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2012年2月の見聞録



2月1日

 海堂尊『チーム・バチスタの栄光』(宝島社文庫、2007年(原著は2006年))上を読む。桜宮市の東城大学医学部付属病院にて新たに結成された、心臓移植の代替医療であるバチスタ手術を専門に行う「チーム・バチスタ」は、これまで二十数例に渡って連続して手術に成功していた。しかし、最近になって3回も手術が失敗してしまう。そこで、チーム・バチスタの要でもあり、アメリカから招かれた桐生恭一は、院長の高階に調査を依頼した。高階は、神経内科学教室の万年講師で、「不定愁訴外来(別名・愚痴外来)」の責任者である「俺」こと田口に内部調査を命じる。聞き取り調査後すぐの手術は成功したものの、次の手術はまたしても失敗に終わる。そうした中でやってきたのは、厚生労働省の役人である白鳥だった。「ロジカルモンスター」「火食い鳥」などのあだ名がある白鳥は、チーム・バチスタを調査によってかき回しまくるのだが、そうしたなかで「最後」のバチスタ手術が行われる…。
 第4回「このミステリー大賞」の最終選考会にて、4人の選考委員が数十秒で本作を大賞に決定した、というエピソードが解説にて触れられているが、その言葉が嘘ではないほど面白い。過去に、「このミステリー大賞」で選ばれた柳原慧『パーフェクト・プラン』や朝倉卓弥『四日間の奇跡』を読んだことがあるが、これらとは格段に面白さが違う。
 はじめに目次を見ると、前半と後半の2部に分かれていて、前半にネガ、後半にポジとあったので、前半で物語の裏面を描き、後半に表面を描くという構成なのかなと予想しつつ読むと、実際に前半は田口による、チーム・バチスタ各員への聞き取り調査が行われて、それぞれの思いが語られていった(なお、本書は「俺」こと田口の一人称で語られる)。前半でこうした内面を描いておいて、後半はどうするのだろうかと思うと、全く推測は外れていた。ネガはネガティヴの、ポジはポジティヴの略であり、後半は白鳥という強烈なキャラクターによる、全員の聞き取り直し、しかもすさまじく攻撃的な調査が行われて、しっちゃかめっちゃかな状態へと陥るのだ。白鳥自身の言葉によれば、田口の調査はパッシヴ・フェーズ、白鳥の調査はアクティヴ・フェーズとなるのだが、その対象があまりにも鮮やかであり、読んでいる方まではらはらさせる。
 そうしておいて、物語そのものが進むなかで、田口を取り巻く環境の説明がわかりやすく行われ、なおかつ医学知識の盛り込み方も手を抜かずに、それでいてくどさを感じさせず挟み込まれる。著者は現役の医師とのことだが、ついつい知識をひけらかすという専門家が陥りがちな悪癖とは無縁のようだ。そして、事件が暴かれた後の事後処理も巧みに語られていて、加えてオチもあるので読後感もよい。さらには「医者だって壊れる」という言葉を通じて、犯人への苛立ちと悔しさと現在の日本の医療が抱える矛盾を、読者に意識させることまでさせてしまう。
 主役2人のコンビ性が際立っていて、どこかの業界を舞台とした専門性のあるエンタテインメントとしても高品質なので、続編が出ているのも納得だ。ただし、唯一気にかかったのがトリック。オートプシー・イメージングという画像診断によって死因を検証する診断方法が重要な鍵を握るのだが、それまでロジックの積み重ねで論を展開させてきたのに、突然ドラえもんの秘密道具を用いてしまったような違和感を感じる。もちろん、そのような架空の道具ではなく、実在するものではあるのだが、唐突に登場した感は否めない。とはいえ、個人的には気にかかったのはそれだけなので、エンタテインメント性のある小説を読みたい人には間違いなくお勧めできる。
 なお、全く関係ないのだが、「過去を看取るパッシヴ・フェーズ。未来を創るアクティヴ・フェーズ」(下巻・102頁)という白鳥の言葉から、仕事で読んだD. J. Mattingly, "Roman Religion", in D. S. Potter and D. J. Mattingly, Life, Death, and Entertainment in the Roman Empire,Ann Arbor,1999でのローマの宗教の特質を思い出した。これによると、ローマの信仰は、神々への祭典を行う儀式によって、古くから続く神々との関係を維持しようとする行為と、予兆を通じて神々と意志を通わせることで新たな知識を探ろうとする行為に分かれるという。そして前者を受動的かつ過去につながる信仰、後者を能動的かつ未来へつながる信仰と区分している。現代の病院を舞台とした小説を読んでいて、まさかローマの宗教を思い起こすとは思わなかった。
〔補足:2012年2月21日〕
 トリックに関する違和感だが、次作『ナイチンゲールの沈黙』の解説によれば、著者はAiの重要性を理解してもらうために、Aiを謎解きに用いた作品を描いたとのことである。

