前の月へ   トップに戻る   インデックスに戻る   次の月へ


2011年5月の見聞録



5月2日

 山本弘『アイの物語』(角川文庫、2009年(原著は2006年))を読む。人類が衰退し、ロボットの支配する未来の地球。あちこちの場所に赴き、残された様々な映画や本をダウンロードしていた青年の「僕」は、アイビスという女性型アンドロイドに捕らえられた。ただし、彼女は青年に危害を加えることはなく、怪我をした青年に病院へと収容した。そしてアイビスは青年に、彼の知らない幾つかの物語を話しはじめる。そして最後に語られるのは、彼女が経験した本当の物語…。
 それぞれの物語については、解説にて豊崎由美が上手くまとめていたので、そのまま引用を。「テレビや映画でおなじみ、『スター・とレック』のような宇宙船の物語を、乗組員になりきった会員がリレー小説として書き継いでいる同好会のメンバーが起こした殺人事件(第1話「宇宙をぼくの手の上に」)。仮想空間における少女と少年の出会い(第2話「ときめきの仮想空間」)。育成型人工知能キャラクターと少女の友情(第3話「ミラーガール」)。銀河文明圏を遠く離れた<この世の果て>で終わりのない監視を続けている人工知能と、ブラックホールに突入するためにやってきた女性ダイバーの交流(第4話「ブラックホール・ダイバー」)。変身美少女が活躍する世界と、それを生み出した現実世界の遭遇(第5話「正義が正義である世界」)。介護用アンドロイドの誕生と成長(第6話「詩音が来た日」)。戦闘用アンドロイドとして誕生したアイビス自身の物語(第7話「アイの物語」)」(582〜583頁)。
 それぞれの物語は、コンピューターやインターネット、人工知能などに関連する話なのだが、そのいずれにおいても、それらに対する希望を持ちうるような終わり方をしている。たとえば第1話では、自分たちでストーリーをつくっていくSF世界のオンラインゲームの仮想空間に引き籠もっていて、最終的に犯罪を犯してしまった仲間に対して、仮想空間そのものを現実逃避として否定する刑事たちが出てくる。それに対して、仲間たちは、彼がつくりあげようとした救われない物語の結末を、新たに物語を改編していくことで、彼を自首させて罪を償った上で、また帰ってくると話させるまでに至っている。
 その物語と重ね合わせられるように、ロボットが支配するといっても、「ターミネーター」のような世界ではなく、実はその責任は人間にあることが明らかになるのだが、その辺りについては、おそらく何となく予想できるのではないかと思う。業田良家『ロボット小雪 新・自虐の詩』にて、ロボットをつくる技術者が、「美しい心を持つロボットばかりだったら、人間はいらなくなる」と述懐している台詞があるが、それに近い舞台設定ということになる。それどころか、人間には理解できない概念をもすでにもっている。たとえば第7話では、愛に虚数が付け加えられた、愛(5+7i)と愛(5−7i)との違いを人間は理解できないと語られている。
 それでは人間にできることはないのかというと、そうではない。主人公の青年はもともと語り部のような役割を果たしていたが、ラストでは本当の物語を語っていこうと決意する。人が夢見て語り続けた理想的な社会を、ロボットが成し得ようとして、さらに人を超えた高みへと向かっていくことを、むしろ誇るべきではないか、と。この辺りは物語をつくる人としての著者自身の理想を語ったものでもあるだろう。
 ただし、第6話で語られているように、ロボットも活動時の記憶は記録されて、コピーされていく。それによって視する人間に対する記憶も受け継ぐことができる。となるとやはり人間が語ることも機械に任せればよいということになりかねない。これに関して、2つの言葉を思い出した。1つは、柳沼行『ふたつのスピカ』第11巻における、経験を人に伝えることが、機械ではなく人にしかできないことなのではないか、という主人公のアスミの考え。もう1つは、福本伸行『天』第18巻の、「いいじゃないか三流で、熱い三流なら上等よ」というアカギからひろゆきへのメッセージ。私は著者ほどに語ることへの理想に確信が持てないでいる。それは本書を読んだ後でも変わらない。それでも、たとえ三流の言葉であっても、伝えようとする思いがあれば、何か伝わるものはあるのではないかと、自分を卑下せずに己の役割を果たそうとする意志が大切なのだろう。


