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2011年11月の見聞録



11月8日

 加藤隆『歴史の中の『新約聖書』』(ちくま新書、2010年)を読む。『『新約聖書』の誕生』と同じようなテーマだが、こちらでは一神教の誕生までをも視野に入れている点と、各福音書の状況をやや詳しめに書いている点が特徴か。
 キリスト教はユダヤ教から始まった宗教だが、一神教という共通点を持ちつつも、相違点がある。まず、ユダヤ教は民俗宗教であり、イスラエルまたはユダヤの民だけが救われ、それ以外の者たちは救われないという立場をとる。その一方で、人間は罪を背負っているので、神に救われていない状態にあると認識されている。これに対してキリスト教は、神はユダヤ教徒以外も救うものの、イエスをはじめとする一部の人しか救わないという立場をとる。
 そもそもユダヤ人は、前13世紀にエジプトを脱出した非エジプト人たちが、神の導きによって成功したと考えて、その神をヤーヴェと崇めてまとまったことに始まったとされている。やがて王国が作られて南北に分裂したのだが、ヤーヴェ以外の御利益をもたらす別の神々も信仰されるようになってしまう。そうしたなかで北王国が滅ぼされてしまうのだが、このままではヤーヴェが無力だからということになってしまう。そこで信仰を守るために、民が罪の状態にあるからこのような悲劇を招いたと見なすことで、神の立場を守ることにした。罪の状態にあるときは、神々に何かを要求することはできないし、もはや関係は絶たれている。しかし、ヤーヴェはかつて自分たちを救ってくれたことがあるので、罪神は動いてくれなくても、関係はまだ残っているとする。いわば、人間が神々を選ぶのではなく、たった1つのヤーヴェという神としか正式な関係にはないと言うことから一神教が誕生することになる。
 やがて前5〜4世紀ごろから前1世紀までにかけて、いわゆる『旧約聖書』が編纂された。こうしたなかで、3つの派閥ができる。まず神殿の祭司であるサドカイ派である。神殿には税金が集まるので経済的に豊かだが、祭司の子でなければ祭司になれなかった。そして、律法学者を中心とするファリサイ派である。彼らはシナゴーグで行われる集会で、一尾に律法を守らせるための指導を行った。もう1つは修行者を中心としたエッセネ派である。エッセネ派は厳しい修行によって神が救ってくれると考えた。しかし結局は神は動かず、救ってもらえなかった。
 だが、イエスはこの救われない状況を変えていく。神はイエスを神の子と認めたのだが、これは動かなかった神が動くようになったと見なされる。さらに、イエスが神と結びついているのであれば、神殿も律法も不要ということになる。イエスの処刑後、彼の教えに賛同する者たちが集団を形成し始めた。この頃まで、この集団はあくまでもユダヤ教の一分派にすぎなかったのだが、ユダヤ人がローマに反乱を起こしたユダヤ戦争(66〜70年)でエルサレムが陥落したころに状況が変わる。この集団はエルサレム教会と称されているが、これに対してヘレニストという派閥が台頭し始める。ヘレニストとは、ギリシア語圏出身でエルサレム教会に属した者たちである。イエスは何も書き残さなかったのだが、エルサレム教会も新たな律法を作ろうとはしなかった。また、イエスの物語も口頭での伝承を行っていた。これによってイエスに直接教わった弟子であるという権威を守ろうとしたのであろう。ヘレニストはこれに対して批判的だったが、直接の弟子たちが亡くなり、書き残すことへの規制が弱まったなかで、50〜60年代に最初の福音書である「マルコ福音書」が書かれた。ヘレニストが書いたために、ギリシア語であり、また当時の状況を反映して弟子に対して批判的である。ただし、イエスを権威あるものとしたかったのではなく、悪魔でも神との直接のつながりを求めるなかで、最初に神が到来したイエスが重要視されて、彼の姿が物語として描かれたのである。
 ユダヤ戦争後の80年代には「マタイ福音書」と「ルカ文書」が執筆される。「マタイ福音書」はイエス以外の人間は、神に認められたイエスの掟を守っていればよいという立場であり、「マルコ福音書」とは異なる立場にある。となると、「マタイ福音書」の掟は絶対に守るべきものなかという問題が生じる。このあたりは、『新約聖書』が実は曖昧な存在であることも物語っている。なお、続き物として記された「ルカ福音書」と「使徒行伝」を併せた「ルカ文書」は、指導者による他者の支配を描いている点が特徴と言える。
 これら3つとはかなり違うのが「ヨハネ福音書」である。この書では、明確にイエス中心主義の立場がとられている。従ってイエスが特別な存在であり、彼と結びつくことが救われる道であるという点が強調される。
 ただし、これらを持って『新約聖書』が成立したわけではない。キリスト教の内部でも派閥が生まれていくのだが、そのなかのマルキオン派は、派閥をまとめるために、自分たちの間で聖典をまとめていた。主流派はマルキオン派を批判していくのだが、そのなかで聖典の重要さを認識していく(このあたりは『『新約聖書』の誕生』ともかぶってくるので、省略する)。
 『新約聖書』の成立について、ユダヤ教の誕生からの流れを踏めていくように説明があるので、包み込むような理解がでいる。聖書そのものの文言のおかしさを見て取るには、ケン・スミス『誰も教えてくれない聖書の読み方』がよいと思うが。また、4つの福音書は性格が違うことについても、歴史的な流れと共に説明されていて分かりやすい。
 ただし、これだけを読んで手っ取り早く理解できた、と考えるべきではないだろう。著者が挙げているエピソードがそれを物語る。京都のとある大学の教員である神学者から、フランスの新約聖書の専門家で有名な人は誰か、と質問を受けたという。これは、専門家の名前を知っているという知識だけがほしいわけだ。『新約聖書』も、それを知っているという権威として偉そうに見せたい機能がある。そして、聖書に関する様々な文献からの引用を行うことによる権威化もよく見られる。本書は意図的にこれをやめているようで、無理のない態度で新約聖書に接すればよい、としている。個人的には、さらに知りたいときのために参考文献一覧は付けてほしい気もするが、それでも著者の態度は間違っていないように感じる。思えば、学問の権威化はキリスト教と密接に結びついているのかもしれない。中国を中心とする東アジア文化圏でも同じような権威化がある気がするので、そう簡単に決めつけられはしないのだけれど。


11月18日

 鯨統一郎『悪魔のカタルシス』(幻冬舎文庫、2002年)を読む。読書好きのサラリーマン・牧本は、突如として悪魔に出会う。そして各地で起こる悪魔による事件。何とか悪魔の企てを阻止しようとして、牧本は奔走するのだが、自分の周りの人間が実は悪魔と関係している事実が次々と発覚していき…。
 いわゆる陰謀史観に対するパロディのようなものか。最後のオチはひねりを加えようとした際に用いられるオーソドックスなものではないかと。面白くないというわけではないのだが、特に感じるところはなかったなあ。


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