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2014年9月の見聞録



9月2日

 ジョージ・アキタ、ブランドン・パーマー(塩谷紘訳)『「日本の朝鮮統治」を検証する 1910-1945』(草思社、2013年)を読む。日本の朝鮮統治について、研究状況、当時の日本の政治と司法、統治のプラス面の評価から見直しを図る。ただし、戦前の朝鮮統治の実態に関係する部分は、全体の半分以下にすぎない。なので、タイトルを見て内容を期待していると肩すかしを食らう可能性が高い。カーター・J・エッカート『日本帝国の申し子 高敞の金一族と韓国資本主義の植民地起源1876−1945』や外村大『朝鮮人強制連行』のように、統治の実態をもっとじっくりと取り上げるべきではなかっただろうか。一応は興味深い指摘も色々とあるのだが、本書に期待している内容ではない点で、やはり少しマイナス評価になってしまう。
 以下、メモ的に。東アジア担当国連政治局アナリストの韓国人である片準範とみずほ総合研究所政策調査部アナリストの塚越由郁は、2007年の共同研究について以下のように述べているという。「朝鮮における反日感情の根源は、民族の誇りが傷つけられたことにある。朝鮮人は、高度な文明社会だった祖国が、野蛮人と見なされていた日本人によって侵略されたことで侮辱され、面子をつぶされたと感じている。朝鮮民族は"偉大な民族"が儒教や仏教の手ほどきをしてやった民族に侵略されたという事実をどうしても受け入れることができないから、いつまでも日本人を憎むのである」(30〜31頁)。
 1911年に、原敬は朝鮮人の同化の必要性を強調したが、将来的には帝国議会へ進出することに何の問題もないと語っている。ただし、この意見は公表するのは時期尚早と語っている(70〜71頁)。
 1930年以降、朝鮮人の有権者はハングルで投票用紙に記入することが認められていた。公職に立候補する権利も持っていたので、衆議院選挙に立候補した。ただし、1932年と1937年の選挙では1人だけが当選している。なお1932年以降は、朝鮮人3人と台湾人1人が貴族院の終世議員に任命されている(82頁)。
 日本統治時代のアンケートでは(時期ははっきりと明記されていないが、三・一運動直後?)、朝鮮の独立に関して、8.1%は独立すべしと常に考えており、11%は有利な時期の独立を望み、32.6%は独立を断念し、48.3%はどちらでも構わないという態度だった(84頁)。
 朝鮮の公立小学校の生徒数は、1910年の2万人から、1937年には901万人に増えている。朝鮮の民族主義者による、軍国主義が教育制度に浸透していたとの非難は正しいかもしれないが、李氏朝鮮が近代教育のための施設を一切残していなかったことを鑑みるべきであろう(176〜177頁)。
 1941年に公開された親日映画『志願兵』では、当選の人々は伝統的な民族衣装で登場する。加えて、主演者たちは朝鮮語を話している(226〜228頁)。
 1889年の段階で、沖縄県の文盲率は76.3%であって日本で最も高く、1904年になっても20%を超えていた。なお、1903年時点で沖縄の主要紙は、「本物の日本人」である沖縄人が台湾人やアイヌと同じ扱いを受けていることに憤慨していたようである(65頁)。


