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2014年8月の見聞録



8月3日

 石橋崇雄『大清帝国』(講談社選書メチエ、2000年)を読む。清の成立から発展までを通史的に取り上げつつ、その特徴を述べていく。そもそも、女真族は自給自足できる経済基盤を築いていなかった。明は女真族の各族長に朝貢の特権などを与えて、自らの経済基盤を確立すべく、特権を得ようとする各部族同士の対立をおあっていた。長城以北を支配下に置いたときでも、経済基盤は領内の漢民族の農業地域に頼っていたほどである。とはいえ、漢民族も含む他民族を支配下に置いており、そうした支配体制は、北京へ遷都して中国本土を支配する前から体制の雛形としてすでにできあがっていた。この点においてモンゴルとは大きく異なっている。さらに、明との連続性も伺える。そもそも明は漢民族国家とは言い難く、当時の中国にはモンゴル人や高麗人をはじめとする非漢民族も少なくなかった。中華思想が強調されたのはそうした状況の裏返してある。ただし、モンゴル征服には失敗したので華夷秩序の統合はなしえなかった。清はそうした明の体制を受け継いでいると言える。さらにいえば、経済基盤である江南の支配の正当性を確立するためにも、中国皇帝としての地位は重要だった。
 清の成立過程がコンパクトにまとまっていて、わかりやすい。読み物としては宮崎市定『雍正帝 中国の独裁君主』の方が面白くはあるが、長期的な全体像がわかりやすいという点で本書の有益性は高いだろう。なお、冒頭には全体的な結論が前もって書いてある。清朝をたてえたのは、外来民族の女真族だったがために順応性に富む世界性を備えており、それゆえに成長・拡大過程で政治用の変遷を繰り返して異文化を融合する多民族国家を形成することに成功した、とする。この全体的な結論は、本書の内容と微妙に食い違っている気がするし、外来民族だからという理由付けは、中国の王朝には珍しいのかもしれないが、他地域の多民族国家ならばそうした要因はそれほど大きくはない気がする。
 以下、メモ的に。現在の中国語では、北京語が共通語となっているが、この語のもとになったのは、清朝時代に宮廷や中央官庁で旗人官僚が用いていた北京官話である。中国語は話し言葉としては方言ごとの差異がかなりあるが、清朝の滅亡後に支配言語であった北京官話がその便利さゆえに用いられ続けた(12〜13頁)。
 元は漢族を政治の場から分離して、江南の経済地域への執着も薄かったのに対して、清は漢族を政治の場で活用するとともに、江南の経済地域を取り込もうとして税制改革も行った(65頁)。
 雍正帝は、後継者争いで乱が起こる可能性を排除するために、皇帝が生前にあらかじめ後継者の名前を記した上で、それを厳封して、皇帝の死後に開封して公表する制度をとった。臣下たちも、誰か分からぬ帝位継承者を追い落とすよりも、自身の評価を上げるべく公務に励む方が重要となった(155〜156頁)。
 宮崎市定『雍正帝 中国の独裁君主』にて、雍正帝が清朝は異民族であるので正統な王朝ではないとの非難に対し、天命を受けた君主であれば異民族であっても構わず、『経書』の中にも堯は東夷の人なり、とあると反論したエピソードが触れられていたが、本書でもこれに触れている。これが述べられた書は裁判記録であり、批判者に自己批判をさせるという形態をとっている。自分の正しさを主張するにあたって、反清運動を続ける人物に自己批判をさせる方が影響力は大きいという判断があったと考えられる(208頁)。


