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2012年8月の見聞録



8月4日

 牧野修『大正二十九年の乙女たち』(メディアワークス文庫、2011年)を読む。戦争の暗雲が漂いつつある大正「二十九年」という架空の時代を舞台に、芸術学校でありながら花嫁学校としての役割を果たしていた逢坂女子美術専門学校に通う、4人の女学生を主人公にした物語。主人公は、才能があり真剣に画家を目指す池田千種。式道という武道にて、秘伝を学ぶほどの実力者である星野逸子。やがて全身が硬直する死の病に冒されつつも、美術への思いが強い犬飼華羊。ごく平凡な役人の娘であるが、優しき少女である緒方陽子。本書は4つの章から構成されているが、各章にて、それぞれ4人が中心人物となっている。
 著者の作品はそれほど読んだことがなく、以前読んだことがあるのは『スイート・リトル・ベイビー』『だからドロシー帰っておいで』などだけだが、これらはホラー作品である。本書も、芸術を表現した猟奇的な連続殺人が流れの1つなので、その意味ではホラー作品とは言える。しかし、その謎的なものはわりとあっさりと明らかになるので、それ自体は主題とは言えない。むしろ本作は、背表紙の宣伝文や著者のコメントにある通り、青春小説である。
 確かに、被害者を芸術作品のように飾り立てる猟奇的な殺人があり、戦争によって圧迫される雰囲気が強くなっていくなど、これだけを聞けば非常に暗い小説のように思える。さらにいえば、第1章は後味が悪い。美術に男性も女性もないと考えていた千種は、尊敬していた美人女性画家の最近の作品が、結婚してから精彩を欠いた綺麗な絵になっていることが気になっていた。しかし千種は、彼女が結婚についてののろけを語り、かつての彼女が描いているような、そしていまの千種が描いているような人を不安にさせるような絵を描くのは、不幸な人であり、幸せな人はそんなものを求めない、と語るのを聞いてしまう。それを必死に否定して泣き続けた千種は、そこに大人と子供の大きな隔たりを感じて、「いつもの冷静な少女」に戻る、というところで終わる。第1章では、ホラー的な展開への予告めいた部分がちらりと見えるだけだが、後味の悪さがホラー的な面と重なり合う。
 ちなみに、芸術が果たして道徳的であるべきなのか否か、という問題は第3章でも語られる。マティアス・グリューネバヴァルト『イーゼンハイム祭壇画』(リンクはwikipedia)に描かれたイエスを、死体を用いて再現したものを見つけた華羊は、理性では犯罪行為を否定しつつも、倫理的な是非や生理的な嫌悪を超えて魅了される芸術の力を感じる、という2つの相反する思いに悩んでいる。このあたりだけに注目すると、本書はホラー小説である。
 しかし、最後まで読めば明らかにこれは青春小説と分かる。第2章で、逸子が卑劣な男どもを叩きのめすあたりも、女性を主人公にした青春小説っぽいのだが、何よりも第4章がその印象を強くする。第4章の主人公である陽子は、富裕な家に生まれた他の学生と違い、役人の家に生まれた普通の家の子供である。そして、彼女自身が自分を凡庸だと考えていて、あまりいい気がしていない。しかし、その普通である陽子こそが、犯人に脅かされても、共犯者を思いやる。そして、戦争が今にも起こりそうな状況下で、不安を煽るようなものや醜いものを描く芸術は否定されていき、さらには犯罪に関係したために世間が逢坂女子美術専門学校への批判が高まっていくなかでも、4人で開く展覧会をまっすぐに訴えたのは陽子だった。さらに、警官の詰問にもたじろがず、兵役に就く覚悟さえ凛と見せつけるのである(ちなみに、このあたりは、女性の権利だけを声高に訴えるようなフェミニストへの皮肉も入っているような気がする)。そのため、本書の読後感は爽やかである。普通の少女である陽子が、最後の章である第4章の主人公として、物語を締めるような展開になっているのは、著者がこの作品を青春小説として書こうとしたことを示していると言えよう。その意味で本作は、ビルドゥングスロマンとも言える。
 というわけで、ホラー的要素があっても大丈夫な青春小説を読みたい人、変化球的なホラー小説を読みたい人にはお勧めできる(何だかストライクゾーンが狭い気もするが)。