9月4日

 深見真『小説 PSYCHO-PASS』(マックガーデン、2013年)上を読む。TVアニメを小説化したもの。22世紀の日本では、人間の心理状態や性向を数値化した「サイコ=パス」が、「シビュラシステム」によって現実化され、誰もが理想的な暮らしをできる社会となっていた。しかしそうした体制下でも、精神状態を悪化させて社会に害を与えかねない「潜在犯」が現れる場合もあり、それを取り締まる公安局が存在していた。シビュラシステムの診断によって公安局に適性の出た常守朱は、潜在犯でありながら犯罪捜査に適していると判断された執行官の行動を統轄する管理官として働き始める。だが、同僚となった狡噛慎也が管理官から執行官に堕ちてまで追い続けている槙島聖護の蠢動により、社会も公安局も大いに揺るがされる。そして、どんなに残虐な犯罪を犯そうともサイコ=パスが悪化しない槇島の活動はシビュラの正体にまで迫り、制度そのものの破壊にまで至ろうとするなかで、狡噛慎也は公安局を脱してまで追いかけ始めた…。
 …とはまとめてみたが、全22回のTVアニメに相当する小説のあらすじをまとめるのは難しい。全体的な流れはTVアニメ版と同じだが、第3話は完全に内容が異なっており(廃棄区画でのバトルになっている)、過去回の第12話はカット(エピローグでほんの少しだけ触れられている)されている。台詞が付け加えられているとこころもカットされているところもあるが、TVアニメ版では確認できなかったキャラの心情がはっきりと記されているところが多い。システムや設定についての補完情報も多い。たとえば、槇島の顔を見たはずの桜霜学園に属する者たちが、誰も彼の似顔絵を描けなかった点について、子供の頃からホログラムがあふれている世代は、興味のない他人の顔を認識する能力が低く、まともな似顔絵が描けない、との説明がある(上巻・266頁)。これは、ニコラス・ハンフリー『喪失と獲得 進化心理学から見た心と体』にて紹介されていた、旧石器時代には洞穴絵画が描かれていたのに、新たな文明が登場した時には、そうした絵画技術が退化したことに類例を見いだせるのかもしれない。なお、狡噛と佐々山の関係は、高羽彩『Psycho-pass 0 名前のない怪物』だとすれ違いもある微妙なものになっているが、本作だと親しみのある相棒といった感じで描かれているので、少し違和感を感じた。
 本作ではシビュラシステムの正体が物語の主要なテーマの1つでもあるが、一種のディストピアでもあるこの体制の打倒を目指すようなストーリーとはならずに、あくまでも公安局と槇島の対決を主軸に置く。なおシビュラシステムは、この世界の人々にはコンピューターと考えられていて、だからこそ中立かつ公正な判断ができると認識されていたわけだが、実はシビュラシステムで裁けない人格の集合体だった、というのがクライマックスより前に明らかにされる。ただし、そのシステムは確かに良くできているらしい点は、東京だけで警察官が四万人以上いる今と比べて、公安局は20人ほどしかいない事実でほのめかされている。シビュラシステムは、常に新たな人格を取り込みつつさらに完成度の高いシステムを構築しようとしているが、より良いものを求めようとする人間の営みめいている点が何とも皮肉ではある。作中で常守は「悪人の脳を掻き集めた怪物が、この世界を仕切ってたというの?」(下巻・274頁)と糾弾しているが、そもそも体制にそぐわないからこそ、その体制とは違った目線を持ちうる可能性が高いのだろう。実際に、管理官である宜野座は、サイコ=パスの悪化した者を裁くのが人間である意味を考えたことがあるのか、と上司に聞かれて、「その意味を考えたことがなかった。余計なことを考えないで済ませるためにシビュラシステムが存在するのではないか」(下巻・42頁)と戸惑っている。この点からすれば、確かに体制とは相容れない悪人の方が体制を越えうる視点を持ちやすいのかもしれない。その意味で、たとえ体制に批判的ではあっても、所詮は体制のなかで動いているにすぎない大学教員は不要な存在であるのは、理に適っているな、と(他人事ではないのだが)。
 ちなみに、他の制度や思想が成り立つかもしれない可能性を示すような過去の記録は、ネット上にほとんど残っておらず、紙の本にしか書かれていないらしいのだが(だからこそ、槇島や狡噛はあえて紙の本を読んでいるという設定になっている)、それならばシビュラシステムは紙の本を根絶しようとはしないのだろうか。それをやると、あまりにもディストピア色が強くなりすぎるから、そうした設定にはしなかったのかもしれないが。
 第2期のアニメ化と映画化がすでに決定しているが、物語をどういう方向へと進めていくのかは楽しみではある。体制を主軸に置くのか、それとも個人を主軸に置くのか。


