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2014年4月の見聞録



4月1日

 黄川田徹『こんなに怖い鼻づまり! 睡眠障害・いびきの原因は鼻にあり』(ちくま新書、2013年)を読む。鼻づまりはどのようにして起こるのか、鼻づまりに伴う健康の問題、そして新しい治療法の紹介という構成になっている。鼻の重要な作用に、体内に取り込まれる温度を調整する空調機能があり、そのために粘膜の厚みを変化させるのだが、鼻腔内に張り巡らされた血管の血液の量で調整を行っている。鼻の粘膜が炎症を起こすと、血液が停滞しやすくなり結果として鼻づまりに至るわけである。著者は、鼻の穴の後鼻神経を切断する手術という新たな治療法を開発したという。さらにこれだけだと静脈を切断してしまい、多量の出血の可能性がわずかにあったのだが、鼻腔内に水を循環させて静脈を浮かび上がらせて、神経だけを切断させることができるようになった。本書は詰まるところ、この手術のPR本と言える。とはいえ、この手術が本当に劇的な効果を持つのであれば、広く知らしめることには意味があると言えよう。鼻づまりに悩む人ならば、もし費用がそれほど高くないのであればこの手術を受けてみたいと思うのは間違いないのではなかろうか。少なくとも自分自身はそう考えた。


4月6日

 米澤穂信『折れた竜骨』(東京創元社ミステリ・フロンティア、2010年)を読む。中世ヨーロッパを舞台としつつ、魔術を実在のものとして描くパラレル・ファンタジー・ミステリー。ロンドンから3日間ほど航海した先に浮かぶソロン諸島。その領主を父に持つ「私」ことアミーナは、父に用があると告げる騎士ファルク・フィッツジョンと、その従士の少年ニコラに出会う。不死の呪いを掛けられた呪われたデーン人の襲来に備えて傭兵を集めていた父にファルクが告げたのは、魔術の使い手である暗殺騎士が命を狙っているという情報だった。だがその情報もむなしく、翌日、父親は無惨な死体として見つかった。密室であるはずの領主の島にて、暗殺騎士に操られた「走狗(ミニオン)」となった殺人者は誰なのか…。
 魔術を前提とした推理小説という点で、田代裕彦『痕跡師の憂鬱』1に近いとも言えるが、実際の歴史上の場所を舞台にしており、中世のファンタジックな世界観に基づいているという点でやや異なっている。その意味では魔術は存在しないが、ウンベルト・エーコ『薔薇の名前』(東京創元社、1990年)上にも近いと言える(『薔薇の名前』よりもはるかにエンタテインメント性が高くて読みやすいが)。トリックも魔術の論理に従った正統派だが、たぶん変化球なんだろうなという読みがあれば、犯人は分かってしまうかもしれない。せっかく面白い舞台設定なので続編が出せればいいのだが、と思ったのだが、犯人の性質からすれば難しいのかもしれない。


4月11日

 海堂尊『イノセント・ゲリラの祝祭』(宝島文庫、2010年)上下(原著は2008年)を読む(前作『ジェネラル・ルージュの凱旋』はココ)。不定愁訴外来の万年講師の田口公平は、またしても高階病院長を通じて厚労省の白鳥圭輔からの依頼を受ける。その依頼とは、厚生労働省で行われる会議への出席を請うものだった。その会議とはこれまでも白鳥が関わってきた死因究明に関する問題を扱うものであった…。
 ミステリではなく、会議室での弁論合戦がメインとなる。著者の主張を訴えるためにフィクションの形をとったように見えなくもないが、フィクションとしての面白さはある。ただし、フィクションで持論を提示しても、現実での批判者たちの態度をかえって硬化させてしまうだけな気もするのだが。


