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2014年5月の見聞録



5月1日

 河野裕『サクラダリセット CAT, GHOST and REVOLUTION SUNDAY』(角川書店、2009年)を読む。町のなかでだけ特別な能力を使える人間たちが集まった場所である、咲良田。過去のすべての記憶を維持できる浅井ケイと、世界を三日前に戻して「リセット」する能力を持つ春埼美空は、「猫を生き返らせてほしい」という村瀬陽香からの依頼を受ける。しかし、彼女の依頼に隠された本当の望みは、咲良田の存在そのものに関わるものであった…。
 能力者同士のバトルものと言えるが、ループ能力の設定が中心となって展開する。咲良田そのものの設定については何も明かされておらず、あくまでもキャラクターの能力によって物語が展開する。個人的には、もはや中年の私にはややかっこつけたような部分がこそばゆく感じるのだが、能力を持っていかに争うのかという部分は、十分に面白いので、そういったマンガ好きな若者にはお勧めできると思う。
 ところで、ケイの能力であるすべての過去を記憶できるというのは、どこまでを覚えていられるのだろうか。たとえば、前の日の何時に顔を洗ったのかというレベルまで覚えていられるのだろうか。この能力に関して思い出したのは、深沢美潮『フォーチュン・クエスト2 忘れられた村の忘れられたスープ(上)』角川文庫、1990年)に出てきた同じ能力を持つ人物に対する、忘れられないような大切なことは雑多なことを忘れることで育つ、という言葉だったりするケイは過去のトラウマを強く意識しているが、忘れられないということこそが、そのトラウマの元凶なのかもしれない。U.ヌーバー『<傷つきやすい子ども>という神話 トラウマを超えて』は、トラウマを現在の問題と関連させすぎる点を批判しているが、過去を忘れるべきではないものの、それが絶対ではないという慎みもなければ、過去に囚われすぎて現状の問題を解決できなくなってしまうことを、ケイの状況は示しているのかもしれない。