9月6日

 森川智喜『スノーホワイト 名探偵三途川理と少女の鏡は千の目を持つ』(講談社Box、2013年)を読む。どんなことでも教えてくれる不思議な鏡を使って、助手のこびとと一緒に探偵事務所を営む女子中学生・襟音ママエ。とある富豪に事件の解決を頼まれて呼ばれたのだが、そこには彼女以外の探偵も2人いた。その一方で、実は彼女はとある国の王位継承権を持っていた。2番目の継承権しか持たない女性は、こちらの世界へとやってきて鏡の秘密をママエとともに調査をした探偵の1人である三途川理に、ママエの殺害を依頼した。ママエを疎ましく思っていた三途川もこの依頼を受けて、ママエは命を狙われることになる…。
 完全な悪役である三途川との推理合戦は、かなり綿密なロジックを積み重ねたものなので、そういったパズル性の高いミステリが好きな人には楽しめる要素がある。ただし、三途川は利己主義者で自分のために殺人もいとわない探偵なので(ダークヒーローというかっこいいものではなくて悪人に近い)、好みは分かれるかもしれない。なお、三途川のいう「探偵の敵は探偵」という言葉は、探偵は「1つしかない真実をどちらが探す」のが目的であるならば、探偵の矛盾というものをものがっているのかもしれない。もちろん、そもそも真実は1つしかない、という言葉がそもそもはおかしいと思うのだが。


9月8日

 濱田武士『日本漁業の真実』(ちくま新書、2014年)を読む。特に近年の日本の漁業の状況をみた上で、海外水域での漁業、漁獲管理、養殖ビジネス、漁協などのトピックを見ていく。日本の漁業の状況に関して大まかに言えば、生産量も就業人口も減少傾向にある。生産量はピークである1984年の1282万トンから2011年には477万トンに減り、就業者は1960年には70万人を超えていたが、2010年には約20万人となっている。就業者に関していえば、高齢化が進んで新規就業者は少ないのだが、定年がないゆえに高齢漁業者が就業し続けているため、省力化が進んでいることと相まって、外部からの就業者を阻む要因となっている。生産量に関していえば、そもそも日本人の消費量は2000年に至るまで800万トン以上を維持していたが、それ以後には減少し続けて2011年の約672万トンと、1970年と同水準へ落ち込んでいる。さらに食生活での魚離れも進んでいる。これは単純に魚を食べなくなったためではない。安くて手軽で便利な食品への嗜好が高まり、食するまでに処理を伴う丸魚から、加工ずみの魚を求める傾向が強くなったためである。加工済みの魚は、スーパーを中心とした流通体制にも適合している。スーパーのような大手事業者は、セリによる取引ではなく事前に契約を結んで水産物を確保する。これは結果として、卸売市場と魚屋の衰退を招き、これまでの水産物流通を支えてきた人的ネットワークを衰えさせている。
 こうした状況に基づいて、個別事項についてみていくのだが、そのあたりについての詳しい内容は省略する。漁業の現況とそこに至るまでの過程について、基礎となるデータを含みつつ分かりやすく抑えられているので、それらを概観したい場合には、便利であろう。ただし、それでは具体的に同すべきなのか、という展望については具体性に乏しいように思えた。たとえば6次産業化について、個別の異種業種連携の推進であり、広がりが見えない(43頁)と、やや懐疑的に見ている(なお、この6次産業化とは、関満博『地域を豊かにする働き方 被災地復興から見えてきたこと』で訴えられている)。その一方で、漁業者と魚食文化の再生の重要性を訴えつつも、あまり具体的な提言があるようには見えなかった。たとえば、ネットワークの再生のような大まかな意味での提言はあるのだが、具体的には「自治体と民間が一体となって知恵を絞り」(269頁)と書いてあるにすぎない。専門家に求められているのは、まさにその「知恵を絞り」という部分なのではなかろうか。紙幅の都合でそれを書けなかったというのもあるだろう。だがそれにしても、やはり具体性に乏しいという肩すかし感はどうしても否めなかった。
 以下、メモ的に。歩合制である乗組員の給与の現状は、漁労長は好成績の漁船ならば1000万円以上はかたく、20代前半の若手乗組員でも500〜600万円は稼ぐ(34頁)。
 遠洋漁業において、1970年代にスケソウダラを原料にした冷凍すり身技術が開発されたため、北洋海底漁業だけが急拡大する結果となった。ただし、1973・79年のオイルショックと1977年の米ソによる200海里体制の宣言での日本漁船の締め出しのため、急速に衰退した(94〜95頁)。
 漁業就業者は専業者よりも兼業者の方が減少は著しい。たとえば1988年と2008年を比べると、専業者は5万2千人から5万3千人にわずかに増えているが(なお、波があるので微増と言うよりは変わらないという方が正しいように思える)、兼業者は12万8千人から5万6千人に落ち込んでいる。