8月5日

 米沢穂信『クドリャフカの順番』(角川文庫、2008年(原著は2005年))を読む。古典部シリーズの続刊(前巻『愚者のエンドロール』はココ)。神山高校での伝統ある一大イベントとも言うべき文化祭が始まった。古典部は先輩たちにならって文集『氷菓』を完成させたのだが、手違いで200部も刷ってしまうというトラブルが起きていた。文化祭開催中の3日間にいかに売りさばくのかに頭を悩ませる古典部の4人だったが、同じ文化祭にて「十文字」を名乗る謎の人物が様々な部活から色々なものを拝借するという奇妙な事件が起きていた…。
 これまでは奉太郎による一人称の語りのみで物語が進んできたが、初めて古典部の他の3人それぞれの一人称で語られる箇所が登場する。3日間の文化祭をザッピング的に同時進行で語るためには必要な手法であるし、4人の考え方が分かるという意味でも重要だろう。前巻と同じく才能を巡る話が出てくるのだが、才能の差の前には「期待」しかできない残酷な現実を感じさせるほろ苦いラストとなっている。ただし、そのような絶望感を抱くのは、前巻で挫折した奉太郎ではなく、別の人間たちなのだが、奉太郎がどのようにして立ち直ったのかは書かれていない。以前にも『秋季限定栗きんとん事件』を読んだときに思ったのだが、突き落とされたどん底からどのように立ち上がるのか、という過程を省く傾向にある気がする。個人的にはそのあたりもきちんと書いて欲しいのだが。
 とはいえ、物語そのものは「日常の謎」系としては完成度は高いと思うし、その手のタイプが好きな人には十分に楽しめるだろう。


8月7日

 小野不由美『黄昏の岸暁の天』(講談社文庫、2001年)を読む。十二国記シリーズの続巻(前巻『図南の翼』はココ)。景国の王宮へ瀕死の重傷で辿り着いた戴国の将軍季斉。一命を取り留めた彼女は、景王陽子に何とか国の窮状を救ってもらいたいとの思いで、戴国では将軍の反乱があって王も泰麒も行方不明になっていると告げる。陽子は各国の麒麟へ援助を求め、日本へも捜索の手を伸ばす…。
 『風の海迷宮の岸』にて戴国は良い国になりそうな感じで終わっているのに、『月の影 影の海』では荒れた国との描写があったが、その辺の事情が詳しく描かれている。『月の影 影の海』を読んだとき、「国王が他国へ攻めることは罪であったとしても、国王以外にはそれが罪にならないのであれば、そうする人物が出てきてもおかしくない気がする」と書いたが、内乱があっても手を出せないという本作の状況から、この予想へとつながることはあるのだろうか。
 なお、陽子の身の回りの世話をする臣下が自分たちを遠ざけて気心の知れた者だけを近づけていると不満を爆発させて弑逆しようとしているが、前近代的な世界ならば特に、身分制に基づく自分たちの役割を否定されることは、特に我慢ならないのだろうな、と。


8月9日

 山内進『決闘裁判 ヨーロッパ法精神の原風景』(講談社現代新書、2000年)を読む。中世ヨーロッパでしばしば行われた、何らかの揉め事が生じた際に、生死をかけた戦いで判決を下そうとする決闘裁判がしばしば行われた。前近代の裁判には熱湯裁判のように、神に判定を求める裁判がしばしば行われていた。そもそも前近代の社会では、人間の社会は狭い共同体で完結していた。その中で何らかの諍いが生じると、全体的な敵対状態へと移行してしまえば、秩序の修復は困難となる。そのために共同体の全員が納得する平和回復の儀式が神に頼る審判だったわけである。
 これに対して決闘裁判は、神の前で誓いを立てることはあっても、明らかに超自然的な要素が薄い。これは、近代的な聖俗の分離が、ヨーロッパではすでに中世に生じていたことを示す。加えて、近代的な公権力が未熟であったために、裁判と判決の執行を公権力だけではまかないきれなかったために、その解決手段としても有効だった。なお、決闘裁判は一対一で行われる。いわば、ヨーロッパ型の個人に基づく当事者主義の発露とも言える。そもそも、裁判が文書や証拠に基づいて権威を有するのは近代的で合理的であっても、もしそのすべてが権力に委ねられれば、権力は歯止めを持たないことになる。となると名裁判官はいても、そこには権利と自主性を重んじる自覚も生まれない。人権思想は近代的な啓蒙思想やフランス人権宣言によって生じたわけではなく、ヨーロッパでの決闘裁判という血まみれの行動によって確立したというわけである。
 中世に個人の思想が確立したというのは、阿部謹也『西洋中世の罪と罰 亡霊の社会史』(弘文堂、1989年(リンクは講談社学術文庫版))などでも言われていることだが、そのさらにラディカルな部分を描いていると言えようか。個人的には、決闘裁判の事例はやや冗長に感じたのだが、それに基づく考察の部分はヨーロッパ文明の本質の一端をつかむには非常に有益だと思う。


