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2010年3月の見聞録



3月3日

 村上龍『共生虫』(講談社文庫、2003年(原著は2000年))を読む。ひきこもりの青年ウエハラは、自分の体内に何か細長い虫が住んでいると思いこんでいた。ふとしたきっかけでサカガミヨシコなるジャーナリストのサイトの掲示板に書き込みをすると、そこのメンバーからそれは「共生虫」であると教えられる。やがて共生虫を持つ者は選ばれし存在だと考えるようになったウエハラは、病床にあった父親を撲殺してしまう。すると掲示板のメンバーから、身元や現在地を特定されて、さらなる殺人を行うように命令される…。
 これも豊崎由美『勝てる読書』で紹介されているのを見て、興味を持って読んだもの。ひきこもりが勝手な根拠に基づいて自分全能と思いこんでいく、というストーリーそのものは決して目新しいものではないだろう。ただ、そうした凡庸さこそが、実は重要なのかもしれない。ウエハラは、父親を見てロボットのような人生を送ってきた奴隷だ、と思うのだが(142頁)、そのような陳腐な使い古された表現しかできないことが、彼が選ばれた人間でもなんでもないということを逆説的に物語っているとも言えるので。同じことは、いつも決まったことを繰り返している人間に会いたくないからひきこもりをしていたのだ、とウエハラが嘲けるように考えているところ(163頁)にも言える。そして、彼は森の中にある防空壕で暮らし始めるのだが、そこにあった毒物と共に宮殿を造ると豪語する場面(192頁)も、ウエハラの子供じみた馬鹿馬鹿しさを強調している。
 ジャン・ヴォートラン『グルーム』がどちらかといえば狂気に傾いていたのに対して、こちらは正常な思考をしているかのように詳しく描きながら、実は狂気を宿しているといった感じで、おぞましさという点では本書の方が上だと思う。ウエハラは、自分からすれば気の狂っているように見える女と出会うのだが、その彼自身もすでに常軌を逸しているところなども、なかなかの痛さだ。ところで、ウエハラが防空壕に住むようになったのは、この女が「防空壕」について教えてくれたからなのだが、彼にはそれが「ボウクウゴウ」という単なる音にしか聞こえなかった、とある(90頁)。ここでふと思ったのだが、語彙が少ない人間の世界というのは、もの凄く狭いものなのではないだろうか。下手をすると、テレビを見ていても芸人のギャグのどこが面白いのか分からないということも起こりうるのではないかと。
 それに加えて、ウエハラに更なる殺人を犯させようとした男たちも哀れである。彼らも自分たちはまるで選ばれた存在であるかのように他者を操ろうとするのだが、失敗して死を迎えてしまう。頭でっかちのインテリが偉そうに高みから降りてきたら、あっという間に馬鹿にしていた現実に抹殺された、といったところか。
 ただし個人的には、本書が手放しに面白かったとは言えない。ウエハラの思考について詳しく書いてあるのは、その陳腐さとそこに潜む狂気を際立たせるために良いと思うのだが、それ以外の本筋とは関係ないところまで詳しく書いてあるのは、個人的にはくどく感じてしまう。脇の部分についても詳しく書くことでリアリティを出そうとしているのかもしれないが、もったいぶっているように感じて、かえって狂気が薄れてしまうように思えてしまう。この辺りは個人の趣味の問題でもあるが。