2月6日

 浅野裕一『儒教 ルサンチマンの宗教』(平凡社新書、1999年)を読む。孔子を、貧しく卑しい生まれでありながら天子になろうとしたけれども、それが果たせない挫折ゆえに怨恨を抱き続けた人間と定義づけ、さらに彼を聖人として崇めた儒教はルサンチマンの宗教のようなものである、と見なす。
 まずは、孔子のそうした行為を色々と挙げていく。孔子はしばしば反逆者から招かれている。弟子の子路に、進んで不善を働く者のところには君子は出入りしないと言っていたのではないか、と問われた際に、自分は潔白だから大丈夫だと答えた(「陽貨篇」)。だが、そもそも孔子が反逆者たちから招かれたのは、理想国家を建設するという国家思想を吹聴していたためである。そして地位を上昇させようという点では両者は似通っている。それでは、孔子の語る思想には根拠があるのか。彼は、文献さえあれば、現在の令制と自分の説明する夏や殷の令制の隔たりを埋めることが出来る、と主張している(「八佾篇」)。ということは、自分の主張の正しさを裏付ける文献が何もなかったことを示している。孔子が報われることなくなくなった後には、弟子や儒家たちは矛盾にとらわれる。徳を持つ者による治世が因果として存在してきたとしても、孔子の死によってそれは終わりを迎えたことになる。絶対的な存在と崇める孔子こそが、徳治の因果律を終わらせてしまったわけである。こうした矛盾を抱えながらも、孔子を崇めていた点において、儒教は信仰に近い。
 たとえば孟子は、自分が孔子の後継者である理由を、孔子の教えが風化していない彼の没後100年足らずで孔子の生国の隣国に生まれた点で特殊な資格を得ているため、とする。さらには自分が上天より受命せねば、他の誰もが受命するはずもなく、孔子の時と同じく新王朝の出現は実現しない、としている。始祖たる孔子と自分を有徳の王者であると見なす傾向は、儒家に特有なものである。だが、秦漢による中国統一が果たされると、その言動は国家反逆と見なされるようになってしまった。そのため儒家たちは、眼前の皇帝を有徳の聖天子と阿諛しつつ、彼らにさらなる仁政を要請するという卑屈な形へと行いを変化させていく。
 そして、宗教としての儒教にとって、教典となったのは『春秋』であった。そもそも『春秋』は、魯の年代記にすぎなかった。しかし孟子は、孔子がこれを記したと見なし、天子の教令に代わって正邪の判定基準を唱えたとした。その解釈をめぐる激しい議論はその後に何度も生じたが、これは孔子を神話化する神学論争に等しい。
 加えて、前漢時代、公洋家は孔子の生まれを神格化した。たとえば、母親は黒竜によって処女懐胎した、という逸話である。それに加えて、孔子は十尺の大男でありで、背中は亀のように曲がり、胴長短足で、腕が膝の下までたれている、といった奇怪な姿であると伝えられた。まるで化け物だが、これは古代の聖王はすべて身体的に異形であると認識されていたためである。それよりも重要なのは、これによって孔子は、現世の皇帝よりも上位にある聖王と等しい位置に君臨すると見なされるに至ったことである。
 以下、さらに中国王朝での神格化されて、王の地位にまで上り詰めたと言える孔子の扱いが続くのだが、それは省略する。孔子を挫折した人間と見なすという点では、白川静『孔子伝』(中公文庫、1972年)や呉智英『現代人の論語』と同じであるものの、この2つがどちらかと言えば、孔子の挫折に悲しみを見出して、愛情と共に眺めているのとは異なり、本書は孔子のルサンチマンに満ちた甘えを徹底的に糾弾している。ソクラテスやプラトンを同種の人間と見なしている関曠野『プラトンと資本主義 改訂新版』(北斗出版、1996年)にも近い。挫折した人間に自己を投影して神格化し、それによって自分の地位を上げようとするのは、知識人の悪癖なのかもしれない。
 以下、メモ的に。孔子が死の病に倒れたとき、子路は弟子たちと共に君主の葬儀のために装おうとした。しかし、小康を取り戻した孔子は、それをたしなめた(「子罕篇」)。子路は孔子の為政への執着を知っていたために、即座にそうした葬儀を行おうとしたのであろうが、直ちに実行された事実そのものは、孔子学団において、君主層をはじめとする朝廷儀式の演習が行われていた点を示唆する(77~78頁)。
 唐において、高祖・李淵は孔子廟のみならず、孔子が仰ぎ続けた周公廟も設置した。しかし、房玄齢や朱子奢などの儒者は、孔子を主神として顔回をそれに継ぐ先師とするように、太宗・李世民へ進言した。結果として周公の祭祀は廃止された(191頁)。
 清末の康有為は、自著である『孔子改制考』にて、人類の文明は大洪水によってリセットされ、中国でもそれは同じであったと見なした。そして、夏・殷・周などの文化も、実は孔子が想像したものであり、それを古代先王に仮託したのだと見なした。つまり、中華文明はすべて孔子のおかげである、と主張した(234~235頁)。