5月6日

 浅羽通明『昭和三十年代主義』(幻冬舎、2008年)を読む。昭和30年代の生き方や考え方、そして現代のおけるその生かし方を、小説・映画などの作品を題材に提示していく。以前、『天皇・反戦・日本 浅羽通明同時代論集治国平天下篇』を読んだときに、昭和三十年代主義について執筆しようとしている、との文章があって期待していたのだが、それが1冊の本としてまとめられた。
 昭和30年代を古き良き時代として描いた作品として、『ALWAYS 三丁目の夕日』がヒットした。ただし過去を美化したノスタルジアにすぎないという批判もある。ただし、昭和ブームが訪れる前の2001年に、すでに『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶモーレツ!オトナ帝国の逆襲』は、子供時代の昭和に浸ろうとする大人たちを批判的に描いている。美化された過去に対する暗喩であるかのごとく、子供時代という夢に退きこもり帰ってこなくなったしんのすけの父親のひろしを現実に引き戻すアイテムは、靴下の悪臭であった。本作では、さらにこの後に昭和の生活感を備えた町並みが提示されており、現実でも昭和村がつくられているが、趣味の範囲に留まっている。それを踏まえても、理念としての昭和三十年代を主義として取り入れる意味合いがあるとすれば、橋本治がしばしば主張するような、不便だったからこそ必要とされる各人の労働によってつながった協同体であるとする。さらに、現実でのそうした協同体は、家電の登場とサラリーマン社会の到達によって、商店街が衰退したのと同じく消滅していった。かつてのような経済成長が望めなくなった現在にこそ、昭和三十年代主義によって、たゆまぬ努力や成長と消費を強いられずに、平穏な日々の居場所が保障されるのではないかと、訴える。
 ところで、そうした昭和三十年代的精神を否定することで成立した現代社会の精神性を色濃く反映した作品として宮部みゆき『模倣犯』があげられる。この中に出てくる2人の犯人は、自分が世界の中心に位置していて自分中心で世の中が回っているという全能感を持ちつつ、面白いことが大事という考え方をしている。ちなみにピースの笑みは、「知識人の笑みだった」と表現されている。他の被害者を気にかけない人物に対して、俯瞰的な洞察の重要性をアピールしつつ誰もが問題を抱えていると相対的に判断しようとする姿は、近代の知識人の姿であるとする。しかし、そうした2人を追い詰めたのは、被害者の祖父である豆腐屋の老人、2人の友人として家業のそば屋を手伝っている男性、工場主と結婚したルポライターの女性を始めとした無数の生活者だった。
 このあたりの内容までは、まずまず納得できたのだが、ここからの展開があまり釈然としなかったりする。新しく面白いものが何ら特権的でなくなった現在は、定番を求める時代となってきており、さらにそこから古典へと向かう動きになってきていると捉える。これは、現在の若者が上昇志向よりもむしろ地元でのんびり暮らす志向を持つ状況と合致しているとみなす。地元の祝祭とのつながりで自己を満たしつつ、「生活スキルに秀でた地道で堅実なエリートたちがそのスキルを伝授しあって、高度成長期以来、ブランドメーカーや外食産業やコンビニ・チェーンへ預けていった日常を、もう一度、自分たちの手に奪回してゆく」(361頁)時代が始まりつつあるのではないかとする。
 本書は、もはや日本が高度成長を迎えることはないという前提に立っている。それは正しいのかもしれない。ただし、現在の若者が地元志向なのは、単に今の景気が悪いからにすぎず、もし景気がよくなれば、東京に出て新しいものを消費する生活に戻るのではなかろうか。つまり、地元志向なのは積極的な思考ではなく、消極的な選択にすぎないのではなかろうか。さらにいうと、たとえ地元志向であってもその足元を支える土台がいる。地元志向が強まったとしても、ブランドメーカーや外食産業やコンビニ・チェーンへ預けていった日常は、現在のところまだそのままであるようにしか思えない。となれば、まずはそれを自分の職能によって奪い返す具体的な方策こそが必要なのではなかろうか。たとえば、正しいかどうかは別として、関満博『地域を豊かにする働き方 被災地復興から見えてきたこと』や久繁哲之介『地域再生の罠 なぜ市民と地方は豊かになれないのか?』などで提示されている具体的方策である。それがなければ、所詮は観念的な提言にすぎない気がする。
 とはいえ、本書の指摘が万人にとって全く無効であるとは思わない。それがうかがえるのは、『模倣犯』とミステリに関する部分だ。新本格などのミステリは、殺人という本来なら軽々しく語るべきでない所業を、ゲームのようにクールに楽しむ犯人たちのような知性と親和する、と述べている(228頁)。無名の生活者たちが犯人を追い詰めていく『模倣犯』は、「独創性が何よりも重視されるミステリ小説の形式で、独創性が最も尊重される世の中などおかしい、もうそういう時代にはピリオドを打とうではないかと訴えた」(229頁)と評している。これは、ミステリ作家だけではなく、作家や人文系の学者すべてについて言えるのではなかろうか。何か新しい理論に飛びつくだけではなく、古典を振り返って、都会に出かけて派手に活躍するような自己を高みに置く態度ではなく、地元で地道に過ごすように等身大の言論を紡ぎ出す努力をすべき、という点で。何らかの指針を示しうるメッセージを発しようとしている人間が、普通に暮らしている人々が迷った時に昭和三十年代主義に基づく思想で、その迷いを消してあげるようにアドバイスをする努力をすべきであろう。本書は現実社会での実際の活動の方策までは示していなくても、本書を読むような人間に対する提言としては役立っているのだ。
 ちなみに、著者自身が実際の昭和三十年代には思い入れがなくむしろ嫌悪していたという話はエピローグではなく、プロローグに置いた方が指針としての昭和三十年代というテーマが分かりやすくなった気がする。
 なお、橋本治や山本夏彦などの指摘によれば、戦後まもない頃に帰るべき理想とされた時代は昭和8年であった。それが忘れられたのは、昭和30年代に急速に復興してその豊かさを追い越してしまったからである(162〜163頁)。なお、岩瀬彰『「月給百円」のサラリーマン 戦前日本の「平和」な生活』によれば、昭和6年頃のアンケート調査だと、サラリーマンはそこそこ恵まれていると感じ、恵まれないブルーワーカーは、満洲事変以後の大陸に自分たちの将来を見つけたように感じていたらしい。