3月8日

 河合幹雄『日本の殺人』(ちくま新書、2009年)を読む。その名の通り日本の殺人事件について、あくまでもデータに即しながらその特徴を述べていく。警察庁の統計によれば、現在の1年間の殺人による死者数は700人弱となる。ただし、強盗致死にカウントされている強盗殺人が数十件、真相が不明の事件なども含めると、実際の総数はおそらく800件前後と言える。人口あたりの発生率はだいたい15万人に1人となる。
 本書の分量の6割ほどを占める第1章では、日本の殺人をその類型別に網羅的に取り上げていく。大まかな順番は、加害者が身内に近い者を年少者から年長者へ、そして突発的なものから凶悪犯罪へとなっている。その結果として窺える全体像は、殺人は戦後減少しており、家族がらみである場合が過半数を超えていて、底辺社会での失敗した人生の末に起きてしまっていることが多い、となる。ただし、それはあくまでも全体像であり、同情できるような犯人と極めて凶悪な犯人といったような1つの軸でくくれるようなものではなく、身体・精神障害、貧困、問題家庭などの要因が絡み合って、様々なヴァリエーションがあることを認識する必要がある。
 そのうえで、殺人に対する操作や加害者の処遇などを見ていく。基本的な状況については、著者自身が『安全神話崩壊のパラドックス』で語ったことをベースにしている。つまり、以前の日本であれば一般社会は犯罪から隔絶した場所として存在していたが、現在は犯罪がそちらへも拡散してきたために、犯罪数は増えていないのに不安感が高まってしまって治安が悪化したように感じてしまっている、という説である。殺人犯が刑に服して仮釈放・出獄した後にどうなっているのか、という問題はこれに絡んでくる。長期間服役すると人間関係は切れてしまうので、身内や知人を頼ることはできない。したがって多くの者たちは、前科者を保護観察してくれる地域のボランティアである保護司を頼る。日本全国に5万人ほどいる保護司が、前科者を職につかせて働くリズムをつくり、続いて結婚させて家族を作らせるというのが更正の成功パターンである。無期の者にも仮釈放が認められるのだが、1995年中に仮釈放中の603人のうち、1995年に再犯により罰金刑以上の罪を犯したものは14人にすぎない。しかもそのうち7人は道交法違犯であり、殺人・強盗の再犯者は3人であった。これは成功パターンがかなりの割合で成功していたことを物語っている。
 しかし、こうしたシステムは限界に来ている。まず、保護司を初めとして出所者の更正を助けてあげる民間人の働きが期待できなくなりつつある。これは人間関係の希薄化や地域の力が失われてきていることと関連している。そして、社会の匿名化が進んで、前科者に後ろ指を指すような冷たい世間そのものが存在しなくなりつつあることも重要である。いわば、前科者でも社会の中で無名の住人として過ごしていけてしまうのである。その結果としてまた犯行に及んでしまう場合もある。
 以上が主な内容だが、本書は読みやすくまとめられているとは言えない。特に第1章は、雑多に羅列している印象が強く、もう少し読みやすく節ごとにまとめて欲しかったところではある。データが挙げられているが、図表ではなく文章の中にそのまま記載されているので、分かりにくくもある。それでも、殺人について、そしてその刑罰について議論するにあたって、様々な参照すべきデータや事例が満載されている点は評価されるべきだろう。
 以下、かなり乱雑になるがメモ的に。2002年の日本における10万人あたりの殺人発生率(未遂と予備も含む)は1.2である。これはフランスの4.1、ドイツの3.2(嬰児殺しを除く)、イギリスの3.5(故殺未遂を除く)、アメリカの5.6(未遂を除く)よりも低い。ただし、アメリカの強姦件数は20万件で日本の約100倍、強盗も50万件で同じく約100倍と、殺人発生率と比べれば差は小さい。なお、2004年1年間の殺人の検挙数は1224件だが、子殺しが135件(うち実子が129件)、実父母殺しが121件(うち実父母は116件)、配偶者殺しが206件(うち妻殺しは127件)、兄弟姉妹殺しが88件、他の親族が38件であり、合計すると半分近くが親族の犯行と分かる(16〜17頁)。
 1980年代以降、嬰児殺しは大幅に減少し続けている。これは貧困ゆえに子供を殺さざるを得なかったというよりもむしろ、できちゃった婚の増加と未婚の母に対する非難が減少したことにより、自分1人、または親の支援を仰いで育てることが容易になったためと推測される。実際に1959年の『殺人の罪に関する量刑史料』によれば、嬰児殺しの理由は不倫や不義の関係から生まれた子供を処分するためという世間体に関連するものが上位に来ており、貧困は第6位にすぎない(26〜29頁)。
