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2013年3月の見聞録



3月2日

 利倉隆『ユダ イエスを裏切った男』(平凡社新書、2006年)を読む。ユダを描いた作品を紹介した上で、聖書の記述と後世の美術・文学とに基づいて、ユダがなぜ裏切ったのを探る。レオナルドの「最後の晩餐」は、それまでの「最後の晩餐」とはユダの描き方が異なっていた。それまでの「最後の晩餐」だと、『新約聖書』の記述に基づいたルールに則って、ユダが誰だか分かるように描かれていた。たとえば、テーブルに手を伸ばす、黄色い服を着ている、などである。ところがレオナルドの「最後の晩餐」では、そうした仕草が描かれておらず、それゆえに誰が裏切るかまだ分からないという劇的な瞬間を表現したものとなった。
 それでは、なぜユダはイエスを裏切ったのか。銀貨30枚というのはあまりにもはした金である。悪魔がユダに入ったというのも、彼の貪欲さゆえに悪魔が入ったとすれば、30枚というはした金という理由がやはり説明できない。
 イエスは、「剣をもたらすために来た」という言葉に代表されるように、しばしばこの世での積極的な活動を力強く語る。ユダもイエスをそのような人物ととらえていたと考えることができる。しかしイエスは、地上の王国の実現のための指導者となろうとはしなかった。その思いが裏切りへと至らせた、と推測する。そして、イエスの死後は、彼の弟子たちが自分たちもイエスを裏切ったという罪の意識をユダに押しつけることで結束を図ったとする。ただし、ユダは密かにユダヤ教の関係者との調停役を買っていたのかもしれない。だが、神殿の境内での屋台を破壊するなどの過激な行為が目立っていき、このままでは全員が捕縛されかねないという危険が高まっていった中で、ユダは行動を起こしたのかもしれない。
 前半部分のユダの描かれ方については、個人的な事情からすでにある程度の知識があったので、読み流す形になったが、それらに関して興味があってもまだよく知らないという場合には、興味深い内容になっているかと思う。ただし、ユダの動機に関しては、史料が『新約聖書』や聖書外典しかないので仕方がないとはいえ、他からの裏付けのない推測にすぎないようにも思える。そうかもしれないと思える一方で、フィクションのようにも感じてしまうな、と。
 なお、ジョヴァンニ・ダ・モデナ「人間の堕落と贖罪の神秘」では、イエスがつるされた木が中央にあり、絵に向かって右側にエヴァと『旧約聖書』の人物が、左側にマリアと福音の関係者が描かれている。そして前者の側の木の枝は半ば枯れているのに、後者の側の枝は葉が茂っている。こえはキリスト教会とシナゴーグ、救いと罪の対比である(190〜191頁)。なお、イエスから見て右側にマリアがいるのは「正しき者を右側に置く」という伝統に従ってのものであろう。


3月7日

 三津田信三『作者不詳 ミステリ作家の読む本』(講談社文庫、2010年(原著は2002年))上を読む。「俺」こと三津田は、とある地方都市の杏羅町にて散策を楽しむうちに見つけた古書店「古本堂」へ出入りするうちに、風変わりな同人誌『迷宮草子』を入手する。7人の著者によるその短編集を親友の飛鳥信一郎と共に読み進めると、なぜか二人だけ同人誌のホラーと同じ情景が迫ってくるようになってしまい、そのホラーの謎を解き明かさねば元に戻らない、という状況へと追い込まれてしまう。7つめの短編は袋とじになっており、この短編集をそこまで読み進めた者はいない、つまり今までの読者は短編集の世界から戻ってこれなかったことを意味する。果たして、三津田と飛鳥は、現実に戻ってくることができるのか…。
 短編集それぞれに関係性はないものの、それを読む登場人物が絡むことによって連作集のような趣で読み進めることができる。しかも、それぞれの短編のミステリとしてのレベルはなかなか高いと思う。それだけではなく最後には、短編集の各著者の風変わりな名前と絡めた展開のどんでん返しも待っており、最後まで面白く読ませる。ミステリ好きにもホラー好きにもお勧めできるのではなかろうか。
 ちなみにラストの展開は、ミヒャエル・エンデ『はてしない物語』のなかで、作中の登場人物であるアトレーユに話しかけられるバスチアンの心境はこういうことなのかな、とふと思った。


