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2011年2月の見聞録



2月1日

 松本健一『司馬遼太郎 歴史は文学の華なり、と。』(小沢書店、1996年)を読む。表題作が、司馬文学を総括的に論じており非常に興味深い。司馬遼太郎は、そもそも歴史に題材をとりながらも、それを超える伝記ロマンから作家としての道を歩み始めた。そこから、歴史上の人物に夢を仮託する形で描くヒーロー小説、つまり『竜馬がゆく』や『燃えよ剣』など執筆するようになる。これらの作品に対して、司馬には歴史的事実に関する誤認があるという批判は、確かにその批判そのものは事実としても、ややずれている。なぜならば、おそらく司馬に言わせれば、自分は歴史を題材とした小説を書いているのだ、ということになるはずだからだ。司馬は事実を踏まえた上で、自分の美学を反映するために事実の取捨選択を行っていたにすぎない。たとえば、土方歳三を描くにあたって、司馬は彼を「士」と見立てるのだが、土方が拷問を行ったという事実は取り上げられていない。その後、ヒーロー小説から歴史小説へとうつるが、そこで用いたのは「鳥瞰」によって空間や時間を上から眺める形で歴史を描くという手法である。『坂の上の雲』は明治という日本が力を伸ばしていく時代に生きる人々の物語を、平均的時代人を俯瞰しながら描こうとした。高度成長期の現在に生きる日本人は、そこに自分たちの姿を仮託することにもつながった。しかし、その時代が終わりバブル経済へと突入するころには、それを唾棄した司馬は歴史物語を描かなくなる。そして、バブルを超えるような作品を描きえなけかった。
 『坂の上の雲』に関しては、浅羽通明『ナショナリズム』がこれを「プロジェクトX」とたとえているのと同じ認識と言える。ちなみに、最後のバブルに関して興味深いことを指摘しているのが、塩野七生である。塩野は司馬を「高度成長期の日本を体現した作家」と評している(68頁)。著者は塩野が司馬に引導を渡した、と述べているが、その塩野が後にローマの「滅亡」までを描いた『ローマ人の物語』を執筆したのは、実に示唆的であろう。鳥瞰というキーワードを元に司馬の作品から、イデオロギーや戦争への嫌悪などを読みとりつつ、司馬作品の失敗例や成功例を語った「<鳥瞰>という方法」も興味深い。司馬作品への賞賛や嫌悪を超えて、作品を考察することに興味がある人は読んで損はないであろう。
 なお、石原千秋は『漱石研究』第6号(1996年)にて、漱石ブームのなかで司馬遼太郎がカルチャーセンターにおいて漱石を不幸な生い立ちである庶民作家というありきたりなイメージで語っていた、と批判した。ここには司馬遼太郎など純文学の次元からすれば低俗なものであるというエリート主義が透けて見える(17〜18頁)。このサイトで何度も語っている通り(特に「苛立つ神学者のご託宣」「アトランティス伝説が孕むアカデミズムの袋小路」)、学者は神学者のごとく上から物を教えてやろうという態度に出る人がいかに多いかを物語っている。


2月6日

 田代裕彦『痕跡師の憂鬱 2 密室の錬金術』(幻冬舎、2010年)を読む(前巻はココ)。学園に通いながら警察の仕事もしているレウが、語らずの痕跡師と呼ばれる頭脳明晰な捜査官であるクロムウェルと出会って1年が過ぎた。クロムウェルの友人である錬髄術師・キャヴァリエに研究棟を紹介されたのだが、その翌日、キャヴァリエの恩師が、凍り付いた実験室内で凍死しているのが見つかる。その部屋は密室であるだけではなく、実験のために完全に魔力を遮断される場所でもあった…。
 前巻と同じく本巻でも、魔術なくしては不可能な犯罪を、魔術という論理に基づいてきちんと説明するスタンスが取られている。ただし、著者がいうところのミステリではなくファンタジーという主張に反して、本巻はミステリに近づいている気がする。このシリーズを通してどのようなファンタジーが描きたいのか、という点がややぼやけている気がするのは気になるところだ。別に魔法に基づくスペクタクルな物語を期待しているわけではない。魔法と科学が混在している世界と人間の生き方という意味でのファンタジーを描いてくれるのではないか、と少し期待しているので。
 なお、事件とともにレウとクロムウェルの恋愛めいたものも描かれるが、それはまあ特に興味はない。ただし、クロムウェルが自室に招いた女性の肩を抱いていた、という事実はどう解決されたのかが明示されていない気がするのだが。ただ、話をするだけならば、肩を抱く必要はないと思うので。


