前の月へ   トップに戻る   インデックスに戻る   次の月へ


2013年6月の見聞録



6月10日

 湊かなえ『告白』(双葉文庫、2010年(原著は2008年))を読む。幼い娘を亡くして学校を辞めることになった中学教師。彼女は最後のホームルームで、実は娘が担任をしているクラスの生徒に殺されたことを告白する。そして、クラスメイト、犯人の家族、そして2人の犯人と関係者たちの独白の中から浮かび上がるそれぞれの思いは…。
 各章は、それぞれの人物による一人称視点で語られていく。そして、それぞれの人物の思いが語られていくなかで、なんだか同情を誘うような流れを作っておきながら、最後にそれをひっくり返して、後味の悪い展開へと持っていくのだが、なかなか上手い。複数の視点で事件の裏に隠された真相が明らかになるわけではなくて、あくまでも複数の人物の心情を辿っていくだけなので、ミステリとしての楽しみは少ないが、どんでん返しを楽しむという意味では、十分に面白い。
 後書きで本作を映画化した監督も語っているように、一人称視点なのだから、登場人物の全てが本当のことを語っているわけではない。したがって、最後の話者の考え方が絶対に正しいわけではないだろう。だからこそ、彼女が下した判決としての行いが後味の悪いものになっているのは当然であろう。本作は本屋大賞を受賞したとのことだが、同じ本屋大賞受賞作である恩田陸『夜のピクニック』のような爽やかな展開を期待していた人は、本作を批判するかもしれない。
 ちなみに、一点だけ細かいつっこみを。第2章のクラスメイトの女子の章にて、クラス内で生じた糾弾を「中世ヨーロッパの魔女裁判」と喩しているのだが、これは少し歴史的事実と違う。たとえば、牟田和男『魔女裁判 魔術と民衆のドイツ史』(吉川弘文館、2000年)で述べられているように、魔女狩りが主として生じたのは中世ではなく近世である。ただし、中学生による一人称の語りの部分なので、あえて間違った歴史的事実をわざと語らせているのかもしれないが。


6月20日

 山本義隆『一六世紀文化革命』(みすず書房、2007年)1を読む。古代・中世から16世紀にかけては、ラテン語を読み書きできるエリートによる書物を中心にした世界こそが高い知識として評価されており、現場の技術は卑しいものと見なされていた。「講義lectio」も「講師lector」も、「読むlegere」を語源としている事実がそれを物語る。ルネサンス期には古典古代の文献を重視している点では、中世のスコラ学と変わらなかったと言える(なお、宗教改革者も、古代のキリスト教の文献に帰ろうとしている点では同じように書物重視だったと言える)。
 しかし、16世紀には自然認識における経験の重要性が重視されていき、定量的測定や実験的方法が前面に現れる。この動向は、それまでの知識人からは低く扱われていた職人や技術者、芸術家や医師たちの仕事とその経験に基づく、俗語での新たな知識の発表や記録、技能の蓄積などを土台にしていた。商人たちの商業の拡大は、取引額の会計簿への記帳や為替手形の制度へとつながり、それによって実践的な計算技能が発達していった。軍事や航海に必要となる数学や天文学の知識も、砲弾の弾道の計算や天文観測の機器の開発や製作場といった実務のなかで発展していった。この16世紀の文化革命こそが、17世紀の科学革命の基盤となった。そもそも17世紀には、15世紀に人文主義者たちが賞賛した古典の著作が、科学的には役に立たないとして見捨てられていた。こうしたなかで、閑暇に恵まれた知識人たちが16世紀の文化革命で生み出された方法論を自分たちのものにして、理論と実験に基づく実験化学を創りだしていくことになる。
 大まかにまとめてしまえば上記のような内容なのだが、これに関連する様々な分野の事例が網羅的に挙げられていく。それはそれで重要な資料なのだが、それゆえに事例紹介的に見えて論理の組み立ての面白さが、前書である『磁力と重力の発見』に比べて減ってしまっているように感じた。とはいえこれはあくまでも私個人の嗜好に基づくものであり、基礎文献として外すことのできない文献になるのは間違いないだろう。
 以下メモ的に。
 古代ギリシア・ローマ人も、知識人の著作を見る限りは手作業を蔑視していた。プラトンは「市民は誰一人として職人の仕事に従事してはいけない」と記し、アリストテレスも奴隷と職人は1人に仕えるか公衆に仕えるかの違いにすぎず、職人の仕事も一種の奴隷状態でなされると記す。キケロも手工職人は卑しい技術に携わっている、としている(1巻・14頁)。古代のガレノスも個々の病気の本質を知ることなく医療に従事するものを経験主義者と呼んだ(1巻170頁)。また、数の科学は単なる計算技術と区別していた(1巻・312頁)。
 レオナルド・ダ・ヴィンチの圧倒的に優れたところは卓越した観察力であった。彼は、論証に訴える前に装置を作って実験する職人気質の人間であった。ただし、その観察をおびただしいメモには残したものの、露れらを整理してまとまった形の論文や書物に仕上げることはなかった、つまり一般化して定式化する能力と情熱に欠けていた(1巻・69〜70頁)。レオナルドなどの美術理論をドイツに持ち帰ったアルブレヒト・デューラーは、図版を印刷によって開示することで、それまでの職人の世界に蔓延していた秘密主義と、それと表裏一体の存在である剽窃に対抗して知を公開した(1巻・107頁)。なおレオナルドは、絵画の遠近法と機械工学の製図法を人体解剖図にも適用した。人体の前面・側面・背面を並べて表す近代的なレイアウトも彼の創案である(1巻・196〜198頁)。
 俗語での執筆が旧来の知識人に嫌われていたのは、ガリレオ裁判にも関係していたと思われる。というのは、彼が地動説を唱えたことだけではなく、「むしろ『天文対話』をイタリア語で著し、自説を誰にでもわかるように語ったことがそれ以上に問題視された」ようだからである(2巻・582ページ)。


6月30日

 米澤穂信『愚者のエンドロール』(角川文庫、2002年)を読む。「古典部シリーズ」の第2作(前巻はココ)。千反田の親しい先輩である入須のクラスが作成した自主製作映画を見させられた折木たち古典部の面々。ただし、そのミステリめいた映画は、廃屋の鍵のかかった密室で少年が腕を切り落とされて死んでいた場面で、未完成のまま途切れていた。脚本をしていたクラスメイトが病気で倒れたため、その結末が分からなくなってしまっており、そこで終わってしまったのである。折木たちは、入須からクラスメイトの推測した結末が正しいかどうかの判断を任されるのだが…。
 「ちょっぴりほろ苦い青春小説」というのがこのシリーズのキャッチフレーズのようであって、前作はそんな感じだと思うが、本作は「ほろ苦い」を通り越して「かなり苦い」。入須に才能を評価されたと考えた折木が、映画を完成へと導くのだが、その後に古典部の面々に疑問点を次々と指摘され、さらには入須に躍らされていたことを見抜き、推理の歓喜から自己嫌悪へと陥る展開はかなり痛い。しかも、その入須も自分の真の企みが暴かれたことに逆上するも、その相手にはさらりとかわされてしまう。彼ら以外にも、自分自身が他の誰にもない才能があると思いたい人たちの希望が次々と打ち砕かれていくのは、読んでいてかなりきつい気持ちになっていく。このシリーズはまだ続いているようだが、果たして折木は、どう立ち直るのだろうか。


前の月へ   トップに戻る   インデックスに戻る   次の月へ