3月12日

 スティーヴン・D・レヴィット、スティーヴン・J・ダブナー(望月衛訳)『ヤバい経済学 悪ガキ教授が世の裏側を探検する 増補改訂版』(東洋経済新報社、2007年)を読む。タイトル通り、日常生活の疑問を経済学の知見から解き明かしていく。方向性としては、パオロ・マッツァリーノ『反社会学講座』に近い。全体のテーマに基づいて個別のテーマが取り上げられているので、メモ的に見ていくことにする。
 大相撲では勝ち越せば番付が上がる。となれば、8つめの勝ち星は他の勝ち星よりも価値がある。その8つめの勝ち星について、勝率の計算をすると、興味深い結果が浮かび上がる。7勝7敗の力士の8勝6敗の力士に対する期待勝率は48.7%だが、実際の勝率は79.6%である。9勝6敗の力士に対する期待勝率は47.2%だが、実際の勝率は73.4%である。これに関する理屈の合う説明は、力士たちのあいだで取引が成立している、というものだ(46〜49頁)。大相撲のイカサマについてはしばしば取りざたされるが、本書の指摘は、間接的な証拠としては決定的ではなかろうか。
 アメリカおける黒人への隣地件数は、20世紀前半に至るまで明らかに減少している。1900年から1909年までの累計件数は791件だが、1930年から1939年までは119件である。1、2度リンチを行っておけば、噂が駆け巡りたくさんの人をおとなしくさせることができる。つまり、強い負のインセンティヴが働いているわけである(66〜69頁)。
 アメリカのクラックの売人の多くは母親と一緒に住んでいる。クラックの販売は元締めでない限り稼げないので、親の家に住むほかないためである。つまり、クラックの売人のギャングの仕組みは資本主義と同じく、大きく稼ぐにはピラミッドの頂上近くにいなければダメだということだ(120頁)。4人に1人は殺される職業なのに、それでもこの職を目指す人がいるのは、そうした環境で育った子供にとって、夢の職業だからだ。もし育った環境が違っていれば経済学者や物書きになっていたであろう(122〜123頁)。
 ただし、クラックの流行によって犯罪発生率はさらに増えていくと思われたが、実際にはそうならなかった。それについては様々な理由が推測された。ただし、それらには不備が多い。たとえば、景気がよくなったためという理由については、1960年代の好景気でも犯罪が大きく増加したことから否定される。死刑という負のインセンティヴという理由については、1990年代の10年間でたった478件しか死刑が執行されていない点から否定される。ニューヨークにおける画期的な取り締まり戦略が功を奏したという理由については、アメリカ全土で減少していることから説明にならない。結局のところ最も重要だったのは、中絶の合法化によって貧しい女性から生まれる家庭環境の悪い子供が減ると、犯罪予備軍は減少して結果として犯罪発生率も減少した、という理由だったようである(164〜165頁)。
 アメリカでは、1年間に家のプール1万1千個あたり子供が1人溺れ死んでいる(アメリカではプールは600万個あり、10歳未満の子供がだいたい毎年650人溺れ死んでいる)。一方で銃の方は、100万丁強あたり1人の子供が死んでいる(推定2億丁のうり、10歳未満の子供の犠牲者はだいたい175人)。したがって、プールで死ぬ確率は、銃で死ぬ確率のだいたい100倍である(176頁)。これは確率の問題としては正しいのだけれど、実際にそれに付随する様々な事象から考えれば、やはり銃の方が危険度は高いようにも感じる(あくまでも印象論なのだが)。
 1990年代後半にアメリカ教育省が行った「初等教育の縦断的調査(ECLS)」によれば、学校の成績と関係している要因はすべて親がどんな人であるかであり、プラスの要因(ほぼ毎日親が本を読んでくれる)であれマイナスの要因(よく親にぶたれる)であれ、親が何を行ったのかは関係しなかった(209〜210頁)。
 子供の名前の変遷をたどると、上流階級のあいだでまず流行った名前が、普通の家で使われる、やがてより低い階級のあいだで使われると、使い回しが終わる、というサイクルがあることが分かる(248頁)。
 1898年以降の1万6千件の国政選挙と4万件の州選挙を調査したケイシー・マリガンとチャールズ・ハンターによれば、1票が結果を左右する事例は皆無に等しい。国政選挙ならば一度だけだし、州選挙ならば7件のみである(同票は2件)。得票率の差の中央値は国政選挙ならば22%、州選挙ならば25%である(296頁)。
 郵送での投票を導入したスイスでは、それ以前に比べて投票率が下がった。これは自分の1票によって選挙に影響を与えたいというインセンティヴよりも、票を投じているところを見られるインセンティヴの方が重要だったことを示している(299〜300頁)。