2月11日

 リチャード・ローティ(小澤照彦訳)『アメリカ未完のプロジェクト 20世紀アメリカにおける左翼思想』(晃洋書房, 2000年)を読む。「『HUNTER×HUNTER』 23巻 富樫義博著/偉大な物語の本質について」に挙げてあるのを見て、興味がわいたので読んでみた。冨樫義博は「「仲間でない人」に対してどこまでも冷酷になれるという人間の本質」を常に描いている、という論点の前置きとして本書を紹介しているのだが、それよりもこの記事の方が分かりやすく、本書はあまりピンとこなかった。とりあえず著者の主張を簡単にまとめてしまえば、現代のアメリカにおける左翼は、労働組合を中心とした福祉国家への推進を狙うかつての改良主義左翼よりも、制度そのものへの問いを行う文化左翼へと変質してしまった、といったところか。デューイあたりを模範として後者を批判しているのだが、個人的にはそのあたりも何も感じない。結局のところは、世俗から離れた学者の言葉遊びに見えてしまったので。新たなパラダイムは、それを提示した人よりも後世の人間の方が分かりやすく説明できるし、なおかつその理論を活用できるのかな、と。


2月16日

 にざかな『B.B.Joker』(白泉社C)4巻5巻(前巻はココ)。これで完結。怒濤の展開を予想したのだが、あっさりと打ち切りのように終わってしまった(実際には打ち切りというわけではなかったと思うのだが)。期待とは違っていたのだが、こういう終わり方の方がこの作品らしいのかもしれない。


