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2012年7月の見聞録



7月10日

 ポール・クルーグマン(山形浩生訳)『クルーグマン教授の経済入門』(ちくま学芸文庫、2009(原著は1997年))を読む。「山形浩生が選ぶ経済がわかる30冊」で紹介されているのを見て読んでみた。
 経済関連の著作は、ギリシア文字式、ジェットコースター式、空港式の3つに分かれる。ギリシア文字式は、くだらなさをごまかすために、または深い洞察を効率よく伝達するために、専門用語で書かれたもの。ジェットコースター式は、最新のニュースや数字ばかりをみるもの。空港式は、大惨事やバラ色の未来を予言するようなもの。学問的な水準を保ちつつ、なおかつ一般読者にも理解出来るものがないので、アメリカ経済を題材にしてそのようなものを書いてみた、というのが本書のコンセプトである。
 まず著者は、国の経済にとって大事な問題は、根本的には生産性、所得分配、失業の3つだけであるとする。貿易赤字やグローバルな金融市場は、国の状態の善し悪しには間接的にしか影響しないと訴える。たとえば、保護貿易のコストは、アメリカだと総収入の0.5%以下にすぎない。また、1995年におけるアメリカのEU向け輸出額は850億ドルだが、これはGDPの2%以下にすぎない。EU経済が10%拡大するとアメリカのEU向け輸出は20%くらい拡大するであろうが、GDPの0.4%にすぎないことになる。金額そのものは少なくないわけだが、圧倒的に大事というわけではない(なお、EU内では比率がぐっと上がり、たとえばフランスでは対アメリカ輸出はGDP比2%だが、対EU諸国だと15%にも上る)。
 生産性を増やすためには、労働者が財やサービスをさらに生産できるようにする、総人口における労働者の割合を増やす、産出の中で将来への投資の部分を現在の消費やサービスへまわす、の3つしかない。アメリカでは、1970年からの20年間の生産成長性は、大恐慌後よりも低く20世紀で最低だった。ただし、なぜ停滞して、どうすれば増やすことができるのかは、経済学の専門家でも実は分からない。オイルショックのためという説もあったが、80年代になって逆に供給過剰になっても、生産性の低成長は続いたので、これが要因とは言えない。そして、アメリカでは、戦後になって経済格差が拡大し続けた(これについては、著者による『格差はつくられた 保守派がアメリカを支配し続けるための呆れた戦略』に詳しい)。失業者を減らせば、貧困の要因も減らせる。ただし失業者が多いのは、仕事の需要が足りないからではない。失業者を減らせばインフレが加速していってしまう、という問題をいかに回避するのかこそが重要な問題である(アメリカの場合、インフレが加速しないための失業率の限界は5〜6%)。
 確かに、もし年率何千%ものハイパーインフレが起これば、現代経済は破綻する。他にも実質上の価値が増えていない資産を持っていれば、会計上は価値が増えるので税金がかかるという理由で、貯蓄や資産形成をする気のなくなる可能性がある、などの問題もある。しかし、年率10%程度のインフレならば、物価が10%上がっても、収入も10%上がるのだから損をすることはない。そもそも、インフレを抑えるためのコストは莫大なものであることを、アメリカ経済が証明している。アメリカでは80年代にインフレを抑える政策をとった。するとアメリカのGDPは、1973〜1979年の成長率である年率2.4%で伸びたと仮定する予測よりも、1979年から1982年までは3兆2千ドル前後で横ばいになり、予測と同じところまで回復したのは1988年であった。
 他にも、項目別にあるのだが、それらはメモ的に述べることにして、本書の特徴は、訳者も解説で触れているとおり、「経済学」ではなく「経済」の本であるというところであろう。もちろん経済学を土台にしているのだが、それをアメリカ経済という実例を通して、述べていて分かりやすい。おそらく日本の経済にも敷衍して述べることができるのだろう。「だろう」と推測で述べているのは、結局のところ本書の主張が正しいのかどうかは私にはとうてい分からないから。著者自身も生産性を回復させる方法は分からない、といっている。なので、所詮素人の私には正しいかどうかの判断すらできない。それでも訳者である山形浩生が言っているように、インフレは悪いことではない、貿易摩擦は深刻に思い悩む必要はない、などの、常識的な前提を批判的に眺められる点は重要であろう。なお、本書の訳文はかなりくだけた感じなのだが、訳者曰く原文がそもそもそのようなくだけた書き方になっているらしい。amazonのレビューを見ていると、これに文句を付けている人もいる。訳が正確ではないと批判しているレビュー見られるが、ごく一部の訳文を例に挙げているだけなので、本当に全体として間違っているのかは、原文を見ていないので分からない。個人的には、誤訳かどうかはともかく、そもそも著者のウェブサイトの文章や、他の著作・訳書を見慣れているので別にどうとは思わない。これも著者自身が言っているように、くだけて書いているだけで、内容そのものはきちんとしており、なおかつ読者を幼稚園児であるかのようにバカにしたような啓蒙的な文章でもないので。ちなみに、山形浩生『新教養主義宣言』の後書きでも触れていたが、むかしの橋本治の文体に近いような気がする。
 以下、メモ的に。アメリカの財政赤字を解消するために、貧民向けの援助をカットしてもたいしたものにはならない。解消のために支出を抑えるには、中流層向けのプログラムに手を付けるしかない。それ以外には増税である。しかし、これを正直に認めて発言した政治家は、ほぼ例外なく落選させられている(139〜141頁)。
 1990年ごろまでの日本が他の先進国と違っていたのは、GDP比における輸出が少なく、輸入はさらに少ないこと。たとえば1990年の西ドイツの場合、輸出・輸入のGDP比はそれぞれ25%弱と15%強だったが、同じ年の日本は5%強と5%弱にすぎない(194頁)。またアメリカの日系企業は、労働者1人あたりの付加価値、賃金、研究開発費で見ると、外国企業とほとんど変わらない。ただし、部品調達だけは現地でせずに、おそらく日本から輸入する傾向が極めて強い(204頁)。