 家族がらみの殺人は同情できるケースもあるが、量刑から判断する限り、凶悪な事件や凶悪とは言えないが同情できないものもある。2004年で見ると、殺人による死刑は9人、無期は33人である。さらに強盗致死傷・強盗強姦では、死刑5人、無期82人でありここまでが凶悪事件と言える。凶悪ではないものの同情もできないのは、懲役10年以上無期以下だが、これが189人である(53〜54頁)。
 各種犯罪に対する量刑は重くなっており、たとえば殺人事件の刑罰は、契機の下限が3年から5年に上がっている。ただし、刑罰を2度まで半分に軽減可能で、3年以下ならば執行猶予つき判決にできる。いわば、下限引き上げは刑を重くしたように見せかけているにすぎない。ただし、殺人には様々な種類があることからすれば刑罰に幅があることは正当でもある(96〜98頁)。
 強姦殺人は統計上でも殺人事件として扱われる。強盗致死でも死刑にできるのと異なり、強姦殺人では死刑にできないからである。これは日本の刑法典が、欧米の刑法典と異なり264条しかない薄いものだからである。日本では大まかに決めて、実務家が自由に結論を選べるようにしてあるため、かえって一般人には邦文を読んでも理解しがたくなっている。殺人事件のタイプごとに細かく分類してそれぞれの刑罰を定めておけば、裁判官のみならず裁判員にとっても有益だろう(112〜113頁)。
 殺人を犯した精神異常者に関して、欧米では精神病院に入院治療という形で、結果的には閉じこめられる保安処分となる。しかし日本では、かつて保安処分を利用して政治的な敵対者を弾圧した歴史があるために、この制度が未整備であった。したがって、無罪で釈放することもできず刑務所に入れられ、治療を受けずに出所してまた犯罪を繰り返すこともあった。そのため2003年には、裁判官と精神科医が合議の上で入院させることができるようになり、退院後も保護観察に付されることになった(158頁)。
 なお、2006年4・5月に秋田で生じた2児が遺体で発見された事件について、世間一般の意見と異なり、著者は警察に捜査ミスはなかったという立場を取る。犯人は1人目の被害者の母親だったのだが、警察ははじめ事故扱いにした。遺体を見る限り事故の可能性が高く、たとえ母親が犯人でありその可能性が極めて高くとも、警察としては犯罪と証明できないとの判断せざるをえない。となると他の事件を解決するためにも事故で片づけるのは妥当だったと見なしている。ミスがあるとすれば、2人目の被害者の父親にきちんと説明をしなかったために不信感を招いたこと、そして目撃証言がないと早く諦めすぎて、せっかく新たに出てきた証言が県警内で伝わらなかったことである。だが、こうしたことはマスコミを通じて情報が正確に伝わっていたとは言えない。そもそも、犯罪と捜査について正確な話をすれば、犯罪の手口と捜査を逃れる方法を広めることにもつながりかねない。一般人はぼかした部分しか知らないままの方がよい。そのため多くの人は世の中は安全と信じて暮らしてきた、と著者の持論に結びつけて説明している(168〜178頁)。
 この事件に関して警察はミスを犯していないのかもしれないが、感覚としては警察はミスばかりをしているというイメージが強いし、立場に依った強権的な態度も非難されることが多い。その手の本には事欠かないと思うが、このサイトでも『久保博司・別冊宝島編集部『日本の警察がダメになった50の事情』を取り上げたことがある。ただし、もちろんこうした不手際が数多くあったとしても、おそらく警察によって助けられた人たちもたくさんいるはずなのだ。もの凄く一般論めいた感想になるが、人を貶すのは簡単だが、(おべっかではなく)褒めるのは難しいということだろうか。
 警察と刑務官は全く異なる。江戸時代の犯罪取り締まりは下級武士や非人によって担われていたが、明治維新によって警察組織に取って代わられた。他方、刑務官は江戸時代から連続している。なお、拘置所は裁判中の未決拘留者が入る施設であり、死刑囚も拘留されている(死刑の執行も行う)。留置所は警察内にある(182〜184頁)。
 フランスは死刑廃止国だが、実際には逮捕時に犯人が警察官に射殺されていることがある。犯人ではない市民が人違いで射殺されている場合もある(227頁、なお本書では具体的なデータまでは挙げられていない)。
 2003年の交通事故以外の不慮の死者数は2万7千人である。このうち11,290人は家庭内で死亡している。主な内訳は風呂場が2,936人、のどを詰まらせて2,432人、転倒・転落が2,186人である(241頁)。


