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2010年7月の見聞録



7月1日

 折原一『沈黙者』(文春文庫、2004年(原著は2001年))を読む。新年早々に生じた老夫婦とその長男夫妻の惨殺事件。そして、時を同じくして生じた老夫婦の殺人事件。それと平行して語られる、傷害と暴行で逮捕されながらも自分の名前を全く名乗らず黙秘していた男の記録。両者はどのように結びつくのか…。
 『冤罪者』『冤罪者』と同じく、ノンフィクションライターの五十嵐友也が出てくる。自分の名前を名乗らない犯人がいた、という実際にあった事件をふくらませて書かれた小説のようだが、前作・前々作に比べると意外性という点では明らかに落ちる。自分の名前を名乗らないことは黙秘権に含まれず、それをしてしまえばどうなってしまうのかということを描く部分は面白かったのだが、お得意の叙述とトリックは今ひとつかな、と。


7月6日

 西村賀子『ギリシア神話 神々と英雄に出会う』(中公新書、2005年)を読む。著者の言葉を引用すれば、「寄せ集めでもなく、神話学的な解釈ばかりでもなく、できればわたしの専攻分野である古代ギリシア文学に引きつけながらギリシア神話を紹介」(259頁)しようとした本。「世界の始まりと人間の誕生」「華麗なる女神たち」「ギリシア神話における生と死」「オリンピックとギリシア神話」「怪物考現学」「空に輝く神話」「トロイア伝説」の各章からなる。ただし、神話そのものを色々と分かりやすく紹介しているものの、単なる物語の紹介に留まっているものが多く、神話学的な背景よりも歴史的な背景がもっと知りたかった。ただし、これはあくまでも個人的な好みなので、ギリシア・ローマ人が書き残している神話では分かりにくいところもあるのを整理してくれてありがたい、という読者の方が多いかもしれない。なお、まとめの部分によれば、ギリシア神話は、もともと人々に教訓を与える教養という社会的機能を果たしていたが、ローマ期になると娯楽的な性格が前面に出るようになり、そちらがルネサンス期以後のヨーロッパに受け入れられたようである。
 以下、メモ的に。ヒッタイトとギリシアの神話には共通性が見られる。特にそれが強く窺えるのは王権交代に関する神話である。ヒッタイトでは、天の神であるアヌをクマルビが打倒し、その性器を切り取って、精液を飲み込んだ。しかし、その性器の一部から生まれた天候神テシュブがこれを打ち倒した。以上は、天空神ウラノスをその息子クロノスが殺すも、そのクロノスの息子であるゼウスがこれを打倒した、というギリシア神話と類似している。神話が似ている場合、たまたま同じようなことを別々に考えたという独立発生説(人間の考えることにはある程度の普遍性があると見なす)と、もう一方が他方に影響を与えたとする伝播説があるが、この場合は後者であり、ヒッタイトからギリシアへの影響が考えられる。ただし、両者に違いがあるのは、ギリシア神話にはたびたびガイアが現れることである(38〜41頁)。これはギリシアが農耕民であることに基づくとしている(40〜41頁)ものの、ヒッタイトでも農耕は行われているし、むしろギリシアの方が大地は痩せている気がするので、少し疑問に思うのだが。
 ティタン神族との争いが終わった後に、神々と人間の争いが起こったのだが、その時には人間は男性ばかりであった。その後、プロメテウスが火を盗んだ代わりに、災いをもたらすために美しい娘を神々につくらせ、「犬の心と盗人の本性」が与えられた。この娘こそパンドラである(45頁)。これはギリシアにおける女性蔑視の思想とも言えるのだろうか。
 ヘシオドスは、人類が黄金、白銀、青銅、英雄、鉄の種族と移り変わっていったと見なし、自分自身が生きている鉄の時代は労役と苦悩と災禍に満ちているとする。このことは知っていたが、「同時代に対するヘシオドスの憂いに満ちた描写はあまりに真に迫り、わたしたちの生きている今の時代のことがここで語られているのだとは思わずにいられないほどだ」(50頁)という文章を読んだとき、「昔はよかった」という言説は古代ギリシアの黎明期にもすでにあったのだ、と今さらながら思い当たった。
 ギリシアには何度か民族の侵入があったが、最終的にギリシア語を話す民族が流入してきた。その際にゼウスを頂点とする家父長的な神話が確立されたが、旧来の女神崇拝を完全には駆逐できなかったため、そうした女神たちは男性神の妻・母・姉妹などの立場で神話に組み込まれた。その代表がゼウスの妃ヘラである。ヘラの名前はインド=ヨーロッパ語系統には属さないし、ヘロドトスも土着民から受け継がれたと述べている。『イリアス』には「牛の目をした」という枕詞がヘラに添えられるが、これはヘラと豊穣や大地の結びつきを示す。またヘラが大地を打って蛇を生んだという『ホメロス風讃歌』の「アポロンへの讃歌」の一節は、蛇の姿で太古の女神が顕現した記憶が反映されている(59頁)。アテナがゴルゴンの首を身につけているのも、蛇の女神の流れをくむものと考えられる(62頁)。