8月11日

 高羽彩『Psycho-pass 0 名前のない怪物』(マッグガーデン、2013年)を読む。アニメ『Psycho-pass』(リンクはamazonのDVD第5巻)の舞台よりも遡ること数年前の外伝的作品(リンクが第5巻なのは、本作と同じく本編よりも数年前を扱った話がこの巻に収録されているため)。
 22世紀初頭の日本では、人間の精神を数値化して判定するシビュラシステムの元で、各人に適した職業を自動的に振り分ける制度が確立していた。それと同時に、犯罪者とその予備軍たる潜在犯を見分ける「犯罪係数」も計算されて、そうした者たちをあらかじめ排除することにもなっていた。そうした制度の網の目をくぐり抜けた者たちを取り締まる「厚生省公安局刑事課」では、潜在犯でありながら犯罪捜査の実動を担う執行官と、キャリアとして執行官の監視と指揮を担う監視官のチームで活動していた。監視官・狡噛慎也と執行官・佐々山光留は、廃棄区画で名門女子校の生徒・桐野瞳子と出会う。憧れの教員である藤間を追いかけているうちに迷い込んだのだが、死体を展示する標本事件とのつながりがちらつき、事態は逼迫する…。
 アニメでは狡噛が執行官へ落ちてしまっている状態から始まるのだが、本編ではごく簡単な概略しか示されなかった事件が、詳しく語られている。ややあっさりと終わったラストの部分を読むと、思ったより佐々山が弱くて、藤間が強かったのだという印象。後半部分で槇島が藤間に興味をなくしているように見えるのだが、本編にて「君を失って残念に思った」と語っているのでやや齟齬を感じた。けれども、「詰めが甘い」という感想も漏らしていたので問題ないのか。
 むしろ興味深かったのは、鎖国制度や外国人の迎え入れなどの舞台設定の一端が明らかになっているところ。個人的には、大学などの教育機関がなくなったあたりの設定を知りたいところだが、続編のアニメで出てくるかもしれないし、そもそも設定資料集を読むべきか。アニメを見て楽しめたのであれば、それなりに興味を持って読めるだろう。


8月13日

 海堂尊『ケルベロスの肖像』(宝島社、2012年)を読む(前巻はココ)。東城大学病院に「東城大学病院とケルベロスの塔を破壊する」という脅迫状が送られてくる。Aiセンターの開設直前でありながら、センター長となってしまった愚痴外来の田口は、いつもの通り高階病院長からの調査の依頼を受けさせられた。Aiセンターが開設されてまもなくのシンポジウムが開かれた日、関係者の集まるなかでついに事件は起こる…。
 これまでの主要な登場人物がオールスター的に集合しており、どうやら完結編のようである。ただ、他出版社から出ている外伝的作品の『螺鈿迷宮』を読んでいないと理解できない部分があるのは、商品としてどうなのかな、と。