3月17日

 加納朋子『少年少女飛行倶楽部』(文春文庫、2011年(原著は2009年))を読む。中学一年生の海月は、幼なじみの樹絵里に誘われて、「飛行クラブ」に入部する。ただし部員は、二年生の変人部長・神ことカミサマ、野球部兼部であり樹絵里が恋した海星しかいなかった。規定人数を満たすために探し出した新入部員の、両神に野球をさせられていた球児と不登校で高所平気症のるなるなを加えて、ついに動き出すものの、果たして本当に空を飛ぶことなど出来るのか…。
 「友情、家族愛、恋、冒険―全てがつまった傑作青春小説」という宣伝文句と、後書きの「底抜けに明るい、青春物語が書きたくなりました」(344頁)という言葉がまさに当てはまる小説。著者の得意とする、さりげなく伏線を張っていきつつ短編連作形式で日常の謎を解き明かしていく推理小説ではないので、何のひねりもないのだが(と書いていて思ったが、友情に関してちょっとだけあるか)、読んでいるとささやかな幸せを感じられるようになっている。そういうものが読みたい人には文句なくお勧め。


3月22日

 福澤一吉『文章を論理で読み解くためのクリティカル・リーディング』(NHK出版新書、2012年)を読む。クリティカル・リーディングとは、批判的な読み方というよりは、色々な角度から検討して前提を揺さぶってみたり、他の考え方をぶつけてみる、という意味のようである。著者は「書くように読む」と述べている。何らかの理由をもとに何らかの結論を出す論証を文章から見つけ出して、そこを基盤として読み込んでいき、なおかつ自分の意見を述べるような読み方をしていく、ということが本書の大きな主題だと思うのだが、そのためのレッスンがどうにもわかりにくい。後半では、数式の構文のようなものを立論の手法としていくのでなおさらわかりにくくなる。そうした構文は有用かもしれないが、実際に文章を書いていく際には、ここまで複雑だと応用が利きにくい気がする。ただし、文章の書き方を人に教えるにあたってわかりやすい方法はないかと思って本書を手に取ったので、そもそも本書の対象とする読者像に私が合わないだけかもしず、論理的な読み方を自分で身につけようとする人には役立つのかもしれない。


3月27日

 森深紅『アクエリアム』(講談社ノベルス、2012年)を読む。全寮制の女子校・遠海学園。許可のない外出の禁止、制服着用の絶対、男女交際の禁止が校則で禁じられているなかで、中等部二年生の少女・瞳子は、水族館に通って魚に付けられている番号に気づき以前から調べていた。そうしたとき、同級生の遊砂も、生徒を管理するピアスに付きそこに生徒ごとに番号が振られていたことを知った。その番号から学園の外に知られざる場所があることを推測して、学園から密かにけ出すことを計画する。その先にあったものは、同じような全寮制の学園であった。そして同じような学生。いったいその意味は何なのか…。
 番号の意味を説き明かす第一部と、抜け出した先の学園での密かな出来事がこの世界の意味と関わる二段構えのミステリになっている。ただし、後者に関してはいわゆるディストピア的な雰囲気は醸し出されているものの、それほど目新しい設定ではなく、かといって深く描いているようにも思えなかったので、そのあたりの世界観を楽しみたいという人にはやや拍子抜けになるかもしれない。ディストピア的な雰囲気のなかでのパズル的な推理といったところか。


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