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2010年6月の見聞録



6月1日

 支倉凍砂『狼と香辛料』(電撃文庫(メディアワークス)、2006年)を読む。行商人ロレンスは、狼の耳と尻尾を備えた「狼の賢神」であり麦の豊穣を司ると自称するホロという少女と出会う。ロレンスは半信半疑ながら彼女の申し出を受けて、共に旅をすることになる。やがてロレンスは、銀貨が値上がりすると噂に基づく儲け話に乗るのだが…。
 舞台設定は、ヨーロッパの中世末期のような世界観。すでに続編が何巻も出ていて、評判になったので今さらながら読んでみた。もちろん、「キリスト教」という固有名詞は現れないものの、修道院という言葉や何らかの中心的宗教と異端や異教という場所や用語が設定の小道具として用いられているため、その雰囲気にかなり近い。英雄めいた人物が主人公ではなく、あくまでも商人の物語というあたりが一般的なファンタジーとは異なる。しかも国家や邪神などが物語の主題になるのではなく、それらはあくまでも商人の物語のための舞台設定に使おうとしているあたりも、特徴的であろう。人によってはドラマッティクさに欠けていると思うかもしれないが、いわゆるファンタジーのものに飽きている人には、大仰でない部分にかえって魅力を感じたからこそヒットにつながったのだろう。さらに、個人的にはあまり好きになれないライトノベル的なくどい文体ではないことも、好印象だった原因なのかもしれない。
 さて、本書については商人の駆け引きのリアルさや、そうした策略によって状況を乗り切ろうとす面白さが評価されているようだが、ホロが必要とされなくなっていく状況に一番興味を惹かれた。ホロ曰く、自分の力で住んでいる土地の麦畑を実り豊かにしたものの、それには代償も必要なためたまに実りを悪くせざるを得なかったが、そうすると自分のことを気まぐれだと農民たちは不平を言ったという。だから出ていくことにしたとホロは語るのだが、ロレンスは、その地方の新しい領主が、新しい農法を導入して生産性を高めていることを思い出し、ホロは自分が必要ではないと感じたのではないか、と述懐している(57頁) 。ロレンスの述懐は、物語のラスト付近で事実だったことが判明する。ホロは涙をこぼしながら以下のように悔しがっているからだ。「じゃが、やつはこう言ったんじゃ。私らがあなたのご機嫌伺いをする時代は終わった。あなたの気まぐれにびくびくする必要はもう、ない。教会に目をつけられていたところだから……あなたを教会に突き出して我々は古い時代から決別する、とな!」(267頁)。そして、こういう言葉もある。「ただ、どれだけ拝んで祈ってもいざというときに無慈悲で役立たずな神や精霊を廃し、自分達の力で何事も成し遂げられるというのならそれはとても魅力的なことだ。その上、新しい農法を導入したり、作業を効率よくすることで収穫高が上がるのなら、豊作の神や大地の精霊達は豊作や不作を気まぐれで操っている、と思わなくもない」(267〜268頁)。
 このあたりの様相は、たとえば阿部謹也『蘇る中世ヨーロッパ』(日本エディタースクール出版部、1987年)などで言われている、中世ヨーロッパの世界観に近いように感じる。中世ヨーロッパの人々は、世界を自分たちの住む小宇宙とその外側にある大宇宙とに分けて考えていたという。大宇宙を代表するものは森林であり、怪物や地水火風のエレメンタルなどが存在しているため、人間には制御できない畏敬の対象であった。だが、森林は人間に食べ物などの恵みを与えてくれるため、その良いイメージが精霊などによって具現化する場合もあった。ただし、人間は森林を開墾することによってその大宇宙を圧迫していき、畏敬の念も恐れていったとされる。ホロの悔しさは、大宇宙の側からの嘆きを分かりやすく提示しているものではなかろうか。本書は商人的なやりとりから世界を語ろうとする方向へと向かうのかもしれないが、小宇宙と大宇宙の相克という点もそこに絡めてくれるといいな、と。