8月9日

 原田泰『日本はなぜ貧しい人が多いのか 「意外な事実」の経済学』(新潮選書、2009年)を読む。これも、ポール・クルーグマン『クルーグマン教授の経済入門』と同じく、「山形浩生が選ぶ経済がわかる30冊」で紹介されているのを見て読んでみた。雑誌に連載されたコラムをまとめたものであるため、まとまった内容を紹介しづらいのだが、日本は大丈夫な状況なのか、格差問題、少子化問題、市場開放と世界経済、などが大きなテーマであり、その上で個別テーマに関して、一般的な主張や言説を、統計データから見直していっている。
 とりあえず、何度も繰り返されているのは、就業率の低下をはじめとする現在の問題は、何よりも1990年代の経済停滞が大きかったということだろう。これは、ごく当たり前の結論ではあるのだが、現在の問題は個々人の働き方やライフスタイルに起因するわけではないことになる。となると、マクロな意味での政策や方針が失敗しているということになるのだが、それを踏まえた上で、個々人はどうすべきなのかについて考えなければならない、という当たり前の結論に結局のところ落ち着くような気がして、なんだかもどかしい。
 ところで著者は、子供を生むか否かに関して、愛情について意識的に書かないようにしているとのことである。なぜならば、エコノミストの主張は国家の政策提言に結びつき、結果として国家が個人の問題である愛情に語ることにつながってしまうからだという(126頁)。政策に関わるからこそエコノミストの責任は大きいし、成功した際にはそれに見合う収入と、逆に失敗した場合のペナルティはきちんとしておくべきだとも感じるのだが、それはともかくとして、愛情はそもそも語りにくいのではないのか。なぜならば、愛情は数値で計量された金額にしにくいからである。いっぱい貢げば愛が約束されるとは言えないし、その逆もまたしかりだ。推定値にあまりにもバラツキがあるものを、政策に組み込むことはできないだろう。だからこそ、愛がすべてを超えるすばらしいものであるかのように語られる場合もあるのだと思う。確かこれは、呉智英が「愛は陶酔し、愛は差別し、そして愛は“地球を壊す”テロリズムとなる!」(『天下国家の語り方』(宝島社、1990年)所収)で言っていたように思う。
 以下、印象に残ったものをメモ的に取り上げていくことにする。なお、以下の記述は、あくまでも本書の主張である。他の書でも同じなのだが、本書の場合には特にその点に留意してもらいたいのであえて書いておいた。
 アメリカで100万ドル以上の豪邸は各地方に存在しており、たとえば人口20万人のソルトレイクシティでも、100万ドル以上の住宅は2009年で260戸販売されている。逆に日本では、1億円以上の豪邸の販売は東京に集中している。これはアメリカでは豪邸を買える富裕層が色々な地域に住んでいることを物語っている(18〜20頁)。なお著者は、日本の地方の豪邸は1軒だけで、他の豪邸が立ち並んでおらず、これは競争者がいない事実を示している、との推測を語っている。クルーグマン『格差はつくられた 保守派がアメリカを支配し続けるための呆れた戦略』を読むと、アメリカの貧富の差は拡大し続けているが、浮遊者の分散と富裕層の流動性は生じているのかもしれない。
 ドイツWCにて、日本は予選リーグ4位で敗退したが、決定力不足が理由とされる場合が多い。確かに得点は2点だけだが、失点も7点ある。予選リーグにおける1位から4位までの得点と失点の平均を見ると、1位突破国は6.3点と1.1点、2位突破国は4.0点と2.8点、3位敗退国は2.6点と3.9点、4位敗退国は1.8点と6.9点である。得点も必要だが、失点を防ぐ方がより重要である。さらに著者はこれを日本の産業にたとえ、自動車や電化製品というストライカー産業をどう育てるのかは分からないので、運輸や通信などの、サッカーで言うと守備に当たる産業の効率を高めコストを引き下げてはどうか、という提言を行っている(22〜24頁)。
 若年失業率の上昇について、若者の社会的適応力が落ちたためという論があるが、ここ30年ほどの若年失業率は、全体の失業率とほぼ同じように変動している。そもそも2003年からは下落傾向にあるのだが、このころから適応力が上がったと言う人はいない(48頁)。
 学校での教育の方向性について、戦後の頃ならば先進国に追いつくための詰め込み教育で良かったが、これからは個性や創造性が重要である、とされる場合がある。しかし、企業の側から見れば実際には異なる。「厚生労働省平成13年産業労働事情調査」における企業が求める人材能力(3つまで回答可)のアンケート結果によれば、2位にこそ「発想・企画力」(41.8%)があるものの、1位が「販売・営業力」(54.2%)、3位は「コスト意識・財務センス」(40.1%)である。また、求められる人材能力の確保方法(2つまで回答可)は、1位が「内部社員の能力開発の強化」(60.2%)、2位が「中途採用者の採用で対応」(52.1%)、3位が「社内の配置転換等で対応」(29.7%)であり、ようやく4位に「新規学卒者の採用で対応」が来て、しかも20%弱でしかない(57〜59頁)。
