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2014年6月の見聞録



6月5日

 パオロ・マッツァリーノ『パオロ・マッツァリーノの日本史漫談』(二見書房、2011年)を読む。あとがきに、「偉人や武将の生き様などには興味はありません」、「むかしの名もなき庶民は、日々どんな暮らしをし、どんなことをおもしろがっていたのか、そういう小さな歴史なら知りたいのです」(285頁)とあるように、生活のちょっとした疑問の様々なネタを歴史的に探っていく。庶民史や文化史は珍しくもないジャンルになったが、本書のタイトルに「漫談」と書いてあるように、著者の他の作品と同じく、内容だけではなく語り口の面白さも求めている。「細かすぎて伝わらないモノマネ選手権」のネタっぽい雰囲気と言えるかもしれない。こういうものなので、以下メモ的に取り上げていく。
 信州に住む30歳の男性は、「裸仙人」を自称して全国各地を回って裸健康法を伝授してきたが、前日の名古屋港の寒中水泳中に心臓麻痺を起こし、そのまま亡くなった(1915年1月11日の朝日新聞、10〜11頁)。
 日本では、1930年代に開襟シャツがブームになっていたが、それが本格化したのは戦後に入ってからだった。実際に、1956年の小津安二郎監督作品『早春』(リンクはDVD)での冒頭の朝の通勤時の鎌田駅のホームの場面に出演している通勤客は、全員がネクタイなしで上着を着ておらず、男性はほぼ開襟シャツを着ていた。映画中の丸の内の企業でもほとんどが同じスタイルである。1961年にNHKで放映された『日本の素顔 レジャーの断面』というドキュメンタリーでも、副社長だけがネクタイを締めている画像が確認できる(26〜27頁)。ただし、昭和30年代に冷房装置が普及すると、開襟シャツをは姿を消していく(32〜34頁)。
 「○○が絶えない」という表現は否定的な意味合いで使われるのに、「笑顔が絶えない」「笑いが絶えない」は例外的によい意味で使われる。しかし、青空文庫で検索すると、2010年6月の段階で両者とも全く使われていない。笑い声が絶えないが三作品に現れるだけである(40〜41頁)。
 姓名判断が庶民の間ではやり始めたのは、明治34年3月29日の報知新聞一面で大々的に取り上げられたのがきっかけだったらしい。その仕掛け人である佐々木盛夫は、武士の家に生まれて立身出生に失敗したものの、新聞とタイアップする形で姓名学をアピールした。ただし佐々木は2年後に急死してブームは下火になった(51頁)。
 子供の名付けのおかしさに関しては、すでに吉田兼好が、子供に小難しい名前を付けて気取る連中が多い、と怒っている。たとえば、頼朝の「朝」の字に「とも」という読みはなく、名前専用に勝手に作り出した読みである。角田文衛『日本の女性名 歴史的展望』(国書刊行会、2006年(原著は1980〜1988年)、未読)によれば、庶民の女性名は平安時代に貴族を真似て「子」の付く名前が流行ったあと、鎌倉〜室町は変化に富んだ混乱状態にあった。室町以後には、かな2文字の名前が現れて、明治まで続いた。ただし、江戸期の農村の名簿には、ちん、ふか、るんなどの風変わりな名前も見られる(57〜59頁)。なお、スティーヴン・D・レヴィット、スティーヴン・J・ダブナー『ヤバい経済学 悪ガキ教授が世の裏側を探検する 増補改訂版』によれば、アメリカでは「上流階級のあいだでまず流行った名前が、普通の家で使われる、やがてより低い階級のあいだで使われると、使い回しが終わる、というサイクルがある」らしい。日本の場合は、平安時代は別として、できる限り独自のものを付けるという傾向が強いのかもしれない。一般的に、日本は集団主義が欧米に比べて強いと言われているが、名前に関しては異なっているらしい。なお、アニコム損害保険の2009年の犬の名前調査に現れる名前のうち、オスのうちの4つとメスのうちの5つが、同年の明治安田生命の子供の名前ベスト100とかぶっている(68〜69頁)。
