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2013年4月の見聞録



4月1日

 辻隆太朗『世界の陰謀論を読み解く ユダヤ・フリーメーソン・イルミナティ』(講談社現代新書、2012年)を読む。副題に挙げられているユダヤ、フリーメーソン、イルミナティなど、しばしば陰謀論にて世界の背後にいるとみなされる存在を題材に使いつつ、陰謀論の考え方を読み解いていく。そのあたりの個別の事例については省略するが、本書における陰謀論の定義を端的にまとめれば、陰謀論とはたったひとつの自分の視点のみで世界のすべては明瞭に説明できると見なす考え方である、といえる。ただし、陰謀論は原理主義的な考えではない。自己の解釈の正しさを補強するためのものであれば何でもよいので、民族主義でもリベラルな思想でもかまわない。むしろ、近代はリベラルなものが幅をきかせていくことが多いので、社会が悪い方向へ進んでいる保守的な思想と親和性があるとさえいえる。ユダヤやフリーメーソン関連の陰謀論が保守的な出発点を持つのもそのためであるとする。
 陰謀論の問題点と、個別事例をコンパクトにまとめてあるので、陰謀論にどのように向き合うべきかを知るには格好の入門書ではなかろうか。
 なお、1927年に田中義一首相が侵略計画を天皇に上奏したとされる『田中上奏文』という有名な文書がある。その内容は、世界を征服しようとすればまず支那から征服すべし、というものである。これは一般的に偽書だと考えられている。日本政府も偽書だと主張したが、満州事変が勃発すると真実味を帯び、対日プロパガンダとして利用されるようになった。そもそも19世紀末は黄禍論が白人社会を席巻しており、世界征服を企む悪の東洋人フー・マンチューは有名であった。ユダヤ陰謀論を信じている日本人がユダヤ人に向けている目は、欧米人が日本に向けている目であることもあり得るわけだ(47〜48頁)。


4月11日

 柳広司『はじまりの島』(創元推理文庫、2006年(原著は2002年))を読む。1835年、英国海軍船ビーグル号は本国への帰途ガラパゴス諸島に立ち寄った。島に上陸したのはダーウィン、記録画家、艦長、秘書、士官候補、宣教師、料理人、水兵、フエゴ・インディアンの少年・少女・青年の11名。同じく補給のために立ち寄っていた捕鯨船の船員たちから島に逃げ込んだ殺人犯のスペイン人の銛打ちの話を聞いた翌日、宣教師の絞殺死体が発見された。その後も、フエゴ・インディアンの少女が殴られ、料理人が井戸の側で水死し、秘書が海へ突き落とされた。銛打ちの犯行が疑われるなか、その死体が見つかる。犯人はいったいだれななのか。ダーウィンが筋道立てた推論から浮かび上がった犯人とその異様な動機は…。
 物語は、進化論を主張したダーウィンの調査を進めるなかで、事件についての証言を記録画家からとる、という回想で始まる形式をとる。ダーウィンをどんなことにも好奇心がわき、論理的に突き詰めていく人物として描いている。解説によれば、登場人物は実在の人間であるものの、実際の歴史的な経過とは異なっているパラレルなものであるらしいので、ダーウィンの人物造形もこれが正しいのかどうかは分からないが、歴史的な人物を探偵役として使うにはダーウィンは便利な人物だな、と。動機は分からないものの、消去法で消していけば誰が犯人かは何となく推測できるし、その手口も想像が付くのだが、本作の特徴はその動機だろう。本作では、フエゴ・インディアンたちの集落に教会をつくって、初めは快く迎え入れられたものの、彼らにものを恵んであげている内に、なぜか不穏な空気となり襲われて破壊された事件、その彼らにおける財産の交換という価値観から、愛や金銭を巡る西洋人の考えに染まった少女と青年の見方の相違が引き起こしたすれ違い、という近代的な概念の絶対性を揺さぶりでもある出来事が描かれている。それは本作の舞台に深みを持たせるスパイスのようなものかと思っていたのだが、まさかそれが動機の伏線になっているとは思わなかった。しかも、神がいないのではないかという不安にさいなまれながらも、かすかな救いがあるような描写を宣教師の言葉で紡ぎ出しておきながら、結局はどんでん返しで希望がかすむような状態へと落とすラストが待っている。近代西洋に興味があるかミステリに興味があるかのどちらかならば、本作を読んで何か感じるものがあるのではなかろうか。
 ちなみに、ゾウガメの肉は美味であり、船乗りにとって生きた保存食だったとの描写がある。


