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2011年3月の見聞録



3月3日

 中野等『文禄・慶長の役』(吉川弘文館(戦争の日本史16)、2008年)を読む。文禄・慶長の役は、秀吉が国内統一を終えて海外へ乗り出したという点で、段階的に別の政策などではないという立場から、この戦役を叙述していく。つまり、日本を統一していくなかで自らの権力の根拠を朝廷権力のなかに置いた秀吉は、朝廷の支配範囲を拡充するという方針に基づき、勢力範囲を朝鮮半島や中国大陸へと広げていこうとしたと捉える。だからこそ、秀吉は天皇を中国の皇帝に就けることすら考えていたと思われる。さらに、全国の大名を朝鮮出兵に向かわせようとしたことそのものが、大名が自分に従っているという日本統一の証にも成り得るわけである。
 具体的な過程に関しては、メモ以上のものについては省略するが、興味深いのはこの主題の前提となっている国境の考え方。近代国家は国境を明確に定めた上で領域を確定するが、当時はこうした国境=バウンダリーの概念ではなくフロンティアが意識されていたと見なす。フロンティアは国境外の領土という意味ではなく、単に中央の支配力が弱まった場所と見なされる。したがって、国境が本質的に内向きであるのに対して、フロンティアは外向きであると言える。となると世界帝国にとって、自分たちの領域とは世界の限界にまで拡大することを意味する。この説明は、ブルース・バートン『日本の「境界」』(青木書店、2000年)に由来するものらしいのだが、これは前近代の国家や外交を理解するにあたって重要ではなかろうか。
 なお、これに関して細かいことを1つ。上記のフロンティアの説明において、著者は地理学者L.クリストフなる人物の文章を引用しているのだが、その出典がよく分からない。もしかして、上記のバートンの本からの孫引きかもしれないのだが、その点はきちんと明記しておかねばならないのではなかろうか。
 以下、メモ。秀吉が侵攻した当時の朝鮮半島は、支配階級における派閥争いがあったために対応が遅れた(37〜38頁)。朝鮮王朝は両班、中人、常民、賤民の4つに身分が分かれていたが(仏教の地位は低く僧侶は賤視されがちだった)、朝鮮侵攻によって支配機構が壊滅状態に陥ると、身分制の下で圧政を受けてきた民衆は暴徒化した。特に賤民に位置づけられる奴婢は積極的に日本軍に協力した。日本側も、これを巧みに利用して、各地における武将の兵糧調達を許すと共に、それを現地人へ扶助することをも認めて、人心を味方に付けようとした(50〜51頁)。なお、朝鮮侵攻が善であるというつもりはないが、ただ日本が悪かったと声高に訴えるだけでは、歴史から学ぶことはできないだろう。そう訴えるのは自分を絶対善に位置づける神学にすぎない。
 朝鮮側に参戦した明は、やがて戦局が膠着すると日本との和平を行おうとした。ただし、朝鮮側は一貫して講和に反対であったので交渉そのものの打ち切りを求めていた。だが明の遠征軍側は、表向きは日本征伐を約束しつつ、実際には朝鮮軍に攻撃停止命令を出していた。朝鮮国王は明の朝廷へ使節を送ろうとしたが、明の遠征軍の妨害によって阻止された(114〜115頁)。日本側も1595年段階での講和では、それ以前の主張とは大きく異なり、明を日本よりも上位に置きながら朝鮮を下に置くという形での講和を行おうとした(174〜175頁)。この和平も、秀吉が求めた朝鮮王子の日本来訪がなされなかったためと解されるのが一般的である。秀吉が講和に望む前提は「大明からの詫び言」つまり明の降伏であり、諸大名にもそのように説明してきた。これが果たせなければ秀吉の権威は揺らぐ恐れもあった。そのためにも朝鮮半島に領土を確保するのが不可欠であった。その上で著者は、王子参与が問題となったのは、明とは和解したままの状態で朝鮮王国には勝利したという状態にしたかったがために、あえてこれを講和交渉破綻の責任にしたのではないか、と推測している(184〜185頁)。