 内田樹『先生はえらい』(ちくまプリマー新書、2005年、未読)は、先生は偉いものであり、もし偉くないという人がいれば、それはまだ偉い先生にであっていないからだ、と断言しているそうである。しかしこれは、宇宙人はすでに地球に来ている、それを信じない人はまだ宇宙人に出会っていないだけだ、という主張と同次元である(76〜77頁)。なお、このすぐあとに、思想家や批評家は証拠を集める過程をおろそかにしてわずかな経験と教養・推論で埋め合わせをするのに対して、文化史や社会史をやる人はまず具体的なデータから集める、と述べているが、研究者であるならばごく当然の作業を、現代社会に対する論評の時には甘く見てサボる場合が多いのではなかろうか。
 遠藤元男『日本人の生活文化史5 路と車』(毎日新聞社、1980年、未読)によれば、江戸時代の御触書には牛車や大八車に関するものが繰り返し出てくる。ここからは法律を無視し続ける人がいるからこそ何度も法律が出されたことを読み取れる(116頁)。
 一般的に、日本の大手牛乳メーカーが超高温殺菌法の導入を急いだのは衛生上の問題が理由とされている。しかし、1950年代初頭には、森永が低温殺菌を謳う新聞広告を出しており、低温殺菌にすると決めた厚生省令も1951年末に出ている。ところが、1955年頃に主婦連は当時14〜15円で販売されていた牛乳を10円で売るように運動を行い、自分で仕入れて売り始めて好評を博した。結果としてコストダウンを求められたメーカーはそのために高温殺菌に乗り換えたと考えられる(146〜151頁)。
 アスパラガスを食べると尿が臭くなる体質の人は、遺伝で5割ほどにのぼるらしいが、そのことに気付かない人は多い(私は気付かなかった)。これに関してGoogleの検索では(2011年2月)、「asparagasu urine(or pee)」だと32万5000件が見つかるのに、「アスパラガス 尿(おしっこ)」では2万4千件しか見つからないので、日本人はそもそも臭いをかげない人が多い。超高温殺菌の牛尿の臭みが分からないのは、その臭いが嗅げていないためかもしれない(160〜162頁)。なお、アスパラガスについては説明できないが、牛乳に関しては初めから慣れてしまっていて、その臭いが分からない可能性もあるかもしれないと思った。ちなみに、なにわ小吉『王様はロバ』(何巻に収録されていたかは失念、リンクは第1巻)で、自分のウンコの臭いは臭くない、というネタを読んで、「確かにそうかも」と納得したことがあるので。
 大淵憲一『謝罪の研究 釈明の心理とはたらき』(東北大学出版会、2010年、未読)によると、日米の大学生の研究調査では、日本人が謝罪を好意的に受け入れたのに対して、アメリカ人は自分以外の要因が原因だと理屈で説明し自分を正当化する釈明の方を好意的に受け入れた(167頁)。なお、朝日新聞と読売新聞の見出しを見る限り、2000年までは釈明会見の方が使われていて、それ以降に謝罪会見が多くなる(170〜175頁)。
 明治維新の際に、土下座は古いしきたりとして廃されたが、天皇の行幸に際して土下座する庶民は珍しくなかった。ただしこれは畏敬の念で行うのであり、現在のような謝罪のために行うものではなかった。実際の昭和7年の『大言海』の土下座の項目には、「奇人通行の時など、地上に跪きて礼する事」としか書かれていない。ところが、昭和に入ると、謝罪や懇願目的で土下座をしたという新聞記事が見られ始める(195〜198頁)。ただし、江戸時代の土下座を見てみると、安藤優一郎『大名行列の秘密』(生活人新書、2010年、未読)によれば、将軍および御三家、将軍家が嫁いだ娘が通るとき以外は、路の脇によけるだけで土下座をする必要がなかった。さらに、『東海道中膝栗毛』を読むと、2人が大名行列の様子を目で追いながら茶化しているとしか思えない場面が出てくる。『徳川盛世録』の大名行列の図版を見ると、町人はすべてウンコ座りをしており、これが江戸時代の土下座だったので、平伏ではなかったからこそ、そのように茶化すことが可能だったと分かる(202〜204頁)。江戸時代に平服の土下座をしていたというイメージは、謝罪の際の土下座が一般化した昭和初期に書かれた歴史小説によって形成されたと考えられる(205頁)。