6月6日

 イタロ・カルヴィーノ(須賀敦子訳)『なぜ古典を読むのか』(みすず書房、1997年)を読む。豊崎由美『勝てる読書』で紹介されているのを見て、興味がわいて読んだもの。古代から近代まで順番に様々な古典を紹介していったもの。まず最初に古典の定義を挙げていっているのだが、そのなかでも、古典を古めかしい権威として読むのではなく、古典という宇宙の中に自分自身を再定義するために読む、といった考え方が個人的にはしっくりとくる。
 なお、著者は古典を読むときには、解釈を読まないで原典を直接読むべきだと勧めている。原典について書かれた本は原典を超えることはない、という著者の言葉は殆どの場合において事実だろう。著者がいうように「原典の神髄を把握するためには、原作者よりもよく知っているつもりになって居丈高になる仲介者をまず除外しなければならない」のも、その通りだと思う。だが、優れた解釈を書きうるものは、ある部分で原典を超えることもあるのではなかろうか。ただし、著者はもちろんこんなことは分かっているとは思う。実際に著者の語る古典は自分自身がこれを知っていて偉いだろう、という口調ではないし、権威として崇めるような態度ではない。自分はこの古典からこんなことを教えてもらった、読むとあなたも同じような感覚を味わえるよ、といった古典と対等な友人の立場で、現代の対等な友人に勧めるような感じで、思わず読んでみたくなるものが多い。その点において著者は原典を超えることもある仲介者となっているのではないだろうか。
 以下メモ的に。なお、なぜだか分からないが、個人的には近代以後の古典に関してはあまり興味をもてなかった。ホメロス『オデュッセイア』において、オデュッセウスは記憶喪失の危機にさらされるという話がある。この際にオデュッセウスが忘れるべきではないものとして、「帰還を忘れる」という表現で強調されている。これはつまり『オデュッセイア』そのものを忘れてはならないことを意味する。そして、テクストなく詩を歌う吟遊詩人にとっては、自分のレパートリーを忘れてはならないということでもある(17〜18頁)。これはいわば自分の人生を忘れてはならず、語らねばならないという意味でもなかろうか。
 敵地からの退却行を記したクセノポンの『アナバシス』は、叙事詩のように英雄を立てた描き方をしているのではないし、自分たちの置かれた状況を愉快に語っているわけでもない。「一将校の技術的な回想記」であり、「外交上の問題、人員の配置、戦略についての問題集でもあると同時に、それぞれの問題への回答集なのだ」(29頁)。そして、敵地を通過している自分たちこそが異物であるという意識を持ち、野蛮人の慣習に文明人として嫌悪を持つことはあっても、植民地主義的な偽善はない(32頁)。
 オウィディウスの『変身物語』では、ある章があと数行というところで新しい話を始めることがある。連載小説にて読者の興味をそそるためのよくあるやり方とも言える。だが、「ひとつの現実であり、一貫性もある世界、そのなかで、ふつうは孤立して考えられる出来事のあいだには相互作用が存在するひとつの世界」(47頁)として語られている。これはある意味で、ミルチャ・エリアーデ『聖と俗 宗教的なるものの本質について 』(法政大学出版局、1969年)などで語られている循環する世界観の表れであるような気もする。
 16世紀に書かれたアリオスト『狂乱のオルランド』という長詩では、どの章の前書きにも、これはもう1つの長詩の続きであり、それも無数の長詩のサイクルにつながるもの、と書かれている。実際には、この長詩はどこからでも読み始めることができる。となるとこの前書きは自分を飛翔化して見せた皮肉と言える。それと同時に「閉鎖的なプトレマイオス的宇宙の空間配列を否定して、世界の計測不可能な複数性を認めると同時に、未来にも過去にもみずからを解き放つような時空間の概念をあらわすものと見ることもできるだろう」(67頁)。