 オウィディウスによれば、アフロディテが愛した美青年であり没薬の木から生まれた美青年のアドニスは、狩りにて獣に瀕死の重傷を負ってしまい死んでしまうのだが、アフロディテが彼の血に神々の飲むネクタルを振りかけると、風に散るアネモネの花が生まれたという。なお、アネモネはギリシア語の風anemosに由来する。これに対してアポロドロスは別の話を伝えている。アフロディテが赤子のアドニスを冥界のペルセポネに預けたところ、その美しさに奪われたペルセポネは帰すことを拒んだ。結局、ゼウスの仲裁により、1年の3分の1ずつ、つまり3分の2を両者の元で、残りの3分の1を好きなところで暮らすようになったという。
 このように「一年を分割して地上と地下で暮らすモチーフは、都市ごとに死と復活を反復する植物神に特有のものである。没薬は死体の防腐剤として用いられることから、彼の出自も死との結びつきを暗示する」(66頁)。さらに死と再生を繰り返す男性神は、先史時代の大女神に随伴するイヤー・ゴッドの系譜にも連なる。オリエントでも、シュメル女神に対するドゥムジ神、イシュタル女神に対するタンムズ、そしてアシュタルテ女神に対するアドニスが確認できる(64〜66頁)。
 ポセイドンとアテナは、アテナイを中心とするアッティカ地方の神の座を争ったが、三又の槍で地面を付き海水を湧き出させた、あるいは馬の調教の技を教えたポセイドンに対し、オリーブの木を贈ったアテナが勝利した。これは、アテナイにおいてオリーブが油のもととなる必需品であるとともに、重要な輸出品だったという事実に由来している(76頁)。
 奈落の底を指すタルタロスは、ゼウスによる秩序の構築を妨害する者を拘禁する牢獄として神々にも恐れられたものの、ホメロスやヘシオドスによれば、拷問を与える処刑場や生前の悪行を償う地獄ではなかった。ホメロスは、死後に懲罰を受ける場所をハデスに置き、また罰を受ける理由も神と人間の関係の侵犯が理由だった。これがウェルギリウスになると、人倫の蹂躙を制裁するために厳しい罰を与えるタルタロスが語られている(93〜95頁)。
 同様に、ホメロスとその250〜300年後のピンダロスの間にも、終末論の変化が見られる。ピンダロスによれば、人は死後に裁きを受け、それに基づき償いをするか労苦の少ない生活を送るかが定められる。また。生前に三度にわたって不正から魂を遠ざけた人々は至福の島にたどり着くとされた。至福の島は神の寵愛を受けた英雄たちの場所から、生前に善行をなした人々のための理想郷となった(116〜117頁)。
 そのピンダロスには、死に対するペシミズムも見られるようになる。これはホメロスが『オデュッセイア』にて、オデュッセウスに死の島での永遠の生を拒ませ、アキレウスの亡霊にたとえ地で這いつくばっても太陽を仰ぎたいと嘆かせたのとは異なっている。それでもピンダロスには、生まれた以上には最善を尽くさねばならないという前向きな態度も見て取れる。ところが、さらに後の前5世紀末のソポクレスになると、『コロノスのオイディプス』で老人たちの合唱隊に、生まれてこないのがましで、生まれてきてしまった以上は元のところに変えるのが次にましだ、と歌わせられている(119〜121頁)。このあたりについては、後世の偽作とされる「ホメロスとヘシオドスの歌比べ」の中で、ホメロスが一番よいことは生まれてこないことか生まれたらすぐに死ぬこと、2番目によいのは酒と食べ物に詩人の歌が添えられた宴会、と答えたこととも関係ある気がする。
 オリュンポス神族は、ティタン神族と争った後にさらに巨人族とも戦う。この巨人族との戦いは、文学でも美術でも、初期にはさほど重視されなかった。しかし、ペルシアなどの外敵の脅威にさらされ始めると、それら外敵が好戦的で粗暴な巨人族に重ね合わされていく(158〜159頁)。
 ヘシオドス『仕事と日』は、労働に関する教訓詩であると同時に、農事暦を含む実用書でもあった。その際に、農作業に適した時期は、星々と関連して述べられている(191〜192頁)。
 ギリシアの叙事詩は、「叙事詩の環」という複数の叙事詩が組み合わさったものとして構成されていた。個々の叙事詩は、聴衆や読者が伝説の全貌を理解している前提で薦められる。トロイア伝説に関すれば、本当は『イリアス』と『オデュッセイア』の他に6編の叙事詩があった。


