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2012年5月の見聞録



5月1日

 小野不由美『風の万里黎明の空(十二国記)』(講談社文庫、2000年(原著は1994年))上を読む。前作前々作が過去の話だったのに対して、本作は第1作目の直接の続きとなっている。
 天命により慶国の王、景王となった陽子は、日本とは全く違うこの異世界のしきたりが分からず、臣下や景麒とも衝突するようになり、王としてどのようにあるべきか、悩み苦しみ始める。同じ頃、悪政に苦しんで謀反が起きたため、父である王を処刑され公主の座を奪われた芳国の祥瓊は、自分の境遇を恨み、同じ年で王となった景王に強い嫉妬を覚えた。また、陽子よりも100年前に、この世界の才国に流されてきた鈴は、運良く仙籍に入って不死になったものの、結局は主人にいびられ続ける自分の不幸を悲しみ、景王ならば分かってくれるはずと焦がれた。
 やがて陽子は、王宮から下界へと下り、自分自身でこの世界を知って、王の意識をはぐくんでいく。祥瓊は、かつて陽子を助けた楽俊と出会い、公主として何もできなかった自分の罪を認めて、前へと歩き出した。鈴は、慶国出身の少年と出会い、ただ自分を哀れむだけの身勝手さから抜け出そうとする。三人はついに出会うのだが、それは慶国の叛乱軍のなかであった…。
 これまでのシリーズもビルドゥングスロマンの雰囲気があったが、今作は今までで一番その色合いが強い。自分自身を見つめ前に向かっていく少女たち、という描写は、メインの読者である少女たちには溜まらないのだろう。シリーズの過去作と同じく、基本的に戦争の描写が少ないのだが、少女向けという色合いをより強くするためなのかもしれない。とはいえ、ラストの場面の、景王として最初に発する勅令を宣言する前に、臣下に述べる台詞の、他者に屈せず挫けない強い心を持ち、「他者の前で毅然と頭を上げることから始めてほしい」(362頁)と訴えるところは、この小説を読むような男性にも、何か感じるものを与えるとは思う。それが簡単にはできず、理想のようなものにすぎないと知っていても、だからこそ憧れるかな、と。というわけで、シリーズのとりあえずのクライマックス的な作品ではないかと思う。
 ちなみに、このように書いておいてなんだが、そのラストのセリフは、なんだか近代人ぽくて、前近代の様相の濃いこの世界ではかなり異質なもののように感じてもしまうのだが。この辺は、現代とは異質な世界を書くにあたって、さじ加減が難しいところだろう。


