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2012年6月の見聞録



6月10日

 小野不由美『図南の翼(十二国記)』(講談社文庫、2000年(原著は1996年))を読む。豪商の娘として育った12歳の少女・珠晶は、先王の死後いまだ王の即位していない恭国を憂い、麒麟と会って王となるために蓬山へと向かう。途中、騎獣狩りを職とする頑丘や、正体不明の青年の利広と出会い、恭国の他の昇山希望者と共に蓬山へ向かう苦難の旅の中で、彼女が最後に邂逅した人物は…。
 前作『風の万里 黎明の空』にも登場した恭国・供王の過去の物語。『月の影 影の海』も王になるまでの物語だが、そちらでは陽子が何も分からぬままにやってきて、世界の中で自分を見出すという流れだったのに対して、こちらではその世界観を踏まえた上で、この世界で王になるためにはどのような資質が必要なのか、といった点に重点が置かれている。その点で、やはりビルドゥングスロマンの雰囲気が強い。もともと強い心を持つ珠晶が、さらに成長していく様は、前作と同じくメインの対象読者である少女にとってはたまらないのではないだろうか。たとえば、王が出て来ないことを嘆き、なおか「あたしでさえも覚悟ひとつで来れたのに!」啖呵を切る珠晶は、大人に対しして何かしらの苛立ちを持つ年頃の若者にとっては、自分もこうなれればいいのに、と憧れと共に自己投影できるのではないかと。
 なお本作には、『東の海神 西の滄海』の重要な鍵を握っていた更夜が、意外な形で、しかも重要な形で出てくる。


6月20日

 小杉泰『イスラーム帝国のジハード(興亡の世界史06)』(講談社、2006年)を読む。以前、マリーズ・リズン『イスラーム(1冊でわかる)』を読んだのは、前近代のイスラームが他教徒に対してどれくらい寛容だったのかについてと、同じく前近代の地中海におけるイスラームの海洋政策はどのようなものであったのかについて知りたかったためだが、本書を読んだのは、イスラームがなぜ一神教として始まったのかについて知りたかったから。なお、本書はオスマン以前の歴史が中心であるものの、全10章のうちの最後の2章は、20世紀から現代に至るイスラームについて眺めている。
 イスラームは一神教だが、欧米の研究者はムハンマドがキリスト教やユダヤ教からの影響を受けたという伝播説を唱える場合が多い。しかし、その証拠は特にない。むしろ、『旧約聖書』に見られる、セム語族的なアブラハムの系譜がこの地方にも達しており、その系譜を受け継ぐ者としてムハンマドが現れたと考える方がもっともらしい。実際、ムハンマド登場以前のアラビア半島では、大小様々な部族に分かれており、部族的なアイデンティティが強く、アブラハムの子孫を自認する部族も存在していた。ムハンマドは小さな部族の一員にすぎなかったが、高貴な血筋に連なる者であった。もし彼の出自が定かでなければ、部族主義だったこのあたりでは、その言葉は無視されていただろうというわけである。
 ただし、ムハンマドがなぜ一神教を唱えたのか、という点については、結局のところよくわからなかった。唯一の神であるアッラー啓示を受けた、と『クルアーン』に書いてあるのは分かり、それが「自明として認識される世界が存在する」(60頁)と受け入れることは別に構わないのだが、それが一神教である必要性はないように思える。確かにアブラハムの子孫という点で、ヤハウェ的な一神教の思想を脈々と受け継いでいたのかもしれないが、著者自身も述べているとおり、この地域は多神教社会であったのでなおさらだ。
 なお、オリエントでは不毛の地と言えるアラビア半島で始まったイスラームがなぜあれほどの勢力となり得たのか、という点にも触れている。まず、アラビア半島は部族主義であるため、自然と身分の上下差ができるし、商業によって栄えているということは貧富の上下差も生まれてしまう。それに対してムハンマドは、『クルアーン』にて貧者に対する扱いのひどさを嘆いている。後のイスラーム社会でも、貧者への施しを重視しているのはラマダーンからも分かる。断食は、「神のために飲食を断ち、赦しを乞うものとされるが、同時に、貧しくて食べ物がない同胞のために、その苦しみを理解することが目的」(128頁)であった。さらに、断食明けには貧者への喜捨が義務づけられていた。このあたりは、キリスト教が、下層民に受け入れられた理由とほぼ同じであろう。
 これは、イスラームがアラビア半島の部族主義を超えていくことにもつながる。ムハンマドの教えは、「部族やその名誉のために」という考えを、古き悪徳であると考えて、アッラーのために尽くす、という考え方をとった。となると、原則としてアッラーの前では平等となる。8世紀から9世紀にかけて、イスラームの勢力拡大と共に、緩やかに信者層は拡大していったが、最初の頃は異民族を下に位置づけていたようだが、10世紀頃までには原則として平等であるとされた。こうした信者全体をウンマという。信者が存在する限り、ウンマもまた存在し続けるわけである。
 こうした教えに基づき、勢力を拡大していくのだが、そもそもアラビア半島から最初の征服地であるシリアへと進軍したのはなぜか。信仰心に燃えていたためという説明は、成功の理由ではあったが、海外進出の理由ではない。そもそもアラビア半島は遊牧民が多く、支配は困難であった。それでも征服を成し遂げていくのだが、その最後の対象がシリアとの境界にいる諸部族であった。彼らを統御できなければ、アラビア半島の支配を続けるのは難しかったのである。また、アラビア半島はあまりにも農業生産力が低い。生き延びるためには、勢力を拡大せざるを得ないのである。なお、農業生産力の点に関して、著者は触れていないものの、それが理由であるならば、エジプトへと進出したのは納得できる。古代エジプト史では常識だが(たとえば、松本弥『物語古代エジプト人』(文春新書、2000年)を参照)、ナイル川流域は古代地中海世界での穀物地帯だったからである。
 このように、勢力を拡大していくわけだが、そのための戦いは一般的に「ジハード」と呼ばれる。しかし、単に戦争だけをそう呼ぶべきではない。戦争はあくまでも「剣のジハード」であり、社会や信者レベルにおける「社会的ジハード」と「内面のジハード」において、イスラームの教えを社会と個人でより深化させていったのである。『クルアーン』には、基本的にムハンマドを通じた命令が記されているため、イスラームは命令を法体系としていた。従って国家や権力無くしても、法によって自立的に運営される。だからこそ、ウンマ内部にて、統治者と信徒を仲介するウラマー(イスラーム学者)が自立的に存在していた。
 先述の通り、なぜイスラームは勢力を拡大できたのかについて知りたかったので、それ以外の部分は流し読みしただけだが、私のようにイスラームについて詳しくないけれども関心はある、という者が読めば何かしらの新たな知見を得られることは間違いないであろう。その意味では問題なくおすすめできる。
 以下、メモ的に。イスラームは一夫四妻制度だが、これは古い部族制度に基づく家を中心とした男系社会であったのを改めて、男女の同意を基礎とする婚姻制度を打ち立てようとしたためである。それに加えて、戦争によって寡婦と孤児が増えたためでもある。実際に『クルアーン』にも「孤児たちに対して、公正な扱いができないと恐れるならば」複数の女性と結婚せよ、とあり、孤児の救済が目的であることが分かる(131〜132頁)。
 イスラーム商業の繁栄について、アジア・アフリカ・ヨーロッパの大陸航路の結節点であるためとしばしば言われるが、これに加えて海路の点でも重要である。西アジアは、盛んに海洋交易が行われていた地中海とインド洋の両地域の結節点でもあったためである(239〜241頁)。マリーズ・リズン『イスラーム(1冊でわかる)』では、前近代の地中海におけるイスラームの海洋政策はどのようなものであったのかが、分からなかったが、本書を読んでその一端を理解することができた。