3月13日

 柴村仁『プシュケの涙』(電撃文庫、2009年)を読む。夏休みの補講中、「僕」こと榎戸川は、同級生の旭とともに、女生徒の吉野彼方が飛び降り自殺する場面を目撃してしまう。その自殺は音便に処理されていったのだが、同級生の由良は榎戸川の元にやってきて、本当に自殺であったかを探るように持ちかけてくる…。
 結局のところ自殺ではなく、旭の犯した小さな悪事と榎戸川によるほんの小さな行動が重なり合ったときに転落へとつながった、というのが真相と言える。別にミステリーとしては特にたいしたものではない。榎戸川が幼なじみの織恵に向ける、いつまでも幸せになるように見守っていたいという視線が、ちょっとした伏線になっていたのは、なかなか上手いとは思うが。
 ただし、この小説の主眼はそこにはない。人間が他者から見ればたいしたことのない存在であり、でもその人間には個々の物語が備わっている、という現実こそが重要なのだ。事件の真相が分かって、旭や榎戸川、そして織恵の関係が壊れていくというエピローグの後に、この小説は時間を遡り、吉野彼方の一人称による物語が始まる。しかもそれはこの小説の半分から4割を占める分量となっている。由良自身が榎戸川に話している通り、自殺者は年間3万人以上もいる。他者から見れば、吉野彼方もその中の1人すぎない。実際に本書の前半部分では、吉野彼方は死んでしまった人物にすぎず、その真相を探っている間も単にデータが語られるにすぎない。しかし、その記号のような人間には膨大な経験を積み重ねて人生を経験してきたのであり、彼女と由良はお互いの人生にとっては欠くべからざる存在になるはずだったのだ。後半部分にじっくりとその辺りが描かれているからこそ、この小説を振り返ったときに、吉野彼方は死んでしまったのであり、榎戸川や旭にとっては単なる同級生にすぎないという現実を思い知らされてしまう。それどころか旭は吉野が援助交際をしていたと勝手に思いこんでいた。これが事実無根であることは後半を読めば分かる。でも旭には分からないし、前半部分を読んでいる時点での読者にも分からない。人間の存在意義を残酷なまでに思い知らせてくれると言えよう。いわば、人を安易に殺す物語へのアンチテーゼであるかのようにも見え、そうなると主人公の名前が「榎戸川」と『名探偵コナン』を思い起こさせることも皮肉なように思えてくる。
 なお、1つだけ細かすぎる突っ込みを。後半部分にて、高専はまだ夏休み中らしいと吉野が考えるシーンがあるのだが、高専も普通の高校と同じく授業は9月1日に始まるので、高専「だから」まだ夏休みというのはあり得ないだろう(一人称なので、作中の人物である吉野の勘違いとして語らせたかったにすぎないのかもしれないが)。


3月18日


 庄子大亮『アトランティス・ミステリー プラトンは何を伝えたかったのか』(PHP新書、2009年)を読む。プラトンによって語られたアトランティス文明について、それが実在したのかについて諸説を見ていくと共に、プラトンがなぜその伝説を語ったのか、そして神話の持つ意味から論じていく…のだが、本書とは直接的に関係しない自分自身の語りの部分が、あまりにも長くなったので、雑文の文書庫「アトランティス伝説が孕むアカデミズムの袋小路」という別記事として置くことにした。詳しくは、そちらへどうぞ。