5月11日

 吉田敦彦『オイディプスの謎』(講談社学術文庫、2011年(原著は1995年))を読む。ソポクレス『オイディプス』を詳しく読み解きながら、時代的な背景から包み込むように考えていき、その続編の『コロノスのオイディプス』の意義付けをも行う。
 『オイディプス』の劇では詳しくは触れられていないものの、オイディプスに関する有名なエピソードとして、スフィンクスの謎かけを解いたというものがある。一般的にこの謎は「はじめは4本足、次に2本足、最後に3本足になる生き物は」とされている。しかし、伝アポロドロス、ディオドロス、アテナイオスらの記述からは、「2本足でも、4本足でも3本足でもあるものがいて、生き物の中でただ1つだけ性質を変える」が、より正しい謎かけであったと判明する。つまり順番に変化するのではなく、3つの性質を同時に兼ね備えている、という意味である。
 この答えは、オイディプスそのものを指している。父を殺し、母と交わったという点で、彼の本質は4本足の獣にも等しい存在である。そしてその事実を知った彼は両目を潰して、歩行する際には杖を持つ場合が多い。これは3本足でもある。スフィンクスは、自分の謎を解く人間として、その答えを体現している人物自身が現れたことに驚愕して身を投げて自殺したと考えられる。彼の名前もこれと関係している。オイディプスは腫れた足を意味するが、オイダとディプスの2つの言葉が複合した形とも見て取れる。オイダは「私は見る」の現在完了形で、「私は見て、その結果として知っている」という意味がある。ディプスは2本足である。つまり、事実を知って目を潰しても、自分の状況を見て、せねばならぬことを知っており、4本足でもあり3本足でもある本質であっても、2本足である優れた英雄である、という表明と考えられる。
 さらに『オイディプス』に疫病の流行が描かれているのは、演劇が上映されたと思われる前430年ごろのアテナイの状況も重ね合わされている。当時のアテナイ人は、ペルシア戦争に勝利して、古今東西の何人にも引けをとらない英雄であるとの自負心を持っていた。実際にペリクレスは、演説において「〔詩人たちの〕物語は、われわれの成し遂げた功業の真実の前では、色あせてしまうことになるであろう」と述べている。だからこそ『アンティゴネ』では、人間賛歌ともとれる合唱が出てくる。
 しかし予期せぬ疫病は、彼らの知恵と力に対する自信を打ち砕いた。自分たちが人間であると思い知らされた。そうした中で2本足でありながら4本足でも3本足でもあるオイディプスを描くことで、どのような状況でも意志と勇気があれば2本足であり続けるし、そうでなければならない、と訴えようとしたと思われる。
 さらにソポクレスは、アテナイがペロポネソス戦争で敗れる直前の最晩年に、『コロノスのオイディプス』を書き上げた。確かにオイディプスは大罪を犯したかもしれないが、それは抗い得ない運命に導かれたためでもあり、彼のせいであるとは言い切れない。それを訴えた結果、この劇の結末で彼は、神秘的な方法でこの世を去り、地下の神々の仲間である神霊となる。これはソポクレスが、苦難の道のりをたどったアテナイを、雄々しく耐えて気高さを失わぬオイディプスと重ね合わせ、歴史の中で不死の存在となり得る、と訴えたのだと思われる。
 実際には、演劇の内容を細かく追うことで上記の結論を得ている。だが、スフィンクスの謎に関する部分と、演劇を単に内容からだけではなく、同時代の歴史から包み込むように考える、という2点に特に興味を持ったので、両者に絞ったまとめ方になった。演劇論についてはよく知らないのだが、個人的には、関曠野『ハムレットの方へ』(北斗出版、1994年)と同じく、時代背景を含めて読み解くような本書のようなスタイルの方が興味を感じる(以前読んだ、岩崎宗治『シェイクスピアの文化史』もこれに近い)。本書は、『ハムレットの方へ』よりも文学論的な方へと傾いてはいるが、少なくとも歴史としての演劇に興味があれば読んで損はない。
 ただ、参考文献一覧は付けて欲しかったし、本文中にどの研究者を参照したのかでも触れて欲しかった。大部分が自分自身のオリジナルなのかもしれないが、そうでない部分について参考文献へ言及していないため、どこがオリジナルなのかが判断できなかったので。


5月21日

 新城カズマ『15×24』(集英社スーパーダッシュ文庫、2009年)1を読む。大晦日の東京。1人の高校生の自殺予告がネットに流出した。それを止めるために動き出す者、他人を助けるように命じられて渋々ながら動き出した者、死を観察したい者、自殺を助けようとする者、コンビニ強盗、など意識してか知らず知らずのうちにか巻き込まれていく15人の少年少女。しかも事件には暴力団まで絡み始め、一緒に自殺しようと訴える「17」も現れる。果たして自殺を止めることはできるのか、そして「17」は誰なのか…。
 15人の主人公の群像劇だが、それぞれの主人公の一人称視点で切り替わりながら、24時間の物語が進んでいく。自殺を止めるという目的なのに、全く関係ない犯罪に巻き込まれていくというエンタテインメント的な流れが中心でありつつ、「17」は誰なのかというミステリ的な要素もある。
 こう書くと面白そうなのだが、そのうちのめり込めるかなと読み進めているうちに、最後まで読み終えてしまった。「17」が誰なのかは、勘のいい人ならば分かるだろう。恥ずかしながら、私は分からなかったのだが、分かったときに意外性にやられたと思うよりも、えっ、そうなの、というびっくりしただけに終わってしまった。死を巡る考え方や他人とのつながりもテーマだと思うのだが、これも特に引っかかることはなかった。ただし、これは私の感覚がオッサンに近づきすぎて、ピンと来なかっただけかもしれないので、若者が読むとまた違った感想を持つのかもしれない。


