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2010年11月の見聞録



11月3日

 神永正博『未来思考 10年先を読む「統計力」』(朝日新聞出版、2010年)を読む。前著『不透明な時代を見抜く「統計思考力」 小泉改革は格差を拡大したのか?』における統計の分析の続編に近い。テーマは「少子化と結婚」「都市と高齢化」「仕事と経済」の3つ。以下、メモ的に。
 少子化の最大の原因は乳幼児の死亡率の低下だが、ヨーロッパが200年以上掛けてゆっくりと低下していったのに対し、日本をはじめとするアジアは、ヨーロッパの技術をある程度完成したパッケージとして受け入れたため、100年ほどで急激に低下していったことが、人口比のバランスを崩す結果となっているようである(25〜28頁)。ベルリンの壁崩壊後の旧東ドイツは、合計特殊出生率(出産可能な年齢と想定される15際から49歳までについて、個々の年齢の出生率を合計したもの)が、1990年の1.5前後から1993年の0.8以下へと急激に落ちている。これは状況から考えて、社会が不安定になったためと考えられる。となると、現在の日本の状況も社会の不安定が原因かもしれない(34〜36頁)。出生動向調査によれば、日本人の結婚に関して出会い年齢や初婚年齢はここ20年でさほど上昇していないが、平均交際期間は2.5年から3.8年へと上昇している(48〜50頁)。なお、結婚を遅らせる原因として、生活水準の低下、晩婚による出産リスクの増大、母子家庭になってしまった場合の貧困化を挙げている。ちなみに、出産リスクに関して、産婦人科医の減少も挙げているが、これには医師1人あたりの訴訟率が極めて高く、第2位の外科医でも0.5%なのに、産婦人科医は1.5%と極めて高いためではないかとしている(72頁)。
 2007年の時点で、義務教育の年齢の子どものうち14%近くにあたる140万人が修学援助を受けている。特に大阪はひどく27.96%の生徒が援助を受けている(87頁)。
 実質的な失業率は雇用保蔵を加えるとさらに高くなる。雇用保蔵とは、社内に余っている労働者のことだが、2009年には607万人に達し、この数字を基に失業率を計算すると14.3%になる(174〜176頁)。最低賃金の引き上げによって貧困層の援助を行うというのはうまくいかない可能性がある。というのは、最低賃金で働いている人の50%は年収500万円以上の世帯主に非世帯主して属しているからである(184〜185頁)。『データブック国際労働比較2009』によれば、生活に必要な、食料・医療・被服が買えなかったことのある人の割合は、日本でそれぞれ4%・4%・5%である。フランスは8%・5%・6%、アメリカは18%・15%・21%、インドは44%・52%・44%となっており、日本は際だって高いわけではない。ただし日本は、生活保護を受けているのは0.7%にすぎず、なおかつ現役労働者の平均所得に対する生活保護給付額の比率は54%とOECD加盟国の中で7位となる。となると日本は生活保護をもらいにくいが、1人あたりの給付額は高めということになる(205〜206頁)。世界的にいえば絶対的な貧困ライン以下の人の割合は減っている。たとえばアメリカで1.25ドルで買えるものがその国でいくらで買えるのかを換算して、その金額以下で生活している人の割合は、1981年の51.8%から2005年の25.2%へ減っている。これは、グローバル化の恩恵と考えられる(232〜233頁)。
 以上メモ的に挙げてきたのだが、個々の統計データやその分析には「なるほど」と思うことが多い。しかし、それではどうすればいいのか、ということについてはあまり見えてこない。少子化対策については保育所を充実させて安心して子育てできる社会をつくる、非正規雇用者の待遇が、リスクの割によくないことが問題なのではないか、技術力を生かすための制度のイノベーションが必要、などの主張があるとはいえ、そこには具体性がない。知識人や学者は、すでに終わってしまった過去のことを解釈することは長けていても、その先の道をつくる能力はない、ということだろうか。もちろんこれは私自身にも跳ね返ってくることである。過去の整理だけでもいいんだと開き直って、自分は偉いわけではない、という謙虚さを持ちながら研鑽していくべきなのかもしれない。


11月8日

 貴志祐介『クリムゾンの迷宮』(角川ホラー文庫、1999年)を読む。会社が倒産してから、うだつの上がらない暮らしをしていた藤木は、目が覚めると突如として見たこともない岩山のなかにいた。手元にあったゲーム機は「火星の迷宮へようこそ」という画面が映し出された。やがて、藍という女性と出会い、さらには別の者たちとも出会う。しかし、このゲームが実は生き残りをかけた殺し合い、さらには食人鬼から逃げる命懸けのゲームであることを思い知ることになる…。
 ゲームという舞台設定から何かバーチャル空間というオチになるのかと思いきや、真っ当なサバイバルゲームが繰り広げられていく。藤木が感じつづける違和感と視線、そして藍の存在が一種の伏線となっていて、からくりとオチは少し現実離れしているものの、オーソドックスなものといえる。面白くないわけではないのだが、どうしても『黒い家』を読んでしまうと、あちらの路線の本を書いて欲しいなあ、などという勝手な感想を抱いてしまう。