 日本の所得格差は拡大しているといわれているが、総務省統計局「全国消費実態調査」の1979年から2004年の5年ごとの調査結果からすれば、格差を示す数値のジニ係数は30代から60代まではほぼ変わらず、70歳以上ではむしろ縮小している。ただし、30代以下は、そもそもの数値が40歳以上よりも低いとはいえ、2004年に増加している。これは、若者の資質と言うよりも、90年代の日本経済の停滞によって失業者が増えたためという理由が最も大きいと思われる(73〜74頁)。
 日本は総人口が減り続けていくことになるが、国立社会保障・人口問題研究所「日本の将来推計人口」(2006年12月推計)によれば、2055年までは生産年齢人口の方が減る比率が高い。これは1人あたりの豊かさへ、マイナス0.5%の影響を与える。しかしそれ以後には、総人口と生産年齢人口の比率はマイナス1.3%からマイナス1.5%のほぼ同じ数値となる。その際には1人あたりの豊かさへの影響は、2080年まででマイナス0.1%であり2080年から2105年まではプラス0.1%となる(109〜110頁)。そもそも世界的に見ても1950年から2006年にかけては、人口の増加と実質GDPの成長率は相関関係がない(130頁)。なお、高齢化によって国民医療費の増加が大きな負担になるとの見方もあるが、労働生産性の成長率が2%であると仮定すると(これは1990年代の成長率)、医療費の増加はGDPの増加よりも低くなり、医療費がGDPに占める割合は現在の6.5%から、2025年には5.9%へ減少する(142頁)。
 経済成長の問題については、むしろ1人あたりの労働時間の減少の方が急である点に注意を払うべきである。実際に、国民経済計算の産業別就業者数に労働時間を掛けて指数化した全労働投入時間指数は、1991年から2003年にかけて12.5%減少しており、生産年齢人口が1.3%の現象であったのと比べると、明らかに減少の割合が高い(111〜112頁)。
 ただし、これを引き起こしたのは、賃金の高止まりに伴う、労働投入の減少である。1990年代の日本は、円の上昇によって国際的に見た賃金水準が上がった。これによって海外のものを安く買えるようになったが、その結果として失業率が高まってしまった(173頁)。そしれ、デフレが生じたため、賃金の上昇によって利潤が圧縮されて、経済は停滞した。従って最も重要なのはデフレからの脱出ということになる(208〜209頁)。
 なお、労働人口の減少を補うために外国人の単純労働者を入れる必要があるかもしれないが、これに対しては、労働者ではなく労働を輸入する方法でも対処が可能である。つまり、労働生産性が低い産業を、輸入可能ならば輸入に置き換えればよい。たとえば、年ごとに100万円の付加価値を生み出すのに、どれだけの人数が必要かの平均は、内閣府経済社会総合研究所「国民経済計算(確報)」(2007年)によれば、0.114人だが、農林水産業では0.348人、繊維産業では0.305人と高めである。農産物を1兆円輸入することは38.4万人の労働者を輸入することと同じである。食糧自給率が低下するという批判もあるかもしれないが、そもそも石油がなければ肥料や農薬をつくれず、トラクターも動かせない。農産物の自給率だけを問題にすることに意味があるとは言えない(180〜182頁)。
 子供を生むことに関するコストは、育てるためのコストだけではなく、そのためにあきらめねばならない所得も含まれる。日本の28歳の女性が、出産育児のために34歳まで仕事を辞めると、犠牲となる所得は2735万円である。ただし、その後はパートタイムにしか働けいないのが普通なので、となると60歳まで就業が継続できた場合の年功賃金(退職金を含む)との格差は、2億1058万円にもなる(118〜119頁)。
 そもそも日本の社会保障は、高齢層向けがGDP比で9.3%に比べて、若年層向けは0.7%と低い。諸外国と比べると、それぞれ、ドイツは11.7%と2.0%、イギリスが6.1%と2.9%、オランダが5.8%と1.6%であり、その差は目立つ(147〜149頁)。
 中国は、少なくとも貿易においては、日本の競争相手とは言い切れない。なぜならば、工業製品の日本との輸出競合度では中国は日本の貿易相手の中では下位に位置するからである。なお、競合率が高いのは、全く同じだと競合率が1になるとして、0.7を超える韓国、チェコ、ポーランド、0.6を超えるアメリカ、メキシコ、ブラジルである。中国は、フィリピンやインドネシアと同じ0.2前後にすぎない(165〜166頁)。
 19世紀後半は世界的にデフレが続いていたが、金本位制であった当時において、金の保有量が増加しないために、マネーも伸びなかったというのが大きな理由であった。実際に19世紀末に南アフリカとカナダで大規模な金山が開発され、また金の抽出率を高める青化法がさいようされて、金の生産量が飛躍的の伸びると、デフレに終止符が打たれている。なお、すぐにデフレが終わらなかった国もあるのは、長期のデフレゆえに、デフレ収束を人々が認識するまでに、タイムラグがあったためだろう(222〜223頁)。
 日本においては、公務員賃金が民間賃金に比べて格差が大きければ大きいほど、1人あたりの県民所得は下がるという相関関係が見られる。公務員の賃金が高いのは、地方交付税制度によって賃金が維持されているためでもある。この結果として、地方では有能な人材が公務員となり、ビジネスには人が集まらないために、地域の経済発展が遅れるという推測も成り立つ(274頁)。