5月31日

 ひこ・田中『ふしぎなふしぎな子どもの物語 なぜ成長を描かなくなったのか?』(光文社新書、2011年)を読む。テレビゲーム、テレビヒーロー、男の子向けアニメ、女の子向けの魔法少女のアニメ、世界名作劇場、マンガ、児童文学の物語がどのように変容していったのかを追っていき、それらに共通した変化が生じた事実を明らかにする。
 テレビゲームで、物語性が前面に出てくるのはRPGである。RPGでは主人公に名前を付けるため、子供たちは自分で物語を制御している感覚を得る。日頃、親や教師にあれこれと言われる子供にとって、自分で好きなように制御できるのはとても心地よいであろう。そうしたRPGの代表として、『ドラゴンクエスト』(『DQ』)と『ファイナルファンタジー』(『FF』)が挙げられる。
 『DQ』は、主人公は一言もしゃべらない点が全作で共通している。自分自身の分身である主人公がどう考えるのかは、プレイヤーの想像に任されていると言える。そして『DQ2』では仲間が増え、『DQ3』では仲間の選択をする必要があるという点で、子供の成長と重ね合わさっている。『DQ4』は全5章で、主人公である勇者が出てくる第5章までに、その仲間たちの物語を体験する。これは、自分以外の人物にも物語があるのだという実世界にあり方をさらに深めていると言える。さらに『DQ5』では、幼年時代から大人になって結婚して子供をつくるという人生を経験する(誰と結婚するのかを選ぶ、という自由もある)。『DQ6』では夢の世界と現実世界を行き来するという、自我と現実の葛藤とも言える部分を描いている。ここまでの『DQ』は、子供と社会の関わりを描くという点で、子供の成長とも関連している。
 しかし『DQ7』では、主人公は平和な世界に住んでいて、自分からあえて別世界へと冒険するという物語となる。呪いによって姿を変えられた王と姫を元に戻すべく旅をする『DQ8』も含めて、成長物語を単純に描くことへのためらいが感じられる。その点は、『FF』にも見られる。たとえば『FF-]』は、物語を語ってきた主人公のティーダが、ラストでは消滅してしまっている。ティーダは倒すべき相手であった父親を殺すのだが、それによって彼自身が消えてしまうのである。ここにも成長物語への疑念が見える。
 『ウルトラマン』シリーズは、主人公たちがなぜ自分がウルトラマンになるのか、そして周りの人間とどう関わるのかに悩む点で、「近代的自我の確立」と「他者の相克」という成長物語でもあった。しかし、2004年の『ネクサス』は、変身できる人間は複数おり、しかも悪のウルトラマンまでいるなど、明らかに成長物語を否定している。同年の『仮面ライダー剣』でも、主人公は戦うべき相手と戦えば世界が滅びることを察知して、最後に自分で消えていく。戦うことで成長して物語を完結させてきた、ヒーローものの成長物語を拒否しているとも言える。
 アニメにおいて、『鉄腕アトム』のように子供型ロボットを主人公にしてしまうと、成長できない存在を描かねばならない。また家族を増やすこともできない。そのため児童虐待プレイ用にすら見えてしまう。そのためアトムの系譜は受け継がれず、ロボットものは巨大ロボットを操るという系譜が主流となる。その代表作とも言える『ガンダム』では、子供たちが主人公である場合が多い。しかし、アムロをはじめとして、彼らの敵は描かれても、大人との対立による成長物語はあまり出てこない。これは、成長物語を描きにくくなった現代の先触れとも言える。その延長線上に、子供たちがどこへ向かうのかも分からない物語であった『エヴァンゲリオン』もある。
 女の子向けのアニメでは、最初にヒットしたのは魔法少女ものであった。主人公の魔法少女は、魔法を使うという点では非日常的である。だが、生活そのものは敵を倒すというようなものではなく、あくまでも通常の日常を過ごしている。魔法少女ものの多くは、日常の中で女の子から女へと成長する物語を描くが、大人への成長はあまり意識されていない。
