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2010年12月の見聞録



12月3日

 小島寛之『数学でつまずくのはなぜか』(講談社現代新書、2008年)を読む。取り上げられているのは代数・幾何・解析学・自然数なのだが、それらをすっきり手早く理解するための本ではない。また、数学を教える人のために、生徒のつまずきやすいポイントをうまく理解してもらう方法を記した本でもない。著者自身の言葉を借りれば、「どうやったらこどもたちから数学を学ぶことができるか」(3頁)についての本である。数学的な公理は完成されたものだと思われているが、決してそんなことはない。公理はいまだに完成型などではない。さらに、歴史的に時間をかけて作り上げられてきたなかで、失敗や間違いもあったし、遠回りもしてきた。現在の数学にはそれらによってつくられた傷やでこぼこがある。だからこそそこにつまずく人間もいる。著者は、これまで子供たちに数学を教えてきたなかで、このでこぼこにつまずくこどもたちから、逆に様々なヒントを得てきた。そこからまた新たに子供たちに数学をわかってもらうための方法を模索してきた。本書はそうした営みを記した本である。
 正直に言って、数学的な部分については私自身の理解力のなさから、よく分からない部分が多い。それよりもむしろ、著者の教育者としての実践活動とそこから導き出される言葉にかなり刺激を受けた。たとえば、マイナスの概念の説明として、生徒が冗談ぽく発言したバカボンパパの「反対の反対は賛成なのだ」を利用している。最も分かりやすい例は公理系をRPGにたとえた箇所だろう。つまり、「初めはごくわずかしかアイテムを持っていないが、経験値を獲得して、アイテムを手に入れて最後の敵を倒す」というRPGの流儀が、公理と論理的作業によって順番に定理を証明する作業に重ね合わされるわけである。ただし、あるゲームのルールはその世界のなかでしか通用しないのと同じく、定理が正しいのは同じ公理を持つ世界のみに限られる、という点も似ている。現代の子供はゲームを通じて、こうした論理を学んでいるとも言える。にもかかわらず、教師の説明通りに証明をなぞらなければ、つまるところ解答を暗記せねばならないという押しつけは、著者が述べているように子供の数学的な才能を潰すことにもなりかねないだろう。
 ところで著者は、数学嫌いの子供を減らすためにしばしば語られている2つの言説を否定している。まずは「数学は自由でファンタスティックなもの」という言説。そもそも学校の数学では、先述の通り、いかに教員の教え通りに解答を導き出すかに重きが置かれている。著者が引用しているS.ボウルズ・H.ギンタス(宇沢弘文訳)『アメリカ資本主義と学校教育 教育改革と経済制度の矛盾』(岩波現代選書、1986〜87年)〔未読〕の研究によれば、学校教育と語学・数学の成績は「創造性」「積極性」「独立心」と負の相関関係にあり、「我慢強い」「学校への帰属意識が強い」「如才ない」などと正の相関関係を持つという(29頁)。これについてさらに、学校を社会人の養成機関と見なせば、数学が得意な生徒は企業が雇用したい従業員の性向として好ましい、と述べている。つまり学校教育での数学は、自由でファンタスティックなものではないし、世間ではそのようなことを望まれていないことになる。このあたりは、本サイトでもしばしば言及している関曠野「教育のニヒリズム」(『野蛮としてのイエ社会』(お茶の水書房、1987年))と同じ主張でもある。
 否定するもう1つの言説は「数学は役に立つ」。こうした言説の背後に「役に立つなら認める」「役に立つものしか必要ない」という発想を見て取るためである。ただし、大筋ではその通りだと思うものの、少し極論すぎる気もする。これについては、東野圭吾『容疑者Xの献身』に登場した教師の台詞が分かりやすい。主人公でもある数学教師は、微分積分を学ぶことに疑問を持つ生徒に対して、その生徒に感心のある職で役に立っていることを示し、その職に就くための誰かのために数学という科目は存在している、と役に立つこともある、と返している。だからといって私は「役に立つ」と言いたいわけではない。「役に立つこともある」のではないか、ということだ。「役に立つ」という言い方の裏に、学者の傲慢が潜んでいると考えていることは、「アトランティス伝説が孕む袋小路」でも指摘したことなので。