6月10日

 野崎まど『死なない生徒殺人事件 識別組子とさまよえる不死』(メディアワークス文庫、2010年)を読む。伝統ある名門女子校の私立藤凰学院に赴任した「俺」こと伊藤は、同僚の生物教師にときめきながら、日々の仕事をこなしていた。そうしたある日、別の同僚の男性教師とクラスになじめていないように見えた天名から、この学校には死なない生徒がいるとの噂話を聞く。すると、天名との話の最中に本当に自分は死なない生徒だと話す識別組子という生徒が現れる。だが、彼女は首を切断された死体で見つかってしまった。にもかかわらず、伊藤と俺の前に現れた全く別の生徒は,識別の記憶を持つ生徒として現れた…。
 「不死」を巡るネタが本作のミソなのだが、果たして記憶の共有は可能なのだろうか。河野裕『サクラダリセット CAT,GHOST and REVOLUTION SUNDAY』のケイのようにすべてを記憶できる特殊な能力を持つ人物がいなければ、現在の技術では不可能な気がする。さらにいえば、そうした記憶を集積しただけで1つの揺るぎない人格を形成できるものだろうか。もしこれが可能ならば、『攻殻機動隊 Stand Alone Complex』(リンクは特別編集版)でいうところのゴーストの獲得は簡単に成し遂げられるだろう。
 ところで、同僚の教師が教育の限界は自分であり、自分のことしか教えられない、と述べている場面がある(110頁)。それは知識という意味ではその通りかもしれないのだが、教育は知識に留まらないものであると思われる。人を見て学ぶ際に、模範となった人物が分からなかったことを、学ぶ側が分かるということもありえるのではなかろうか。識別の目的がすべてを知ることであるとしているが、それは知識に留まるものであり、やはりそこには人格は成立しない気がする。


6月15日

 筒井康隆『美藝公』(文春文庫、1985年(原著は1981年))を読む。浅羽通明『昭和三十年代主義』の中で紹介されているのを見て読んでみた。パラレルワールドの戦後日本。日本は、経済立国ではなく映画立国として再興していた。その中で最も重要な人物こそ、役者の中でも最高峰の人物に与えられる「美藝公」と呼ばれる称号を与えられた俳優だった。そして、その周りを再興のブレーンである監督や脚本家たちが支え、国策として映画を制作していた。政治家たちは、映画人たちよりも下位に位置づけられ、最高学府は芸術大学であり、そこに進学できなかったものは法学部などへと進むのであった。その年に上映された「炭坑」は、観衆に強い感動を与え、予め政治家と相談していたことでもあるが、若者はこぞって炭坑へと就職しようとしたほどであった。しかし、こうした世界のなかで美藝公のブレーンである脚本家・里井は、もし日本が経済立国であったらという想像にとりつかれ、美藝公やそのブレーンたちに自分の想像を話し始める。その世界では、新聞のトップは政治や経済の話題が飾り、映画ではなくテレビが娯楽の中心を占めていた。テレビでは、映画や音楽、文学も科学も分かりやすい内容の番組として作成され、名のある人物への批判やバラエティなどが人々の間で消費されている、という世界だった…。
 ここまで書けば分かる通り、これはパラレルワールドから今の社会を皮肉った作品である。このパラレルワールドは、ユートピアのような世界として描かれている。それを夢想と反論することは簡単だが、そこに抗しがたい魅力を見出してしまうのは、作中でも何度か記されている通り、人々が優しいからであろう。そして、身分制社会であっても、守衛や女中、運転手といった決して高くない身分の人でさえ人々は自分の分際をわきまえ、それに誇りを持っているようにも見えるからでもあろう。「そうだ、ここでは皆が自らの役柄を心得ている、と、おれは思った。その役柄以上に出しゃばることなく、それぞれの役柄を楽しみながらみごとにこなし、同時に他人をも楽しませている。しかしそれは、たいへん難しいことでもあるのだ。それが可能なのは、おそらくここにいる人すべてが最高の人士ばかりであろう。みな、いい人ばかりであり、やさしい人ばかりなのだ」(54頁(頁数は全集版より))。下手をすれば、自分の役割を逸脱することが憚られる息苦しい社会になりかねないのに、そこに柔らかな幸せを見出せるのは、こうした上記の文章のような描写がそこかしこに見えるからでもある。新聞記者が映画に関して誤報をした際には、その記者が新聞の一面を使って謝罪の文章を時には真面目に、時にはユーモアを交えて、また自分自身のスクープを狙おうとした記者としての滑稽さをも闊達に描く、という場面ある。これは現在のマスコミに対する皮肉でもあろう。
 もちろん、これはユートピアにすぎない。スティーブン=ジョンソン『ダメなものは、タメになる テレビやゲームは頭を良くしている』が記すように、映画というメディアは時間上の制約から、物語を複雑化させていくことが困難であるのだから、映画以外のメディアによる物語の制作が軌道に乗れば、映画立国という様相も変化せざるを得ないであろう。にもかかわらず、そこに憧れを持ってしまうのは、文化に対する憧憬から生じるのだろうか。
 ちなみに、作中に女子の方が多い学校へ行って大変だったという登場人物の苦労話が出てくるのだが、これは作者自身の学生時代の経験の反映だろうか。