2月11日

 米澤穂信『インシテミル』(文春文庫、2010年(原著は2007年))を読む。「ある人文科学的実験の被験者」になるだけで、時給11万2千円がもらえる、というバイト募集の記事を読んで集まった12人の男女。地下設備に閉じ込められた彼らは、そこで7日間暮らすことを命じられる。しかし、各々に用意された部屋には、人を殺すための道具が準備されていた。殺人が起こった場合に犯人を当てれば、報酬がさらに増えるというルール。彼らはお互いに殺さずにいようと決めたのだが、2日目に1人目の死者が現れて、残された11人は疑心暗鬼に陥っていく。そして、次々と新たな殺人が行われていってしまう…。
 いわゆるクローズド・サークルもの。正統派だが、生き残った時間に応じて時給が与えられるのに加えて、殺人を解き明かした人間にはボーナスが入り、暴かれた人間はボーナスが減る、というのが、少しひねりを加えている部分か。ロジック性に重きを置いている作品には、個人的にはもうあまりのめり込めないのだが、こういうタイプのミステリが好きな人は十分に楽しめると思う。


2月16日

 落合淳思『古代中国の虚像と実像』(講談社現代新書、2009年)を読む。前漢の成立に至るまでの古代中国の歴史に関して、15のトピックを取り上げて検討を行う。語られている逸話が、本当は歴史的な事実ではない、というものが多い。新書という短いページ数の中で、15のトピックを取り上げているため、個々の記述はやや薄めなのだが、コンパクトにまとめていて読みやすい。ただ、何らかの歴史的な出来事に関して、絶対に同時代の他の人間が確認できないのに史書に書かれている点で作り話にすぎない、という指摘がやや目立つ。たとえば、四面楚歌に関しては、項羽の語りが『史記』には書かれているが、項羽軍は全滅したので、それを知るものはいなかったはず、という指摘である。そう指摘するしかないのであろうけれども、特に後半になるとこれが増えるので、やや単調に思えてしまった。ただし、トピックそのものは面白いので、古代中国の入門書としてよいと思うし、歴史学の入門書としてよいかもしれない。なお、四面楚歌と同じタイプのものとしては、宋襄の仁(襄公の語った軍議の内容が公表されるはずがなく、まだ野蛮視されていた楚が勝利したことへのこじつけと考えられる)、鴻門の会(両陣営の密談が記載されるのはあり得ない)、などがある。
 以下、メモ的に。高校世界史の教科書では、古代中国の文明は、新石器時代の仰韶文化と竜山文化から始まる、と書かれている。しかし実際には、1970年代以後の考古学的な発見により、両者を含めて約20種の新石器文化が発見されている。仰韶文化の発展した黄河中流域でも、仰韶文化以前に磁山・裴李崗文化が発展している(14~15頁)。