7月20日

 恩田陸『黒と茶の幻想』講談社文庫、2006年(原著は2001年))上を読む。沖縄のY島へ太古の杉を見に行くことになった、大学の同窓生の4人の男女。恋人同士であった者も含まれるなかで、彼らの関係を変えてしまうに至った、1人の女性の存在を皆が思い浮かべはじめる。彼女はなぜ突如として失踪したのか…。
 4つの部から構成されており、それぞれの部で4人の男女がひとりずつ一人称で語る形式をとっている。ミステリのネタがたいてい分からない私にしては珍しく、その女性が失踪した、恋愛関係が絡んでいる理由が途中で分かったのだが、その話はあくまでもサブ的なものにすぎず、4人の心象世界を描くことに重点が置かれていると言える。解説にて川端祐人が的確に指摘しているように、バブル期に就職した1960年代生まれの人間を主人公とした世代小説と見るのが一番分かりやすい。豊かになったがゆえに目標がはっきりとしなかった世代が、バブル崩壊後の閉塞感の中で行った、自分探しをする旅の物語とでも言えようか。たとえば、子供の頃に先生から聞いた、夜は夢を見ることと世界を恐れることを教えてくれるから役に立つ、という言葉に対して、夜は幻滅することと後悔することも教えてくれる、と考えるあたりは、その典型だろう。
 ちなみに、第3部で謎が解けたのに、ここからどのような物語が続くのだろう、と読みながら思ったのだが、これも川端が指摘するとおり、幻想的とも言える森の中であちらの世界を超えていく3人とは別に、第4部の語り手となっている人物のみは、現実世界に足を付け続けている。つまり、第4部は、自分探しの旅から帰還するための役割だったのだな、と。そのあたりに共感を持てるか否かが、この小説に入り込めるかの鍵となるだろう。
 あと個人的な感想なのだが、人に親切にするのは、みんなの利益になると合理的に思うからそうしているだけなのに、女の子は優しいと思い込み、男の子はいい子ぶっていると考える、という第3部の人物のつぶやきは、本作の中で何となく一番よくわかる台詞だった。


