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2011年10月の見聞録



10月9日

 土橋真二郎『生贄のジレンマ』(メディアワークス文庫、2010年)上を読む。卒業式1週間前に、登校させられた3年生たちは、腕時計のようなものを全員装着させられる。そしてなぜか校庭には、巨大な穴が掘られていた。そうしたなか、教室に設置された電子黒板に、突如として3時間後に全員死ぬとのメッセージが現れた。ただし、穴のなかに身を投げる生贄が出るか、クラスのなかから投票で生贄を捧げれば、死に至る時間を延長できるとも伝えられる。半信半疑のなか、時間が来ると、誰にも投票しなかったクラスは、全員が死亡した。こうして始まった、自分が生き残るためには他人生贄を捧げなければならないというサバイバルゲームは、裏切りや騙し合いの殺戮の連鎖を生んでいく。
 生徒同士の殺戮ゲームという点で、高見広春『バトル・ロワイヤル』を思い起こさせる。ただし、あちらでは登場人物が1クラス分であるだけ、各生徒の描写はくわし目立ったのだが、こちらは1学年全体が対象となっているので、主要な登場人物以外は惨劇の舞台を盛り上げるための、記号的な生け贄といった感が強い(ただし、主要な登場人物も、放浪癖のある篠原純一、風紀員だが生徒の自主性を重んじるために校則を変えてきた鈴木理香、2人のクラスメイトで常に理知的に振る舞う紺野レイ、レイの親友の斉藤優美、純一の中学からの親友の氷山や放送部員の水島涼子など、同じく40人近くになるとは思うのだが)。また。もちろん両作品とも追い詰められた者たちの心理描写を描き出そうとはしているのだが、あちらが冒険活劇にシフトを置いているとしたら、こちらは理詰めの推理が前面に出ていると言ったところか(そういった意味では、福本伸行『カイジ』に近いともいえる)。
 とはいえ、理詰めのゲームのなかでむき出しになる心理状態は、かなり迫ってくるものがある。そしてなによりも、全体として、きちんと構成がとれているのがいい。単なる伏線としてわざとらしく語られるのではなく、ゲームのなかで起きるべくして起きたような出来事が、あとで意味を持ってくる場面が結構多い。たとえば、最終章のタイトルは「天使と悪魔」だが、このゲームにおける生贄と勝利者との重ね合わせが、ここにおいて本当の意味で分かるようになっている。特に良かったのは、劇中で結ばれた2人が、孤独なセカンドステージで相手がさしのべたコミュニケーションを受け入れていって、つながりを確認する場面(しつこいようだが、これは『カイジ』の鉄骨渡りの第2ステージを思い起こさせる)。というわけで、理詰めのゲームを楽しみつつ、きちんとしたエンタテインメントになっているという点で、おすすめできる。
 ただし、面白さという意味でなくて、あくまでも個人的な好みで言うと、『バトル・ロワイヤル』だったりする。好みというよりもメッセージ性と言うべきか。というのは、両者には決定的な点で違いがあるからだ。それは、自分たちに極悪なゲームを押しつけた存在に対して能動的か受動的か、という点。『バトル・ロワイヤル』は、最終的にルールを押しつけた存在そのものを乗り越えていった。しかし本作では、結局のところ裁定者はよく分からず、生き残った者も結局はそのルールのもとで動かざるを得ないような感じで終わる。ある人物の終盤の台詞を借りれば、「与えられた情報だけを利用する癖がついている。それは長所でもあり、あなたの弱点でもある」(下巻・263頁)というのは、本作の状況そのものを指しているように感じてしまった。本作品の方が、絶望的にゲームマスターに逆らえないような設定になっているので、仕方がないともいえる。それでもやはり、安易かもしれないのだが、『バトル・ロワイヤル』の方にいまの自分を乗り越えるという希望を重ね合わせられる気がするのだ。