9月10日

 米澤穂信『遠まわりする雛』(角川文庫、2010年(原著は2007年))を読む。古典部シリーズの続巻(前巻『クドリャフカの順番』はココ)。これまでの物語の間で起きたサイドストーリーと、1年生の時のバレンタインデーと春休みのお祭り「生き雛まつり」での出来事を描いた短編集。連作ではなく、それぞれは独立している。
 なんと言っても、バレンタイン事件で描かれた里志と摩耶花の、そして生き雛まつりで描かれた奉太郎とえるの、それぞれの恋愛関係の葛藤が本作のクライマックスだろう。ただし、すべての短編が爽やかに終わるのではなくほろ苦い感触で締めくくられるのは、いかにも本シリーズ(というか著者)らしいのだが。


9月12日

 飛鳥部勝則『砂漠の薔薇』(光文社、2000年(リンクは文庫版))を読む。美術館付きの喫茶店で働いている奥本美奈は、画家の明石尚子に誘われて彼女のモデルとなる。尚子の自宅は、美奈の同級生である竹中真利子が首なし死体で発見された洋館の目の前にあった。真利子に虐待されていた女子生徒、刑事を自称する男などが登場するなか、邸宅に引っ越してきた彫刻家が惨殺される…。
 最後まで読むと、一種の叙述トリックだったことが分かるのだが、全くそのそぶりがないので人によっては納得できないかもしれない。なお、赤い衣を着ているから聖母マリアという記述が出てくるのだが(29頁)、徳井淑子『色で読む中世ヨーロッパ』を読む限り、聖母マリアの衣服の色は青ではなかろうか。


9月14日

 N.Z.デーヴィス(成瀬駒男訳)『帰ってきたマルタン・ゲール 16世紀フランスのにせ亭主騒動』(平凡社ライブラリー、1993年(原著は1982年))を読む。1560年のトゥールーズ高等法院に持ち込まれた奇妙な事件に関して、裁判記録とその判事の1人が残した記録を元に再構成していく。その事件の発端は、マルタンが父親とのトラブルが元で妻ベルトランド・ド・ロルを残して失踪したことであった。その8年後に突然帰ってきたのだが、偽者ではないかと疑った叔父に訴えられてしまう。ベルトランドはその人物はマルタンに違いないと弁護したが、まもなく本当のマルタンが帰ってきた。マルタンになりすましていたアルノー・デュ・ティルは、有罪となり処刑されるに至った。
 基本的には史料に基づきつつ、当時の社会情勢から包み込むようにこの事件の歴史的展開を述べていくスタイルをとる。さすがに映画化されたこともあるように、そのまま読んでいくだけでも面白いストーリーなのだが、著者の見解をあえて簡単にまとめれば、夫を必要とした当時の社会のなかでベルトランドはアルノーを信じて、ただ信仰のみに基づくプロテスタントの教えがその後ろ盾になったのであり、アルノーを訴えた叔父は伝統的なカトリックの信者であった、といった感じだろう。
 ちなみに本書の序文には、「私がここであなた方に提供するものは、一部分は私の創作である。が、その創作も過去の声によってしっかりと抑制されている」(25頁)とある。歴史学研究の立場からすれば、たとえば当時の人々の意見や考えに創作があるという点で、歴史学たり得ないという批判があり得るかもしれない。たとえば、史料批判を通じて「より正しい」解釈を求めることこそが歴史学の役割とみなして、歴史小説と歴史学を区分した小田中直樹『歴史学ってなんだ?』のような立場からすれば、そうした批判がでるだろう。だが、「過去の声によってしっかりと抑制」された声であれば、かえって創作こそが読者へその時代の考え方の本質を提示することもありうるだろう。その際の抑制とは、中谷功治『歴史を冒険するために 歴史と歴史学をめぐる講義』で述べられている歴史学はロマンとは異なると見なした一節だろう。「想像・教官に留まることなく、さらに歴史的事実を選択して「分析」を加え、さらには「解釈」へと進む。このプロセスにおいて、過去を振り返る歴史家たち同士による相互の吟味・議論が展開されます。要するに、歴史家はロマンの次元で立ち止まって「うっとり」とだけして入られないのです」(92頁)。これは歴史家だけではなく、歴史小説にも当てはまると思う。現在の価値観で見ていることを意識せずに過去を描こうとするならば、それはフィクションかノンフィクションかにかかわらず、過去の歴史の再構築にまでは至らないのだろう。となれば、そこに歴史学か小説かという区分はないのかもしれない。両者は何かと対立的に描かれるが、個人の好みの違いはあるものの、過去の歴史の再構築という点で本来は同一のものなのかもしれない。
 以下、メモ的に。人口変動を研究する歴史家は、農民の移動を経済的な理由によるものと考えるが、農業や結婚生活からの解放を夢見ていたマルタンの事例からは、全部がそうではないと分かる。失踪以前にも堅信礼のために旅をした経験があり、息を抜く余地があったことを示している。他にも彼の元々の出身地であるバスク地方では、海と捕鯨の船旅もそうであった(51〜52頁)。