6月11日

 折原一『失踪者』(文春文庫、2001年(原著は1998年))を読む。ノンフィクション作家の高峯隆一郎は、女性の連続失踪事件を追っていたのだが、15年前に同じように起こった事件の被害者が今になって発見される。犯行現場に残される「ユダの息子」というメッセージも、過去の事件でも残されていた「ユダ」というメッセージと似ている。また、現在の事件の犯人と疑われたのは少年Aだったが、同じように過去の事件で犯人と違われたのも少年Aであった。しかし、前者が冤罪だったことが明らかになると、過去の事件との意外な関連性と真犯人が暴かれていく…。
 著者お得意の叙述トリックであり、最初と最後に、この事件を犯罪ノンフィクションとして扱ったと仮定した著作のまえがきとあとがきがある、という構成も仕掛けになっている。最後の最後でおそらくこの人物が犯人だろうということは分かるが、それでもそこに至るまではなかなかスリリングな犯人当てが楽しめる。著者の叙述トリック作品の中では、トリックのためのトリックに陥っていない部類の方に入るので、十分にお勧めできる。
 なお、『冤罪者』と同じく過去の実在の事件を題材に取っているようで、過去の少年Aが法学部に進んで弁護士になろうとしたという点で、高校生首切り殺人事件(リンクはWikipedia)をモチーフにしたのは間違いないだろう。事件の詳細は知らないのだが、結局のところ被害者も加害者もかなり悲しい末路を辿ったようで、本作の最後の爽やかな場面を読むと、何だか複雑な気持ちになる。