7月30日

 黒田龍之助『大学生からの文章表現 無難で退屈な日本語から卒業する』(ちくま新書、2011年)を読む。大学の授業で論述問題を書かせているものの、面白みのない解答を毎回数百枚も読むのに食傷気味の著者が、かつて行っていた20人という少数人数制の文章講座の授業を再現しつつ、文章表現のテクニックを説いていく。
 著者の考えるいい文章とは「読みやすくて楽しい文章」である。世間一般では、退屈でも論旨が明快な文章の方が評価されるのかもしれないが、この授業では、楽しくて読みやすい文章を書いてもらった、という。他にも指導において有用なテクニックもある。たとえば、「思う」を使いすぎない、と指導する。「思う」は無難に終わり格好がつくように感じてしまうが、実のところそのように錯覚してるだけである。また「わたしは」で文を始めない、というのもある。接続詞を最小限に、というのもある(個人的には、「そして」と「また」を控えるように指導している(…と書いていたら、くどくて不必要な表現の1つに「個人的には」が挙げられていた))。オリジナリティがあって個性があるとは思いこまない、という戒めもある。
 著者の悩みはよく分かる。私自身も、授業で200字前後のレポートを毎回書かせることがある。基本は授業内容のまとめなので、読んでいて面白くない。ただし、論理展開の下手さや日本語の下手さは、内容的につまらない文章をさらに読みにくくしてしまうので、そのあたりを次の時間には指導するようにしていた。なおこの際の指導方法としては、宇佐美寛『作文の教育 「教養教育」批判』が一番使いやすかった。ごく一部の有力校を除き、どこの大学でも、平均レベルの学生は(学生時代の私自身も含まれるのだが)、読みやすい文章を書く基本的な技術は身に付いていないと思う。なので、まずはそれを習得させない限り、著者の言う読みやすくて面白い文章は書けないのではなかろうか。実際に、本書で題材となっている授業は少数精鋭の授業となっている。1つの参考例とはなるのだが、大人数を一度に指導する技術もまた必要になるだろう。そのあたりについてうまい方法があればいいのだが、教師が地道で根気のいる作業をこなす覚悟をするしか方法はないのかもしれない。
 なお、本書は匿名性を批判している。このあたりは豊崎由美『ニッポンの書評』と似ている。ただし本書は、匿名とペンネームを少し混同している気もするのだが。
 以下メモ的に。字数は多い方が偉いと考えている学生は多い。これは小学生の作文に置いて、教師がたくさん書けた生徒を褒めるということに由来している。しかし、指定の文字数に収められないのは、文章能力の低さである(39頁)。これは、私もよく学生に言っていることだ。文章をより良くするためには、詰め込むのではなく、カットすることの方が大事になる、と言うようにしている。
 パソコンで文章を書くと、書くのも簡単だが、返すも簡単である。気軽に停止できるので、気に入らない文章を延々と書き続けてしまい、結果としてすべて消す、という繰り返しになる。なのではじめは、パソコンではなく、手書きで書いた方がよい(50頁)。これはそうなのかもしれないのだが、個人予って違いもあるのではなかろうか。また、書こうとする文章の目的によっても違ってくる気がする。
 そして、本書で挙げられている(166〜168頁)、『必ず書ける 穴埋め読書感想文』は、著者の言うように、なかなか恐ろしい本である。これは、単語の穴埋めをしていけば、読書感想文が書けるようになっている。つまり、本来ならば自分の考えで書くべき感想文を、オートメション的に大量生産する代物なのだ。こんな方法で文章が書けるようにはならない、という著者の指摘はもっともだが、読書感想文などというものがいまだに行われているのが、そもそもの問題なのかもしれない。


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