 マンガ界ではアンケート人気至上主義がとられていくが、人気のある作品はいつまでも続き、人気のない作品はすぐに終わってしまうため、物語をきちんと枠組みを持って描くのが難しくなってしまう。しかし、そこに成長がないという点ではかつてと現在では違う。たとえば『ドラゴン・ボール』は、人気があるゆえに終われないなかで、強い敵が常に出てきて主人公たちはパワーアップしていく。だが『ONE PIECE』では、主人公のルフィは基本的にパワーアップを終えた存在である(著者は触れていないが、ギア2などのパワーアップもあるものの、それはかなり後になってからである)。『鋼の錬金術師』のメインテーマである等価交換とそれに基づく主人公たちの描写は、右肩上がりの成長物語とは明らかに異なる。そして、物語が終わりを迎えて初めて、主人公たちの成長が始まる点で、成長は物語の外に置かれている。
 以上のように子供が触れる様々な物語で、成長が描かれなくなっているが、これは近代の子供に対する扱いから読み解く必要がある。そもそも近代には、それまでのような子供も働かなければならないという子供に対する厳しい時代から、子供を優しく扱う時代へと変わっていく。ただし、大人が子供を保護することで、子供は大人の子供観に縛られる時代となる。社会の理不尽さは子供の目から隠されて管理される。子供たちは、大人の管理する世界に帰属させているからこそ、児童文学は大人にとって安全な物語であり、子供から大人への成長を描く物語が生み出されてきた。そしてその延長線上にサブ・カルチャーの子供の物語もあった。しかし上記の通り、特に1990年代以後にはそうした成長物語が出てこなくなっている。その理由は、まず第1に、経済の停滞により、大人からの庇護が必ずしも得られない点にある。そして第2に、それまでとは比べものにならないほど、子供も情報を得てしまっている点が挙げられる。この点において、大人と子供を分ける要素が失われつつある。近代社会の成長物語への疑念が生まれると同時に、子供の成長物語を描くのも難しくなっていると言える。
 なぜ成長が描けなくなったのか、という点を軸に据えた現代思想論といえるが、個人的にはサブカルチャーに馴染みが薄く、どちらかといえば毛嫌いしている人に、単純に嫌うだけではなく、現在の状況を知ってもらうために本書を薦めたい。別に、興味もないのにすり寄る必要はないのだが、個人的な好悪にかかわらず、それが子供たちの間で受け入れられている状況を理解しなければ、子供たちと向き合う手段をそれだけ失うことになってしまうかと思うので。
 ちなみに、子供が情報を得すぎているがゆえに、早くから成熟しているということは、清水義範「六十年の余生」『ナウの水浸し』(文春文庫、1994年(原著は1991年))ですでに指摘されていた。いまの若者は、20年ですべての青春を終え、残り60年は余生を過ごすという感覚が広がっているのでは、と述べているのだが、20年ですべての経験を済ますという点で、子供と大人の境界線が失われていると言えよう。
 ところで、子供を優しく扱っていなくとも、主人公が子供であるかどうかは別として成長物語は存在していたのは間違いない。ここからは、あくまでも個人的な思いつきにすぎないのだが、古い時代の成長物語は、成長した主人公たちもやがては死や終焉を迎えるという物語の方が圧倒的に多いのではないだろうか。前近代の成長物語は、基本的に悲劇であるか(たとえば吉田敦彦『オイディプスの謎』関曠野『ハムレットの方へ 言葉・存在・権力についての省察 改訂新版』(北斗出版、1994年)を参照)、どのような栄華を誇っていてもやがては衰退し滅ぶ、という歴史を語るものであるように思える。子供を優しく扱う近代の成長物語との違いは、こうした存在そのものも終わりを迎えるという点にある気がする。近代に入ると、子供はこれから大人になるのであるから、それから先にも開かれた未来が待っているという考え方に基づき、成長して幸せに終わるという物語が増えたのではなかろうか。希望を抱かせる幸せな成長物語がなくなったのは、経済の停滞が原因というのは著者の言うとおりだと思うが、子供が大人からの庇護を得られなくなったというよりは、社会は成長し続けるという近代的な概念が、全体として疑われ始めたという点に起因している気もする。