10月19日

 久繁哲之介『地域再生の罠 なぜ市民と地方は豊かになれないのか?』(ちくま新書、2010年)を読む。地域再生の試みが色々と行われているが、専門家の認めている成功事例のほとんどが実は成功していないことを、宇都宮市、松江市、長野市、福島市、岐阜市、富山市などの事例を挙げつつ説明する。
 まず、いずれの場合においても言えるのは、専門家にしたがって成功例(に見えるもの)を単に模倣しても、確実に失敗するという事実である。大事なのは地元民と消費者の目線に立つことなのに、そのためのアンケートもコンサルタントに丸投げしてしまい、事前に定められた結果へ誘導するようなものにしかならない。わかりやすい例として、大型商業施設の招致が挙げられる。相次いで4つの百貨店が閉店した宇都宮市では、109を誘致したものの、全くふるわずに撤退する結果となってしまった。著者が実際に宇都宮109へ赴いて女性客の会話を聞くと、店員に知識がない、なぜ109に百均ショップが入っているのか、109の前に八百屋があることへの違和感などが聞こえてきたという。こうした失敗例に目を向けず、成功例ばかりがもてはやされてしまっている。
 映画『ALWAYS三丁目の夕日』の成功以後、町の顔である商店街を復興させようという試みが増えたものの、成功例は少ない。松江市の天神橋商店街は、成功事例としてあげられることが多い。しかし、やはり著者が実際に歩くと、シャッターは閉まっていて閑散としていた。実際には月に1度のイベント時だけ賑わっているにすぎない。これを成功例として模倣しても、失敗するに決まっている。ちなみに、島根県庁の職員は否定的に見ているが、松江市の職員は成功と見なしているが、前者は一般人の目線、後者が支援者・提供者の目線と見ればわかりやすい。そして、商店街の側に何とかして儲けたいという考えが透けて見えると、何度も訪れる気持ちをそいでしまう。閑散とした商店街での起業者を招くために、曜日ごとに出店できるようにしてリスクの軽減を提案しても、管理が大変だ、週6日は開店しないと困る、と管理者の目線でダメだしされるという。
 スローフードによる地域活性化というのも目立つが、やはり成功例は少ない。スローフード化はブランド化へとつながるのだが、それによって敷居と価格が共に高くなり、地域の人々の利用が減ってしまう結果となる場合が多い。また成功例として挙げられる長野市のぱてぃお大門も、単に飲食施設を眺める人だけが多く、来店者が多いのはイベント時だけであった。
 こうした失敗例は、若者が地元の飲食店を愛用しない、という年長者の嘆きと重なる部分がある。若者は地元の居酒屋で飲まず全国チェーンの店で酒を飲み、郊外の大型施設へ遊びに行くので地元の商店街は衰退してしまった、という意見が地方では聞かれる。だが、若者からすれば、そもそも郷土料理は家でもおいしいものが食べられるのであり、何よりも重要なのは、あまり金がかからずに仲間とまったりとくつろげる空間があることである。ここにも、顧客の視点の欠如が見受けられる。
 これに対して著者は、個々で私益を出そうとするのではなく、全体で公益を出すにはどうすればいいのかを重視すべきと強く訴える。そのために必要なのはは、ただ利益を出すだけではなく、客と一緒に自分たちも楽しむという態度である。たとえば、先の松江市の場合でも、活用できる資源がある。松江市には、バリスタチャンピオンシップの世界大会でも準優勝したことのある人物が住んでいる。それに引きつけられるかのように、島根県と鳥取県には個人経営の喫茶店がたくさんある。実際に、島根・鳥取の両県にはスターバックスが出店できていない(件のバリスタは、彼がいると島根に進出できないから東京で店を出さないか、とスターバックスの担当者に言われたという)。こうした喫茶店を市内の川縁へ誘致して、水の都とカフェの町として町作りを行えば、客を楽しませることにつながるのではないか、というわけである。これこそが本当の意味のスローフード化であり、地元民のコミュニティの場として愛用されていくなかで、評判を観光客へと広げるべきであるとする。そのために、子供や若者が立ち寄れる安いスローフードやB級グルメを提供することで、若いうちから郷土愛をもってもらうようにすることも大事である。たとえば久留米では、焼き鳥屋を親子の交流の場として位置づけ、ファミレスのようにも利用できるようにしている。その結果、全国チェーンは撤退し続けているという。そして、たとえ利益が出なくても、憩いの場所となるような居場所を作ることに支援を集中させるべきとする。
 個人的に、そもそも地方の衰退は、地縁社会が薄れていくなかで必然的に起こらざるを得ないのではないか、と思っていた。地縁社会のしがらみの煩わしさが、コンビニに代表されるチェーン店では感じずにすむというのも、都市化が生じていけば当然ではないか、と。しかし、都市化の象徴でもあるニュータウンなどでも高齢化問題が起きているという事実は、やはりどのようにして活気を取り戻すのかに、都市でも取り組まざるを得ない状況を示している。しかしながら、都市が田舎のような地縁のしがらみを復活させることはできない。地方都市の衰退はこうしたジレンマに挟まれているためだろう。ふるさと祭りのようなイベントも、上手くいっているようには思えない。しかし本書は、単なるしがらみだけの地縁社会ではない地域社会を再生するための道筋を提示しているように思える。結局のところは人が大事なのだな、どいうありきたりの感想になってしまうのだが、ありきたりだからこそ考えねばならないのだろう。
 なお本書では、土木工学の専門家の説が繰り返し批判されている。何か恨みでもあるのかと邪推してしまうほどだが、何とかして活気のある都市を造りたいという著者の熱意が、机上の空論を唱えてしかも成功したかのように喧伝する人たちへの苛立ちと腹立ちを生んでいるのだろう。
 以下メモ的に。フィットネスクラブに通う女性にとって、男性の視線が不快に感じる場合がある。そこで女性専用フィットネスクラブの需要が伸びている。会話しながらトレーニングをできるようになっており、しかもプールや球技施設などを伴わないために、会費を低く抑えることができるため、会員数が伸びているという。さらに、商店街に設置されると、会員同士の交流が生まれるだけではなく、トレーニング後に商店街で買い物する女性客が増えるという副産物も生まれるという(109〜111頁)。
 著者の妻の実家はJR広島駅前の「甘党たむら」というお店だった(現在は閉店)。ここでは二重焼きが1つ70円で売られていた。2つ頼めば日本茶付きで店内で休憩できる。著者はマーケティングに基づき3倍の値段にすべきと提案したという。しかし、店主である義母は「顧客が居心地よくて幸せを感じている。幸せを感じているから、後に何度も来てくれるし知人も連れてきてくれる」と反論して値上げを拒否したという。著者はこの出来事によって、成功よりも交流を大事にすべきという考え方に気づいたそうである(194〜204頁)。