 現存が確認されていない夏王朝について、河南省で発見された二里頭文化がそれに当たると見なす主張がある。しかし、現存する文献史料の夏王朝の記述には、二里頭文化を反映したものはない。夏王朝は後代につくられた神話であると見なすべきである。そもそも、殷王朝についても、その名称は広大の周王朝による命名である。そもそも殷王朝の時代には、ただ1つの王朝に対して名前で区別する必要はなかったと思われる(26~27頁)。
 殷王朝では占いが重要な役割を担っていたが、占いに頼った政治をしていたわけではない。殷王朝で行われていた甲骨占卜は、あらかじめ甲骨に細工をした跡が確認出来る。つまり、ひび割れの形を制御して、結果を吉にしていたのである(32~33頁)。それでも、天候の占いについては当たっているものもある。しかし、そこには改竄や強引な解釈の事例が見られる。さらに、そうした事例は初期に集中している。これは、呪術的な占いは初期のみに行われ、後々には政策を宣言あるいは承認する手段として甲骨占卜が使われたことを意味する。つまり、呪術的な支配から人為的な儀礼を介した支配へと転換したと考えられる(36~37頁)。
 殷王朝最後の王である帝辛(紂王)は、酒池肉林を行った暴君として知られている。しかし、帝辛の時代の甲骨文字には先王への祭祀が多く記されており、王の宗教的権威を高めようとした熱心な政治家だったと言える(42頁)。
 共和という言葉は、西周の第十代の王を追放して召公と周公が治めた君主がいない時代の治世に由来している。しかし召公と周公は西周初期の人間であり、これはありえない。実際には、『竹書紀年』に書かれているように、大貴族の共伯和王位を乗っ取った時代である(51~53頁)。
 古い時代の歴史学では、鉄製農具や吸江が普及すると、生産能力が上がり、それに伴う人口の増加によって支配体制が確立して専制君主制が生まれた、とされていた。これは生産体制が政治体制を規定するという歴史観に基づく。しかし、考古学の発展によって、春秋時代から戦国時代初期には、鉄製の農具はごくわずかしか使われていなかったと判明しており、この説は成り立たない。実際には、内乱に破れたか、または下克上によって大貴族が消滅していき、君主制が成立したと思われる(85~86頁)。
 始皇帝は、不老不死を求めて徐福を日本に派遣した、とされているが、『史記』を読めば、徐福自身が始皇帝を騙すような形で出発しているのが分かる。しかも、『韓非子』を信奉して家臣を信用なかった始皇帝が、鮫が邪魔をして日本に行けない、という徐福の言葉を信じるはずがないので、徐福自身も含めて創作の可能性が高い。そもそも始皇帝は亡くなる前から皇帝陵を建設しており、死ぬ準備をしていたのが分かる(150~152頁)。