8月15日

 尾形希和子『教会の怪物たち ロマネスクの図像学』(講談社選書メチエ、2013年)を読む。イタリアのロマネスク教会を中心に、中世に描かれた怪物の図像を読み解いていく。そうした怪物は単なる悪しき恐ろしいものを描いた装飾ではなく、キリスト教以前の伝統からの連続性が存在しており、当時の人々の世界観を読み取れる実例を、様々な図像から提示していく。
 図像そのものの説明は面白く読めるものが多い(個人的には、図像のある場所への著者自身の旅行記めいたものは不要に思えるが)。だが、全体としてのテーマがいまひとつまとまれ切れていないように感じた。様々な中世ロマネスクの怪物の図像は、これまでは造形的な見地からしか見られてこず、その解釈もキリスト教と異教という対立軸で解釈されがちだったので、民族学や民俗学、心理学の考察も交えつつ考察を行う、という方法論そのものに異論はない。そして上記の通り、説明そのものは豊富な図像とともに楽しく読める。しかしながら、その解釈によって中世ヨーロッパ世界(もっと狭めて本書の主たる対象である中世イタリアでもよいが)をどのように新たに解釈し直すのか、という展望があまり見えてこなかった。たとえば、阿部謹也『甦える中世ヨーロッパ』(日本エディタースクール出版部、1987年)などは、その解釈が正しいかどうかは別として、教会に描かれた怪物から、当時の人々の大宇宙と小宇宙という世界観を提示した。それに対して本書は、様々な図像解釈は示されているものの、それぞれがばらばらになっていて、読み終えた後に豆知識的な満足感で終わってしまっている気がする。
 とはいえ、様々な図像に関して、他分野の研究を利用しつつ深く解釈しているので、そうした部分では十分に楽しめるし、美術史的な観点に重きを置く人ならば、そうした歴史学的な説明はむしろ不要なのかもしれない。
 以下メモ的に。口から蔓を吐き出す/飲み込むグリーンマンの図像における蔓草は、すべてを産み出してすべてを無へと帰してしまう「時」のシンボルとされている。植物は再生のシンボルでもあるが、キリスト教的な直線的時間概念の中でも、植物の再生と循環する時間のシンボリズムが受け入れられていた様相を示す(154〜156頁)。


8月17日

 久保帯人・成田良悟 『BLEACH Spirits Are Forever With You』T(集英社、2012年)U読む。『週刊少年ジャンプ』に掲載されていている『BLEACH』の外伝的なストーリー。反乱の罪により、尸魂界の最下層の牢獄「無間」に繋がれた藍染惣右介。そこには彼以外にもさらに昔から繋がれている罪人がいた。その罪人、八代目「剣八」であり十一番隊隊長であった痣城剣八は、自分の斬魄刀の能力を利用してあっさりと脱獄してしまう。そのころ空座町には、現れては消える破面の女性をドン・観音寺が追っていた。しかし、その仮面の女性を痣城剣八も求めていた…。
 『BLEACH』は『週刊少年ジャンプ』で流し読みしている程度で、決して熱心な読者ではないのだが、この小説はなかなか面白かった。ドン・観音寺という原作ではほぼネタキャラにすぎない人物をうまく生かして、きちんとバトルで勝利するようなロジックを積み重ねている。いっそのこと、この小説の作者を原作としたら、『BLEACH』の個性豊かなキャラを生かせる気がする。なお『BLEACH』は、東浩紀『ゲーム的リアリズムの誕生 動物化するポストモダン2』で指摘されている、「物語として描かれる人間と言うよりも行動様式の束が外面化されたキャラ」によって動く物語というのを最も体現したマンガである気がする。キャラの魅力で物語を動かしているからこそ、物語の筋道は行き当たりばったりにしか見えないという欠点も目立つのだが。後書きによると、剣八は相手によって強さの限界を変えるという設定は、ほとんどの人に分からないであろう秘密にしていたのに、本書の著者に見抜かれてしまった、とあるが、後付けの言い訳にしか聞こえないのは、そうした『BLEACH』の長所と短所を反映しているからだろうか。


