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2013年2月の見聞録



2月5日

 長沢樹『消失グラデーション』(角川書店、 2011年)を読む。「僕」こと私立藤野学院高校の男子バスケ部員の椎名康は、女子バスケ部のエースであり恋い焦がれている網川緑が校舎の屋上から転落する場面に遭遇する。しかし、彼女のもとに駆け寄った康は、なぜか突然意識を失い、目覚めると彼女は消えていた。全国制覇をなした女子バスケ部員たちの事情や、校舎内に現れる侵入者の存在も絡むこの事件を、放送部員の樋口真由と追いかていくと、状況は二転三転していく…。
 第31回横溝正史ミステリ大賞受賞作であり、表紙カバーの袖には選者である綾辻行人・北村薫・馳星周らの絶賛の言葉が書いてあったのだが、そこまでのものかなあ、と。個人的には、このパターンの叙述トリックは、(途中まで全く気づかなかった自分が偉そうにいうのも何なのだが)「あ、そうか」と思いつつ「またか」と感じてしまったので(たとえば、このサイトで取り上げたのだと、これ)。さらにいえば、同じネタが他の登場人物にも使われていたので、その感がより一層強くなる。ただし、何となく閉塞感のある感じの現在の高校生の生活は、うまく表現されているようには思う。同じ高校生活を描くのでも小説ごとに色々と異なってくるのは(たとえば、米澤穂信『氷菓』も同じような灰色の青春を贈ろうとする主人公だが、ほのかな明るさを感じさせる)、著者自身の置かれた状況の違いからくるものなのだろうか。とはいえ、佳多山大地・鷹城宏『ミステリ評論革命』が指摘するように、やっぱり教員は決定的な役割を果たしていないという点では、共通しているように思う。
 ちなみに、巻末の横溝正史ミステリ大賞の受賞者一覧を見ると、知らない人が多く、この業界で生き残るのは大変なのだなと感じた。


2月10日

 宮田由紀夫『米国キャンパス「拝金」報告 これは日本のモデルなのか?』(中公新書ラクレ2012年)を読む。アメリカでは大学を研究重視か教育重視かで分類しており、研究大学、博士号授与大学、修士号授与大学、学士号授与大学、短大、専門学校となる。そうしたなかで、ランキング競争が過熱し、いかにしてお金を集めるかが重視されているアメリカの大学の状況を描く。たとえば、大学給与の上昇に関して、教員全体と昨年度も同じ大学にいた教員とを比較すると、私学では前者の方が高くなる。これは私学大学が実績を上げて有名になった教員を引き抜いているためである。またアメリカでは、親の収入が高いほど大学への進学率も卒業率も高いが、さらに私立大学では卒業者の子弟が縁故的には入れる可能性は一般学生よりも2〜4倍ほど高い、という実態もお金集めと関係してくる。というのは、実際に効果があるかどうかは分からないのだが、そうした親たちは自分の子弟が大学へ入れるようにと積極的に寄付を行うからだ。また、大学スポーツも広告塔として利用されている、とする。
 こうした状況そのものは確かに事実なのだろう。しかし、それよりも気になるのは、大学教員は考え方が甘いな、ということだったりする。
 著者は教養教育の必要性を訴えている。たとえば「変化の激しい社会では、どんな知識が将来必要になるか分からないから、幅広い教養を身につけた方がよい」(27頁)としている。だが、入学者数や資金などの具体的データはあげるのに、幅広い教養が専門的な実学よりも実際に役だったかどうかのデータはあげない。もちろん、教養的な学問などいらないと極論を言うつもりはない。しかし、そこまで持ち上げる必要性が、本書で重んじているはずのデータからは何も見えてこない。
 また、大学の状況を批判したい教員もいるが、終身在職権であるテニュアがないために契約を切られるのが怖くて意見できない場合があるので、テニュア制度が必要という議論も時代錯誤ではない、とする(156〜157頁)。そのテニュアに関連して高学歴ワーキングプアになる可能性を指摘している。水月昭道『高学歴ワーキングプア 「フリーター生産工場」としての大学院』を取り上げたときにも述べたことなのだが、なぜ大学関係者は世間の人々にも共感してもらうことで、事態を有利に運ぼうとする考え方ができないのだろうか。少なくとも私には(私自身も大学関係者の端くれだが)、本書を読んでも、大学関係者はそれなりに恵まれているのに不平を言うのか、と世間の人々は感じるだろうとしか思えなかった。
 というわけで、アメリカの大学の状況を確認するにはいいかもしれないが、それ以上のものは得られなかった。
 なお、アメリカの大学は、独立前にプロテスタントが設立した私立大学から始まる。ローマ教皇庁の教義に従うローマ・カトリックと異なり、プロテスタントでは牧師が自分で聖書を理解して信者に説教することが求められたために教育には熱心であった。加えて牧師は地域のリーダーでもあったので、州政府もこれを支援していた(34〜35頁)。


2月15日

 樋口毅宏『民宿雪国』(祥伝社、2010年)を読む。軍人の後妻となった女性の息子として生まれて虐げられて育った後に、復員した戦後は新潟で古い民宿を営みながら絵画を描き続けていたところ、晩年に世界的に評価されて亡くなるまで精力的に作品を創りだし続けた丹生雄武郎。しかし、一般的に語られるこうしたプロフィールは全くの虚飾であり、さらに彼には殺人鬼と言うもう1つの素顔があった…。
 前半は物語風に進み、後半は彼の実像を暴くノンフィクション風に描かれていく。正直に言って彼の血筋に関わる物語の本筋は、単に悲劇性を増すための余分な要素に思えたのだが、丹生雄武郎の生涯に関する嘘の中で、丹生の語った言葉が先人の芸術家たちの言葉を切り貼りしたものであったことを暴いていくところは、なかなか面白かった。


