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2011年6月の見聞録



6月1日

 宇佐美寛『作文の教育 「教養教育」批判』(東信堂、2010年)を読む。著者が一貫して訴えている、大学の授業では教師は5分以上話すべきではなく、絶えず生徒への問いを繰り返すことで授業を行うべきである、という主張に基づきつつ、題名通り作文教育の方法論を述べたもの(なお、著者の大学での授業の方法論について、本サイトでは宇佐美寛『大学授業入門』を取り上げたことがある)。本書で主張されている学生への作文の指導の要点を一言で言ってしまえば、句点を出来る限り挿入し、文を短く切れ、ということになるだろう。作文は文章を読ませる相手が明確でなくてはならない。授業中の作文であれば読ませる相手は教師であり、教師に文章を分からせる必要がある。そのために詳しく書く必要があるが、詳しくではどこに重点を置けばいいのか分からない。そのためには、「詳しく」ではなく「くどく、しつこく」書かせるように言い換えればよい。そのように意識すれば、自然と1つの内容だけを書けばその分は閉じるようになり、1文も短くなる。そして作文の指導をする際には、学生に調べる活動を課すべきではない。むしろ教材を用意してそれを吟味する形で書かせるべきである。なぜならば、用意した教材の外側で調べるという活動は、教材をしっかりと読ませた上で書かせるという行為と相容れないからである。
 「ことは…ことである」というような「こと」の多用を止めさせて一文一義を徹底させる=句点を増やす、というのは実にそのとおりだと思う。実際に私もここ最近は、自分の文章を構成する際に出来る限り「こと」を減らすように意識している(…が、なかなか減らせずに無意識ですぐに使ってしまうのだが)。その上で、あえて書くのだが、こうした書き方は分かりやすくはなるけれども、あまり美しくはないのだな、と。たとえば著者は列挙する際に1、2、3…と書くべきであり「まず」「最初に」といった表現は使うべきではないと考えているようである。その例として番号を掛ける際の号令を挙げている。「番号を掛けよう。『番号!』『1』『2』『3』……。1は1である。2は2である。『まず』『最初は』『第1に』『まず1』『次に2』『終わりに3』などと番号をかけたら上官に怒られる」(84頁)。文章表現上の「第1に」と「まず」の優劣に際して、号令を持ち出す意味がよく分からない。号令は号令であり、順番を示す言語表現は順番を示す言語表現ではないのか。何も私は文章は美しなければいけない、と言いたいのではない。文章の書き方を知らない学生に対してはまず、著者のような指導が有効であろう。ただし、それ以外の文体もあるのだ、と言いたいにすぎない。ただし、これは相対主義的な主張をしたいわけでもない。時と場合によって違うと言うだけだ。
 なお、著者は意見と事実を区別せよという指導を批判して、事実には表現者の意見が含まれていると述べている。「『今朝は、氷が張っていました。』(例1)……これは事実を述べたものか。それとも意見か。感想か。石油会社の社員の自宅に、ある官庁の職員がかけてきた電話なのである」(91頁)。だが、これこそ悪しき相対主義ではないのか。氷が張っているという事実に対する観測は多々あっても、大多数の人間が氷が張っていると考えるならば、とりあえずは氷が張っているという事実として認めていかないと、なんでもかんでも、自分にはそう見えないと言うへりくつを許すことになりかねない。もちろん、すべての事象に完全な客観的事実など存在しない、とは私も思う。だが初学者には、まずそうした相対主義を排して教える方がよいように思える。作文の技術的な部分では初学者向けなのに、この当たりでは、主観や客観の問題をやや駆け足気味に飛ばして難しい内容を含むのが少し気になる。
 それと、学生の作文において、著者の文章に対する的確な疑問を述べたり批判を行っている例が挙げられているのだが、それに対して著者はどのように答えたのか、という点についても書いて欲しかった。何も答えが知りたいのではない。そうした批判に対して教師はどのように答えるのか、という著者の実践例を参考にしたかったためである。
 なお、最後の章では教養教育に対する批判を行っているのだが、専門教育は深くつっこんで、それはなぜなのかという問いを重ねていけば、むしろ学習活動の内容が広くなる、というのはまさにその通りだと思う(124〜125頁)。


6月11日

 辻村深月『子どもたちは夜と遊ぶ』(講談社文庫、2008年(原著は2005年))上を読む。高校3年生の失踪。家出か事件か、と騒がれつつもやがても風化していくなか、新たな殺人事件が次々と起こる。大学生の木村浅葱が正体不明の「i」なる人物と繰り返し犯す事件。浅葱は生き別れた双子の兄である藍に合おうとしていたが、友人の狐塚や彼と親しい月子をも巻き込んでいき…。
 交換連続殺人事件ものであるが、ちょっとしたところに叙述トリックがある。ただ、あまり納得できるものではなかったのだが。また、二重人格というのも、何か面白いオチがあるのかと期待していたので、ああそれか、となってしまったのも事実。ただし、推理とは関係なく、胸が締め付けられるような心の苦しみを読んでいて感じたので、そういったものが好きならば読んでみてもいいかもしれない。