9月16日

 小野不由美『華胥の幽夢』(講談社文庫、2001年)を読む。十二国記シリーズの続巻(前巻『黄昏の岸暁の天』はココ)で短編集。泰麒の漣極国への行幸と漣王・鴨世卓との出会いを描いた「冬栄」、祥瓊の件で芳を訪れた桓?と仮王の対話を描いた「乗月」、登極直前の陽子と楽俊の手紙のやりとりを描いた「書簡」、才州国の新国王と高官たちの挫折の中で起きた殺人事件を描いた「華胥」、倒れつつある柳国へ来た利広が出会った風漢を名乗る尚隆との対話を描いた「帰山」の全5編。
 「華胥」にでてくる「責難は成事にあらず」という言葉は、何事にも当てはまる言葉だなと。個人的には「帰山」が一番面白かった。道を踏み外せば死ぬこともあるという設定は、単純に不死であるというよりも恐ろしいな、と感じさせられた。


9月18日

 辻村深月『名前探しの放課後』(講談社文庫、2010年)上を読む。高校生の依田いつかは、ショッピングモールで友人の長尾秀人と話していた自分が3ヶ月後からタイムスリップしたとの感覚に襲われる。その3ヶ月後の記憶では、名前を思い出せない誰かが自殺していた。その誰かを救うために、秀人とその彼女の椿史緒、その友人の天木敬に協力を求めた。さらに、同じ中学出身の本好きの坂崎あすなにタイムスリップについて相談したところ、絶対にしれないはずの祖父の店の新店舗の情報を知っていたことから、協力してくれることになった。そして彼らは、自分の死亡記事を書き続ける河野基が、クラスメイトの小瀬友春にいじめられている事実を知る。河野が自殺する人物と見なした彼らは、それを避けるべく行動し始める…。
 クリスマスイヴに目的を達成できたかに見えたのに、まだまだ物語が続いていき、妙に時間を気にするいつかといった細かい部分が解決されていないので、不穏な展開へと至るのではないかと怖々と読んでいたのだが、どんでん返しと大団円へと至るのはなかなかうまい。後味の悪いものが好きではないミステリ好きにはお勧めできるのではないだろうか。ちなみに、『Wikipedia』の「名前探しの放課後」によると、秀人と史緒は、辻村深月『ぼくのメジャースプーン』の「ぼく」と「ふみちゃん」であるらしい。
 なお、浅羽通明『昭和三十年代主義』にて、「現在の若者が地元志向なのは、単に今の景気が悪いからにすぎず、もし景気がよくなれば、東京に出て新しいものを消費する生活に戻るのではなかろうか」と書いたが、あすなはいつかに、地方でもあらゆる店舗が揃っていつショッピングモールで不便さが消えたので、遠くに行こうという気持ちが吸い込まれている、と語っている(下・87頁)。この点で浅羽の主張は正しいのかもしれないが、そこに創造的な何かがあるようにはやはり思えない。