4月21日

 丹下和彦『食べるギリシア人 古典文学グルメ紀行』(岩波新書、2012年)を読む。古代ギリシアの古典文献から食に関する話題を集めて、エッセイ風にまとめたもの(もちろん典拠はきちんと挙げてある)。こうした内容であるために、全体をまとめるのは難しいのでメモ的に記しつつ、何か考えたことがあればそれを合わせて述べていく形にする。ちなみに、本論と全く関係ないのだけれど、個人的に一番興味深かったのはあとがきだったりする。著者の勤務先の3・4回生の話なのだが、学生が個別にテーマを決めて発表していくタイプのゼミでないのは別に珍しくないけれども、本書にある通りギリシアの食というテーマのなかで、春と秋に2回残存するレシピに従って調理実習をするとのことである。夏休みの初めにはギリシア人のたこ好きを建前にして、明石にタコ・ツアーに出かけるそうだ。ゼミでそこまでするものなのだな、と。
 クノソッスの海を表した壁画やタコを描いたツボからもわかるように、ギリシア人は魚を食べていたのだが、ホメロスの『イリアス』に出てくる英雄たちは、肉を喰らいワインを飲むものの魚を食べてはいない(18頁)。
 親友のパトロクロスの敵討ちに逸るアキレウスを、オデュッセウスは食事をするように勧めた。これ以外の箇所でもオデュッセウスは食事に触れたり胃袋という言葉を用いたりする。ただし、英雄たちの中で食事に執着するのはオデュッセウスに限られている。オデュッセウスは英雄としての能力としてはアキレウスに劣り、いわば人間に近い。その点で、オデュッセウスが人間の日常生活の象徴である食に拘泥するのは当然といえる(21〜24頁)。そして、彼が『オデュッセイア』で描かれたように知略を絞って生き延びようとするのは食事や性を生きる喜びとして否定しない人間だからであろう(25〜26頁)。そうした飲食にこだわるオデュッセウスだからこそ、後世にしばしば喜劇の対象となった(27頁)。なお、オデュッセウスは魚を食べてはいない。アテナイオスは、ホメロスが魚や鳥を食べるのは道楽者のやることであり、また神々や英雄にそれらを調理させるのは恐れ多いと考えていたからだ、としている(28〜29頁)。
 ギリシア人は酒を水で薄めて飲むのが通例だが、五度(酒2対水3)の場合と三度(酒1対水2)の場合とがある。これは議論が白熱した際には自然と盃に手を伸ばすが、その時に酒が濃ければ酩酊して議論がしにくくなるためだろう(61頁)。
 食という行為は日常的な行為であるからこそ、しばしば喜劇には出てくる。逆に日常を超えた世界を描く悲劇では食べる場面はあまり出てこない。興味深いことに『ヒッポリュトス』では、パイドラという登場人物は「食べない」ことによって死を選ぼうとしているのだが、これによって悲劇性を象徴しているわけである(130頁)。なお、演劇で食事の場面が描かれないのは、当時の劇場が野外劇場であり、室内のシーンである食事の場面を描くのが難しかったためでもあろう(135頁)。ちなみに、エウリピデス『エレクトラ』にて王女であったエレクトラはしがない農夫の嫁になっている。地に足をつけた生活で食べることによって、彼女は新しい悲劇の形を暗示しているともいえる(141頁)。
 ギリシアの宴会では横臥して食べるのが普通だったが、ホメロスの英雄たちは座って食事をしている。これは、英雄たちにふさわしくない行為だと考えたからかもしれない(153〜154頁)。なおホメロスには英雄たちが排便する場面も描かれていない(190〜191頁)。


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