2月21日

 海堂尊『ナイチンゲールの沈黙』(宝島社文庫、2008年(原著は2006年))上を読む。『チーム・バチスタの栄光』に続く田口・白鳥シリーズ第2作。東城大学医学部付属病院の小児科看護師の浜田小夜と如月翔子は、城崎と名乗る男に「迦陵頻伽」と呼ばれる有名な歌手・水落冴子のライブに誘われる。冴子の歌に引き寄せられるかのように歌い出した小夜の前で、冴子が大量に吐血し始めた。救急車で運ばれた冴子は、田口公平が当直を務める神経内科病棟のVIP病室・通称「ドア・トゥ・ヘブン」に入院することになる。小夜の歌を聴いた城崎と冴子は、冴子と同じ聴く者の心の中に情景を浮かび上がらせるという特別な才能があることを見抜いていた。同じ頃、小児科へ網膜芽細胞腫を患って入院していた牧村瑞人と佐々木アツシは、看護師長の猫田の判断によって不定愁訴へと送られる。だが、瑞人の父親が無残な形で惨殺される事件が発生した。容疑者候補である小夜と瑞人にはアリバイがあった…。
 白鳥と腐れ縁で、彼と違った意味で強烈な性格を持つ、警察庁から出向中の加納達也も登場し、シリーズ化が順調に進んでいるのがわかる。前作にて犯罪を暴き出したのはオートプシー・イメージング(Ai)であったが、今作もDollと呼ばれるオートプシー・イメージングの二次元画像を三次元画像に起こす機器が重要な役割を果たす(なお、Dollとは、Display of 3-Dimensional Ovjective for Logetronographic Locator Constructionの略語とのこと)。前作の感想にて、「突然ドラえもんの秘密道具を用いてしまったような違和感を感じる」と書いたが、本作もそのように感じた。しかし、東えりかによる解説を読むと、著者いわく、なかなか理解してもらえないAiの重要性をわかってもらうために、Aiを謎解きに用いた小説を書いた、とのことらしい。そして、千葉大学付属病院の中にはAiセンターが設立されるなど、図腰ずつ受け入れられていっているようである。自分の本職に関わる意見をわかってもらうためにエンタテインメント的なフィクションを書いて、それが本当に現実を動かすことがあり得るというのは、何ともすごいことだ。もしかして、そもそも芸術は現実世界と関わり合いがあるのが当たり前だったのかもしれないが。
 なお、本作では、小夜の歌によって他者の脳に描き出されたイメージ像も、犯行の証拠として用いられている。それによって犯人しか知り得ない情報を特定したのだが、これは人によっては、やや空想めいていると捉えられてしまうかもしれない。しかし、おそらく白鳥の説明は、そうして反発に対する反論として、著者が語らせたものだろう。放射線科の医師である島津(この人もたぶんシリーズのレギュラーキャラクターになるのだろう)が、音が脳内で映像化を生じせしめることについて、「あり得ないことではない、と言わざるを得ない」というと、白鳥は以下のように返す。「シンプルに、できる、と言えばいいのになあ。学問の世界に必要なのは、フレキシビリティだよ。学者はすぐにあり得ない、不可能だ、と言いたがるけど、それは間違いさ。浜田さんの件に理論をこじつけるのは簡単だよ。だって僕たちが認識するこの世界は、脳内のシナプス放電現象の集積にすぎないんだもの。歌を聴くのも絵を見るのも、そして感情が動くことも、全部頭の中の出来事。それなら歌を聴いて画像が浮かんだっていいでしょ」(191頁)。トンデモ論が、データ無くして結論を妄想するのと対照的に、学者は予想外のデータについて、それまでの論理を飛び越えることに臆病になりすぎてしまうのかもしれない。その両方をうまくつなぎ合わせるのは、理論よりも実践を重視する現場の熟練技術者なのかもしれない。
 ちなみに、目を失う手術を恐れる子供に対して、白鳥が義眼だと嘘をついて勇気づける場面がある。すぐあとでそれを知った小夜はそれを責めるが、白鳥はこの嘘に実害はない、むしろ勇気づけられて手術を受けるかもしれない。そもそも真実なんてどうせ誰にもわからない、という白鳥の説明を読んで、何となく『うみねこのなく頃に』を思い出した(完結編をやったのだけれど、感想を書くの忘れてた。どうしようかな)。