6月20日

 新雅史『商店街はなぜ滅びるのか 社会・政治・経済史から探る再生の道』(光文社新書、2012年)を読む。その衰退が問題視される商店街は、そもそも20世紀に入ってから形成されたものであった。第一次世界大戦後の不況期には、企業と工場の大規模化が生じる。その過程で、親方のもとで働くというシステムから、新卒採用の近代的な人事制度が整った。そのために、都市へと流入してきた農民層は就業が難しくなってしまい、その多くは零細小売商となった。ただし、こうした零細小売商は、消費者から物価の騰貴を招いているとの批判が生じ、他方では百貨店とも対立していた。とはいえ、小売商を抑えれば、彼らが貧困化しかねない。この状況を解決すべく生まれたのが、商店街であった。様々な専門の小売商を一箇所に集めて消費者の利便性を高めつつ、小売商同士が共同しやすい状況をつくろうとしたわけである。これらを示すかのごとく、1930年代の新聞では、商店街がしばしば横の百貨店と称されている。さらに、1940年代前半の総力戦体制の中で、小売業の転廃業と距離制限が実施されて、地元商店街の制度化が進んだ。
 戦後に入ると、戦地からの引き揚げ者と農地改革による土地の細分化による次男以下の農業からの撤退によって、労働者人口が激増する。ただし戦後の経済成長により、政府の政策に基づく形で保護された第三次産業で労働者を吸収する完全雇用が実現された。けれども、第三次産業の保護は消費者の側からの反発を招いた。やがて、メーカーとの直接取引を行って低価格での販売を行うスーパーマーケットが登場すると、小売商は前近代的であるとの批判が強まっていく。加えて、コンビニが急速に普及していった。これには後継者の問題も関連する。そもそも前近代の商家は、家族経営であっても家族以外の人材を活用し、さらに商家そのものを存続させるために親族以外の奉公人が経営を引き継ぐ場合も珍しくなかった。これに対して近代に入ると、あくまでも血族という意味での親族しか後継者にならなくなった。結果として、跡継ぎがいなくて廃業という事例が増加する。初期のコンビニの多くは元・小売業者たちによって運営されていたが、フランチャイズ形式を導入することで人材の確保も容易となった。特に出店規制がある業種、たとえば酒や米穀などは、その規制を維持したままコンビニへと転換していった。コンビニは小売業を保護する出店法の規制を免れるという点で、企業にとっても便利であった。
 商店街というと地域社会に根付いたもの伝統的なものと見なされて批判または賞賛されがちだが、他の事象でもしばしば見られるように、そもそもその伝統は決してそれほど古いわけではないということが、商店街にも当てはまることがよく分かる。ただし、商店街が形成された戦前についてはよく分かるのだが、後半に入るとややマクロな視点の方に傾きすぎていて、それが商店街の本質を探るために重要であるのは分かるものの、やや商店街に関する記述が少なく感じた。それと、商店街の理念に関して、典拠としている文献がやや少ないような気がした。そのために、本書で展開されている理念が全体的な傾向ではない可能性もあるのではないかとも思えた(典拠をいっぱいあげてもっともらしく見せればよいというものでもないが)。とはいえ、商店街を伝統社会と安易に見なす考え方に対して十分な説得力を持つのは間違いない。
 ただし、現実に商店街をどうするのかに関しては、著者自身も述べているように、すぐに有効性があるような提言がなされているわけではない。なお、小売業者の後継者問題を、地域単位の協同組合でバックアップして意欲ある者に貸し出すという形で解決して商店街を再興する、というのは久繁哲之介『地域再生の罠 なぜ市民と地方は豊かになれないのか?』で提示されている案と似ている。
 以下、メモ的に。村上春樹は1974年にジャズ喫茶を開いたが、その際に500万円を用意した。ただし、これ以後になると、自分と同じように店を開くのは難しいと感じるようになったという(14〜15頁、出典は村上春樹・安西水丸『村上朝日堂』(新潮文庫、1987年、56〜57頁)。なお、野村総合研究所の調査によれば、「一流企業に勤めるよりも、自分で事業を興したいか」という質問に対して、「そう思う」「どちらかといえばそう思う」と答えた人は、1997年は49%だったが、2010年(2009年?)には35%に留まり、10代の企業意欲が低くなっている(16頁、出典は『朝日新聞』2010年1月17日)。