5月11日

 辻村深月『水底フェスタ』(文藝春秋、2011年)を読む。廃れていく山村であった睦ッ代村。リゾート開発にも結局は失敗したものの、最後の賭として行ったロックフェスの誘致に成功して、村は再び息を吹き返して10年がった。そのロックフェスをファンとして楽しみ続けていた湧谷広海は、村長を務める父親の飛雄がロックファンであることを誇りに思っていた。そのロックフェスにて広海は、村と母親を捨てて東京でモデルとなり映画にも出演したことのある由貴美と出会う。偶然にも2人きりになった由貴美に魅かれていった広海は、彼女と交わり、帰郷の真意を聞かされる。それは、自分の母親を死へと追いやった村を破壊すべく、村長選挙で代々行われてきた不正を暴くことだった。自分の父親を疑いきれなかった広海は、いつも穏やかな父親が、自分の嫌っていた村にどっぷりとつかっていた姿を知っていくことになる…。
 後半に入ると、人々の思惑や隠された事実が二転三転し続けてクライマックスへノンストップで突き進んでいくのが、前半部分はその準備段階のような感じでじっくりと睦ッ代村を描いている。ただし、広告文にあるような「辻村深月が描く一生に一度の恋」という恋愛ものとして読むと、おそらく面白みを感じないだろう。むしろ、小野不由美『屍鬼』・岩井志麻子『ぼっけえ、きょうてえ』・篠田節子『ロズウェルなんか知らない』のように、村社会のいやらしさが中心テーマと言える。ただしそれらの作品よりも、村社会のおぞましさという点ではさらに上を行く気がする。攻撃的な排他主義ではなく、絡め取るようなおぞましい不気味さが、今でもこういうところがあるのかどうかは別として、読んでいるものを不快な気分にさせる。不快さという感情を揺さぶるという意味では、ものすごく良くできた作品だと思う。


5月16日

 北山猛邦『猫柳十一弦の後悔 不可能犯罪定数』(講談社ノベルス、2011年)を読む。日本で唯一、探偵助手に関する技能と実戦を学べる、大東亜帝国大学・探偵助手学部に属するクンクンこと君橋君人とマモルこと月々守は、知名度ゼロの「猫柳十一弦ゼミ」に属することになってしまった。猫柳は少女のような風貌の頼りなさそうな女性だった。とにもかくにもゼミは始まったのだが、名門・雪ノ下樹ゼミと合同研修へ向かうことになる。その合宿先の孤島にて、2人の女性が、1人は棺桶で蛍光塗料を浴びて杭に突き刺されて、もう1人は地下室の小さな箱に詰め込まれて、それぞれ絶命していた。しかも、この後も殺人が続きそうになるのだが、猫柳はこれに立ち向かっていく…。
 ミステリとしても十分に及第点であるのは間違いない(殺人の原因には、探偵学部という特殊な設定が絡んでくるので、ラストまで分からないのだが)。それよりも興味を引かれたのは、猫柳が無名である理由が明かされたラストだったりする。浅羽通明『大学講義 野望としての教養』(時事通信社、2000年)で述べられているように、探偵は事件を未然に防ぐ役割があるのに、推理小説の探偵は犯罪が起こってから謎を解き明かす場合が珍しくない。その筆頭であるのが金田一耕助なのだが、本書は探偵の本来の役割を意識している点が面白い。ただし、事件を未然に防いでいるがゆえにその経緯は知られることがなく、そうした探偵が無名であって評価されていない、というのもまた皮肉なのだが。
 ちなみに、表紙の女性が猫柳だと思うのだが、作中のイメージと違う明るい美女に描かれているのは、ちょっと変えた方がいいと思う。