11月13日

 山形浩生『要するに』(河出文庫、2008年(原著は2001年))を読む。雑誌メディアに発表してきた時評コラムをまとめ、前文として長めの論評を付け加えたもの。その意味では、山形浩生『新教養主義宣言』に近いし、その序文の内容も「単発の知識として色々な要素を教え込むだけではなく、それをつなげていく教養の体系を伝えていきたいという姿勢」という前著の意識を踏まえつつ、専門家とジェネラリスト、原理と現実的運用の溝を埋めるための方法論を述べている、といったところか。専門家の話はその領域内では面白い場合もあるものの、その外側にある他の専門家と話が噛み合わないことが多いし、その人自身に常識がない場合もある。「各種の政府系の審議会だの懇親会だので、それぞれの分野では一流の人々が集まって、学習塾を禁止しろとか二次方程式は教えなくていいとか、目をむくような馬鹿なことを平然と口走っている」(15頁)のは、そうしたタコツボ化した学者の典型例である。
 だが、専門家同士の間に入って話をつなごうとする者、つまりジェネラリストは、たいがい専門家に嫌われる。それを避けるために、人権や民主主義という大きな原理を持ち出して、それを現実に当てはめて話を終わらせるというやり方をする者もいる。けれども、そういった概念と現実的な運用の間には幾つものステップがあり、それをすっ飛ばすのはあまりにも乱暴であろう。たとえば、民主主義は大切なのでみんな選挙へ行こう、という直結のさせ方である。しかし、1人で10票を投票するというやり方や、選挙権を売買するるというバリエーションが存在してもおかしくない。それがいいか悪いかではなくて、絶対的な概念は存在せず、時代によって変化するものだというにすぎない。にもかかわらず、専門家は何らかの価値観を提言した人に、そんなことは現状では不可能だと専門的な知識をひけらかして黙らせようとする。非専門家は自分の価値観をお題目で終わるレベルでしか表現できていない。その間をつなぐような、「要するに」こういうことなのだという文章を集めたのが本書といえる。
 著者はシンクタンクに勤務し、海外でのプロジェクトに携わっているからこそ、専門家と実務の間をつなぐ論理が必要だということを肌で感じ、またそれをきちんと表現できる能力もあるのだろうな、と。あるエッセイのなかで、現在の日本語の文章には読み手へと語りかけるものがほとんどない、と指摘しているが(「一、二人称がない」(170〜172頁))、こういう現状認識も「要するに」という文章が少ないことにつながっているのだろう。ただし、そもそも現在のいわゆる学者や研究者というのは、特に文系の場合(私自身も含めて)、結局のところ後追いで事実を指摘する存在にすぎないからこそ、「要するに」という文章を書けないという気もする。このあたりは、浅羽通明『大学講義 野望としての教養』(時事通信社、2000年)にて、殺人が行われてからノコノコと現れて謎解きをしてみせる金田一耕助を、「近代知」になぞらえていることの引用なのだけれども。
 以下メモ的に。戦後日本の高度成長は官僚に支えられた、とみなされる場合も多いが、その逆に官僚の動きは一貫性や論理性がないという説も少なくないようだ。つまり運がよかったにすぎないのでは、ということになる(40〜43頁)。ちなみに、これは官僚はダメだということではなく、官僚いじめもほどほどに、という主張のエッセイに書かれた文章。
 発展途上国での融資事業に成功したグラミン銀行は、貧乏人は正直だからきちんと返済するから、という理由で上手くいったわけではない。債務者のグループを作らせて、連帯責任を取らせるという方法をとることで、相互に監視させている(101〜102頁)。
 ミヒャエル・エンデは、「パン屋のお金とばくちのお金」という言い方で、利子を取って儲けることを批判している。しかし、両者は切り離されているわけではない。工夫をして生産力を高めるための手助けをするものが金利であり、またお金を通じて行った見返りにもなる。金利は、技術革新や工夫に代償を支払うシステムのようなものであり、それがなければ進歩のない社会のシステムになってしまうとも言える。「エンデはそれでいいんだろう。エンデは、進歩のない社会がいいと思ってるんだからただ、その進歩のおかげでエンデみたいな小説家が苦労せずにそれだけで生きていける社会が成立したんだ、ということは忘れないでおく必要がある」(118頁)。
 ところで、文体を解析するソフトは不可能ではないのではないか、という予測をしているが(290〜291頁)、このことは私も知人と話したことがある。「○○君」といったような文体作成ソフトがいくつもつくられて、情報を流し込めばお好みに文章が書けるようになって、どの単語を検索したのかがオリジナリティとして評価される時代が来るのではないか、と。


11月18日

 ゆうきゆう・ソウ『おとなの1ページ心理学』(少年画報社、2009年)第2巻(第1巻はココ)。前回と同じくくだらないネタの連発だが、馬鹿馬鹿しさはそのままで、何となくネタがこなれてきた感じがする。個人的に一番面白かったのは、「おとなのあいうえおひょう」。よくもまあ、こんなくだらない下ネタ関連のあいうえお表をわざわざつくったな、と(誉め言葉なので、念のため)。その次に面白かったのは、大学時代のクラブ遍歴を綴ったあとがきだったりする。


11月23日

 高橋昌一郎『理性の限界 不可能性・不確定性・不完全性』(講談社現代新書、2008年)を読む。たくさんの登場人物による架空の対話形式で、「選択の限界」(アロウの不可能性定理)、「科学の限界」(ハイゼンベルグの不確定性定理)、「知識の限界」(ゲーデルの不完全性定理)の基礎を紹介していくという面白い試みの本。形式だけが会話で、単に情報を羅列したようなものとは異なり、対話による議論の高まりと知識の教授がうまく噛み合っている。正直言って、第3章は私自身の知識のなさから理解できなかったが、私自身がある程度知識のあった第2章に関しては、分かりやすい入門になっていると感じられたので、論理や認識について興味がある人には楽しみながら読み進められる本になっているのではなかろうか。


11月28日

 にざかな『B.B.joker』(白泉社Jets C)第1巻を読む。4コママンガによるオムニバスストーリーもの。複数のストーリーが同時並行して進む。ほどよい壊れ具合が安定して面白い。個人的にはもっと壊れてもいいと思うが、そうなると一般受けは難しくなるかな。まあ、先の巻を読むと変わっていくのかもしれないが。


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