 さらに、これも根拠のない推測なのだが、もし幸せなままで終わる物語があるとすれば、それは神話ではなかろうか。もちろん神話の神々にも、神々同士の争いのなかで滅んでいく者たちもいるものの、基本的には不老不死または再生する存在であろう。これは、ミルチャ・エリアーデ(風間敏夫訳)『聖と俗 宗教的なるものの本質について』(法政大学出版局、1969)は、最後にいけば最初に戻る循環的時間概念に基づく考え方であるが、ここには終わることなく生き続ける不死の存在への憧れもあったと思われる。
 ただし、こうした系譜に連なっている物語は、現在も存在している。たとえば、『サザエさん』『クレヨンしんちゃん』は、幸せな時代が続けばいいのにというユートピア的な終わらない物語である。これらの登場人物は、いまやまったく年をとらない。となると、成長するか否かという点は置いておいて、終わりを迎える物語と、永遠に終わることのない物語という点では、現在は前近代へとむしろ回帰していると言える。これらはあくまでも勝手な推論にすぎない。だが、人間は根本的な部分で変わらないものだと思うのだ。
 その上で、日常的なユートピア性への懐疑と成長することを天秤に掛けた作品も、子供向けの作品に存在している点も指摘しておきたい。『クレヨンしんちゃん モーレツ!嵐を呼ぶ大人帝国の逆襲』は、そうしたユートピア性を打ち壊そうとする映画であったように思える(ただし、最後の場面では、時間の進まない場所の中心地でもある野原家へと帰ってくるのは興味深い)。そして、そうした物語として、著者が言及していなかった『おジャ魔女どれみ』も挙げておきたい。『おジャ魔女どれみ』は4年にわたって放送されたのだが、主人公たちが小学3年生から6年生へと成長する中で、最終的には魔女の道へと進むことを辞めて、普通の女の子へと戻っていった。単純に幸せな成長物語を超えたほろ苦くも前向きな成長物語も、物語の成熟化の中で存在していると思うのだが、どうだろうか。
 あと、成長物語を描けないというのは、東浩紀『ゲーム的リアリズムの誕生 動物化するポストモダン2』あたりでも言われている、大きな物語の衰退とも関係していると思う。
 以下、メモ的に。ファミリーコンピューターは、発売当初から子供向きのおもちゃと見なされていたが、その頃に売れたソフトを見ると大人向きでもあった事実が浮かび上がる。1位は『ベースボール』の235万本、2位は『麻雀』の213万本、3位は『マリオブラザーズ』の163万本だからである(14頁)。
 RPGでは、モンスターを倒すと経験値と金を得られるという場合が多い。その金で、よりよい武器やアイテムを揃えるのだが、どのように使うかの選択をする必要がある。この点で、RPGの金は子供たちのとっての小遣いに等しい(30〜31頁)。
 『ウルトラマン』の制作陣には、ウルトラマンや科学特捜隊の正義に疑念を抱いていた。たとえば第23話「故郷は地球」におけるジャミラのエピソードはそれを物語る。『ウルトラマン』は元々子供向けではない物語を作りたかったスタッフが、自分たちの描きたかったテーマを子供向けに作り直したと言える(74〜76頁)。
 『宇宙戦艦ヤマト』と『ガンダム』の違いは、後者の時代にはビデオ録画が普及していて何度も繰り返し見られるようになったというのも大きい。結果として、前者の世代は子供時代の物語を記憶された思い出として語り、後者の世代は自分のアイデンティティとして語る傾向が強くなる(150〜151頁)。
 世界名作劇場のムーミンは、原作者からクレームがついたが、原作では核の脅威の比喩が出てくるなどの危機の中でも希望を持つ姿が描かれている。つまり、世界名作劇場の、ただ明るく元気でかわいい物語を批判したと思われる(240〜241頁)。


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