9月20日

 真木悠介『時間の比較社会学』(岩波同時代ライブラリー、1997年(原著は1981年))を読む。時間の概念は、前近代の円環的時間と近代の直線的時間とが類型として理解されている。しかし前者に関しては、さらに原初的な時間の感覚として、振動する時間が考えられる。つまり、昼・夜や夏・冬のように対極間を反復し続ける時間感覚である。とはいえ正確な時間を知らないというわけではない。狩猟の時期や雨季・乾季の始まりなどは意識されている。そこからさらに、暦のような客観的な時間を意識するのは、他の協同体と関係を持つか、共同体内部の階級や分業の誕生によって時間感覚の分裂が起きた際などであった。
 ただし、こうした時間概念と異なり、不可逆なものであり、加えて抽象的かつ等質的な量として無限なものと意識されたのが、ヨーロッパにおいてであった。円環的とされるヘレニズム的な時間概念は、アナクシマンドロスによる万物の起源論の断片がその端緒として知られる。なお、時間の等質化という考えは、万物を等質化するという点で貨幣の誕生へと至った。ヘレニズム的な時間は可逆性という点では近代の時間意識にそぐわないが、等質化された数量性という点ではその起源と言える。そしてもう1つの起源とも言えるのが、繰り返される季節のような反復性を無視して直進する時間として意識された、ヘブライニズムの時間概念であった。ヘブライニズムの場合には終末を迎えるという意識があるものの、そこにヘレニズム的な無限の概念が組み合わさって近代的な時間概念へと至るわけである。こうした近代人の生活の時計化の領域を拡大したのは、工場と官庁、次いで学校、最後に放送、特にテレビであった。そして時間の支配下にあるのは資本とその論理であり、労働者の時間の管理下に置かれているのが現在の状況であるとも言える。
 近代的な時間概念の誕生について、非常に分かりやすくまとめている。循環的時間概念と直線的時間概念の原初に反復的時間概念を置き、変形した両者を受け継いだのが西洋的な時間概念であるとしたところが重要だろうか。なお近代の時計化に関していえば、柳治男『<学級>の歴史学 自明視された空間を疑う』で指摘されていた、学校のカリキュラムかが工場に先立つという点からすれば、学校を工場の次に置くというよりは同時にする方がいいのかもしれない。それと、日本の古代に関連する部分は、面白いとは思うものの本論に絶対必要かといわれると補論のように感じた。それよりも中世の教会や都市の時計に関して論じた方が、西洋的な近代的時間概念の特殊さを強調することになるのではなかろうか。ただし、これは歴史学的な立場に立った見方であり、社会学的には本書のスタイルが即しているのかもしれない。いずれにせよ、時間概念に興味があれば基礎的な必須文献であるのは間違いないだろう。
 以下、メモ的に。ピエール・ジャネによれば、時間は創造・保存・破壊の3つの側面を持つ。すべてのものはその時を得て生成し、その時を通して存続し、その時を終えて死滅する。インドの最高神たるブラーマンとヴィシュヌとシヴァは、それぞれ創造・維持・破壊を司る神だが、時間の3つの側面に収斂していると言える。なおマリー・ボナパルトは、ジャネの考えを批判して、保存に関しては時間に逆らってなされるのだから時間の側面と見なすべきではないとしている(マリー・ボナパルト(佐々木孝次訳)『クロノス・エロス・タナトス』(せりか書房、1968年)(未読))そうである(4頁)。
 ネイティヴ・アメリカンが、白人による略奪や殺傷以上に奪われた先祖の土地を語る際に深い怒りと絶望を示すのは、近代的な価値観からすれば非合理に見える。しかし、彼らにすれば、土地=自然こそが自らの過去を現在化せしめていた。殺害は生を奪うことであるが土地の収奪は死をも奪うことになり、過去はないものとなってやがて現在も無化すると感じていたと考えられる(24〜25頁)。
 性行為が、時間についての最古の表象の1つである(E.リーチ(青木保・井上兼行訳)『人類学再考』(思索社、1974年)(未読))のは、時間が絶えず反復するという意識と関連している。「男と女は共時的な対立者であって、通時的な交互携帯や局面ではない」(52頁)。
 アフリカの土着社会の時間概念においては、2年以上先の未来が意識されていなかった。こうしたなかに、キリスト教的な未来の意識が導入されると、すぐに激しく具体的な救世主待望の運動を触発してしまう結果となる(89頁)。
 大化の改新における年号の制定は、共同体の時間の収奪であった。それと関連しているのは、庸や調として毎年絹布を調停へ差し出すことである。なぜならば、単に量的な余剰時間の収奪ではなくだけではなく、異質な労働時間の生活世界への割り込みでもあったからである。その意味で共同体の外へと連れ出される歳役・雑徭・兵役も同様であり、『万葉集』の防人の歌は、権力による農民の生活の解体を記録していると言える(123〜125頁)。