2月26日

 中野雅至『「天下り」とは何か』(講談社現代新書、2009年)を読む。タイトルどおり、官僚の天下りについてまとめたもの。天下りに関する詳しい情報は、2000年度のものから公開されている。天下りの公表対象となっているのは高級官僚(課長・企画官以上)だが、毎年おおよそ1200人ほどが再就職を果たしており、10人中8~9人に当たる。ただし、役所の世話になって再就職している、いわゆる天下りは、約6割である。再就職先が、民間は1割しかなく、5割が非営利法人であるのも、これと一致している。残りは、在庁時代に取得した資格を活かして自営業になる場合が多い(約2割前後)。なお、役所ごとにも違いがある。
 地方公務員に関しては、天下りが見られるのは、民間企業に影響を及ぼす力があるか、非営利法人を抱える組織力のある、都道府県または政令都市レベルにのみである。2006年の政令都市の数値を見てみると、再就職率が30%と低い新潟市を除けば、大阪・名古屋・川崎・横浜・仙台などはいずれも7割を超えている。民間企業にも関連企業への出向という形での天下りがり、そこには問題もあるものの、税金を使っていないという点では大きく異なる。
 そもそもの、国家公務員の天下りには、若い人にポストを譲るという理由で、40代・50代で早期退職を勧めるという制度を大きな関係がある。中央官庁には後輩が先輩を追い抜かないというルール(年次主義)がある。その一方でポストは限られている。そのため出世競争に敗れた者から辞めていくことになり、受け皿としての再就職先の確保が天下りへとつながる。なお、国家公務員の年金が、決して高くないことも、天下りが行われる一因である。たとえば、2007年の局長級の給与を比べれば、イギリスは1618万円、アメリカは1394万円、ドイツは1120万円、フランスは775万円だが、日本は622万円である。それに加えて重要なのは、戦後の日本で、自民党による政権が長期化したことである。政権交代があれば、各党に近い系統の官僚が存在していて、政権交代ごとに大きく入れ替わる。結果として、官僚は政治家の政策に従って仕事を進める。ところが政権交代がなければ、政治家と官僚の役割分担があいまいとなり、政治家並みの権力をふるう官僚も登場することになり、これも天下りが官僚主導で行われる要因となった。
 その上で、天下りの弊害だけではなく、政官業のつながりをつくる、決して高級ではない国家公務員に天下り後の報酬でやる気を高める、などの利点もあるとも説いているのだが、このあたりについては省略。何となく読んでみた本ではあるが、国家公務員の給料はもっと高くてもいいのではないか、という素人的な考えしか持っていない身にとって、そうした考えを裏付けるような本であったのは確かである(すでに、同じ著者による『はめられた公務員 内側から見た「役人天国」の瓦解』でも指摘されてはいるのだが)。結局のところ、国家公務員といえども優れた能力の人もいれば、ぱっとしない人もおり、傲慢な人もいれば謙虚な人もいるのだ、としか言えないのかもしれない。一度できあがった制度を変えるのは、制度が完成しているがゆえに色々なタイプの人間を包含してしまうのかな、と。
 なお、天下りのデータが公開されたのは、アメリカの圧力だったらしい。1996年9月に、アメリカ大使館から、アメリカ企業の参入に対して天下りが障壁担っているとの問い合わせがあり、その後しばらくして、アメリカ政府は日本の貿易に関する要求として天下り情報の開示を掲げたという。やっぱり日本は外圧に弱いのだな、と実感させられる。


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