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2010年4月の見聞録



4月2日

 東野圭吾『黒笑小説』(集英社文庫、2008年(原著は2005年)を読む。短編集だが、メインとなっているのは文壇を扱った冒頭の4つの短編。最初の作品の題名が「もうひとつの助走」と筒井康隆『大いなる助走』にかけてある通り、どこまでがフィクションなのか分からないのだが、作家を使い捨ての商品のごとく扱う編集者のいやらしさをパロディっぽく描いている。新人賞を受賞した後に、上司に批判されると嫉妬しているからだと傲慢に考えている会社員(「線香花火」)、優れた作品で新人賞を受賞した作家に対して、どうせそんな作品を次は書けるはずがないからと決めてかかり、受賞作を生涯の唯一の作品という気持ちで売りまくれと部下の編集者にはっぱを掛け、「受賞式が終われば過去の人だ」と言い放つ(「過去の人」)、斬新な作品をどう評価するかで選考に関わった小説家のリストラを計る(「選考会」)など、いずれもなかなかブラック。後書きにて奥田英朗が、「選考会」にて最終的にリストラ対象となった作家は「明日の東野圭吾か奥田英朗かもしれない」と書いているのが妙に生々しく感じる。それ以外の作品には科学的なネタを題材にしたものが多い。何の役にも立たないだろうインポ薬に浮気防止用という利用方法を思いついて売り上げが上がったものの、なぜか売れなくなっていくという話の「インポグラ」、ほれ薬を使っても効果が持続しないもてない男の意外な使い道というオチの「モテモテスプレー」など、まずまず楽しめる。これらについては、個人的には清水義範の短編に近いものを感じた。