10月29日

 西澤保彦『聯愁殺』(中公文庫、2010年(原著は2002年))を読む。自宅に帰ったところ、突如として誰かに襲われた梢絵は、抵抗を試みてからくも殺されるのを免れた。その犯人が落とした高校の生徒手帳には、殺人計画が記されており、実際に彼らは殺された。犯人の名前はその生徒手帳から判明したものの行方は判明せず、梢絵は自分がなぜ襲われたのかが分からないまま苦しんでいた。そうしたなか、担当刑事が案内したのは、著名な学者や作家からなる恋謎会であり、そこで事件の真相を巡る推理が繰り広げられる…。
 推理合戦の部分がメインなのだが、結局のところなぜ襲われたのかという真相は分からずに終わる、と見せかけて、最後に違った意味での真相が暴かれる、というどんでん返しは著者のお得意のパターンとも言える。推理合戦ではある一点が明示されないのだが、それがものすごく重要な意味を持つのだが、叙述トリックというほどには大げさなものではない。ちっぽけな自分が何かで認められたいという思いで紡ぎ出した嘘が、すべての始まりだったと感じさせるのは、有り体に言えば個性を重視しすぎる現代社会の問題点をイメージしているのかもしれない(陳腐な言い方だが)。その末路が大量殺人というのも、空恐ろしさを感じさせるのだが。


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