8月14日

 野崎まど『パーフェクトフレンド』(メディアワークス文庫、2011年)を読む。クラス委員をずっと務め続けてきた小学4年生の理桜は、担任の先生から不登校の少女であるさなかを訪ねるように頼まれる。能天気なお嬢様のやややと引っ込み思案の柊子と一緒にさなかの家へ向かったのだが、彼女はすでに数学の博士号を取得した天才少女だった。面食らった理桜が学校は勉強だけではなく友達の大切さを学ぶところと説明すると、友達の必要性が分からないと、当たり前のように答えるさなか。しかし、友達とは何なのかを知るために、さなかは登校し始める。さなかは、常識からは外れた行動をとりつつ、理桜たちとつきあい始めたものの、しばらくすると友達の方程式を完成させて友達を理解出来たので、もう学校には行かない、と理桜へ宣言した。しかし理桜は彼女に、しみじみとバカと告げると、やがてさなかは学校へ来たのである。寂しいから会いたいという当たり前の感情こそが友達なのだとさなかは気づくのだが、突如として友達である理桜を失ってしまう…。
 桐生祐狩『夏の滴』のように、小学生を一人称で書くと、子供っぽくなく感じてしまうのだが、それが三人称になったとしても、やはり本当の子供の考え方のように書くのは難しいようで、本書もやや大人の言葉で小学生が考えているように感じてしまった。それでも子供の感じる友達の感情を表現しようという努力は窺える。友達の存在は悪魔の証明のごとき非論理的な存在でありながら、それを持つことが無限の可能性をもつ、というテーゼは、竜騎士07『うみねこのなく頃に』を思い出したりもした。とはいえ、さなかに友達の存在を実感してしてもらうための理桜の復活のトリックは、さすがにちょっと強引すぎる気もするが。