6月25日

 山口雅也『生ける屍の死』(東京創元社、1989年(リンクは文庫版))を読む。アメリカで、死んだはずの人間が生命活動を全く停止したまま甦るという事件が次々と起こる。そうした怪現象のなかで、ニューイングランドの霊園経営者一族として呼び戻されたグリンは、毒によって死んでしまったのに復活した。さらに、同じように殺されては甦る一族の者たち。果たして、この殺人と復活の連鎖の真相はどこにあるのか…。
 殺された人間が甦ったらどうなるのかという突拍子もない設定でミステリをしたらどうなるのか、というアイディアを、アメリカの死者を巡る考え方や状況を絡めた風変わりな作品。本作によれば、アメリカでは遺体を葬儀において会葬者の目前で陳列するため遺体処理を含む葬儀関係者の社会的地位は高いそうである。なお、そのきっかけとなったのは南北戦争に於ける戦死者の防腐処理と、リンカーンの遺体を展示した葬列だったらしい。具体的な根拠はないのだが、これに最後の審判での復活の肉体の必要性という考え方も影響しているのかな、という気がする。ただし個人的には、こうしたアメリカ社会の話は興味深かったものの、小説としてはややうんちくに傾きすぎていて、読んでいてつっかえてしまう気もしたのだが。
 ちなみに、死者の復活に際してTVエヴァンジェリスト終末を煽っている場面で、1980年代のアメリカの雰囲気を思い出した。


6月30日

 海堂尊『螺鈿迷宮』(角川文庫、2008年)上下(原著は2006年)を読む。『チーム・バチスタの栄光』の外伝的作品。「僕」こと東城大学のおちこぼれの医学生である天馬大吉は、幼なじみの記者・別宮葉子から、終末医療の先端施設と知られた碧翠院桜宮病院へ潜入してほしいとの依頼を受ける。それと同時に、厚労省からも密かに調査員が送られてくる。その調査員とは、東城大学付属病院とは何かと縁のある白鳥の部下であった。しかし、院長の桜宮巌雄とその双子の娘姉妹は、白鳥の思惑を超える計画を実行に移しつつあった。
 この小説の中心テーマとも言える子音に関する問題がやはり本書でも扱われる。ただし、いつもならば白鳥を超える人を食った知者は表れないのだが、桜宮巌雄はそれを上回る人物として描かれているところが、本作の特徴か。


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