12月8日

 貫井徳郎『殺人症候群』(双葉文庫、2005年(原著は2002年))を読む。警視庁内に秘かに存在する、警察が表立って動けない事件を処理する特殊チーム。今回の任務は、一見無関係のものと思われる複数の殺人事件の関係を調べることであった。それらの被害者はいずれも、かつて未成年時に何らかの重犯罪を犯した者たちであった。その背後には、彼らを葬る組織があることを突き止めたのだが、チームの一員である倉持は不審な行動を取り始める…。
 文庫版の解説で、かなりプッシュされていて期待して読んだのだが、正直に言うとそこまで面白さを感じなかった。著者の得意な叙述トリックはなかなかだと思うのだが、少年犯罪をどのように向き合うのか、という序盤のテーマに関連する人物が、後半には消えてしまい、肩すかしを食らってしまった。確かに、「犯人」や倉持もそうした過去と向き合っている人物なのだが、この組織やそれに関連したごく普通の夫婦の生き様がメインになると思っていたので、個人的には焦点がぼやけてしまっているように感じた。エンタテインメントとしては面白いけれども、テーマ性のある作品としてはいまいちかな、と。


12月13日

 水野尚『恋愛の誕生 12世紀フランス文学散歩』(京都大学学術出版会、2006年)を読む。恋愛は12世紀に誕生した、というのは阿部謹也『西洋中世の男と女 聖性の呪縛の下で』(筑摩書房、1991年(リンクはちくま学芸文庫版))によって、西洋史の分野では広く知られるようになった見解だと思うが、それを中世フランス文学の立場から眺めていった、といったところか。トゥルバドールと呼ばれる12世紀の恋愛詩は、夫婦ではない男女の間での意志と理性によって選択された思慕を歌い上げたものだが(多くの場合、領主の妻と宮廷に集う遍歴する騎士との関係)、それは古代ギリシア・ローマにもキリスト教にもなかったものだった。性的なものを超えた男女間の愛情はキリスト教によって準備されたと思うのだが、彼らは肉体関係そのものを否定しているわけではなく、恋愛を長続きさせるためには障害が必要であると考えていたために、安易に肉欲に浸るべきではないと考えていた、としている。
 個人的には上記の阿部謹也の本で知っていた概念を、より同時代の文献から眺めた本という感じで、するっと読み流してしまったのだが、まだ読んだことがない人からすれば、もっと驚きをもって読むことができるかと思う。
 なお、阿部謹也の本にも書いていたのかもしれないが、封建関係と恋愛の相似性の説明は非常にわかりやすい。つまり、中世の封建関係では、君主が封土をあげる代わりに、下位者は軍役による奉仕を行うが、中世の恋愛関係では、上位者の貴婦人が指輪や接吻を与える代わりに、騎士は愛の奉仕を行うという点で、封建関係をそのまま利用している。ただし、こうした恋愛関係の成立により女性は上位の地位に置かれるとあるが、中世初期までは女性も相続権があったことから考えると、封建関係から女性を排除したうえでそれに似た関係がつくられていった、と考える方が自然な気もする。


12月18日

 にざかな『B.B.Joker』(白泉社C)2巻3巻<>を読む(前巻はココ)。ストーリー展開のある4コママンガのシリーズの続き。全体的にブラックなものかシュールなものが多いのだが、個人的には、一人暮らしの女性が少しずつおかしくなっていく「グリーンハイツ203」の壊れ具合が楽しみ。後は、周りの人間にトラブルを呼びまくる真知子シリーズも結構楽しみ。