3月23日

 米澤穂信『犬はどこだ』(創元推理文庫(東京創元社)、2008年(原著は2005年))を読む。銀行に就職してまもなくアトピー性皮膚炎となり、やがて心身共に疲れ果てて退職した「私」こと紺屋長一郎。地元へ帰って気力を失った彼は、犬探し専門の調査事務所「紺屋S&R」を開業する。だが、開業当日に舞い込んだ依頼は、東京でOLをしていて失踪してしまった孫を捜して欲しいという依頼と、神社に伝わる古文書の由来を探って欲しいという依頼だった。前者を紺屋が調べると共に、探偵を志願して飛び込んできた後輩の「俺」こと半田平吉に後者を任せて少しずつ調査が進んでいく。しかし、2つの事件は微妙に絡み合いはじめ、そして1つの結末へと向かっていく…。
 物語は、「私」と「俺」一人称が交互に繰り返されつつ進んでいく(ただし、叙述トリックのようなものがあるわけではない)。初めは日常の謎系のストーリーかと思いつつ読み始めると、半田に手を引くように脅す人物や、失踪したOLが自分のサイト上でストーカーのごとくつきまとわれていた、といったような不穏な雰囲気が少しずつ漂い始めて、巧みに物語を盛り上げていく。「犯人」が相手を誘い出そうとした場所が、歴史的に見て弱者のための場所だったという設定を、2つ目の依頼と絡めることで浮かび上がらせているところも、物語としてなかなか上手い。
 それでも、物語は穏やかに終わるのかと思っていた。というかクライマックスに向かう場面では、「犯人」が用いた周到かつ鮮やかなトリックが明らかにされていくのだが、『金田一少年の事件簿』にありがちな、安易なヒューマニズムで犯人を説得するような展開を予想して、そうなったら興ざめだと勝手に思いこんでいた。ところが、確かに平凡な日常へと回帰するのだが、そこに至までに待ち受けていたのは冷静かつ残酷な結果を経てのことだった。なかなかえぐくてほろ苦いのだが、だからこそリアリズムを感じてよい。エピローグで語られた行為は、法律的に本来許されるものではない。だが、法に反することであっても、人間は法に基づく正義を貫けるほどの精神を簡単には持てないし、他人のために動くこともないのだ、という現実を改めて感じた。ちなみに、本書のクライマックスの場面を読んだ時に、ストーリーそのものに全く関連性はないのだが、何となくロジェ・カイヨワ(金井裕訳)『物語ポンス・ピラト』(審美社、1975年)のラストを思い出した。とはいえ、これですべて終わりになるのではなく、シリーズ化していきそうな気がする。主人公2人だけではなく、紺屋をネット上でサポートしてくれたGENなる人物、紺屋の妹とその夫などもメインキャラクターとして、この設定のまま続編が作れそうな感じなので。
 あと幾つか思ったことをメモ的に。紺屋は就職してアトピー性皮膚炎を発症して、2年にわたってそれに耐え続けた、とある。アレルギーの原因となりそうな食べ物は口にせず。軟膏を塗りたくったが、治りはしなかった。しかし、仕事を辞めると1ヶ月で治った、という設定になっている。私もかつてはアトピー性皮膚炎だったのだが、小学生の頃と20代の頃に特に酷く、なかでも後者のときは強烈に悪化した。基本的に尻にしか出なかったのだが、25歳前後の頃には尻からにじみ出た血が下着だけではなくジーンズにまで染み込むほどだった。けれども30歳の夏にぴたっと治まり、それからは今のところ発症していない。じゃあ、その時に何か変わったのかというと、特に変わったこともなく、逆に博士論文の執筆のためにもの凄くエネルギーを使っていてストレスの溜まっていたときだった。紺屋の設定のようにストレスが原因と考えている人も多いと思うのだけれど、私の場合は全く逆だったわけだ。結局のところ、アトピーになぜかかっていたのかも治ったのかも分からないままで、よく分からない病気なのだなあ、と改めて感じたのであった(だから何だ、と言われると、それまでなのだが)。
 話は全く変わるが、読者の立場について考えた箇所があって、半田が調査の序盤で失踪したOLの名前を聞いた部分。読者は、これを読んで2つの事件は何か関係すると思うわけだが、登場人物は終盤になるまでこの情報を知らない。読者と登場人物の間に、情報の認識の時間差があるわけだが、読者は登場人物よりも高い位置から物語りを把握していることになる。読者がこのような地位にあるという状況は、いつの時代から見られるようになるのだろうか。たぶん前近代の物語にはあまりなかったことだと思うのだけれど。文学史に無知なので、この辺りについてふと疑問に思ってしまった。
 半田は古文書の由来を調べていく中で、その古文書が中世において略奪者と化した兵から身を守るための防衛拠点と関連していることを知っていくのだが、この辺りの歴史的背景に関しては、藤木久志『雑兵たちの戦場』などでも紹介されている通りである。ただ、このときの半田の心情が面白い。半田曰く、人に命運を縛られることも、人の命運を縛ることも嫌な自分は、人を使う職にも人に使われる職にも就けなかった。こうした考えだからこそ、封建時代の被支配者層など支配者に従ってただ収奪されるだけ、と思っていた。ところが調査によって分かったことは、中世の村民たちが生きるためには武器をも取り、そのために領主と金で取引をもしていたという事実だった。そして、これならばありだと思う。そして、「知識が認識を変えるという体験」(247頁)を味わうことになる。学問は様々な事実を調べたり解釈したりすることがまずは目的だが、それをどのように語るのかに際して、このような考え方を持ってもらえるように、調べたことを必要に応じて提示することもまた重要な役割と言えよう。