2月20日

 堀越宏一『ものと技術の弁証法』(岩波書店、2009年)を読む。「ヨーロッパの中世」シリーズの1冊。タイトル通り、中世ヨーロッパのものと技術からを眺めるのだが、封建制や身分制などの社会的な要因から、ものの利用や技術の発達が規制されることもあるので、そうしたものや技術と社会との相互的関係をさして「弁証法」という言葉が書名に含まれている。個別的に興味あるところをつまみ食いのような感じで読んでいったので、全体としてまとめるよりはメモ的に述べつつ、感想があれば書いていく。
 フェルナン・ブローデルは1961年に『アナール』に発表した論文の中で、政治史や経済誌など既存の研究分野の業績ですでに理解されていることを、改めて衣食住の研究から再確認することに意味があるのか、と問うている(3頁)。ブローデルの発言の細かい内容はよく分からないのだが、政治史や経済誌からはこぼれ落ちてきたような事柄から、時代をとらえ直すことが社会史だと考えていたのだが、それはともかくとして、ブローデルは社会史に対して何らかの危機感を抱いていたのは知らなかった。
 紀元1000年前後に始まって13世紀までに西ヨーロッパ各地で普及した農業上の技術革新は、中世農業革命と呼ばれる。鉄製農具と重量有輪犂の普及、牛馬の効率的利用、三圃制の3つの要素がその重要な柱であった。それまでも個別に麦類の三年輪作は行われていた。しかし、牛馬によって惹かれる重量有輪犂は長い隊列を組むために方向転換に広いスペースがいるため、個別の農地を村全体で集約する必要が出てきた。こうして、休耕地を含めて村全体の農地が三分割され、それぞれに持分地を持つようになっていった(7〜8頁)。
 フランスのアンジュー地方のシュレという田園地帯には、ローマ期の劇場跡がある。小規模な施設ではあるが3000人は収容可能であり、ローマの都市型公共施設が農村地帯においても充実していたことを物語る(38〜39頁)。これは特殊事例なのか、一般的な事例なのか少し気になるところだ。
 フランドルのブルビエールでは6世紀頃の農村の遺跡が見つかっている。母屋の平均床面積は9.3平方メートルで、畳6畳にも満たない。その中からは様々なゴミや動物の骨、石が大量に散乱する状態で見つかっており、不衛生な生活を送っていたことが分かる。湿地に隣接しており、伝染病だけではなく蚤や虱も多かったであろう。動物の骨から作られた櫛も見つかっているが、歯の間隔が非常に狭いので髪の毛にツいた虱を捕るための櫛だったと考えられている(41頁)。ローマ時代に存在していた石造の農場(ヴィラ)は姿を消し、それ以前の鉄器時代のような小規模な小屋が散在する農村へと戻ってしまったといえる(43頁)。
 カール大帝の伝記作者であるエインハルドゥスによれば、彼がローマ風の衣装を着たのは、ローマ教皇に懇請された二度の機会のみだったという。実際に、カール大帝の騎馬像と伝えられている青銅製の国王像(現在はルーヴル美術館所蔵)は、ズボンをはきマントを羽織るフランク的な衣服である(45〜46頁)。
 オットー・ブルンナーによれば、18世紀に至るまでのヨーロッパでの経済学は、もともとはギリシア語で家を意味する「オイコス」から派生した家政学を意味していた。実際に、家長の下で営まれる家族経営による自給的な経営形態の指南書が数多く書かれてきた(70頁)。
 水に関する利権について、中世ヨーロッパでは灌漑用水に関して目立った史料が見つからない。むしろ重視されたのは船舶交通権と流水利用に関わる権利であった(96頁)。後者に関していえば、水車によるパン用の製粉料を支払わねばならなかった(102頁)。
 15世紀までにきたヨーロッパではバターの聖餐が盛んになる。同じ頃、南イタリア中心だったオリーブ油の生産が中部イタリアまで拡大する。その結果、食用油に関して、オリーブ油を用いる地中海地域に対して、バターを用いる内陸ヨーロッパという近世ヨーロッパの食文化を特徴付ける対比が成立した(241〜243頁)。


2月25日

 森谷明子『緑ヶ丘小学校大運動会』(双葉社、2011年)を読む。小学校最後の運動会で、マサルは手伝いをしていた友達と一緒に偶然ながら怪しげな薬のシートを発見する。同じ日、マサルの父親の真樹夫は見知らぬメーリングリストを通じて、昨夜ある児童の母親が亡くなった、という怪しげなメールを受信する。そして運動会のなかで明らかになった隠された事実とは…。
 物語の鍵を握る予想外の人物に対する伏線は、うまく決まっていると思う(何となくこの人物は重要なんじゃないかな、と気づく人もいるかと思うが)。ただ、子供たちの名前が全部名字のないカタカナ表記で(そうせざるをえない、いちおうの設定上の理由はあると思うのだが)、かなりごっちゃになってしまって分かりにくくなっているのは残念。あと、マサルの恋愛事情はいるのかな、と。なお、物語は運動会の時間軸通りに進むのだが、目次がその運動会のプログラムのようになっていて、これは面白い。
 ちなみに、校長先生の話が短くて好かれている、というのは、なかなか実感がこもっている。この小説での予行演習での校長の挨拶は「みなさん、今日は本番と思ってがんばってください。以上」(43頁)だった。立場が上になると話が長くなる、というのはなぜなのだろうか。きちんとしゃべれるということを示さなければ立場にふさわしいと見なされずに軽蔑される、という考えでもあるのだろうか。


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