5月12日

 田川建三『宗教批判をめぐる』(洋泉社MC新書、2006年)を読む。『宗教とは何か』(大和書房、1984年)を新書版にするにあたって、上下2巻に分けて再発行したうちの上巻にあたり、書名通り宗教に関連する文章が収録されている。
 第一部「宗教を超える」では、近代を乗り越える存在として安易に宗教を持ち上げる態度を厳しく批判する。こうした態度に基づく場合の言い分として、近代的な知性や合理主義によって歪められた人間性が、宗教によって回復されるかのような物言いがなされる。だが、知性や合理主義に対して宗教を対置させる考え方そのものが近代特有のものにすぎない。それどころか、近代合理主義もかつての宗教のように万能ではないため、むしろ逃げ場として宗教があった方が安心だという事情もあった。
 こうした傾向に拍車をかけているのが宗教学でもある。宗教学は、近代以後の植民地政策の中で、欧米人が世界各地で非キリスト教の宗教を「発見」したことがその出発点となっている。欧米人にとって、宗教といえばユダヤ教とキリスト教であったが、インドや中国にも、古代からそれにひけを取らない宗教思想が存在していることに気づいた。まず始めは、そうした宗教は原初的なもので、最も発展しているのがキリスト教であるという考え方が現れる。しかし、これはあり得ないので、続いてすべての原始的な宗教には唯一絶対神、そしてそこから「聖なるもの」への信仰を孕んでいるという発想が現れる。しかし、すべてに共通の思想があるというか概念こそが、あらゆる事象には普遍的な法則があるとする近代科学の合理主義に由来している。
 なお、こうした宗教学の悪しき例として、エリアーデが挙げられている。確かに、彼が一般的に知られていない様々な地域の宗教事例を手当たり次第に列挙して、「聖なるもの」が存在しており、それを現代人は見失ってはならない、というのは安易な手法として批判されるべきだろう。本書でもかなり的確に厳しく批判されているのはそのとおりだと思う。ただし、ミルチャ・エリアーデ(風間敏夫訳)『聖と俗 宗教的なるものの本質について』法政大学出版局、1969年)あたりで主張されている、前近代人は循環的な時間概念を持っていたというのは、それなりに有効ではないか、と思っている。とはいえ、これも彼のオリジナルな思想ではなくて、借り物の概念にすぎないのかもしれないが。なお、手当たり次第に列挙して安易な類似を行うというのは、何も宗教学者のみに見られるものではないので、自分自身も含めて研究を行う上では気を付けねばならないだろう。ちなみに、本書のエリアーデ批判を見て、浅羽通明『「逆襲版」ニセ学生マニュアル』(徳間書店、1989年)における大塚英志批判(朝シャンを禊ぎに結びつけるなどの安易さを指摘)を思い出した。
 第2部「異質の世界の無視」は、副題の「翻訳の思想に現れた問題」が示すように、翻訳に関する文章を集めたもの。これは後に『書物としての新約聖書』へ結実したと言えよう(もう一度この本を読み直したい気がする)。翻訳によって現代人の考え方に合うように改編するのは、確かに問題があろう。古代の考え方は現代と異質であるのは当然であり、「異質の文化の書物を読む場合に、この発見こそが重要なのである」というのはまさにその通りと言えよう。なお、翻訳が孕む植民地的な思想の問題については、柳父章『ゴッドと上帝』にて詳しく述べられている。
 さて、本書において最も分量があるのは第3部であり、遠藤周作『イエスの生涯』(新潮文庫、1982年(原著は1973年))『キリストの誕生』(新潮文庫、1982年(原著は1978年))批判と荒井献『イエスとその時代』(岩波新書、1974年)批判が行われている。後者は内容云々よりも、著者が言っていないことをさも言ったかのように取り上げて、それを批判するという執筆態度そのものを手厳しく断罪している。
 むしろ本当の意味での批判が行われているのは、前者であり、こちらは100ページほどにも及ぶ。『新約聖書』に対する誤解について、かなり細かく全方面で手厳しく批判しているのだが、何よりも印象に残っているのは歴史記述と歴史小説の違いに対する指摘。長くなるがそのまま引用する。
 「歴史小説はフィクションを用いることを躊躇しない。むしろ積極的に持ち込む。ただし、すぐれた歴史小説においては、フィクションによってかえって歴史の現実が正確に浮かび上がる。それに対して、下手な学者の歴史記述は、学問的に知られている点を点として確認するだけで、点と点との面にひろがる面を描こうとしない。しかし、人間の歴史に点しか認めず、その間にひろがる面を無視するなど、それ自体としてすでに滅茶苦茶な事実誤認である。一見正確さのみを追い求める学者の記述が、全体としてはおよそ非現実的な作り話に終るのはそのせいである。ただし、そういう亜流の学者が多いということであって、すべての学者がそのようにできが悪いわけではない。確かに、学問的な歴史記述は正確に分かっている事実のみを記述し、フィクションを含まない。ただし、すぐれた歴史記述は、事実と事実をつなぐ面をとらえるために、歴史的に十分可能であると考えられる範囲内で想像力を駆使する。それは物語や人物、地名を創作することはしないが、すでに知られている事実をより広く理解するために想像力を駆使する。フィクションと想像力は同じではない。しかも、すぐれた歴史小説のフィクションと、すぐれた歴史記述の想像力は限りなく近接する」(184頁)。
 かなり長い引用になったが、歴史小説と歴史叙述の区分に関する、しかも歴史学者の文章が面白くない場合が多いのかに対する極めて的確な指摘と批判だと思う。なお、逆に歴史小説が犯してしまう誤りについても、分かりやすい文章がある。はっきりとした記録がない場合には仮説を述べるしかないが、遠藤がそうした仮説を採用しているのに、それが仮説だと述べずに断定的に記していることに対する批判である。やはり長くなるがそのまま引用する。