6月21日

 ジャレド・ダイアモンド(倉骨彰訳)『銃・病原菌・鉄 一万三〇〇〇年にわたる人類史の謎』(草思社、2000年)上を読む。ヨーロッパ人が15世紀末にアメリカ大陸へと到達して以来、欧米人がアジアやアフリカ、ラテンアメリカを抑えて世界の富と権力を支配し続けているが、なぜこのような状態になったのか、そしてなぜ逆にはならなかったのかについて、1万年以上にわたる人類の歴史という観点から解き明かしていこうとする。
 これまでにも、ヨーロッパ人がもたらした病原菌への抗体がなかったため、アメリカ大陸の人口が激減したため、ということや、文字による情報の伝達が発展していた、ということは言われてきた。著者はこれらを認めながらも、より大きな視点から、地理的な環境の違いが大きな意味をもっている点を重視する。まず、ユーラシア大陸には家畜化や栽培化が可能な野生動植物が数多く生息していたこと、そしてユーラシア大陸は、気候等が距離を隔てても変化しにくい東西に広がっている大陸であるため、環境の変化が激しい南北に広がるアメリカ大陸よりも発明や技術が伝播しやすかったこと、である。その原因に人種的な差があるわけではない、というのが本書の重要な主張でもある。なお、中国ではなくヨーロッパが世界進出を成し遂げたのかについては、中国が単一の政治勢力に統一されていたため、船団の派遣を取りやめるという政治的な決定がなされると、それに全員が従わざるを得なかったため、という要因を挙げている。
 著者の元々の専門は分子生理学と進化生物学らしいが、少なくとも本書の結論は、歴史畑の人間から見て大きな問題があるものとは思えない。そして非常に面白い。細かい部分でツッコミを入れる研究者もいると思うのだが、そうした行為そのものを完全に否定することはできないものの、それこそが歴史学をつまらなくしているのかもしれない。ただ、原著にはあるのかもしれないが、参考文献一覧は付けて欲しかった。
 以下メモ的に。1835年、ニュージーランド東部のチャタム諸島で暮らしていたモリオリ族をマオリ族が征服して虐殺してしまった。もともと両者は1000年ほど前に同じ祖先から枝分かれしたポリネシア人であった。だが、モリオリ族が狩猟採集民であり、マオリ族は農耕民となった。前者の地域では、周りに移り住む島々もなかったため、諍いを無くすために戦争を放棄した。逆に後者では、人口を増加させると共に、兵士を養い武器を発展させることになった(77〜82頁)。
 大型の家畜の登場によって、人類は自分以外の動物を輸送手段として用いることができるようになる。たとえば、馬やラクダが挙げられる。ただし、すべての動物が家畜化できるわけではなく、家畜化できた動物は、陸生の動物のなかでもたった14種にすぎない。家畜化できなかった原因として、必要な餌が多すぎるか偏食が激しい、成長が遅い、飼育状態での繁殖行動をいやがる、気性が荒く人間を殺しかねない、パニックに陥りやすい、序列性のある集団を形成しない、などが挙げられる(251〜260頁)。
 農耕民は狩猟採集民よりも労働時間が長いことが多く、栄養状態も良くなかったようである。にもかかわらず、農耕へとシフトした理由は確定的ではないものの、以下の推測が挙げられる。まず、狩猟採集が可能な動植物の減少、それに伴う気候の変化による栽培可能な野生種の増加、そして食料を生産・加工・貯蔵する技術の発達、最後に人口密度の増加である。これらの条件をクリアしたのが、メソポタミアでは前8500年頃だった。そして、人口を増やした結果として、農耕民は狩猟採集民を追い払うことができるようになった(158〜162頁)。
 早くに栽培化された植物とそうでない植物との差は、栽培のしやすさの差異に原因がある。たとえば、前8000年頃にまず肥沃三日月地帯で栽培され始めた小麦・大麦・エンドウなどは、種子をまいたり飢えたりするだけで簡単に発芽し、数ヶ月後に収穫できた。また自家受粉タイプの植物なので、有用な突然変異を起こすと、それをそのまま受け継ぐことができた。その次に前4000年頃に育成されるようになったオリーブ・イチジク・ナツメヤシ・ザクロ・葡萄などの果樹類は、すぐに収穫できないという欠点があった。だが、種をまくことで栽培そのものは簡単にできた。また挿し木によって、遺伝子的に同じ性質を受け継がせることが可能だったので好都合でもあった。それ以外の果実の場合、自家受粉でないものも多く、親木からよい特性を受け継ぐことがないため、中国で編み出された接ぎ木の技術なくしては品種の改良が難しかったため、栽培も難しかった(180〜183頁)。
 初期の文字は曖昧な解釈しかできないものが多いが、帳簿や事務的な記録、国王や政府関連の記録など、限られた用途にしか使われなかったために、曖昧なままでもよかったと思われる(下巻、40〜42頁)。
 キーボードがQWERTY配列なのは、初期のタイプライターは隣接キーを続けて押すとキーが絡まるという不具合を起こすために、タイピストの指の動きを遅くするためにわざと押しにくい配列にしたためというのが元々の理由であった。多が手、技術的な問題が解決されて効率の良い配列も可能になったのだが、QWERTY配列がすでに定着してしまっていたため、取って代わることができなくなってしまっていた(下巻、60〜61頁)。


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