9月22日

 野崎まど『know』(ハヤカワ文庫、2013年)を読む。情報化が急激に進み、人造の脳葉「電子葉」の移植が義務化された2081年。京都の情報庁で働く上位の官僚として働く御野・連レルは、ほぼ最高レベルの機密情報にアクセスできるレベル5権限を持っていた。ある日、彼をこの道へ進むべく決定づけた恩師だが現在は行方不明の研究者の道終・常イチが作成した、現在の情報化社会を基礎づけるコードのなかに、彼が残した暗号を14年後に発見した。暗号に導かれて再会した恩師は自分の理想を語り終えると、レベル9であると紹介した少女・知ルを残して自殺した。追跡を受けながら、知ルの求めに応じて連レルは一緒に神護寺と京都御所をめぐり、曼荼羅や神代の記録を探る。そして知ルは、ある人物との対話によって何かを知ろうと試みる…。
 爆発的に増加しすぎた情報に対する強迫観念に耐えきれなくなった人類は、人造の脳葉である「電子葉」に頼るという設定であり、士郎正宗『攻殻機動隊』(講談社KCデラックス、1991年(リンクはコミックス第1巻))の設定にも近いが、あちらが設定をもとにした物語をメインにしているのとは異なり、こちらは設定そのものを物語にした感じである。なお、増加し続ける情報の中でも人類が経験できていなかった知識が、物語のクライマックスに関係するのだが、勘のいい人は途中でそれが分かってしまうかもしれない。私は全く気付かなかったが、あとから読み直せば神護寺の訪問中などのそれに関することに触れていた。ただし、エピローグではそれを知ることで恐怖も薄らいでいるかのように見える描写があるのだが、知ることによって恐怖がなくなるとは限らない気もする。むしろ知ることによって恐怖が増大する可能性の方が高いのではないかと。


9月24日

 沼田まほかる『ユリゴコロ』(双葉社、2011年)を読む。犬喫茶を経営している亮介は、婚約者の千絵を両親に紹介して幸せに暮らそうとしていた矢先、千絵がいきなり失踪し、父親は癌にかかり、母親は事故死するという不幸に見舞われる。そうしたなかで実家で偶然見つけた「ユリゴコロ」と名付けられたノートには、殺人に取り憑かれた人間の告白が綴られていた。その人物は誰なのかを推測する中で、亮介は幼い日の記憶から自分の母親が入れ替わったのではないのかという疑念を再び抱き始める…。
 冒頭から中盤までのおぞましさが、ラスト付近では緩んでしまうのは『九月が永遠に続けば』と同じなのだが、ただしノートを巡る謎が解決した後にまだ続く物語のなかで、より完成度の高い伏線の解決が図られるのは、あちらよりも上だろう。ふと思ったのだが、TVドラマ用にこの著者にオリジナルの脚本を書いてもらえば、ヒットする作品になるのではないだろうか。何となく、高視聴率だった『眠れる森』(リンクはDVDボックス)を思い出したので。