2月21日

 カーター・J・エッカート(小谷まさ代訳)『日本帝国の申し子 高敞の金一族と韓国資本主義の植民地起源1876−1945』(草思社、2004年)を読む。韓国・北朝鮮の研究者は、日本統治以前の朝鮮経済は停滞していたという説に反対して、李朝期に生じた貨幣経済の発展や新興商人階級による投資、そして農村における商業化に伴う賃金労働者の登場などから、すでに資本主義は準備されていたと主張することが多い。一方、日本の研究者は、日本の投資によってこそ朝鮮経済は発展したと見なしがちである。著者は、資料に基づきつつ、そのいずれにも反対する。朝鮮経済が内在的な発展を遂げていたとしても、資本主義経済への離陸は、確かに日本による投資なくしては成功しえなかった。だが同時に、だからといって日本は朝鮮半島のことを考えて行動していたのではなく、あくまでも自国の利益を考えて投資していたにすぎない、と断ずる。そして本書では、日本の庇護のもとで勃興した新興資本主義階層のうち、金一族を視座の中心に据えて、その全体的な流れを眺めていく。
 明治期の日本は、工業化に伴って生産が増大した自国の製品を輸出する市場として、朝鮮半島に目をつけた。はじめのうちは民間資本の参入を拒んでいたが、1919年には政策を転換する。日本の工業製品の需要が高まったために、領土となった朝鮮半島でも製造業を発展させる必要性が出てきたからである。このころから、政府が朝鮮半島で事業を行う企業に対して補助金を出した事実も、それを物語っている。そして朝鮮半島では、満洲をはじめとする北方の市場に対応するための工業製品が生産されるようになっていく。1910年には製品生産量に占める工業製品の割合は3.3%にすぎなかったが、29年には12%、40年には22%にまで上昇している。
 こうして日本は朝鮮経済に食い込んでいくのだが、地主階級出身者を中心とした朝鮮人の産業資本家も、日本を手本にしながら成長していく。そもそも1919年には三・一独立運動によって、朝鮮人の日本に対する反発が高まったのだが、朝鮮総督府は日本による産業化に朝鮮人資本家たちを取り込んでいくようになる。実際に、1945年までには、朝鮮半島における資本総額の10%を朝鮮人自身が有していた。これを10%しかないと見て批判することもできるが、ここには日本・朝鮮合併会社が含まれていないことを見れば、朝鮮人のみの資本家の比率を決して低く見積もるべきではないと言える。
 そして、朝鮮資本と総督府の結びつきの端的な事例が、金一族の運営する会社の京紡であった。朝鮮経済にとって重要な地位を占め続けた朝鮮殖産銀行は、京紡にとって重要な融資元であった。それだけに留まらず、京紡は殖産銀行系列におけるいくつかの会社の共同経営者にもなっていた。これによって利益を得た京紡は、内部留保を貯めていく。1933年には4462円にすぎかったが、1945年には法定準備金だけで85万円、別途積立金は300万円にも上った。
 京紡は紡績工場を建設していくが、もともと日本は、原綿の供給地として日本よりも綿花が育ちやすい朝鮮半島に目をつけていた。そのため、朝鮮産の原綿は日本に輸出され、朝鮮は質の劣るインド面を輸入せざるを得なかった。しかし、京紡による朝鮮産の綿製品は、日本統治下の大陸において売り上げを伸ばす。ここにも日本と朝鮮資本家の共存が見られる。そもそも満洲においては、朝鮮人は中国人によい感情を持っておらず、日本はそうした感情をも利用して帝国主義の中に朝鮮人を取り込んでいった。
 その一方で、京紡では朝鮮人の労働者が酷使されていた。この当時の日本では、工場法が改正されて、1日の実労働時間は8時間半であった。だが京紡では、12時間ずつの二交代制が行われていたため、実労働時間は11時間を超えていた。また1930年から32年にかけて、工場拡大のために資金繰りに苦しむと、31年春には賃金を20%引き下げている。こうしたなかで労働運動も起こったものの、すぐに下火になっている。これは警察が介入したためだが、ここにも京紡と日本の統治者との間の密接な関係を見て取れる。ここには朝鮮人を大事にすべきというナショナリズムは見られず、むしろ事業拡大のために日本人の支配者へと帰属していった姿が浮かび上がる。さらに当時の金一族は、朝鮮の青年を日本軍に志願させようとする総督府に協力すらしている。
 以前、イザベラ=バード『朝鮮奥地紀行 1』を読んだ際に、釜山には多数の日本人が住んでいて銀行業務や郵便・電信などの公共事業を担っていたという記述から、朝鮮併合以前から日本人による事業は進められていたのであり、朝鮮合併によって近代化の恩恵がもたらされた、というのは単純すぎるのでは、と書いたことがあるが、本書は学術的にこうした感想を裏付けてくれた。本書の著者はアメリカ人であり、一次史料をおさえた歴史書になっているが、第三者によって執筆されているがゆえに、冷静な指摘を行っていると言えよう。戦前の朝鮮半島の発展に日本は重要な役割を果たしたといえども、日本は朝鮮半島のことを考えていたわけではない、という主張に基づく本書が、韓国や北朝鮮でまだ翻訳されていないという事実そのものが、この問題に対して当事者はまだ客観的になりえていない証左でもある。
 なお、朝鮮殖産銀行の頭取となった有賀光豊は、朝鮮人に対する給与の差別を撤廃したそうである。たとえば、日本人が月給100円ならば、朝鮮人は60円しかもらえなかったということを止めて、同じ給与にした(132〜133頁)。


2月26日

 秋山瑞人『イリヤの空、UFOの夏』(電撃文庫、2002年)第3巻を読む(前巻はココ)。いつものように短編連作になっており、1つ目の短編は伊里野と晶穂の張り合いが、大食いバトルのような形で描かれている。このまま、近未来のどこかと戦争中の日本という設定は舞台装置として使われていくのかなと、と思いきや、物語は急転直下し、戦争というリアルが前面に出てくることになる。そうしたなかで伊里野をめぐる真実が明らかになるのだが、高橋しん『最終兵器彼女』に近い。次巻で完結のようだが、どのように終わるのかが楽しみ。


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