3月28日

 藤本正行『信長の戦争 『信長公記』に見る戦国軍事学』(講談社学術文庫、2003年(原著は1993年))を読む。信長が軍事的な才能を持つ人物であったことは確かだが、有名な桶狭間の合戦や長篠の戦いなどにおける信長の戦い方は事実なのかの見直しを図る。その際に基本史料となるのは副題にも挙がっている『信長公記』であり、信長の臣下であった太田牛一によって執筆された。その『信長公記』には、桶狭間の奇襲や長篠における3千挺の鉄砲を千挺ずつ撃たせた、という記述は出てこない。したがって、人口に膾炙している信長の奇抜な戦術のほとんどは、信長の死後に執筆された小瀬甫庵『信長記』に基づきつつ、後世に創作された可能性が高い、と断ずる。小瀬甫庵は信長死去時に19歳にすぎず、史料に基づき創作した色合いが強いとする。そして、それらは戦前の陸軍によって史実として認定されてしまい、現在は疑われることがなくなってしまったとする。
 ただし、信長は決して戦争下手だったわけではない。そもそも、当時の戦争では何が重視されたのかというと、出来る限り味方に損害を出さないことであった。なぜならば、近代の国民国家と違って兵士は徴兵によっていくらでも駆り出せるわけではないからである。したがって兵士を消耗するおそれの高い城攻めは好まれなかった。そのために主要な戦術となったのは、城を持っている敵方の臣下を寝返らせる調略であった。寝返られた側は、その城を無力化するために、周りを囲うように砦をつくった。これを「付け城」と呼ぶが、この戦術は戦国期に広く行われ、調略の時のみならず敵の城を攻めるときにも行われた。信長は調略によって味方に付けると迅速に支援を行い、それによって戦わずして優位に立とうしたが、そこにこそ彼の非凡さがあった。
 ものすごく簡単にまとめると、本書の核となるのはこうした戦国期の戦術とそれに長けた信長という観点であり、そこから彼の個々の戦い方を見ていくと、後世に伝えられるような画期的な戦術は実は虚構である、ということになる。ただし、こうした戦国期の戦い方が個々の章でバラバラに触れられてしかも繰り返しになっているところがあるので、ややくどく感じる気がする。戦国期の戦い方についてまとめた章を冒頭に置いた方がすっきりとするように思える。ただし、そうすると個々の戦いについての記述に際して、間違った常識を暴くという点でインパクトが薄れる可能性もあるので、難しいところでもあるが。以下、個々の戦いについて見てみたい。
 桶狭間の戦いでは、京都に上洛しようとしていた今川義元の本陣を、信長が急襲して義元を討ち取ったとされているが、『信長公記』を読む限り、事実は異なっている。そもそも義元が進軍してきたのは、織田側の城である鳴海城を調略によって陥落させて、そこに兵力を投入を投入したことと関係する。信長は鳴海城を囲う形で付け城を築き、さらに補給線を断つために、その近くにある今川側の城にも付け城を築いた。義元は、この両者を救うために出陣したのであり、奪った土地の防衛とその奪取を巡って争う、という戦国期にはありふれた状況であった。これに対して信長も進軍してきたのだが、普通に真っ直ぐ進軍して陣地を構えており、今川軍にはその動きが完全に見えていた。したがって、奇襲をする意志が信長にはないし、することもそもそも難しいと言える。それでは、なぜ義元が負けたのかというと、戦場の微妙な動きに大軍がついて来られなかったという理由が考えられる。義元はあくまでも城の防衛を目標としていたが、そこに信長が飛び込んできたために、信長を討つという大きな目標との間に天秤を掛けている間に攻撃を受けてしまって、立て直すことができなかったわけだ。実は信長も、正面に来た敵の新手はすでに城攻めをして疲れているはず、と判断して攻めていったという過ちを犯している。義元を討ち取ることを目的にしたわけではなかったが、結果としてそれに成功してしまったと言える。
 美濃攻めに際して、秀吉が墨俣に一夜で城を築いたという逸話が有名であるが、これも『信長公記』には出てこず疑わしい。実際には、調略によって美濃三人衆を寝返らせた後に、迅速に稲葉城を攻略するなど、セオリーに沿った戦術を速やかに行ったのであり、そこにこそ信長の非凡さがある。その点からすると、橋頭堡であるべきの墨俣城の建設は、逸話にしたがえば、順番に臣下を投入していたずらに兵を消耗させた愚策にしか見えない。この話の出典は小瀬甫庵『太閤記』なのだが、それによれば8月20日に資材を集めて9月1日にそれを川岸まで運び作戦が決行されたとある。だが実は、この1566(永禄9)年は閏年であるため、8月の次に閏8月があったため、もしこれが事実だとするならば作戦決行に40日以上もかかっていることになり、拙速を宗とした信長の行動原理に沿っていない。また、記述に基づいて城を再現してみると、長良川の側にあるのにそれを防御線として利用していない、橋頭堡として不可欠な船着き場から離れていることをはじめとして、中世の城郭としてはあまりにも欠陥がある。以上のことから史実とは疑わしい。