5月21日

 下田淳『ヨーロッパ文明の正体 何が資本主義を駆動させたか』(筑摩選書、2013年)を読む。なぜヨーロッパが資本主義システムを駆動させることができたのかを、歴史的な論点から探ろうとする。著者が重視しているのは「棲み分け」である。元々は今西錦司が生物学にて用いた言葉として有名だが、これをヨーロッパ文明に援用して、さらに性格を2つに分類する。
 まず第1に、自生的・生態学的棲み分けである。これはいわゆる棲み分けに近く、富や権力に応じた棲み分けである。この棲み分けはどこでも見られることだが、ヨーロッパでは中国の皇帝のように一極に集中することなく、分散して競合する傾向が強かった。実際に中世には、封建制度のもとで諸侯や聖職者、自治都市などへ権力が分散していた。なお、ヨーロッパは比較的に平野部が均等に広がっていて、人口がある程度均等に散在できる可能性があった点も重要である。こうした権力の分散状態は、内部における戦争の激化へと至る。非ヨーロッパ圏では、帝国内部のもとで外部からの敵に対して以外は安定するが、ヨーロッパでは近世に至っても内部の争いが収まることなく、そのために火薬が発達したと言える。
 第2の棲み分けは、能動的棲み分けである。第1の棲み分けとはやや異なり、時間や空間など積極的に分類していく性質である。これをヨーロッパ文明に特有なものと見なす。
 たとえば時間に関して言えば、そもそもヨーロッパ最初の機械時計は1300年頃につくられ、修道院で初めて使用されてから、徐々に都市でも利用されていくようになる。ほぼ各都市に公共時計として普及したのは16世紀だが、これはタイムスケジュールに基づく富の獲得のチャンスが、万人に開かれていた状況を示す。これに対して非ヨーロッパ圏では時を知りたいのは一部の階層のみだった。19世紀のグリニッジ標準時の公式採用以後には、これが徹底した結果として時間給制度が普及した。宗教的に見ても、16世紀以後のキリスト教は聖なる空間から俗的世界の事物を排除する棲み分けが進んでいる。中世の教会は、集会・商取引・医療行為・裁判などが行われていたが、それらの機能は農村では居酒屋への吸収を経て、都市ではそれを経ずに近世以後には各業種へと棲み分けがなされていく。ただし、他の宗教が自分たち以外の宗教と共存していたのに、キリスト教は聖なる空間を地球規模で均一化しようとした。これも能動的棲み分けの過程と見なしうる。なお、分類の過程で生じた不純物は排除される結果となるが、その代表例はユダヤ人であった。
 こうした棲み分けが行われていたヨーロッパは、近世まではイスラームや中国文明圏に比べて辺境の遅れた文明にすぎず、それらの文明を模倣していたにすぎない。だが近世以後にはヨーロッパで文明が独自に発達していく。これは、職人の地位の上昇が大きい。ではなぜ職人の地位が上がったのかと言えば、棲み分けが行われていたがゆえに競争が激しくなっていき、結果として技術革新が重視されるようになったためである。これが非ヨーロッパ圏であれば、新たな技術の発展は、独占的な権力を危うくする可能性がある。実際に、オスマン帝国では危険思想を流布する可能性があるという理由で印刷所が閉鎖され、中国でも明の時代には造船所が閉鎖されている。さらに言えば、ヨーロッパでは分散傾向にあるがゆえに大規模な労働力を利用できなかったため、機械の改良を試みる必要もあった。
 技術の理論化は、数量化と数値化にもつながる。上記の通り、ヨーロッパでは万人に富の獲得のチャンスが生まれつつあったが、富における数値化とも言える貨幣経済が、富の棲み分けの結果として農村部にまで浸透するのが、ヨーロッパの特徴でもあった。中世末期以後には農村に貨幣で取引を行う居酒屋が登場したのは、その現れと言える。非ヨーロッパ圏では、周辺地域では貨幣の使用があまり浸透しなかったのとは対照的である。この貨幣関係が、封建制や身分制の規制の撤廃と産業革命の勃発によって、資本主義制へと移行していく。ちなみに、日本もヨーロッパと同じような分散的な棲み分けがなされていたと見なす。