 「ここで遠藤周作は、実にはっきりと断定的に言い切る文体を採用している。これは決して歴史小説の文体ではなく、歴史記述の文体なのだ。内容的にも、こういう仮説は歴史小説のフィクションの領域のことではないので、あくまでも歴史研究の必要上生まれる仮説なのである。とすれば、そういうことを書こうと思ったら、そういうこととして自覚して正確に書かねばならない。この場合、遠藤に書けることといったら、せいぜいのところ、「ある学者によれば……だそうだ。そういう仮説があたっているかどうか自分にはわからないが、もしあたっているとすれば……」という文体で表現する以外にないだろう。現に我々は、他人の仮説を自分では十分に確信を持てないままに、話としては面白いので一応採用してみるときには、そういう文体で論述を進めていく。いちいちこういう文体で書くのではまだるっこしくて、遠藤のような通俗書を書くことはできない、というのなら、それはそれでよかろう。しかしその場合には、こういう問題に触れるのをそもそも避けるべきなので、自分の素朴な考えをただそれだけとして述べればいいのだ。こういう場合に、一つの仮説を確認するための膨大な努力をせず、またその努力をしてきた人々の作業を一切無視し、しかもその仮説そのものすらまるで理解していないくせに、当然分かったことのように断定的に書きつづっていく遠藤のこの文体には、知識に対する極端な傲慢さが示されている」(197〜198頁)。
 以前から私は、歴史小説と歴史学は何が違うのかについて考え続けていた。後者に足場を置く研究者たちは、どうも前者を軽んじる傾向がある。私自身も、どうも歴史小説を読むのならば研究書を読んでしまう場合が多い。しかし、史料を踏まえた上でその隙間を埋める形で創作を行い、それゆえにむしろ当時の人々の考え方を描き出すという点で、後者は無視できない。要は手法の違いなのであり、著者の言うように、「すぐれた歴史小説のフィクションと、すぐれた歴史記述の想像力は限りなく近接する」と考えればいいのだ。逆の意味で、その両者の特質を理解しないまま、安易にマネをしようとすると失敗するということだろう。
 以下、遠藤批判からメモ的に。なお著者は、日本での失職中に遠藤に世話になっているが、それでもと批判すべき点があるならば批判すべき、という態度を貫いている(このあたりは、『書物としての新約聖書』も同じ)。もしかしたら、遠藤のファンやキリスト教の信者、いわゆる学者の中には、こうした態度を快く思わないものもいるかもしれない。イエスを描く場合、彼を絶対的な理想像として描きがちであり、なおかつ、その絶対的な権威に自分の駄目さを救済してもらえると自己満悦にふける態度を手厳しく批判するとともに、以下のように述べている。「しかも困るのは、理想的な人間像であろうと、宗教的権威であろうと、それが自分の思い入れであると自覚していれば謙虚にもなるのだが、「イエス様」という絶対の権威に固定されてしまうから、そこのところを批判されると、血相を変えて怒ったりもする」(181頁)。
 遠藤は、4つの福音書が史料としたイエスの語録集があったと述べている。だが、イエスの語録集と遠藤が呼ぶQ資料を用いたのは実際にはマタイとルカのみである(この両者は、Q資料とマルコを利用し、ヨハネはQ資料と関係していない)。さらに、彼がイエスの語録集に由来するものとして取り上げているものは、マルコに由来するものである。「ここにも、学問的な知識の正確さを追究しようとする意図などまるでないくせに、スタイルだけは学問めかそうとするこの著者の特色がはっきり出ている」(213頁)。
 イエスが死後に復活したという逸話は、初期はそれほど直接的に描かれることはなかった。たとえばマルコでは、イエスの死骸を収めた墓に行くと、死骸はなくなっていた、とある(マルコ16・1-8)。マタイになると、復活したイエスが弟子たちの前に現れる(マタイ28・16以下)。ただし、イエスの姿そのものは描かれず「拝した」とある。これがルカやヨハネでは、イエスに触って十字架の釘の後を確認したり、イエスが魚を食べたりと、イエスの復活の証明が直接的に描かれる。これ以後の外典福音書は、こうしたお伽噺的な傾向を強めていく(233-234頁)。
 なお遠藤は、ルカを典拠として、弟子たちがイエスを裏切ったことに自責の念と絶望に苦しんでいたとする。しかしルカを読む限り、弟子たちは殺したものの罪悪を憤り、だがどうしようもないことに絶望しているにすぎず、自責の念に苦しんでいたとは書かれていない。ここから、弟子たちの卑劣さを許すイエスという遠藤の勝手な解釈に基づくイエス像が語られてしまっている。イエスの「栄光に入る」という言葉を、イエスが弟子たちの卑劣者を許してくるとしているのも同じ過ちである。この場面は「文字通り天の栄光にはいること、昇天すること、であった。だからルカ福音書はイエス昇天の物語をもって終わる」(228頁)。
 ただしマルコのみは、裏切りに着目しているように見える。弟子たちに向かって「私についてきたければ、自分自身の十字架を背負ってついてくればいいではないか」(8・34〜)という言葉を投げ掛けているからである。だが、これは弟子たちの視点はなく、弟子であるにもかかわらずイエスのように生きていないという、彼らを批判する視点から描かれたからであろう(240頁)。
 なおあとがきによれば、第一部の初出の文章の中には『第三文明』に掲載されていたものもある。「当時の編集者たちは、創価学会の宣伝雑誌に終わらせずに、何とか広く良心的な思想雑誌にしようと努力していた。この雑誌もその後はすっかり宗派の宣伝雑誌になってしまった」(310頁)。