7月11日

 西澤保彦『フェティッシュ』集英社文庫、2008年(原著は2005年)を読む。他人の葬儀に毎日出向いて自分好みの黒タイツの写真を狙い続ける老人、セックスによる快感が得られなくなると同時に他人との接触に嫌悪感を抱き始めた看護師、同棲相手に捨てられて自暴自棄で酒浸りの中年男性、相次ぐ家族の死の連鎖の果てに息子さえ亡くしてしまった現実に耐えきれず家出をした女性、彼らはみな様々な形で美しい少年クルミに魅せられた。彼は、他人に触れられると仮死状態になるという特異体質だった。その一方で起こる連続殺人事件。その捜査を担当した刑事は女装を趣味としていたのだが、彼もクルミの存在を知ることになり…。
 タイトルにもある通り、一般的にはおそらく正常とは認められないような欲望を持った人々が中心となっているのだが、その生々しいリアルさは吉田秋生『櫻の園』(白泉社文庫、1994年)を読んだときのような感覚に近い。『櫻の園』に描かれている、初めて生理を迎えた女性の嫌悪感は、それが全く経験できない男性の私に取ってさえ気持ち悪さと下腹部の居心地悪さを感じさせてくれるのだが、この小説でも、そうした描写が連発で出てくる。中でも性欲に関するものが多く靴を履いていない美しいラインが最も良いというタイツフェチのこだわり、ピアノを弾く女教師の美しい手に惹かれて、死体の手を見るだけでその人物と断定してしまうこだわり、潔癖性でありながらあまりにも美しい(仮)死体に反応してしまう性的欲求など、他人から見たら醜いだろう描写が盛りだくさんである。そして、解説で山田正紀も指摘しているように、西澤の描写は女性にも男性にも容赦がない(このあたりが、吉田秋生に通じるものを感じるのだが)。そういう生々しさが嫌いな人には、この小説は全く合わないだろう。だが、そうした醜い部分に思わず目がいってしまい、かつ自分自身のそうした部分を自覚している人は、身の回りの死者に対するクルミの勘違いをはらそうとする刑事の思いまで含めて、そのまとわりつくような陰鬱さに惹きつけられるだろう。つまり、この小説を楽しめた人は、何らかのフェチなのではないかと。当然私は楽しめたのだが。
 ちなみに一番面白かったのは、性的な絶頂感を得れば得るほど、快楽が得られつつも満足できなくなるという感覚を、カレーづくりにはまっていって自分でスパイスにも凝っていったのに、その味は市販品のレトルトカレーに近いことに気づくのに似ている、と喩えた場面だった。


7月16日

 高山博『中世シチリア王国』(講談社現代新書、1999年)を読む。その名の通り、中世にノルマン人によって建国されたノルマン・シチリア王国を取り上げて、その概略を述べたもの。この国については、イスラム文化との融合を果たしていたため、東方からの優れた文化を伝えたという役割を果たしたという点と、優れた行政制度がヨーロッパ各国に影響を与えて近代行政制度の先駆けとなった、という点が強調されてきた。だが著者は、こうした点を評価しつつも、そうした見方はヨーロッパを中心に位置づけてこの国を周辺と見なしていると主張する。そうではなく、ラテン・カトリック・ギリシア正教会・イスラムの文化が影響を与えあった異文化接触というダイナミズムな実態の重要性を見落とすべきではない、とする。著者の主張はわかるし、その歴史的な展開について知ることができるけれど、あっさりした内容であるため、いわゆる歴史書以上でも以下でもない。単なる歴史的展開の叙述に留まらず、もう少し一般読者にもアピールするような内容があればいいのだけれど、たぶん著者はそのようなものを望んでいないのだろう。


7月21日

 森博嗣『人形式モナリザ』(講談社ノベルス、1999年)を読む。避暑地に建つ私設博物館「人形の館」。そこで催された「乙女文楽」の上演中に、演者が突然殺害される。実は、その被害者の親族の者が2年前に同じナイフで殺害されていた。犯人は一体誰で、その背後には一体何が…。
 近くの市立図書館で廃棄処分となっていたので持ち帰って読んでみた。どうやらシリーズものの2作目らしい。裏表紙には「ラストの1行で、読者を襲う衝撃の真実」とあり、エピローグの犯人の独白での最後の呼びかけがそれにあたるのだろうが、正直に言って、私にはそれほど大げさなものには思えなかった。さらに、シリーズものということもあり、事件そのものと同じくらいの分量で、主人公たちの人間関係(愛憎劇)が語られており、メインとなる事件そのものは、特に事件発生後の展開についてはどうもダイジェストっぽくかんじてしまった。個人的には、主人公たちの事情にも特に面白みを感じなかったので、このシリーズを読むことは、もうないかな、と。