8月19日

 加納朋子『モノレールねこ』(文春文庫、2009年)を読む。表題作をはじめとする短編集。特に面白みを感じずにさらっと読み終えてしまったのだが、解説にて吉田伸子が、すべての収録作品の登場人物は、すべて誰かか何かをなくした人物である、と指摘していて、なるほど、と。この点が分からなかったということは、私には何かや誰かをなくした人に対する思いやりがかけている証拠なのかもしれない。


8月21日

 甚野尚志『中世ヨーロッパの社会観』(講談社学術文庫、2007年(原著は1992年)を読む。中世ヨーロッパは階層社会であったが、その社会はしばしば人体をはじめとする暗喩でたとえられていた。たとえば、諸身分を人体の器官に喩えて、君主は頭、元老院は心臓、胃と腸は財務官と代官、武装した手は戦士、足は農民と手工業者などと見なされており、それらは魂であるところの聖職者の支配に服するべきとされていた。こうした暗喩は蜜蜂・教会建築・チェスなどにも当てはめられた。これらの暗喩に用いられるものは、自然の原理に従って神慮を写した調和物であり、だからこそ社会や国家の構成もそこから読み取れると考えられていた。こうした世界観は、地球が無限の宇宙の構成要素の1つにすぎないという見方が登場すると崩れ去っていく。
 大きな意味で中世像への新たな見方を提示するというわけではないが、中世の人々が人間以外の事物にも神による秩序を乱そうとした実例が、当時の人々の考え方とともに挙げられており、中世世界に関心があれば何らかの知見を得られるだろうし、面白みも感じるだろう。
 以下、メモ的に。17世紀に発掘された、メロヴィング朝のキルデリック1世の墓から、黄金製の昆虫の模型が見つかった。当時はミツバチと考えられてきたが、実際にはハエであったことが判明している。王の墓に副葬品としてハエの模型を入れる習慣は、中世初期におそらく中国から伝わってきた。中国では、再生と不死性のシンボルとしてハエの模型を埋葬する習慣があった(31頁)。
 古代世界では、ミツバチが国王や王国の象徴と見なされていた。古代エジプトでは、ミツバチをかたどった象形文字が王国を指し、ミツバチの蜜は王の慈悲の、ミツバチの針は正義を維持するための王の活動を示すものであった。クレタでもミツバチをかたどった象形文字は王を表し、エフェソスでもミツバチは王の象徴だった。そのクレタからギリシアではミツバチの女神メリッサの崇拝が受け継がれていた。加えて、神々に奉仕する新刊は、神のミツバチとも呼ばれていた(32〜33頁)。なお、プリニウスによれば、ミツバチの群れの登場は凶兆や吉兆と見なされていた(33頁)。
 古代におけるミツバチそのものに関する生態観察は、アリストテレスに端を発する。アリストテレスは、ミツバチが1匹の王蜂に従いながら、共同作業に従事する動物として詳述しており、近世に至るまで動物学的な知識の典拠となっていた(35頁)。
 プラトンは、『法律』において、医者が身体の健康を配慮するように、政治家は国家の健康=秩序と平和を配慮せねばならないと述べた(441E-442A)。これが古代から中性に欠けての国家の医者としての暗喩の起源となる(135頁)。一方でアリストテレスは、『政治学』にて(1261A、1291A、1302B)、プラトンの主張する国家は有機体として統一すべきという主張を批判し、様々な職能のものが相補的に活動することで、1つの自足的な全体性を目指すべきと説いた(136頁)。


8月23日

 沼田まほかる『九月が永遠に続けば』(新潮文庫、2008年(原著は2005年))を読む。水沢佐知子は、夫と離婚して高校生の息子である文彦と暮らしていた。そうしたなかで、夫の再婚相手の娘とつきあっていた教習所の教官と関係を結んでしまう。だが、突如として文彦は失踪し、教官は変死を遂げて、娘も自殺してしまう。息子の行方を探すうちに見え隠れしてきた、知られざる人間関係が佐知子の恐怖を深めていく…。
 最後の方まではどろどろとした人間関係と解決しない問題のおぞましさが巧みに描かれていると思うのだが、解決編に入ると、息子の失踪がそうした闇とはさほど関係しないことが分かってしまい、突如としておぞましさがしぼんでしまった気がする。息子にも何らかの闇があるように描けば、読むのはいやになってもラストまで惹きつけられ続ける作品になり得たのではなかろうか。