4月16日

 河野淳『ハプスブルクとオスマン帝国 歴史を変えた「政治」の発明』(講談社選書メチエ、2010年)を読む。ハプスブルク家は近代国家の形成に躓いた後進性が強調される場合が多い。しかし、ハプスブルク家は中世から近世に至るまで自国の領土を保持し続け、オスマンの進出も妨げている。その一方で、確かにその軍事制度は封建制に類似した諸侯からの動員制度をとっており、近世・近代的な中央集権と言い難いのも事実である。そうした矛盾する要素を兼ね備えているかに見えるが、ハプスブルク家は政治のやり方という点においていち早く新しいものを導入した国家であった。それは、何を根拠にして主張を訴えたのかということである。
 これに関しては、オスマンからの攻撃にさらされていた1556年にハプスブルク家が創設した宮廷軍事局こそが、重要な意味を持つ。それまでの軍事・外交は、個人的に行われており、その処理に関連した文書の保管も特に行われていなかった。だが、この部局の成立以後は、軍事・外交関連の文書を記録・発送・整理を行った。これによって過去のデータに基づく政策決定が可能となっていく。いわば、「事実に語らせる」という近代的な政治の根幹をなすシステムが形成されたことになる。
 軍事に際しては資金が不可欠だが、ハプスブルク家は、王位を兼ねたクロアチア王国においてそれを巧みに成し遂げることで、対オスマンの最前線を維持し続けた。近世国家は、封建制度に代わって徴税制度に基づく常備軍を備えた財政・軍事国家だったと評される。しかしクロアチアは、対オスマンにかかる費用が50万〜60万グルデンだったのに対して、税収入は3万グルデン弱でしかなかった。となるとその費用は外側から補填されたことになる。その補填元はドイツ領封に課されたトルコ税だった。このトルコ税を領封に払わせるべく説得するために活用されたのが、蓄積された情報戦略であった。たとえば皇帝は、オスマンの残虐性を訴えるパンフレットを印刷させて、オスマンの悪逆なイメージを高めようとした。
 その上で、宗教や世界観といった目に見えない価値体系を体現する人物による主張が正当性を持つ思弁政治から、目に見える現実を素材に主張の正当性を訴える実証主義政治を行ったのがハプスブルク家の政治であった。それまで実証主義政治が成り立っていたのは、中世都市というごく狭い範囲の中のみであり、王国という領域ではなしえなかった。しかし帝国議会では、オスマンに関する大量の最新情報を提示することで、議論に説得力を持たせようとした。一般的には立憲政治が近代政治の始まりと見なされているが、国王に対する信仰という目に見えないものを出発点にしている点で、中世的な思弁政治の性格が強い(ナショナリズムもこの意味では思弁政治である)。これに対してハプスブルクの行った政治こそが、情報に裏付けられた実証的な近代政治のさきがけであった。
 一般的に政治的な後進地域と見られる東欧のハプスブルクに近代政治の原点を見るというのは、なかなか興味深い。実証主義という概念を、歴史学ではなく政治学や政治史に用いるのは、政治学では一般的なのかどうか分からないが、そういう視点もあるのかと思わされた。ところで、著者が言うようにフランス革命以後のフランスが思弁政治(ナショナリズム)と実証主義政治を兼ね備えているのであれば、現在もその両者が併存している状態が続いていることになる。となれば、思弁政治の要素を消し去るのはものすごく難しいことになる。となると、ハプスブルク家において思弁政治の要素はどの程度あったのであろうか。その絡み合いが分かれば、さらに政治史や国家に関する長期的な考察が行い得る気がした。なお、実証主義政治の要因として、山本義隆『十六世紀文化革命』で主張されている実践的な知識の広がりをあげている。
 以下、メモ的に。ハプスブルク家は婚姻政策によってが移行を行っていたイメージがあるが、実際には一時的なものにすぎない。マクシミリアンはブルゴーニュ公女マリアを娶ってその領土を獲得したが、さらに息子と娘をスペイン王家と結婚させ田結果としてその孫のカール5世がスペイン王家を得ると、さらに孫と孫娘をヤゲウォ王家のものと結婚させた。だが、これ以後は婚姻政策を行ったものの外交上の成果は特に求められず、むしろスペインとオーストリアの結びつきを強めるための同族結婚が増えた(31〜34頁)。
 中世ヨーロッパの国家論は、人体とのアナロジーによって理解された。プラトンによる人体に近いほど国家は有機的に組織されているという考え方は、古代ローマにも継承され、キリスト教も教会はキリストが頭をなすキリストの体であるという考え方をした。だが一方で、中世末期には、ギヨーム・ド・コンシュのように教会を抜きにした国家=人体論を展開する論者も現れた(176〜180頁)。
 ところで、イギリスやフランスの国王が病気を治す奇跡を行うことで聖性を示したのに対して、ドイツの皇帝は病気を治さなかったとあるが(56頁)、神聖ローマ帝国の皇帝は、病気を治さずとも触れれば豊作になると農民が群がった、という事例があったような気がするので(確か、阿部謹也『甦える中世ヨーロッパ』(日本エディタースクール出版部、 1987年)で読んだ記憶がある)、ハプスブルク家の皇帝は、とすべきな気がする。そうすれば、本書で主張されているハプスブルク家の政治の近代性がさらに浮き彫りになると思うので。