7月26日

 麻生誠『日本の学歴エリート』(講談社学術文庫、2009年(原著は1991年))を読む。タイトル通り、近現代の日本における学歴エリートの概略や特徴を論じた論文集。「学歴エリートの実像」「日本の教育と企業成長」「大学就職の社会史」「官僚はどのように形成されたか 日本型英才教育の果たした役割」「実学エリートの再評価 実学の復権のために」「日本型学歴社会の構造と病理」の全6章。ものすごく簡単にまとめれば、近代日本においてまずは官界で生じた学歴エリートの重視が、戦前から戦後にかけての産業社会でも経営者・中間管理者層・労働者層へと広まっていった、といったところか。このまとめだけだと一般的な学歴に関する認識と変わらないのだが、本書では学歴エリートの比率などの統計的データを用いることで、そうした認識に学問的な裏付けを与えた、というところが特色と言える。戦前の学歴エリートについては、竹内洋『学歴貴族の栄光と挫折』の方がきちんとデータに基づきながらも読んでいて面白い著作に仕上がっていると思うが、こちらは産業界における高学歴化というより広い範囲を考察対象としている。なお、本書の「はじめに」によれば、著者が研究を行い始めた頃には「ファナティックな戦後民主主義一辺倒の教育界のなかでは、エリート論など研究する者は場違いなものと見なされがち」(3頁)で、著者のことを心配してエリート論は止めた方がいいという忠告してくれた友人もいたらしいので、エリート論の端緒を開いた点で著者の存在として重要なのだろう。
 なお、著者はエリート育成が学校教育によってのみ可能であると考えており、学校でこそ機能的な組織化が可能であり、また従事している人々にとって予測可能となるとしている(214頁)。その一方で、現在の日本における学歴社会とは、何を学んだかではなくどの学校を出たのかを重視する社会であると述べている(263頁)。著者はこうした状況を改善すべきときが来ているとは論じるものの、具体的な処方箋を述べるにまでは至っていない。ただし、こうした状況は、著者自身は批判的に紹介している、プラトンが理想化した教育論の延長線上にあることは、このサイトでも何度も取り上げているように関曠野が『プラトンと資本主義』(北斗出版、1984年)や「教育のニヒリズム」(『野蛮としてのイエ社会』(お茶の水書房、1987年)所収)が論じていることである。もちろん、私にも改善案を提示することは出来ない。だが、「アトランティス伝説が孕むアカデミズムの袋小路」でも述べた通り、教員という権力者の地位にいることを自覚して、少しずつ変革していくしかないだろう。
 以下メモ的に。学歴エリートの特徴として、第1に高等教育を受けるための競争の機会が均等である社会が必要であること、第2に学歴を取得した学歴エリートは、その後の昇進に特権を付与されること、第3にエリート集団において構成メンバーそのものは流動的であっても、その集団内における学歴的な出自は維持されていることが挙げられる。日本の場合、明治30年代から刊行されている『人事興信録』を見てみると、大正期まではエリートにおける高学歴者は20〜25%だが、昭和に入ると急増していき昭和39年には83%まで上昇するものの、昭和48年には76.5%へ減少する。これは、高学歴を得ると逆に中小企業のリーダーとして必要な資質が奪われてしまうためではないかと思われる(「学歴エリートの実像」)。


7月31日

 柳広司『ダブル・ジョーカー』(角川書店、2009年)を読む。前作『ジョーカー・ゲーム』と同じく、戦前の日本のスパイ組織であるD機関にまつわる短編集。今回は、前回で言えば上海をめぐる短編集と同じく、D機関の面々が脇役という話の方が多い(「魔王」こと結城中佐の過去も語られているが)。ただし、最後の短編はD機関のメンバーが主役であり、これが一番興味深かった。前作の最後と同じく、「何物にもとらわれるな」という鉄則を身内絡みで貫徹できなかったのだが、前作の軽い失敗とは異なり、真珠湾奇襲の情報を掴むことができなかったという大きな失策につながる。常人離れした能力を持つ彼らでも、個人の力で歴史を動かすことはできなかったという物語として描かれているのはなかなか面白い。


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