8月25日

 西澤保彦『笑う怪獣 ミステリ劇場』(新潮文庫、2007年(原著は2003年))を読む。学生時代からの悪友同士で、結婚もせずにナンパを繰り返しているアタル、京介、正太郎の3人は、それぞれマニアックな趣味を持ちつつ女性へアタックし続けていた。しかしながら、なぜか彼らを邪魔するかのごとく正体不明の怪獣が現れ、しかも誘拐や殺人などの事件と絡んでしまうのであった…。
 3人を主役とした短編連作集(各話の間につながりはない)。作者お得意のSF的な設定を組み込んだミステリなのだが、短編だからか設定の細かい説明はなく有無を言わさずSF設定が3人に介入してくるドタバタっぽいイメージが強い。ただし、それを踏まえつつも、いつも通りミステリそのものはきちんと構築している。個人的には、他の西沢作品に比べればまあまあかな、と思ったのだが、解説にて本作を傑作と評する石持浅海は熱を込めて本作の優れた点を筋立てて論じていて凄いなと感じた。


8月27日

 佐伯啓思『「欲望」と資本主義 終りなき拡張の論理』(講談社現代新書、1993年)を読む。一般的に、社会では生産力が過剰になる時期が必ず現れる。にもかかわらず、経済成長が生じない社会では、過剰な生産分は贈与などによって消費されてしまっている。これに対して資本主義では、過剰なものを蓄積して先送りにしておく。そして将来、新たなことへと投資してさらなる拡大を図る。そうした新たな投資先をつくるには、人々が蕩尽するであろうようなフロンティアを開拓する必要がある。中国からインド、イスラームという中心から見て偏狭に過ぎなかったヨーロッパは、近代にはいっていわゆる「新大陸」という新たなフロンティアに進出しつつ、従来の中心地から新規なものをステイタスシンボルとして消費するために、大量に輸入を行った。その元手となったのが新大陸からの搾取であった。こうした19世紀までのシステムは、外への膨張を続けたと言える。ところが20世紀に入ると、市民社会の内部で他人が欲するものを自分も欲するという内側への欲望へと向かっていくことになった。
 なお、この消費者というカテゴリーを追究したことが、日本経済の強さの要因の1つであったとする。たとえばアメリカでは、労働者は自分の持ち分のみに関心を払い、経営者側もいかに労務管理を行うのかという方向へと進んだ、と見なしている。本書の主張的にも、このあたりの内容的にも本書が書かれた時代はバブル崩壊直後だった、ということを強く感じさせる。
 以下メモ的に。本書の冒頭で、資本主義という言葉はマルクス主義的な雰囲気の中で、否定的なニュアンスが込められていたから、できるだけ使わないようにしていた、と書いている(3頁)。マルクス主義が力を失った現在でも、状況はあまり変わっていないように思える。
 1970年代以降、利潤の発生はいかに消費者の欲望に沿うのかが重視されて、生産の場から消費の場へと移ったにもかかわらず、社会主義はこの点で決定的に後れをとった(30頁)。