4月7日

 青砥恭『ドキュメント高校中退 いま、貧困がうまれる場所』(ちくま新書、2009年)を読む。現在、毎年10万人ほどの高校生が退学しているが、それらの大部分は貧困層に属しており、高校中退によってさらに貧困層が再生産されている現状を、中退した高校生の証言や現状を紹介することで生々しく描き出す。底辺校に通う高校生の父親の学歴が低く、彼ら自身も技能職へ就任する場合が多いことは、本書以外でもよく言われていることではある。しかし、本書で紹介されている底辺高校の高校生の実態はかなり凄まじい(なお、高校名にはイニシャルが多く、個人名はすべて仮名とのこと)。
 この本を読んだ人間が絶対に取り上げる部分は、埼玉県の底辺高校の生徒に関する以下の逸話だろう。「高校入学まで、小学校低学年レベルの学力のままで放置されている生徒が相当数いる。そのため、教師は一から一〇〇まで数えさせるといった補習授業をするのである。順番に数えていけば数えることができても、では「五五の次はいくつ?」と聞くと、一〇%の生徒はできない。SA高校の生徒にとって数字の理解は三〇までで、それ以上の数を概念として理解することはむずかしいようだ。一円玉、五円玉、一〇円玉をいくつか出して、「全部でいくらになる?」と聞いてもわからない生徒もいる。「一五三二五は?」と聞いても、高校三年生になっても読むことすらままならない」(24頁)。この高校で退学する生徒は、一年生で50人、二年生で200人は毎年いるそうだ。ほとんどの生徒は、生活保護程度しか収入のない世帯に属する。
 別のC高校では、2008年に「全教科で五点や七点しか取れなかった生徒でも合格した。その年には、中学から送られてきた調査書に何も記入されておらず、成績がまったくついていない生徒も何人かいた、C高校が中学に問い合わせをしても、中学からは「成績はありません」という返事が返ってくるだけである。その生徒たちは長期欠席だったり、定期試験を受けていないので成績がつかないのである。そのようにして入学した生徒たちだから、学力は困難を極めている。かけ算の九九が完全にできる生徒は、全生徒一六〇人中二〇人程度だ。他の段も怪しいものだが、特に六と七の段はできない。そのため教師たちは分数計算や少数計算を教えることはない」(31頁)。大阪のH高校では、「1年制の世界史のテストは教科書の穴埋めで、問題の説明文の中に解答があり、それを読んで転記すればいいのだが、多くの生徒はそれすらできない」(49頁)。
 生徒の多くが貧困層の課程の属しているという事実は、日常生活にも当然ながら影響を及ぼす。たとえば、大阪府の公立高校の授業料は全国で最も高額であり、全国平均の11万5200円に比べて、14万4000円である。その授業料免除に関して、2006年度入学生から対象者は「生活保護程度に困窮」から「住民税所得割非課税」へとハードルが上がった。その結果、授業料減免を受ける生徒は四分の一から五分の1に減った。ただし、授業料の免除額は2007年度に、2005年度の2.3倍の3億3500万円になった(36〜38頁)。貧困層に対して、公立高校に行けば通えるのだから贅沢を言うな、という批判を耳にするが、公立高校へ通うのも決して楽ではない、ということだ。
 また、学校外でも影響はある。「生活が貧しいために、なにかに感動すると言った文化的な体験がない。本を読む、新聞を読むなど文字リテラシーを獲得する機会は家庭内にはほとんどなく、家の中ではテレビがお笑いタレントの大声を流し続けている。そのような状況では、英語で学習体験をする機会もほとんどない」(49〜50頁)。さらに、あくまでも個人的な見解なのだが、テレビですら面白さを理解できない、ということが起こりうるかもしれない。たとえば、芸人のネタに日本語を使ったしゃれがあったとしても分からない可能性はある。テレビでの芸人のネタがあまりにもくだらなすぎる、という意見を耳にすることがあるのだが、それはそうしたネタしか理解できない視聴者がいるからかもしれない。つまり、テレビを見ることさえ、貧困層とそうでない階層の分化が起こりうる可能性があるということだ。実際にゲームではすでに起こっており、鈴木みそ『オールナイトライブ』第5巻によれば、ゲーム専門学校に通っているのに「考えないと進めないゲームはやることすら辛いと」という生徒がいるという。
 そして、学費の支払いだけではなく、高校生活にも支障が及ぶ。たとえば、上記のC高校では、「学食では、一番の売れ筋は一三〇円のポテトフライだ。〔中略〕値段の高いメニューは売れない。うどん二五〇円、そば二五〇円、カレー三〇〇円、カツカレー三五〇円、弁当三五〇円、それらは四〇食以下しか売れない」(32頁)。なお、隣のゴルフ場の購買へ学食より安いカップラーメンを生徒が買いに行くのを、教師たちは黙認しているそうだ。
 本書を読むような人たちは、私も含めて、現在の子供たちは義務教育がなかった頃の子供とは違い、最低限の読み書きと計算はできると考えているのではないだろうか。しかし、本書に上がっている実例は、たとえ話半分だとしても、そうした考えを打ち砕く衝撃的なものだと思う。
 そして、貧困は貧困の再生産へとつながる。たとえばある母親はほとんど漢字が読めず、平仮名しか書けなかったから、保育所からの手紙など理解できなかった。また別の母親は、子育てについての知識が全くない。水商売が長かったので話は上手いものの、おむつは漏れなければ代えなくてよいと考えていたり、子供は夜に寝かせてあげなければならないということも知らない。こうした母親の元で育った子供が、決して十分な教育を施されるとは考えがたい。