3月8日

 橋本紡『猫泥棒と木曜日のキッチン』(新潮文庫、2008年(原著は2005年))を読む。母親が家出した少女とその弟の物語…と書くと、何となく暗くて貧しくてつらい話を想像してしまいがちだが、そのような要素はあまり描かれない。むしろ母親がいない日常が淡々と描かれ、彼女に恋する少年が現れて、拾ってきた猫の死をきっかけに2人が結ばれ、猫のために立ち上がる、という物語がそのままのタッチで紡がれていく。こう書くと面白くなさそうなのだが、そうではなくて、ドラマティックに盛り上げずに押さえて書くということそれ自体によって、現実の厳しさを感じさせつつも、ほのかな救いを醸し出す辺りがなかなか上手い。決してけなしているのではなく誉め言葉として書くのだが、高校生あたりの読書感想文用の本としていいのではないだろうか。


3月13日

 桜井哲夫『社会主義の終焉 マルクス主義と現代』(講談社学術文庫、1997年(原著は1991年))を読む。原題は『メシアニズムの終焉 社会主義とは何であったのか』であり、これの方が内容を分かりやすく示している。一言でまとめれば、20世紀の支配的であった思想は、天皇制軍国主義やナチズムも含めて、救いを得られるメシアのような存在を求め続けるメシアニズムであり、その最たる例が社会主義であった、というもの。私は近現代史については門外漢であるが、それでも20世紀をメシアニズムの時代と捉える見方は、(もしかしたら、もうすでに主張している人はいるのかもしれないものの)かなり的確なのではないかと感じた。なお、本書を読もうと思ったのは、神永正博『未来思考 10年先を読む「統計力」』に、本書での知識人の特権的意識への言及に触れた箇所があったためなのだが、その点こそ、本書の核をなす部分とも言える。大雑把にまとめてしまえば、学校制度の下で登場してきた知識人たちは、自分たちを聖職者のような社会の指導的な地位に置こうとした一方で、学歴社会が到来して専門家としての知識人も現れていくと、前者の考え方はその到達点とも言える社会主義の破産によって崩れていった、といったところか。実際には、様々な実例を挙げてサン=シモン主義から現代に至るまでの事情をまとめているので、これはかなり乱暴なまとめである。個人的には知識人の傲慢さについて興味を持ったのが本書を読むきっかけだったので、その点を大まかに確認できれば十分であるため、このようなまとめ方になってしまった。このあたりにきちんとした情報をもつ人たちならば、本書を読めばもっと詳細かつ深い知識を得られるであろう。ちなみに、こうした構造が現在まで続いているのは、「苛立つ『進学者』のご託宣」>でも述べた通りである。以前は、本書でも論じられている通り、知識人は神学者であるのに稼ぎが低い現状に対して、社会への批判を行っていた。だが現在は、神学者としての地位が確立されて収入が確保されているものの、祭り上げられないことに不満を持っている、という点が少し異なるところか。むしろ事態は悪化したようにも見える。
 なお、知識人が自分たちに対して特権的な意識を抱いている点が読みとれる箇所を幾つか本書から挙げておく。サン=シモンは「世俗的権力は今日では産業者の手に移し、精神的権力は科学者の手に移すべきだという意見は、それゆえ、全西欧が巻き込まれている危機を終わらせることのできる唯一の意見であります」と述べている(17頁)。また、彼の弟子にあたるオーギュスト=コントは「自然科学の発展が、新しい精神的秩序を生み、実証的知識が、教育のなかに徐々に浸透し、それまで精神的権力の外におかれていた学者が、聖職者が徐々に失った影響力をすべて獲得したとも述べている」(23頁)。