8月29日

 綾辻行人『十角館の殺人』(講談社文庫、1991年(原著は1987年、リンクは新装改訂版(2007年)))を読む。十角形の奇妙な館が建つ孤島を訪れた大学ミステリ研の7人。その島にかつてあった館は、当主の夫妻と使用人夫婦が殺害されて後に炎上したという、いわくつきの場所であった。彼らが島に渡ったのと同時に、彼らと元部員の手元へ、かつて亡くなった女性部員は殺されたのだ、という謎の手紙が届く。元部員が調査を進めていくなかで、同時に十角館でも部員が次々と殺されていく…。
 孤島での事件と元部員の調査の場面が順番に続いていくので、何かそこに仕掛けがあるだろうとは誰もが感づくだろう。トリックに驚きを感じもしたし、論理的な整合性もあるとは思うものの、トリックのためのトリックのような読後感が残った。私はミステリの歴史に詳しくないのだが、社会派が主流を占めていた時には、確かにこの作品は反感を買っただろうなというのは分かる気がする。こうした作品に対して、物語にリアリティがないという批判を向ける人もいるかと思うが、それは別に気にならない。ただし、犯人の独白とも重なるのだが、生身の人間ができる犯罪ではなく、何だかパズルのような内容に感じた。


8月31日

 宮部みゆき『楽園』(文春文庫、2010年)上下(原著は2007年)を読む。『模倣犯』にて主人公の1人であったライター・前畑滋子の9年後の物語。事件で受けた精神的なダメージからしばらくライター業に復帰できなかった滋子だったが、ようやく復帰し始めて数年後。12歳で亡くなった息子の母親である萩谷敏子から奇妙な依頼を受ける。息子の等がたまに描いた奇妙な絵が、本当に超能力が関わっているのかを調べて欲しいというものであった。その絵には、発覚時には時効となっていた両親による少女の殺害事件を描いた絵ではなく、9年前の事件で関係者しか知り得ないものを描いた絵があったために、滋子は調査を行い始める。そうした中で殺された少女の妹である土井崎誠子からも、両親がどうしても教えてくれなかった姉を殺さねばならなかった本当の理由を知りたい、という依頼を受ける…。
 事件の真相そのものは決して意外性のあるものでも何でもないが、登場人物のディテールにこだわった地道な積み重ねから核心へと迫っていく手法が冴えをみせている(個人的には、『名もなき毒』はあまりうまくいっているように思えなかった)。浅羽通明『昭和三十年代主義』に引用されていた著者のインタビューによれば(227頁)、前畑は「100%パーセント私の分身」であり、「自分の嫌な面を全部仮託して書いた」のだという。したがって、解説にて東雅夫は、本作が「宮部みゆき自身にとっても必要とされるリハビリだったのではなかろうか」(下巻・436頁)と書いているが、おそらくこれは正しいだろう。本作も、残酷なぐらいに全員が救われるわけではないという作風を踏襲している。ただし、事件の果てにほんの少しでも救われた人がいるエピローグが描かれる。『模倣犯』ではラストがやや寂寥とした雰囲気を漂わせたのとは少し逆である。残酷な現実にもほんのわずかでも希望はあるのだ、という心境にようやく帰り着けたのが本作なのかもしれない。
 ちなみに本作では、子供のことを理解してあげている教員や児童施設の関係者が、一度はそうした風に描かれていながら、裏では自分の置かれた状況や組織の対面などに縛られていて切り捨ててしまう場面が何度も出てくる。大人の理解を超える何かを持つ子供に向き合うことができないのは、人よりも上の立場に立ってしか教え子に対峙できないという教員のいやらしさを見る感じで、自分自身も身につまされる思いだった。野崎まど『死なない生徒殺人事件 識別組子とさまよえる不死』での、「教育の限界は自分であり、自分のことしか教えられない、と述べている場面がある」という台詞はまさにこれを指しているのかな、と思った。
 なお、本作で印象に残ったのは、超能力者の人間としての苦悩らしきものに関して。『龍は眠る』での他人の内面の声が聞こえてしまうような超能力者と同じく、等は他人の記憶をすくいあげてしまうのだが、それゆえにそれを絵としてはき出さずにはいられなくなってしまった。等は自殺かもしれないという可能性が示唆されているが、『龍は眠る』の項でも書いた通り、超能力を実際に持てばとんでもない精神力を必要とするはずということを改めて感じた。


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