5月22日

 宮部みゆき『蒲生邸事件』(文藝文庫、2000年(原著は1996年)を読む。予備校受験のために上京した孝史は、2月26日未明に宿泊したホテルで火災に巻き込まれてしまった。同じ宿泊客であった平田のタイムワープの能力によって助けられる。しかし、その末にたどり着いた場所は昭和11年。つまり二・二六事件が起きる直前であった。とりあえずは、平田が以前から身分を偽って身を寄せていた蒲生中将の自宅に身を寄せる孝史であったが、そのとき蒲生中将は自殺してしまう。しかし、その自殺には不審な点が浮かび上がる…。
 決して面白くないわけではないのだが、どうにも孝史の言動に苛ついてしまう場面が多かった。確かに、突然別の時代へ放り込まれてしまえば、当時の感覚と外れた行動をしてしまいがちなのは当然だろう。その点で、孝史が戦前の日本を理解できないような行動をしてしまうのは無理はない。しかし、それでもそうした場面があまりにも目立ち、なおかつ地の文章でもそれをたしなめるような書き方がなされていないので、読んでいてどうにも腹立たしくなることが多かった。中将の自殺後に勝手な行動をしようとする蒲生家の人間に対して、孝史がむかむかしながら「あんたたち、自分がどういう立場にいるか、まるっきり分かってないんだな?」(439頁)と怒る場面があるのだが、それはお前だ、と思いっきりつっこんでしまった。本来ならば、こうした思い違いについて批判的な視点を持っているはずの著者なのに、本作ではなんだか孝史の身勝手に対してはずいぶん甘いなと感じてしまい、今ひとつのめり込めなかった。ただ、ふと思ったのだが、孝史は戦前の日本には厳然と存在していた身分の区別を理解できなかったために、自分勝手な行動をしてしまっているわけであり、少なくとも戦後にそうした区分が弱まった点という点では、現在は恵まれているのだなとも感じた。
 なお、歴史をどう考えるかという点からは、興味をひかれた箇所もある。タイムトリップできるのであれば、歴史を変えることもできるのではという孝史に対して、平田は結局のところ何も変えることはできないと冷ややかに述べる。たとえば、昭和60年にジャンボジェット機の墜落を避けようとして、脅迫電話をかけてその機体の離陸そのものを邪魔すると、別の飛行機が結局落ちた、という。つまり、ジャンボ機の墜落という出来事そのものを変えることはできなかったのである。これは運命論者のような言い分でもあるが、著者自身が常に作品の中で描こうとする、個人の傲慢に対する諫める視線と重なる気もする。だかららこそ、タイムトリップの能力を活かすのではなく、最終的に歴史の流れのなかに身を置こうとした平田に対して、好意的な描き方をしているのだろう。


前の月へ   トップに戻る   インデックスに戻る   次の月へ