6月16日

 ナタリー・Z・デーヴィス(中條献訳)『歴史叙述としての映画 描かれた奴隷たち』(岩波書店、2007年)を読む。タイトル通り、奴隷が描かれた歴史物の映画を考察していく。取り上げるのは、共和政ローマ末期の奴隷反乱を描いた『スパルタカス』(1960年)、19世紀半ばのカリブ初頭で起きた奴隷反乱とそれを弾圧するイギリス軍を描いた『ケマダの戦い』(1969年)、18世紀末のキューバで生じた奴隷反乱に焦点を当てた『天国の晩餐』(1976年)、19世紀半ばの奴隷反乱をめぐるアメリカ合衆国での裁判を描いた『アミスタッド』(1997年)、19世紀半ばのアメリカ合衆国で暮らす奴隷とその家族を描いた『ビラヴド』(1998年)の5本である。映画に関しては全くと言っていいほど無知なので、全体を語ることはできず、気になった部分をメモ的にピックアップすることしかできない。
 『スパルタカス』にて、仲間の奴隷が捕らえた奴隷所有者を復讐心から互いに戦わせようとしたとき、スパルタクスはこれを戒めて、ローマ人と同じことをしてローマ人になりたいのか、というようなことを言っている。ローマ時代の歴史史料によれば剣闘士同士の間で友情が芽生えることもあった。だが、この頃のローマでは、血の流れる剣闘士試合に対する嫌悪感はごくまれにしか見られなかった。したがって、スパルタクスがローマ人同士の戦いを止めさせようとしたという話は、あり得ないとは言い切れないものの、あくまでも創られた話にすぎない。実際のスパルタクスは、復讐心に燃えた結果の流血行為に反対したわけではない。アッピアノスによれば、腹心の剣闘士が殺されたとき、300人のローマ人捕虜を殺して、その人物の栄誉を称えたという(46〜48頁)。スパルタクスの最後の演説は、「われわれがみな同胞であり、自由であることを知っている」といった言葉を語っている。ここには啓蒙主義の自然権思想に基づいた表現は含まれてはいない。だが、「時を超えてどこにでも通用しそうな内容である限りにおいて、逆に薄っぺらなものだとも言える」(49頁)。最後の場面において、スパルタクスの子供を抱える母親が映る場面がある。古代ローマでは奴隷同士の結婚が認められることもあったが、それは間に生まれる子供が労働力となることが期待されたからであり、生まれた子供はばしば母親から引き離された。したがって、『スパルタカス』の最後の場面は、奴隷たちの勝利とも解釈できる(58頁)。
 『ケマダの戦い』では、『スパルタカス』で取り上げられなかった宗教と祝祭の持つ影響力にもスポットを当てている。共和政期のローマでは指導者たちに神秘的な予兆が生じることがあり、スパルタクスも寝ていたときに蛇が顔に巻き付いたことこそが、彼に神の力が宿る証拠と見なされるなど、観測された超自然現象を予兆とみなす場面が、史料には数多く見出せる。しかし映画では、息子のために祈るという普遍的な行動を取っているに過ぎない。だが『ケマダの戦い』では、キリスト教の影響を受けたアフリカの歌や儀式が描き出され、最初の勝利後にも踊りの場面が続き、ポルトガル総督の暗殺へとつながるエピソードでは1日中続いている。これは、大衆反乱に関する歴史研究が1960年代に注目するようになった論点である(73頁)。この映画では、子供が希望と悲しみの2つの意味をもって描かれている。反乱の初期、奴隷制度が廃止される場面では、指導者たるドロレスに子供は抱きかかえられて人々は歓喜の踊りを踊っている。しかし、再び反乱が生じて今度は鎮圧されてしまう場面では、子供は付き添ってくれる親すら見あたらず泣き叫びながら走っている(80頁)。