4月21日

 初野晴『退出ゲーム』(角川書店、2008年(リンクは文庫版))を読む。高校へ入学すると、中学までの部活であるバレーボール部から吹奏楽部へ転部した、「私」ことフルーツ奏者の穂村チカ。彼女は、小学校を卒業してから会っていなかった幼なじみの男子であるホルン奏者の上条ハルタと、「男性」音楽教師で指揮者の草壁先生を巡った三角関係にあった。国際的な指揮者を嘱望されながらもなぜか高校教師に収まっている草壁先生を、表舞台に再び立たせたいという思いから、吹奏楽の「甲子園」普門館への出場を目指して部員を集める2人に、勧誘したい生徒たちと絡む謎が次々と持ち上がる…。
 「日常の謎」系の連作短編。連作ではあるが、短編ごとに基本的に完結しており、先の短編で張られた伏線が最後に明らかになる、というわけではない。なお、短編の中の1つは、まさかと思うほどかなり重い主題を取り上げている。草壁がなぜ国際的な指揮者の道を捨てて高校教員となったのかの謎は明らかにされず、シリーズはどうやら続いているようなので、後の主題となってくるのだろう。
 ちなみに、その教員である草壁はすべて知った上で引いた立場にあり、あくまでも生徒同士のやりとりが中心となっている。楽器をやめた部員を勧誘するにあたって、草壁が言った「もし、立ち止まった場所から一歩を踏み出すきっかけをだれかがつくってくれるなら、それは大人になってしまった僕じゃなくて、同世代で同じ目の高さのきみたちの役目であってほしいんだ」(98頁)という言葉は、まさにそれを示している。こんなに綺麗な言葉が使えるような現実など滅多にない気もするのだけれど、もしあるとすればそれはすばらしい青春なのかもしれない、というのはそういう言葉には縁のなかった者の感想だったりする。
 それはともかく、日常の謎系としてはロジック的な面でまずまず楽しめる作品になっていると思う。


4月26日

 法月綸太郎『キングを探せ』(講談社、2011年)を読む。カラオケボックスに集まったニックネームで呼び合う4人。もともと何のつながりもなかったこの4人は、自分たちの殺したい相手の交換殺人を思いつき、誰が誰を殺すのかをトランプで決める。そして実際に起こっていく殺人事件なのだが、わずかな綻びから交換殺人が明るみに出ていく…。
 初めの方は設定が面白そうに感じたのだが、犯人たちの綻びが明らかになっていくあたりから、何だか物語が小粒になっていくように感じた。追い詰めていく過程が論理的で実際にありそうな感じなのだが、意外性がないというか。かといって、論理性がなければあきれる結果にもなりかねない。ミステリを最後まで面白く読ませるには、実際にはなさそうなことをリアリティを持って描くという綱渡りをいかにうまくこなすのかが大切なのかな、と。


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