12月23日

 米田雄介『藤原摂関家の誕生 平安時代史の扉』(吉川弘文館、2002年)を読む。平安初期から藤原摂関家の確立までの政治史を、先行研究を踏まえながら紹介していっている。仕事の必要上から読んだので、特に深く関心があったわけではないのだが、このあたりの時代についてまず基本的なことを知りたい人にとって、十分な入門書たり得ていると感じた。なお、個人的に興味深かったのは、承和の変や応天門の変に関する藤原氏の動向。藤原家が政権を掌握するために他家を陥れるべく策謀したとの一般的な理解に対して、確かに自家の繁栄を狙ったものの、策謀というものではなく、他家が排斥されたように見えるのは結果に過ぎないという点を強調している。


12月28日

 芥川竜之介『羅生門・鼻・芋粥・偸盗』(改版、岩波文庫、2002年)を読む。岡野宏文・豊崎由美『百年の誤読』を読み、「羅生門」が、「カット割りのモンタージュ手法といういわば映像的とも言える手法を用いており、極めて現代的な作品」であるというのを知り、彼が古典を題材にして書いた歴史小説を読んでみることにした。文学には疎いので、これらの作品が文学史的にどのように評価されてきたのかについては、恥ずかしながらよく分からないし、執筆当時の時代的背景からどのように読み解けるのかについても同様である。いずれの作品も『今昔物語集』や『宇治拾遺物語』などの平安・鎌倉文学に記されている逸話をモチーフとしているらしいのだが、勉強不足ゆえに、もともとの作品についてもの知識も全くないので、どうアレンジしているのかも分からない。
 …と、言い訳した上での、ド素人の立場からの感想なのだが、案外面白いものなのだな、と。ただし個人的に印象に残ったのは、短編として面白さよりもむしろ、作風を短編ごとに変えている点。たとえば「羅生門」は(あくまでも構成の上では)オーソドックスなスタイルだがコンパクトにまとめることでインパクトを強めている。それに対して「偸盗」は、スタイルは同じだが、中編へとアレンジしている。「鼻」は短編であるがある種の寓話のようなユーモラスさが漂っている。「芋粥」は、「元慶の末か、仁和の始にあった話であろう」というノンフィクションぽい導入を用いながら、徐々に小説っぽい文体へと変わっていっている。なるほど、芥川が後世においても評価されるのは当然なんだな、と偉そうな感想を抱いてしまった。
 ただし、少し気になることもある。巻末にある中村真一郎の解説によれば、芥川は「今僕があるテエマをとらえてそれを小説に書くとする。そうしてそのテエマを芸術的に最も力強く表現するためには、ある異常な事件が必要になるとする。その場合、その異常な事件なるものは、異常なそれだけ、今日この日本に起こった事としては書きこなしにくい」(『澄江堂雑記』)と語ったという。つまり「主題の切実さはあくまでも現代的であるということになり、したあがって、ある時代の雰囲気なりモラルなりをそのまま再現するいわゆる歴史小説とは、目的が違っている」(175頁)と言える。過去を舞台にしながら、実は現代の考え方で過去を描く点に、歴史小説ではないという批判もあるかもしれないが、それはさておく(私自身は、ただ舞台を借りただけの「借景小説」にすぎないとは思わなかったが)。それよりも、芥川にとって同時代の出来事を過去の歴史に投影したとしても、現在の私たちから見ればすでにその出来事はすでに過去のものとなる事実に気を付けねばならないのではなかろうか。私自身は、歴史に関心があるからこの小説をそこそこ楽しめた。もちろん文学的に味わうことのできる人もいるだろう。だが、そのどちらにも当てはまらない普通の読者もたくさんいるに違いない。そういう現実に対して、その面白さが分からない人に向かって「最近の読者は芥川も理解できないのか」と批判するのは間違っているのではないのか、ということだ。何事にもガイダンスや手っ取り早く理解する解説を付けるべきというのはあまりよくないとは思う。それでも、過去の作品について、その面白さや意義を、必要とあれば他者に語る必要もあるのではないだろうか。


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