 『アミスタッド』でも言及されている通り、アフリカにもいわゆる奴隷制度に類するものはあったが、アミスタッド号での奴隷に対する扱いがアフリカでのものとは異なっていたことが、反乱勃発の原因だったとされる。アフリカの奴隷も、戦争捕虜、捕獲、売却などから隷属的な立間になり、農作業や家事などの労働を強いられた。ただし第2世代か第3世代になると、状況によっては所有主と同族関係を結び、奴隷ではあるものの家族の一員となることができた。逆に別の奴隷主へと売り飛ばされることはあっても、血が出るほど殴られるようなことはなかった(123〜124頁)。ちなみに、アフリカにも奴隷制度があったということは、あまり知られていない事実のような気がする。福井勝義、赤阪賢、大塚和夫『アフリカの民族と社会(世界の歴史24)』(中央公論社、1999年(リンクは文庫版))でも、アフリカの奴隷について触れた際に付言しているように、アフリカでも奴隷制度が存在していたからといって「ヨーロッパがおこなった大規模で非人間的な奴隷貿易を正当化したり免罪することにならないのはもちろんである」(248頁)のも事実だろう。ただし、被差別階級である黒人の社会にも差別があったことになれば、白人と黒人の差別構造を弾劾することで自分を正義の側にいると見なしている人からすれば、自己のアイデンティティが崩れかねないのであえて触れずにいた、という点もあるのではなかろうか。
 さて、ここまでメモ的にピックアップしてきたのだが、著者は本書で挙げている映画について大筋では内容を高く評価しつつ、歴史的事実との食い違いを指摘しつつ、それらを盛り込めばさらに深いものになったのではないか、とほぼ全ての映画に対して論じている。また、歴史家が守るべき規範を本論に入る前に述べているのだが、史料の由来を明示し、どのような仮定に基づいてその史料から状況を構築したのかを示すべきとしている。さらに、史料操作をしてはならぬし、対象を理解する前に価値判断を下すべきではない、などのことも述べている。これらは歴史家が守るべきルールとして実にオーソドックスなもので、たとえば最近の著書だと中谷功治『歴史を冒険するために』などでわかりやすく解説されている。確かに、こうしたルールは歴史家の提示する情報が、出来る限り客観的な過去の再構築として価値を持たせるために不可欠ではある。とはいうものの、歴史的な事実を飛び越えて想像を交えることで、同時代の様相により近づくことを阻む足枷にもなってしまっている。著者は自分自身の他の著書で実践してきたと思うのだが、エンタテインメント性と歴史的な事実の語りを、いかに両立させるのか、という点の難しさについてもう少し詳しく触れて欲しかった気もする。
 それと関連して、本書について少し物足りなかったのは、観客の視点があまり考慮に入れられていないことだろう。本書ではそうした点に留意が払われているにもかかわらず、である。たとえば上記の『スパルタカス』の演説に関するところで、映画を見ている観客が、その現代的な重要性を読みとることを妨げるような台詞を考え出したくなかった、とある。上記の予兆のエピソードが祈るという漠然とした行為のみの描写にとどめられてことも同様と言えよう。また、『アミスタッド』においても、主人公であるシンケが、反乱を起こすにあたって重要なエピソードが省かれたことに言及している際にも、そうした箇所がある。史実によれば、シンケは奴隷として連れて行かれるアミスタッド号に乗っていたとき、その料理人から彼らは食べられてしまうとの答えをジェスチャーによって得ていた。白人には食人の習慣があるとアフリカでは恐れられていたため、シンケは鎖の錠前を外すための釘を隠し持ったという。しかし、「映画のヒーローの人物像は、『現代の観客にとって』少しでも違和感を抱かせるものであってはならず、従って、現代風でなかったり得意だと思われるような部分は、あえて省かれてしまうのだ」(125頁)。また、シンケの弁護を行った弁護人が、シンケらをアメリカ独立期の英雄的な弁護士パトリック・ヘンリーに並ぶ英雄と讃えたり、学校で学ぶべき人物と賞賛したが、実際には前5世紀のアテナイで僭主を殺害したハルモディオスとアリストゲイトンにたとえた(133頁)。
 こうした箇所があるにもかかわらず、制作者のメッセージが観客にどのように伝わったのかという点や、両者間の意識の齟齬をめぐる考察はなかったように思える。さらにいえば、歴史家が資料を選択することの意味や、歴史書や歴史小説とその読者の関係を考えるための重要な論点にも成り得ると思うので、できればもっと突っ込んでもらいたかったところだ。