9月26日

 ジョー・マーチャント(木村博江訳)『アンティキテラ 古代ギリシアのコンピュータ』(文春文庫、2011年(原著は2009年))を読む。1901年に、ギリシアのアンティキティラ島付近で古代の難破船から引き上げられた、小さな箱に多くの歯車を組み込んだ考古遺物の正体を探る研究のドキュメント。研究者のプロフィールや思惑とどのように解明を勧めていったのかがメインとなっている。個人的には、こうした道具が古代の技術史にどのように位置づけられ、さらに古代の思想や社会を新たに読み解くようなものを期待していたので、あまりピンとこなかった。こうしたドキュメントの方が人気があるのかもしれないが。ちなみに、この道具が超古代史家のデニケンによって取り上げられた結果、まともな歴史学者には取り上げられなくなったそうである(181頁)。
 なお、技術史では機械時計の起源は中世ヨーロッパに置かれるが、中国ではそれに匹敵する精密な天文時計があったことを指摘して、「時計の起源を正しく知るために、歴史家たちはもっと古い時代までさかのぼる必要がありそうだ」(128頁)と述べている。確かにヨーロッパ中心主義に陥るのは避けねばならないが、優劣は別として近代的な時間計測の起源としてのヨーロッパの機械時計と、天文時計とではその持つ意味は違うであろうし、異なる発想に基づいて別々の起源から発達したのであって影響を受けたわけではないのではなかろうか。
 ものすごい細かい突っ込みを1つだけ。「ローマの初代皇帝アウグストゥス・シーザー」(97〜98頁)と書かれているのは、違和感を感じる。アウグストゥスとラテン語読みをするならば、シーザーはカエサルと表記した方がよい気がする。というか、シーザーはつけなくてもよいのでは?


9月28日

 林譲治『進化の設計者』(早川書房、2007年)を読む。2036年の日本、気象予測シミュレーションが大型台風の進路予測を大きく誤るという事件が起きる。その同時期に、ホームレスへの取材を行っていたジャーナリストが失踪し、スマトラ沖の日本主導の巨大人工島建設の計画現場にて古生物学者が行方不明となった。その背後に見え隠れするのは、神によるプログラムの実在を信じるインテリジェンス・デザイン論に基づき弱者排斥を謳う優生学的思想を持つ集団・ユーレカであった…。
 近未来的なガジェットを色々とぶち込んでいるのだが、個人的にはホームレス関連の事件は別の小説にした方が面白かったのではないか、という気がした。確かに、意思を統一した猫の存在はクライマックスへのプロットとしては必要だったのかもしれないが、全体的な物語とインテリジェンス・デザイン論への絡みがやや強引なようにも感じたので。せっかくの面白い設定だから、別々の物語でそれぞれ深めたものを読めたらよかったかな、と(偉そうな言い方をすれば、物語の焦点が少し散漫になってしまっているようにも思えたので)。
 ところで、この小説のなかでは、理学部への進学者は女性が多いことになっている。女性は専業主婦がいちばんという考えと教養もあるべきという考えの接点として、金にならない理学部へ女性は進学させられている、という設定だ。金にならないといっても、どこかで必要とされる可能性も高い基礎科学と、どこで必要になるかも分からない人文学とでは大きく異なると思うが、この世界でははたして文学部はどうなっているのだろうか。


9月30日

 樺山三英『ジャン=ジャックの自意識の場合』(徳間書店、2007)を読む。「ぼく」とアンジュはパパによって育てられていた。しかし、その手を離れて二人は世界を徘徊していくことになる。そして、パパの手紙は育児の目的を語る…。
 何となく退廃的かつ幻想的な世界に、「パパ」のモノローグ的な手紙が挿入されているのだが、個人的にはピンとこなかった。小説の紹介を読んで現実世界と洗脳に関するようなテーマなのかな、と思っていたので、こちらが悪いのかもしれないが。
 なお、一点だけ細かい突っ込みを。ローマ神話の中で産まれてくる子供をくらい続けたサトゥルヌスに触れる中で、「サトゥルヌスは時の巨人だ。現在が、生まれてくる未来を食らってしまうため、時間はいつまでたっても進まなかった」(32頁)とあるが、これはギリシア・ローマ神話に関する誤解である。ローマ神話でいうサトゥルヌスはギリシア神話でいうクロノスと同一視されたが、このクロノスはKronusであり、時の神であるクロノスChronusとは別の神である。


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