 歴史的な事実に基づきつつもかなり大きな文明論となっているので、細かい部分では異論も出るとは思うのだが、少なくとも論理的に大きな破綻はないように思える。思想史的な観点から考察した関曠野『プラトンと資本主義』(北斗出版、1982年)ほどの面白さはないが、読みやすさと学術的な文献の遡りやすさという点では、本書の方が分があるように思える。
 ところで、こうしたヨーロッパ社会を理系型資本主義と見なしているが、その問題点が現在は顕在化しているとして、日本は経済大国から降りて、柔軟な思考で社会が運営されるような福祉国家の道を模索すべきとしている。「理系バカ」から文系的思考の小規模国家・福祉国家へと移行すべきとしている(268頁)。かつて浅羽通明『天皇・反戦・日本 浅羽通明同時代論集治国平天下篇』>を読んだ際に書いたように、今後に日本はかつてのような高度成長の時代が来ることはないと感じている。だが、高橋洋一『日本経済のウソ』を読んだ際に、「上に引っ張っていこうとする力がなければ、そうしたスケールダウンを緩やかに行うことすらできずに、急降下して崩壊してしまう」気がすると少し考えを変えた。文系的思考の小規模国家が実現できるとしても、それは理系に分類されてしまうであろう技術者の力が必要不可欠であろう。文系の知識人がそうした技術者たちの上に立ち指導をするというのは、かつてのマルクス主義のような失敗を繰り返すだけではないのか。何度か書いたが(より最近だと、メアリアン=ウルフ『プルーストとイカ 読書は脳をどのように変えるのか?』の項にて書いた)、優れた研究者が現実に対する優れた提言者となるのは、やはりなかなか難しいのだろうか。そして、これも何度も繰り返すのだが、「アトランティス伝説が孕むアカデミズムの袋小路」で述べたように、なぜ文系の研究者は、自分も現場にいるのだということを無視して、自身を高みに置こうとするのだろうか。
 以下、メモ的に。ノルベルト・エリアス『文明化の過程』(法政大学出版局、1972年(原著は1939年))によれば、文明という言葉は1750年代に初めてフランスで使われて、それがヨーロッパ各国へ広まった。その当時、「文明」は「野蛮」や「未開」に対する対概念として使用されていた。なお、タミム・アンサーリー『イスラームから見た「世界史」』(紀伊國屋書店、2011年(原著は2009年)、未読)によれば、中世のアラビア人にとってビザンツとイベリア半島の間は豚の肉を食べる未開人がすむ領域だったそうである(11頁)。
 ジャック・アタリ『時間の歴史』(原書房、1986年、未読)によれば、中世ヨーロッパの農村部では一週間の概念はなかったようである。曜日名は教会へ行く日曜日以外には用いられず、人々に認識されたのは日曜を含めた祝祭日と平日の二種類であった(27頁)。
 角山栄『時計の社会史』(中公新書、1984年)によれば、1563年イギリスの徒弟法では労働者の就業時間は朝5時から夜7〜8時までの間と定められていあた。その上で朝食、夕食、飲酒の時間は2時間半を超えてはならず、怠惰1時間につき1ペンスが賃金から差し引かれた。ただし、時間給制度が徹底されるのは、19世紀末のことである。
 非ヨーロッパ圏では正確な楽譜は現れなかった。やがて音楽の学問化と共に五線と七音階が用いられていくが、真木悠介『時間の比較社会学』(岩波書店、1981年、未読)によれば、音の長さを表す定量音符は15世紀から17世紀にかけて徐々に整備された。これは時計の発達と時をほぼ同じくしているそうである(58頁)。
 気候決定論は、古くはギリシア人医師ヒポクラテスに始まる。彼は、アジア(当時は小アジアを含めそこより東)には極端な暑さ・寒さがない温暖な気候ゆえに従属的な精神になりやすく、専制国家が生まれやすいとした。モンテスキューは『法の精神』のなかで、寒さは人間を勤勉で労苦に耐えさせて、文明を進歩させるとした。なお著者は、気候決定論はどのようにも理由付けできる理論にすぎないとしている(75〜77頁)。ちなみにモンテスキューは、アジアは広大で肥沃な平野を持っているから大帝国が築かれ、人々はその最強者に屈服して自由な精神が生まれない、とも述べている。しかし実際には中国やインドは山地が多く、アラビア半島は砂漠が多い(105〜106頁)。