 同じような状況は、湯浅誠『「反」貧困』でも例示されていたが、本人の力ではどうしようもない貧困状況がどのように生み出されるのかについて、かなり生々しく描かれている。著者は、こうした状況を改善するために、いかにしてセーフティネットをつくるべきかについて提言を行っている。高校教育の義務化およびそれにともなう就学への援助と高校授業料の減免制度の拡充、普通教育から職業的な専門境域への転換および職業訓練機能を持たせた教育機関の設置、貧困層に対する経済的な援助などだ。重要なことは貧困層をいかにしてケアするのかということであろう。そのために保育所レベルからの援助が必要ということは、確かにそのとおりだと思う。貧富の差がない世界などあり得ないのは当たり前だが、それでも本人の力ではどうにもならない環境を少しでも減らすことは、決して悪いことではあるまい。
 ただし、そこからがどうも疑問に感じる。著者は高校中退者を減らすことが貧困からの救済や低学力層を減らすことにつながると考えているようだが、そうは思えない。まず、細かいことから指摘しておくと、著者は日本国憲法第26条に「義務教育は無償とする」とあるのに日本では義務教育が無償化されていないと述べていて、高校教育は無償ではないとして批判しているが(202頁)、高校教育は義務教育ではないはずだ。ただし、高校は義務教育化すべきだ、というのが著者の主張だと思うが、それに意味があるように思えない。
 高校入学後に基礎学力の未習熟に由来する生活能力の欠如を改善することは、本書に挙げられている多くの実例を見る限り、間違いなく重要であろう。たとえば、上述したような基本的な計算ができない者は、スーパーやコンビニでおつりをごまかされても分からないだろう。ましてやもっと複雑な勘定になればなおさらだ。だが、高校が義務化されてもそれによって最低限の識字力・計算力すらない子供が減るようには思えない。なぜならば、それらは高校に入る前にすでに身につけておくべきことだからで、そうした基礎学力の習得は、高校での教育とは関係ないはずだからだ。むしろ重要なのは、小学校レベルの教育にて理解度に応じて補講をしてあげるだけの余裕のある人員であろう。場合によっては、クラスに補助の教員をもう1人付けてあげて対応すれば、最低限の学力すら身につけられない児童はかなり減少するはずだ。
 同じように、職業訓練機関を備えた教育機関は、別に高校である必要性はない。少なくとも現在の高校で学んでいる事柄は実際に働くに当たって役に立たないのだから、むしろ高校は選択制にしておいて、勉強をする気のある人間だけ高校に行くようにして、そうでなければ最低限の学力と知識をきっちりと身につけさせた上で、中学を出てすぐに働いても何の問題もない、という方向へ持っていくべきではないのだろうか。となれば、既存の高校の設備を利用して職業訓練学校にリニューアルしは方が効率はよいはずだ。
 高校の中退に関して問題となるのは、学力の問題もあるが、中退した事実そのものが就職においてそのまま不利になることだ。関曠野「教育のニヒリズム」(『野蛮としてのイエ社会』(お茶の水書房、1987年))にて喝破されているように、現在の教育制度は学校へ通い続けることができるか否かによって、資本主義への耐性を計っている。もし高校を義務化すれば、結局のところ大学へ入れる人間だけが就職に有利という状況が生まれるにすぎない。つまり、高校を義務化することは、結局のところ著者が憂慮するような貧困の再生産を強化することにつながるとしか思えない。
 そんなことはない、高校で学ぶことには意味がある、と反論するかもしれない。だが現在もすでに、高校へは行っていた方がいいから、という理由だけで通っている者も多い。たとえば、大阪府下のY高校では、進学した理由について、ほとんどの生徒が「昼間ならどこでもええから来た」と答えるという。入学試験の倍率は1.5倍程度だが、数学・英語共に0点でも入学できた。「就職などには有利な実習科目もあるが実習服に着替えることをめんどくさがり、実習科目をいやがる。〔中略〕中学の教師や親から「高校ぐらい行っておけと説得され、いやいや入学した生徒が多く、そのような勉強がしたくてY高校へ通学したのではないからだ」(50〜51頁)。それならば、高校で学ぶことに意味があるのかということについて述べねばならないはずなのだが、本書では貧困の再生産を生むという状況と高校の義務化については幾度も述べられているけれども、学ぶことに意味があるのかということへの言及はほぼないように思える。「「勉強してなんになるねん」という言葉をどう受け止め、どのようにして学ぶ意味を起こさせるのか、悩みは尽きない」(49頁)という箇所が目についたくらいで、もしかしたら読み落としているのかもしれないが、他には見あたらなかった。本書はそれについて語るものではない、といわれるかもしれないが、なぜ通うのか、という問いは非常に重要である。上述のように、最低限の知識や職業訓練ならば、高校での勉強は不要だからだ。
 著者の高校中退者の貧困化を憂える指摘そのものを貶したいのではない。本書を読む限り、著者は高校という制度の存在が絶対的であると意識しているように思えてならない、というにすぎない。そのことこそが、高校中退による貧困の再生産を生んでいるのだということに気づけないのは、著者がもともとは高校教員だったからなのだろうか。