8月19日

 ポール・コリアー(甘糟智子訳)『民主主義がアフリカ経済を殺す 最底辺の10億人の国で起きている真実』(日経BP社、2010年)を読む。アフリカでは未だ様々な混乱の続く国が多い。ただし、先進国がより良い政治体制と信じる民主主義こそが、そうした混乱を増幅させているとする。選挙による競争は、不正集計や買収などによって、コスト効果を抑えて集票できた人間に勝利をもたらす結果となっている。選挙が、政府に規律をもたらすことや善良な政策に向かわせることはない。また、1つの国に様々な民族が存在すると、結果として、どこかの民族の代表である人物が政権の座について、自分の民族をひいきにするという事態も生じてしまう。
 ただし、民主主義のみが本書の主題ではなく、本書の原題がWars, guns, and Vote(副題はDemocracy in Dangaraous Places)であることからも分かるように、軍事やクーデターなども本書の主題なので、タイトル通りの内容ばかりだと思っていると、少し肩すかしを食らう(実は私はそうだった)。白戸圭一『日本人のためのアフリカ入門』を読めば、アフリカを未開の最貧地域と見なす愚を避けるべきだというのは分かるが、やはり、まだまだ政治的には不安定な面が強いのだと思わされる。ただしそれを避けるために、安定しているヨーロッパで用いられている民主主義的な政治方法を導入しようとして失敗しているところが、難しいところだ。なお、本書の記述は分かりやすさを重視したためだと思うのだが、統計的なデータがあまり開示されていない(用いられてはいる)。そのあたりをもう少し書いておいてもらいたかった気はする。
 ところで、ふと思ったのだが、民主主義が政治システムの硬化を改善できているのかというと難しい。もちろん平等な権利があることは正しいことだと思うが、政治改革がなしえているのかというと難しい。だからといって寡頭政や君主政にすべきというわけでもない。ただ、かつて浅羽通明『ニセ学生マニュアル死闘編』(徳間書店、1990年)にて記されていた、「彼らのような心身の鍛え方をした人間にとっては、社会主義は偉大な人間たちのアソシアシオンとして躍動させうるのだろう。社会主義はそれを可能とする身体に支えられて初めて、正しく機能するシステムなのである」(153〜154頁)という言葉は、民主主義についても当てはまる気がする。平等な権利と政治的な権利というのは別物なのかな、と。とはいえ、平等を一元化する方向へと向かった近代において、前近代的な政治的権利とそれ以外の権利を分離するのは難しいのだが。何の根拠もないのだが、いわゆる現在の先進国が民主主義的な政治体制で安定しているのは、たまたまなのかなあ、という気がする。