5月26日

 初野晴『初恋ソムリエ』(角川書店、2009年(リンクは文庫版))を読む。『退出ゲーム』の続編。吹奏楽の「甲子園」普門館への出場を目指す部活動をめぐる日常の謎系の短編集。普通の公立高校に個々まで個々の突出した才能を持つ生徒が集まるのかな、という気はするが、前巻を楽しめたのであれば、安定して面白いと感じるだろう。ただ、最後の話の戦後の内ゲバの延長線上にあると思しき設定は、さすがに説明不足ではないかという気はする。恋愛をにおいと結びつけるという設定そのものは面白いが(作中にも触れられているように、前巻でも同じような設定は出てきているが)。なお、前巻を読んだ時には思い出さなかったのだが、臭いを言語化する小説として、井上夢人『オルファクトグラム』を読んだことがあるが、臭いそのものを言語化するのは難しくても、臭いを色と結びつけることでの言語化は可能なのかもしれない。嗅覚を示す言語には多様性がなくても、視覚と結びついた時には言語化できるといことだろうか。


5月31日

 海堂尊『アリアドネの弾丸』(宝島社文庫、2012年(原著は2010年))上を読む。シリーズ第5弾(前巻はココ)。不定愁訴外来の田口公平は、高階病院長によってエーアイセンターのセンター長に任命されてしまう。それと同時に、MRIの新型機種の導入を進んでいたのだが、その技師が突然死を遂げてしまう。さらに、警察からの横槍が入り不穏な空気が広がるなか、今度は警察関係者が射殺されるという事件が起こる。しかも駆けつけた田口や警視の宇佐見が見たのは、拳銃を握ったまま倒れていた高階であった。銃弾の種類と手の硝煙反応から容疑者として連行された高階の無実を晴らすための時間は72時間しかない。いつもの田口と厚生労働省の白鳥のコンビが、このトリックを暴きにかかる…。
 前回はMRIの導入のメリットをめぐる会議ものといった感じが強かったと思うが、今回はその流れを受け継ぎつつ、後半はミステリとなっている。その部分では今までの登場人物が色々と出てきて、総力戦のような感じになっている。ただし、個人的には、どうもミステリというよりは学術論文的な理論の構築のように思えてしまい、エンタテインメント的な面白さを感じにくかったのだが。理論の構築にしても、データを積み重ねる実証主義のような気もして、すーっと流れていってしまった。以前、瀬名秀明『パラサイト・イヴ』を読んだとき、専門的な説明はつっかえてしまうところがあるものの、そこを端折ると薄っぺらくなってしまうので匙加減が微妙で、短編であろうと長編であろうと、一回完結の物語で専門的なテーマを扱う上での難しい、といった感想を書いたことがあるが、これにもそれが当てはまるかもしれない(『パラサイト・イヴ』ほどは説明くさくなく、登場人物に絡める形で説明は行われているのだが)。


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