6月21日

 西澤保彦『殺意の集う夜』(講談社文庫、1999年(原著は1996年))を読む。大学の友人である園子と一緒に、恋している助教授の山荘を訪れた万里。嵐によって閉じこめられてしまうのだが、その山荘に偶然集まっていた6人の男女を不可抗力で殺してしまった。そして、園子の部屋へ逃げ込むと、園子もすでに誰かに殺されていた。園子を殺した犯人に、自分の罪をなすりつけようとする万里だが、最近発生していた連続殺人が絡んでいき、事件の意外な真相が明らかになる…。
 本書は、『七回死んだ男』の次の作品であり、また『人格転移の殺人』の前の作品とのこと。この両者のような現実にはあり得ないSF的な設定ではないのだが、全体的な流れとしては、この両者よりも現実離れしているように思える。つまりは、ジェットコースター的な急展開は楽しめるものの、上記の2作品よりもかえって内容に無理を感じるということでもある。私が今まで読んだなかでは『七回死んだ男』『人格転移の殺人』が最も面白く、そして解説を読む限り一般的にはこの両作品の評価が高いようだが、それらよりはおちるな、と。文庫版の後書きを見る限り、著者自身も納得いっていないようである。著者にとって理想のミステリとは、「一ページ目の一行目から最後のページに至るまでの記述が、すべて伏線となっていたことが、最後の一行で明らかになる」(348頁)だそうであり、本書もそうなっているのだが、『七回死んだ男』『人格転移の殺人』も、最後の一行というよりは最後の部分で分かるタイプだったりする。無理に最後の1行のカタルシスにとらわれない方がよい気がするな、と。