4月12日

 宮部みゆき『レベル7』(新潮文庫、1993年(原著は1990年))を読む。目が覚めると見知らぬ部屋にいた一組の男女。彼らは自分たちに関する記憶をまったく失っていた。分かるのは、お互いの腕に書き込まれた「Level7」という文字だけ。彼らはひょんなことで知り合った隣人の三枝と共に、失われた自分たちの過去を探りはじめる。同じ頃、電話でのカウンセリングのような仕事をしていた真行寺悦子は、カウンセリングをしていたみさおという少女が「レベル7まで行ったら戻れない」という言葉を残して失踪したことを知る…。
 この2つの事件が交互に語られていく中で、やがて1つに結びついていくという、割とオーソドックスなストーリー。中盤に悪役の存在が判明するのだが、終盤に2回ほど展開する。分かりやすく伏線が貼られているので、何かあるのだろうなとは思っていたけれども。この悪役がいかにもな悪役な感じなのもちょっと分かりやすすぎる気がする…などと不平を感じつつも、最後まで読みたいと思わせるのはさすがといったところ。
 ただ、それよりも気になったのは、事件の真相が誰かによって長々と語られている場面が目に付いたところ。愛川晶『化身』や柄澤齊『ロンド』を読んだときにも書いたのだが、こういうやり方はやはりリアリティに欠けてしまうような気がする。犯人らしき人物が独白するのは推理小説の形式のようなものだから仕方がないのかもしれないし、リアリティに即しすぎれば読者に事実が伝わらないかもしれないので、難しいところかもしれないが、それでも何とかならないものだろうか。『模倣犯』のような群像劇とも言えるようなものならば、長々と説明があっても気にならないのだが、あれは純粋に推理小説とは言えない気もするし…。推理小説は謎を解くというロジックを必要としているがために、リアリティを出すのは困難を伴うと言えるのだろうか。
 ちなみに、電話でのカウンセリングは、相手が電話だけでの付き合いで済むという気安さから電話してくるのであって、カウンセラーから踏み込めば相手に嫌われるだろう、といったような現代人の心性を挟み込んでくるところは、いかにもこの著者らしい。