8月24日

 帚木蓬生『アフリカの蹄』講談社文庫、1997年(原著は1992年))を読む。アフリカの某国へ留学した日本人医師の作田は、白人による黒人への蔑視と差別を目の当たりにして、白人たちの制止も聞かずに自ら黒人社会のなかへと飛び込んで、黒人医師を手伝い始める。そうしたなかで、絶滅したはずの天然痘が突如として黒人社会で流行し始める…。
 別に、差別はよいというつもりはないし、本書で描かれている黒人たちの戦いは、悲しいものではありながら感動を生むとは思う。だが、やや図式的で美しすぎるようにも感じてしまった。つまり、白人が差別者で、黒人が被差別者であるというのがあまりにも前面に押し出されすぎている気がする。たとえば白人の都合に関して、ほとんどの場合は差別意識と自己保身が描かれているにすぎない。白人の側の正当性を感じさせるような部分は、ウィルスをばらまいた白人の曾祖父が、黒人の使用人の手引きによって黒人グループに焼き討ちにされたため、黒人に対して憎しみを持っている、という箇所くらいだろう。だから差別をしてもよい、というわけではない。こうした部分が増えないと、深みに欠けるのではないか、というだけだ。
 アメリカにおいても、シェルビー・スティール(李隆訳)『黒い憂鬱 90年代アメリカの新しい人種関係』(五月書房、1994年)が、黒人のアファーマティヴ・アクションを懐疑的に述べたところ、黒人からの批判が強かったはずだ。つまり、黒人といえども一枚岩ではない。これも白人の事情と同じで、黒人のなかのゆがみを描けば、やりきれなさがさらに深まったのではなかろうか。本作のメインは、黒人の勝利への感動なのかもしれないので、こうしたことを求めるのは筋違いかもしれないが、やや気になった。
 なお、自分たちの前で平気で着替える白人を見て、黒人は自分が羞恥心の対象となる人間ではなく、ものと見なされている、というのは、やはり会田雄次『アーロン収容所 西欧ヒューマニズムの限界』(中央公論社、1962年)を思い出してしまった。


8月29日

 高橋洋一『日本経済のウソ』(ちくま新書、2010年)を読む。これも、原田泰『日本はなぜ貧しい人が多いのか』と同じく、「山形浩生が選ぶ経済がわかる30冊」で紹介されているのを見て読んでみた。結論を簡潔に述べてしまえば、中央銀行が金融市場に供給する資金の量を増やす量的緩和を行ってインフレ状態にすることで不況を脱するべきなのに、各国と異なり日本銀行はそれを行わずにデフレが続いているので、日本は不況を脱せない、ということになる。一般的に各国の中央銀行は、手段の独立性は持っていても目標の独立性は持っていないのに、日銀法によって後者も与えられている日銀は、量的緩和規制を行い続けてしまっているという。
 恥ずかしながら私は経済学がよくわからないのだが、著者の主張とは逆の、量的緩和はマクロ経済効果がない、というのが日本では定説らしい。本書を読む限り、量的緩和が正しいように思えるのだが、最後のあたりを読むと、自分の敵対する派閥の問題点のみに内容が集中しているように感じたので、なんだかもったいない気がした(素人考えの単なる直感なので、思いっきり間違っているのかもしれないが)。
 以前、浅羽通明『天皇・反戦・日本 浅羽通明同時代論集治国平天下篇』を読んだ際に、様々な産業がいつまでも成長し続ける時代は終わったのだから、これから必要なのはいかにして生活をスケールダウンするのかを考える必要がある、と書いたことがあるのだが、少し考えを改めた。大半の人はそれに備える必要があると思うのだが、それでも上に引っ張っていこうとする力がなければ、そうしたスケールダウンを緩やかに行うことすらできずに、急降下して崩壊してしまうような気がする。自分にはできないのに無い物ねだりをするのは何なのだが、ノブレスオブリージュを果たせるエリートは、やはり必要なのかな、と。
 ちなみに、一番印象に残ったのは、日銀総裁がテレビに出たとき「ファミレスに行ったら、こんなに買えるのかと驚いた」と、親しみやすい印象を演出してデフレの正しさを訴えようとした、というところ。そもそも物価は下がっているが、給料の下がりの方が大きい場合も多い。実際に民間の平均給与は、2005年度の437万円から、2008年度の430万円へと落ち込んでおり、累計で2.2%減となる。日銀総裁も2009年度には減って3492万円だが、累計で1.6%減であり、民間よりも守られている(45〜47頁)。いかにも庶民のことを知っています、という発言をするエリートがいるが、普通ならば食べられない高くてうまいものを食べていても、きちんとした政策をしてくれた方がよっぽどよい、ということに気づかないエリートが多いのはなぜだろうか。


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