社会の小説形式として栄えたジャンルであると見なす。
 ものすごく簡単にまとめてしまったが、実際には色々な作品を実例に挙げつつ論じている。ちなみに、大きな物語の喪失という点で、東浩紀『動物化するポストモダン』にも言及している。
 なお、探偵小説と第1次世界大戦との関係性については、神代真砂実『ミステリの深層 名探偵の思考・神学の思考』にて疑問が呈されている。アメリカとイギリスが大陸の国々とは違った文化や気質を備えているという事実を捨象していること、ミステリがモダニズム=アヴァンギャルド芸術運動の対応物である理由、第1次大戦においてイギリスが直接の戦場とはならなかったものの、戦没者記念碑などがあり戦争の記憶は存在していること、などである。これについては同意するところもある。日本では大量死を直接的に経験することがミステリの勃興につながったのであれば、なぜ同じことがフランスでは起こらなかったのか、という説明はいると思われるので。それとも、英米で大量死に意味を持たせる行為としてのミステリがパラダイムとしてすでに成立したから、日本は直接的な経験をしたけれども、ミステリへと流れていった、ということなのだろうか。
 以下、メモ的に。ミステリにおいては、主要な人物として、被害者、犯人、探偵が挙げられるが、彼らは物語のどこにおいてアイデンティティが与えられるかが異なっている。被害者は冒頭から与えられているのに対して、探偵は結末に謎解きを終えることでアイデンティティが与えられる。そして犯人は、冒頭から実存している者の謎解きによってアイデンティティを与えられる、被害者と探偵の中間的存在である(34〜35頁)。
 笠井が聞いたところによると、乙一の読書遍歴は、小学生のときはマンガとゲーム、中学生は電撃文庫とスニーカー文庫、高校生で講談社ノベルスと出会うというもので、16歳で小説を書き始めたという。マンガやライトノベルというルートからも優れた書き手は登場しているのであり、「今さら漱石から読めとかいってもなんの説得力もない。現代本格が若者たちの教養の一角を占めているという事実を、われわれは積極的に捉えた方がいいと思います。歴史主義的、教養主義的な秩序や体系が完全に壊れて、すべてが等価値で平面上に並んでいる感じになってきている」(259頁)。これはそのとおりだと思うのだが、野口武彦『小説(一語の事典)』を読んだときにも書いたように、そもそも夏目漱石の小説が出版された当初、現在のように教養としてもてはやされていたのか、ということがやはり知りたい。


8月30日

 小野不由美『風の海迷宮の岸(十二国記)』(講談社文庫、2000年(原著は1993年))を読む。前巻『月の影 影の海』とは急に舞台が変わって、戴の麒麟である泰麒が五山にて王を選ぶまでの物語。どうやら前巻から少し前の物語のようである。泰麒は生まれる前に人間界に流され人間として育った点で、前巻の主人公である景王陽子と同じ立場にあるのだが、陽子と異なり恵まれた環境で過ごしながら十二国のあり方を知っていく。その意味で本巻は、読者への説明編であるとも言えるかもしれない。その上で、自分のあり方に葛藤を抱きながら成長していく泰麒の姿が、物語の中心的なプロットとなっている。やはり国同士の争いがメインになる物語ではない、というところが興味深い。最後はこれからよい国になりそうな感じで終わっているのに、前巻では荒れた国との描写があったと思うのだが、何が起こったのか、ということが描かれていくのだろう。


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