6月30日

 桐生祐狩『夏の滴』(角川ホラー文庫、2003年(原著は2001年))を読む。「僕」こと小学4年生の藤山真介が暮らす地方都市では、地方博覧会の失敗してしまい、家族で夜逃げする友達も現れてしまう。そうしたなかで、クラスではいじめられっ子が持ってきた植物占いがブームとなる。だが何か大人たちの雰囲気がおかしい。不思議な青年との出会いに導かれるように、足の不自由な徳田と女友達の河合と一緒に、夜逃げした友達を追うと、彼の家族は豪華な家に住んでおり、彼の姿だけは見当たらなかった。青年から打ち明けられる秘密と大人たちにはついて行くなというアドバイスを不安に思いながら、夏休みの親子キャンプが始まり、狂気の世界が幕を開ける…。
 正直言って、全体としての完成度は高いように思えない。まず、小学生の一人称の文章としては、しゃべり方が大人っぽすぎて不自然に感じる。もしかすると、今どきの子供はこれくらいの大人びたしゃべり方や考え方をしているのかもしれないが、それでもたとえばシェイクスピア『リチャード3世』のセリフを即座に当ててみせるというのは、小学生の描写としてはあり得なさすぎるように思える。また、誕生日の組み合わせが科学的な法則であるかのような意味を持つというのは、たとえ魔術的な設定といえども受け入れがたい。しかも、作中において、真介の担任の先生の口から、そうしたオカルト的なものを否定させている。それならば、それを乗り越えるような設定をひねり出すべきであろう。
 それではこの作品は面白くないのかというと、そんなことはない。こうした疑問点を吹き飛ばして余りあるリアリティを感じさせるのは、子供の残酷さの描写。いじめられっ子の八重垣を、真介たちだけでなく障碍者である徳田も、当たり前のようにいじめて、良心の呵責を何も感じていない。一人称の描写だからこそ、それがさらに際立つ。加えて、八重垣がいなくなると、クラスの児童たちはいじめる相手がいなくて苛立ち、障碍者である徳田や彼の世話をするという点で少し優遇されている真介がいじめの対象になりかける、というところもなんだか生々しい。作中でも、徳田を主役にしたドキュメント番組を取りに来た女性の口から言及されているとおり、障碍者を差別できないというストレスを八重垣が受けているわけだが、見たくはない心の底を見せられたようで不快にさせる。子供は平然と残酷になれるという嫌な気分を、読んでいて感じさせる点でこの作品は成功していると言える。
 それに加えて世の中も残酷だ、と救われがたい気分にさせる点でも、成功している。ラストにおける、子供が治療のために犠牲にされ続けるという世界だけではない。クライマックスの場面で、真介と徳田の立場が入れ替わるのだが、相手のことを思いやっていても、所詮は分かりわかり合っていなかったのだ、という二人の理解は、何とも嫌な気分にさせる。真介の母親が、自分たちの幸せのために自己犠牲を息子の真介に求めて、それを拒否すると、弱い人のことを考えるいい子だったのに、と怒り出すのも同様。大人とその論理の前では子供はどうしようもない、という救われなさでは、スーザン・ヒル『ぼくはお城の王様だ』を思い起こした。
 というわけで、核心部分となるネタや語り口調の文体には難があるとしても、人間の嫌な部分を見せる小説としては、かなり惹きつけるものがある。上記の欠点を大目に見ることができるのであれば、後味の悪い小説が読みたいという人にはお勧めできる。その点だけに限れば、完成度はともかくとして、ジャック・ケッチャム『隣の家の少女』に迫るレベルではないかと思う。


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