4月17日

 新井孝重『蒙古襲来(戦争の日本史第7巻)』(吉川弘文館、2007年)を読む。皇帝クビライ=ハンのもとで、元は陸の帝国から海の帝国へと変化していったのだが、その延長線上に元寇もあった。クビライが日本と関係を結ぼうとしたのは、南宋への進軍に際して、朝鮮半島から日本を経て南宋へと至る海路を通じた攻撃を行おうという意図があったと考えられる。だがしかし、当時の幕府の得宗家は、反対派との抗争を幕府内部で行っていたため、対外政策に思いを巡らす余裕はなく、元からの呼びかけを無視し続けた。文永の役における元の目的は、そうした日本を交渉の場に引きずり出すために軍事的な恐怖を与えることにあり、それを果たしたと考えて撤退した。ただし、江南の役をクビライが実行した理由はよく分かっていない。日本に元の威信を見せつけるという理由の他に、南宋を滅ぼしたあとに発生するであろう、失業する兵士をうまく動員するためという理由が有力視されている。けれども、これは暴風雨によって壊滅的な打撃を受けて失敗に終わった。なお、これを迎え撃った日本側も国家のために戦ったというわけではなかった。武士たちは、武勲を挙げて報償を得ようとするために従軍したにすぎない。
 海津一朗『蒙古襲来 対外戦争の社会史』と同じく必要があって読んだのだが、あちらが日本内部の動向に焦点を当てているとしたら、こちらは東アジア世界という広い観点から包括的に捉えようとしていると言ったところか。あちらを読んだときにも書いたように、元寇を単純な勝利や敗北、または日本という国のあり方を非難または賞賛するという立場に帰すべきではない、ということは本書を読んでもよく分かる。また、弘安の役に際して、高麗の民衆は戦争協力を強いられて、かなりの困窮状態に置かれたとのことである。よく、当時の朝鮮に住む人々もかつては元寇に協力して日本に進軍したではないか、という非難めいた物言いがなされるが、強制された部分もあるということは踏まえねばならないだろう。
 以下、メモ的に。当時の日本では刳舟(丸木舟)を船体の基底にするため、その強度には限界があった。従ってしばしば舟は沈んだという(88頁)。網野善彦をはじめとして、日本における海洋交易の重要性はしばしば説かれているが、舟という観点から見ればそこにかなりの困難があったこともまた事実なのではないだろうか。それとも、たとえ被害があってもその便利さには代えられないということなのだろうか。宮本常一・山本周五郎・揖西高速・山代巴『日本残酷物語(1)貧しき人々のむれ』(平凡社ライブラリー、1995年(原著は1959年))の冒頭に置かれた、伊良子焼きのエピソードを思い起こしもしたのだが。
 一編に帰依した大友頼泰の管国であった豊後国には、一編が開基したとされる湯が幾つも知られており、それらは傷病に効くとされていた。時宗の徒は南北朝時代に治療に携わっていたが、一編自身も元寇の頃には同じようなことを行っていたと推測される(182〜184頁)。


4月22日

 東野圭吾『容疑者Xの献身』(文春文庫、2008年(原著は2005年))を読む。天才的な数学者としての才能を持ちながら、高校教師として暮らしていた石神は、密かに思いを寄せていた隣人の花岡靖子とその娘が、つきまとう前夫を殺害したことを知る。そして、彼女たちに協力を申し出て、完全犯罪を企てる。発見された前夫の遺体は、顔や指が焼かれ判別が不可能な状態であったが、様々な遺留品が見つかっており、解決は時間の問題と思われたものの、重要な関係者である靖子には鉄壁のアリバイがあり、捜査は難航する。しかし、いつものように友人の刑事の相談に応じていた物理学者の湯川学は、たまたま石神の友人であったことから関わりを持ち始めていき、この事件の真相を知ることになる…。
 湯川学を主人公とする連作ものらしいこのシリーズははじめて読んだのだが、初の長編とのことらしい。おそらく刑事の草薙に湯川が協力するというのがそれまでの基本的な展開なのだろうが、犯人が友人ということで、草薙に協力しつつも湯川は苦悩するという点が、それまでのシリーズとは異なっているのだろう。犯人も被害者も最初に分かっていながら、なぜ靖子と娘のアリバイが完璧なのかのトリックがよく分からないまま進むのだが、叙述トリックのようなどんでん返しがある。冒頭に出てくる町の情景の描写も、こういう小説にはよくある導入と思いつつ読んでいたのだが、実はトリックに関連して重要な意味があったというのはなかなか鮮やか。個々の仕掛けはよくあるパターンとも言えるが、それをうまく組み合わせることで、まだまだ新しいトリックは描けるのだなあ、と。
 ちなみに、石神がなかなかいい味を出している。微分積分が何の役に立つのかと迫る生徒に対して、その生徒が興味のあるオートバイを例に出して、どこで加速すれば最高速度を得られるのかというシミュレーションに役立つと返し、お前がそういう職に就かなくても就くかもしれない誰かのために数学という科目はある、と答えている。ちなみに、これ自体は正しくても、なぜ全員が学ばなければならないのか、ということの答えにはならないが、役立つこともあるという考え方そのものは嫌いではない。ただし、さらにリアリティがあるのは、追試を受けさせている部分で、点数を稼がせるための試験などという数学の本質とは無縁な場所で自分は何をしているのだろう、と述懐させているところ。さらに、警察に拘留されている中で数学の問題を解いていき、誰に認められなくても自分には数学という鉱脈を掘り起こすという無限の楽園があると悟るところは、何となく研究者としての立ち位置を考えさせる。そして、彼が靖子を初めて見たときその美しさを自分の中で数学の問題を解くことと同一視し、だからこそ彼女を助けるために完全犯罪を数学の問題を解くかのように組み立てた、という動機につなげるところもよい。研究というのは、実学でない限りほとんど誰の役に立たないのだが、役に立つ誰かを見つけたとき、たとえそれが犯罪という悪しきものであっても、意味を持つことになるのだな、と。