 そして、浅井・朝倉の連合軍と戦った姉川の戦いは、大規模な軍団同士の激突戦だが、信長の戦いとしては例外的な部類に入る。信長を裏切った浅井長政は、圧倒的に不利な状況にあった。そのため、朝倉の援軍が手元にいる間に決戦を行うことを望んでおり、攻勢に出た。信長からすれば、そのまま戦闘へ突入すれば自軍に損害も出ると気にったはずだが、近くに適当な城を持たないため総崩れになることや志気が下がることを恐れて、撃って出たと考えられる。
 長篠の戦いでは、信長が3千挺の鉄砲を千挺ずつ交代で撃たせるという新戦術で、武田勝頼の騎馬隊を壊滅させたと言われているが、これも疑わしい。この記述は『信長公記』には存在せず『信長記』のみにある。そもそも当時は火縄銃であり、発射時間がバラバラであったため、一斉射撃をするならば、準備の技量の劣る者にタイミングを合わせねばならず、戦術として適していない。長篠の戦いの発端は、武田勝頼が長篠城を攻め落とそうとしたことにある。これに対し信長は、その城の手前で進軍をやめて防御策を築いた。なお。柵を築くという行為も戦国期にはよく行われた作戦にすぎない。武田軍は信長の動きを察知して、長篠を包囲しつつ、そちらへと進軍した。しかし信長は、鉄砲500挺を持つ精鋭の別働隊を動かして、長篠城の救出に成功する。武田軍は後背を取られてしまったため信長の本体を急襲するが、信長は構築した陣地によってこれを撃退してしまった。武田軍は決して鉄砲を軽視していたわけではない。鉄砲の威力を分かった上で作った甲冑を奉納してもいる。ただし、原料の供給という点で信長よりも不利だったにすぎない。しかし、三千挺の三段撃ちは、『信長記』を増補改訂した遠山信春『総見記』に基づいて、参謀本部が1903(明治36)年に執筆した『日本戦史・長篠役』にて公認されることで、現代まで伝わってしまった。
 石山本願寺攻めにおいて信長が鉄甲船という新兵器で勝利したというのも、実態とは異なっている。石山本願寺と結んだ毛利軍による補給を絶つために、確かに船を用いた。しかし、これは陸上戦にて敵軍の城の側に付け城を築くとい一般的な戦術を水上に持ち込んだという点が重要であるにすぎない。
 さて、著者が何度も言っているように、信長自身が軍事的な才能を持っており、ここぞというときに迅速な行動をとることで勝利を重ねたことを否定しているわけではない。ただ、信長の独創的な戦術は創作であると主張しているに過ぎない。なお著者は、信長の奇策が史実として受け入れられたのは、それに基づけば、登場人物が矛盾のない行動を取り、勝者がは勝つべくして勝ち、敗者は敗れるべくして敗れるという風に合理的に合戦が進むため、読者にとって理解しやすいからであるとしている。確かにこれには一理あると言えよう。何もかもが、密かに策を講じた手はず通りに進めばいいのに、という願望を反映してくれる存在なのかもしれない。だからこそ、サラリーマンあたりに人気があるのかもしれない。
 なお、『信長公記』に基づけば、信長は判断ミスを犯していることもある。『信長公記』は家臣の太田牛一による著作だから理想化されているので史料として信頼できないという批判がある。だが、技量と決断力を持つ一方で、狡猾さや陰険さも、そして判断ミスも描かれている点で決してそうとは言い切れないだろう。ふと思ったのだが、破天荒な人間として信長ではなく、間違うこともある人間くさい信長という描き方で、例えば「癒し」などをキーワードにすれば、人気が出るかもしれないな、と。
 なお著者は、光秀の謀反の原因として、滝川一益が関東に派遣されたのをみて、自分も九州に派遣されているのではないかと恐れたためではないか、と推測している。光秀は機内で暮らした教養人であったために、老後を西国で送ることに不安を感じたのではないか、としている(293頁)。これに関して断ずるだけの知識は何もないのだが、藤田達生『秀吉神話をくつがえす』で主張された、家臣たちの生き残り争いの延長線上に見る説の方が説得力はあるだろう。


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