6月26日

 岡野宏文・豊崎由美『百年の誤読』(ぴあ、2004年)を読む。20世紀のベストセラーを読み直した上で、座談会形式で年代順に振り返っていく。なお、戦前については取次の具体的な売り上げデータがないため、その年代の話題を呼んだ作品や象徴となるような作品を選んだとのこと。様々な本が挙げられているが、当時は流行っていても時代を超えられず、今や忘れ去られてしまったベストセラーがたくさんあることが判明する。
 それに加えて、いわゆる近代「文学」的な名作と呼ばれている小説のなかには、発表当時は娯楽小説にすぎなかったものが多いことも分かる。たとえば、徳富蘆花『不如帰』(1900年(リンクは岩波文庫版))は、仲むつまじい夫婦だったものの、妻の結核のために引き離されてしまう悲劇を、日清戦争と絡めているが、横恋慕する悪役やすれ違う二人を描くなど、ベタな場面も多い。尾崎紅葉『金色夜叉』(1902年(リンクは新潮文庫版))も、金に目がくらんだ婚約者の宮に捨てられた寛一が、エリートの道から去り高利貸しとなって世間に復讐するという、いわば「カネとオンナ」の作品である。これら以外にも、ドロドロの愛憎劇、ご都合主義満載なストーリー、トンデモ展開といった、当初は大まじめに受け取られて評判になったけれども、現在では笑わずにはいられないような内容である(いまやほぼは忘れ去られた)小説もたくさん紹介されている。
 ただし、何もそういった過去の小説を貶めたいわけではない。著者たちは、これらの作品に現在読んでも面白い作品もあるとしている。時を経ていくなかで、娯楽小説から時代を超える名作へと昇華した作品もある。たとえば、夏目漱石『それから』(1910年(リンクは新潮文庫版))も、現代風に言えばニートである知的エリートが、自己のプライドを肥大化させていく過程を描いおり、現代でもそこから感じるものは多い。芥川龍之介『羅生門』(1915年(リンクは新潮文庫版))も、「カット割りのモンタージュ手法」(55頁)といういわば映像的とも言える手法を用いており、極めて現代的な作品である。ホラー作品とも言える内田百閨w冥途』(1921年(リンクはちくま文庫版))も、単なる幽霊やあの世を扱った作品ではなく、「人間存在の根元にある不安や恐怖や罪悪感」(87頁)を主題に据えた恐怖小説である。これらの作品は、現代のほとんどの小説よりも優れた作品であろう。
 ただし、時とともに忘れ去られた作品があるということは、過去の作品を文学として必要以上に崇める必要もない。過去の作品にケチを付けるだけで終わるべきではないが、現代の作品を安易に「昔は良かったと」という意見で貶すのは愚かしい。たとえば、エッセイではあるものの、大正教養主義を代表する阿部次郎『三太郎の日記』(1914年)は、鼻持ちならないエリートのナルシズムがそこかしこに窺え、思想史の研究対象として読むならば別として、いま読み直しても感銘を受けることはないし面白いとも思えない。このようなナルシズムの作品を若者に読むように勧めるなど、時代遅れの考え方を押しつけることにしかならないだろう。過去の作品を権威のごとく崇める態度は、価値があるという評価を強制することでもある。本書の著者たちのように、自分の感性に基づいて面白さやつまらなさを自由に述べてもいいのではないだろうか。もちろん、著者たちには書評家としての積み重ねがあるかこそ、その放談も面白いのだが。そして、つまらないという判断が間違っていると思えば、こう読めば面白いのだ、きちんと自分の感性や見解に基づいて述べることが重要で、「あの歴史的な作品を批判するとは何事だ」などというつまらない権威主義に陥るべきではなかろう。もちろん本書でも近年のベストセラーがくそみそに紹介されているように、かつてのベストセラーと同じく時代を超えられないものもたくさんあるのも間違いないので、現代作品は素晴らしいのだ、と無意味に褒める必要も全くないのだが。
 ところで、この頃の小説もその内容の面白さが賞賛される一方で、軽薄な読み物として眉をひそめる人もいたのではなかろうか。つまり、「昔の高尚な作品に比べて、今のものは…」という嘆きもあったのではないかと。当時の書評記事や読書に関する雑文を拾い上げて、そのあたりを検証してくれているものがあれば是非読みたい。野口武彦『小説(一語の事典)』にそれを期待していたのだが、少し違っていたし…。
 以下、メモ的に。なお、書いていて後から気づいたのだが、ノンフィクションのベストセラーには、今から見ると内容がヒドイものが目立つ気がする。江戸川乱歩『押し絵と旅する男』(1929年(リンクは光文社文庫版))は、「私」が押し絵を持った男と出会うのだが、「私」と共に読者をもあっという間に押し絵の物語の中に誘う巧みな構成となっている。さらに、冒頭の部分を読み直せば、これは実は「信用できない語り手」の物語の可能性もある(116〜117頁)。
 林髞『頭のよくなる本』(カッパブックス、1960年)には、頭をよくするための栄養素としてグルタミン酸を挙げるなど、現代から見れば怪しい知識が満載である。それどころか、頭の悪い子供は結局のところ治せないので、特殊学級に入れて隔離するしかない、という差別的な物言いさえ説いているらしい(221〜224頁)。
 大松博文『おれについてこい』(1963年、講談社)は、オリンピックのバレーボルーチームの監督として金メダルをもたらすことになる著者によるものだが、死ぬほど頑張らない人間はダメだ、という精神に満ちあふれている。「息も絶え絶えの選手に<これくらいの練習が何だ。まだ息をしているじゃないか>」「慢性の腎臓病にかかっている選手には<何でもないと思ったら病気は治る。バレーをやり抜くことで、腎臓から病気を追い出すのだ>」(235頁)。これがベストセラーになったということは、これに近いしごきが全国の学校で行われていた、という指摘はその通りだろう。また、「一種の戦争ドキュメント」として読めるというのも、当時の指導者が戦争世代であったためだろう。
 穂積隆信『積み木くずし』(角川書店、1985年)は、家庭内暴力に走って不登校となった娘を構成させようとした両親による手記だが、いま読んでみれば両親の方が娘から逃げようとしているだめな人間であることがよく分かる。実際に相談に乗ってくれた警視庁少年相談室の担当者の指導をちっとも守れず、さらには自分がしかられることが気になっている描写がそこかしこに出てくる(301〜304頁)。
 乙武洋匡『五体不満足』において、本人は障害者として苦しみながら、周囲の無理解や差別と戦っている人たちと接しているはずなのに、そうした描写は欠如している(353頁)。こうした自伝的な作品において、書かれていない部分をどのように読みとるのかが問われるのは、波瀾万丈の自伝である大平光代『あなたも生きぬいて』(講談社、2000年(リンクは文庫版))にも言える。たとえば、著者が虐められたのは、となりの子に声を掛けたのに返事をしなかったからだ、と書かれているが、なぜ返事をしなかったのか、(取材をすれば分かるはずの)その女の子はどう思っていたのかは書かれていない。また司法試験の勉強時に生活費はどこから出ているのかも伏せられている(354頁)。
 ハリーポッターは、構造がRPGと同じで、3人の男女によるパーティーがイベントをこなして、中ボス、ラスボスと撃破していくようなものであり、そこが人気の出た理由と思われる。ただし、主人公のステータスはすでに最大値であり、謎も解かれてしまっているダメなRPGのようだと指摘しているが(359〜360頁)。
 なお、ここまで挙げてあるものを除いて、本書に紹介されているのを見て読みたくなったのは、谷崎潤一郎『細雪』(1950年(リンクは中公文庫版))。悪い意味で読みたくなったのは、豊田正子『綴方教室』(1938年(リンクは岩波文庫版))永井隆『この子を残して』(1949年(リンクは文庫版))謝国権『性生活の知恵』(池田書店、1960年)


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