4月27日

 鈴木真哉『謎とき日本合戦史 日本人はどう戦ってきたか』(講談社現代新書、2001年)を読む。後書きでも述べているように、『鉄砲と日本人』(ちくま文庫(原著は1997年)『刀と首取り』(平凡社新書、2000年)などを各論とすると、本書は総論と言え、日本史全体を通して刀による白兵よりも弓矢による戦いが主流であったことを論じている。
 そもそも、平安時代に台頭する武士の起源は、東国の武士団ではなく、弓馬の芸を持つ中央貴族出身者であった(このあたりは本書でも挙げられている高橋昌明『武士の成立 武士像の創出』や川合康『源平合戦の虚像を剥ぐ』に詳しい)。実際に、もともと武士によって使われていた武器も弓矢が多く、騎馬兵による騎射が一般的だったし、室町期に歩兵が主体となっても、主たる武器はやはり弓であった(このあたりは、近藤好和『騎兵と歩兵の中世史』を参照のこと)。そして軍忠状で確認できる戦傷も圧倒的に弓矢によるものが多い。戦国時代の戦は、白兵主義による大規模な衝突が一般的と考えられがちだが、それも異なる。そのような戦い方は国民を大規模で徴兵できる近代以後のものであり、戦国大名は出来る限り損害の少ない戦い方をしようとした(このあたりは、藤本正行『信長の戦争 『信長公記』に見る戦国軍事学』も参照のこと)。
 鉄砲の登場によって戦い方が変化したとも言い切れない。そもそも弓矢による遠戦思考だったし、個々人が功名を立てるという考え方があったので、組織的な集団戦術はこの時点では誕生しなかった。
 ところが、戦争の記憶も薄れていった江戸時代の後期になると、日本刀に対する信仰めいた考えが生じる。そのため幕末には、欧米の軍隊に対して刀で切り込んでいけば勝てるという意見まで出された。ただし当時のヨーロッパでは、歩兵隊は小銃を撃つのみならず、着剣して突撃する役割も担っていた。とはいえ、やがて銃が改良されていくと、第一次世界大戦の後には白兵主義が捨て去られた。
 これに対して日本では、明治24年に制定された『歩兵捜典』では、「歩兵戦闘は火力を持って決戦するを常とす」とされていたが、明治42年の改訂によって、日本では古来より白兵主義であり、これこそが国民性に適合している、と方向転換することになった。これにはロシア戦争にて白兵主義で甚大な被害を出しながらも勝利したことも影響を与えている。そして日本は第一世界大戦に参加しなかったため、ヨーロッパ諸国と異なり白兵主義を捨てることができなかった。
 最初にも書いたように総論とも言える書なので、非常に分かりやすい。日本人の主たる武器が刀であったという思いこみを砕くには十分であると言えるので、日本史に少しでも興味があれば何か新しい知見を得られるだろう。
 なお、『吾妻鏡』によれば、若くして北面の武士から出家して僧になった西行は、たまたま鎌倉で出会った源頼朝に館へ連れて帰られた。弓馬のことについて詳しい西行にそれらを語らせて、頼朝は筆記させたという。これは武士の本場が東国ではなかったことを暗示している、と著者は見なしている(34〜35頁)。


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