3月18日

 秋山瑞人『イリヤの空、UFOの夏』(電撃文庫、2003年)第4巻を読む(前巻はココ)。前巻を読んだ際に、どのようなラストを迎えるのか楽しみ、と書いたが、そのような楽観的なコメントが吹き飛ぶほど、本巻はキツい。浅羽は伊里野と2人で逃避行の旅に出るが、中学生2人の旅が決して上手くいくはずがない。その辺りの破綻から、伊里野を足手まといに感じた浅羽が吐き捨てる「お前なんか嫌いだ」という台詞。そして、伊里野の心の崩壊から、2人の出会いに遡る伊里野の本当の思い。さらには、伊里野を戦わせたい大人の側の醜悪な策謀と、実は締め付けられている精神。ラストに至るまで、読んでいてかなり痛い場面が続く。最終的には世界は救われたのに、そこに含まれる哀しみが、メジャーキーなのに悲しさを感じるバラードのようでもある。やっぱり高橋しん『最終兵器彼女』を思い出すのだが、こちらの方が捻りのあるボーイ・ミーツ・ガールものとして焦点が絞れているのではないか。というわけで、きつい恋愛ものが好きな方に、すべての巻を読むという前提でお薦めできる。


3月23日

 神野志隆光『複数の「古代」』(講談社現代新書、2007年)を読む。いわゆる古代を、現在から見た古代ではなく、古代人から見た「古代」と定義づけるとき、『日本書紀』と『古事記』ではそれぞれ異なる複数の古代が浮かび上がることについて、あくまでもテキストの理解から浮かび上がらせていく。全体的なテーマを大雑把にまとめれば、『古事記』はオーラルな世界に留まり続けたが、『日本書紀』ではすでに伝わっていた文字に基づいた文化国家への確立が始まった推古朝より前を古の時代とみなしていた、といったところか。『古事記』における天皇の元での支配構造の重要な概念は言葉である。政を行う臣下たちは、荒ぶる神々や従わぬ人々を、言葉によって相手をこちらに向けて従わせて、天皇はそれを聞くことによって世界を保つ。これに対して『日本書紀』では、推古朝には文字の文化国家として世界が運行されるに至ったと認識されている。その須子町にて中国との高所を含むやり取りが行われ、持統朝に世界に共通の形で文化国家が作り上げられたと、認識されているわけである。現実的な世界としてではなく、あくまでも当時の人々がそのように認識しという点が重要であり、そのような点からテキストを読み解くべきであるとする。
 こうしたテーマそのものには興味があるものの、あまりピンと来なかった。といってもこれは私の個人的な趣味の問題であり、本書が国文学的なアプローチだからであろう。どうしても歴史学的な立場からの見方の方が好みなので。
 なお、日本と外国の関係について、『日本書紀』では、中国によって正式に認められる形で日本という国が位置づけられる。これは日本が朝鮮に対する大国として位置づけようとしたことでもある。これに対して『古事記』では、神功皇后の朝鮮征服に対して日本という言葉が現れないという。つまり、朝鮮は日本を中心とする天下の一部として存在することになる(113〜117頁)。なお、このあたりについては、国境と辺境という観点から秀吉の朝鮮征伐を位置づけようとした中野等『文禄・慶長の役』との比較も面白いかもしれない。


3月28日

 支倉凍砂『狼と香辛料』(電撃文庫、2006年)第2巻を読む(前巻はココ)。前巻に続いて、中世ヨーロッパをモデルとした世界での、行商人ロレンスと「狼の賢神」ホロの活劇を描いてるのだが、やはり同じく、いわゆるファンタジー小説的な剣と魔法のヒロイックなストーリーではなく、商人の世界を現実的に描く。前巻で感じたような中世ヨーロッパ的な世界観は、この巻ではあまり前面に出ておらず(森の不気味さ辺りには何となく感じられるが)、前巻よりもさらに商人同士の駆け引きが主題になっている。表紙の解説文に「商人生命を立たれるほどの窮地に」とあったので、和やかな途中までの展開を読んでいても、どうせピンチが訪れるのだと思うと、どうも胸が締め付けられるような感じで読み進めてしまった。ファンタジーものの場合、登場人物が何らかのピンチを迎えると分かっていても、こう感じることはないのだが、ある意味青木雄二『ナニワ金融道』を読んでいるような気分になってしまった。


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