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2012年1月の見聞録



1月7日

 中野晴行『マンガ進化論 コンテンツビジネスはマンガから生まれる!』(ブルース・インターアクションズ、2009年)を読む。マンガ産業のこれまでと現状を述べていく。前著『マンガ産業論』の最新版とも言える。
 出版社は多くの本を出版しているが、爆発的に売れる作品が1つでも売れれば、経営を支えることができる。そして、そのヒット作を核として、アニメ化やマーチャンダイジングによって、さらに儲けることができる。それを続けていたのが、1970年代から90年代半ばまでの『週刊少年ジャンプ』であった。
 そもそもマンガ雑誌は、1950年代末から1960年代に創刊されていった。その頃には貸本によって単行本は刊行されていたが、そうした雑誌の作品はあまり単行本化されていなかった。しかし、オイルショックによって、紙不足と広告不足に陥り、1冊あたりの紙の消費量も少なく、雑誌よりも少部数で収益を見込める単行本化を推し進めていった。その後、雑誌の連載作品を単行本にするのが一般的になる。
 こうしてマンガ産業は拡大していくのだが、読者を離れさせないために、どの雑誌も作品を長期化させる傾向が強くなっていく。結果として、人気のある長期化作品が終わると、読者離れを引き起こしてしまう。その端的な例は『ドラゴン・ボール』であり、その連載終了後(1995年半ば)、『週刊少年ジャンプ』は出版部数を600万部から450万部ほどへと落としている。しかも、長期化によりあら単独者の参入を難しくしくしている。結果として講読年齢も上がっていき、子供たちも読まなくなるという悪循環が生じている。実際に、マンガ雑誌の売り上げは1995年をピークに落ち続けている。
 こうした状況に対して、著者はいくつかの提言を行っている。まず、マンガコンテンツに関する法整備を整え、知的財産権を守るようにしていくことである。映画の原作に印税制が導入されたのはつい最近であったことも、これを早急に進めるべきである事実を物語っている。
 また、日本マンガの発展にはメジャーとマイナーの二重構造があった点も重要視している。規模の小さい出版社が冒険をして、大手は安定が見込めるようになってそれを取り込んで来たというわけである。現在だと、それは同人誌やウェブマンガにあたるだろう。ただし、これは読者の好みが細分化していることも物語っている。その中の共通項を探るような手法がとれれば、600万部は無理でも50万部はいけるのではないかとしている。
 さらに、マンガ産業をきちんと調査する機関が必要とする。マンガ産業についてデータがほとんどなかったため、経済産業省のコンテンツ産業担当者がヒアリングをしたいと言ってきたという(7頁)。ちなみに、1963年に『マーガレット』は創刊に当たって56万部を小学生女子に無料で配布した。宣伝と同時に読者の反応を探ろうとしたのだが、この時期にはマーケティングが行われていたことを示している(29頁)。だが、その動きはマンガ産業が急速に発展したために、廃れてしまった。今こそそれをきちんとすべきというわけである。さらに、調査結果から新しい事業展開や政策への提言も行うようにすべきであるとする。
 そして、低コスト化のためには、雑誌のウェブ化を勧める。そもそも座視の読者は雑誌は残すものという意識が低い。そのため、紙として残らないウェブ版は、雑誌の形態とマッチしている。
 以上、マンガを産業の観点から論じる重要性は、本書を読めばよく分かる。もしかして本書に書いてあるのかもしれないが、ふと思ったのは単行本の売り上げのこと。単行本の売り上げは割と横ばい傾向なようである。これは、単行本の購読者は、雑誌をトレンド的に消費するのではなく、趣味として手元に置いておこうと考えるからではなかろうか。単なる人気作のフォロワーではなく、自分の興味の基づいているがゆえに、細分化しても売り上げを維持しているわけである。ただし、このままいけば読者層の縮小からじりじりと落ちていくことにはなるだろうが。
 あと、産業と関連した文化的なことを考えると、マンガの欠点は、1つの作品が終わるために長期連載となるため、設定の齟齬が生じやすくなる点であろう。まとめて書くわけでないので、あとから整合性をチェックしにくくなるわけだ。そうなると、短期的に見るとすさまじく面白くても、トータルで見ると完成度が落ちる、という結果になってしまう。マンガを文化として長期化させていくためには、こうした産業の問題とも向き合う必要があるのかもしれない。
 以下、メモ的に。1972年に手塚治虫は『ブラック・ジャック』の連載を『週刊チャンピオン』で始めた。だが、その頃の手塚は人気がかなり落ち込んでおり、虫プロの倒産などで苦しい状態であった。長いつきあいのある担当者は死に水をとるつもりで連載を始めた、という。反響もあまりなく、アンケートはがきでも上位には入らなかった。そうしたなかで、手塚が債権者会議に出るため1週間休載せねばならなくなり、旧作の再録でページを埋めた。ところが、発売日には編集部へ「どうして休載なのか」という電話が続々とかかってきた、という。編集者の勘もアンケートも、必ずしも当てになるとは言えないわけである(7〜8頁)。
 1950年代末から60年代初頭に創刊された少年週刊誌はあまり売れなかった。売れ始めたのは創刊3年目くらいからであった。著者は、子供が自分の小遣いで買い始めたからと考えている(29頁)。


1月17日

 桜庭一樹『赤朽葉家の伝説』(東京創元社文庫、2010年(原著は2006年))を読む。山陰地方の製鉄所のある村に生まれて赤朽葉家に嫁として迎えられた万葉、その娘として生まれ、中国地方で知らぬものはない不良となり、引退後には自分の体験をもとにマンガ家として名声を博しながらも、作品の完成後に息絶えた毛鞠、その娘であり普通の女性として暮らしてきた瞳子。戦後の復興から高度成長期からバブル以後の現代までを、実際の同時代史と重ね合わせながら、自伝的に語られた小説。瞳子の語りという形式で物語は進み、万葉の「人を殺した」という告白の意味を解き明かすというミステリ的なものも含まれている(ささやかな謎ではあるけれど、最初に帰る伏線に、小さくなるほどと感じた)。
 戦後史を、そこに生きた人々のミクロな視点から紐解くという意味で楽しめたのだけれど、何かうならされるものがあるかというと、個人的にはそれほどなかった。日本推理作家協会賞の選考会で初期の代表作になる作品と表されたらしいが、そうなのかな、という思いの方が強い。面白くないというわけではにので念のため。ただ、代表作と言うよりは佳作かなあ、と個人的には思うので。
 とはいえ、地方が特色を失い始める70年代、高度成長のなかでエネルギーを良くも悪しくも爆発させた80年代、特別のずば抜けた人のいなくなっていく90年代、という日本の社会のあり方の大まかな様相と結び付いている様は、70年代初頭生まれの身としては、自分と関連している同時代史を読むようで楽しめたのも事実である。昔のエネルギーが失われているかのようなこういう考え方は、「最近は昔に比べて…」という嘆きのようでもある。西村賀子『ギリシア神話 神々と英雄に出会う』にて、ヘシオドスの「同時代に対する憂い」が「最近の若者は…」に通じるのでは、と書いたが、人間はどうしてもそういう風に昔を懐かしむ生き物なのだな、と(俺も年を取ったものである)。


1月27日

 小松香織『オスマン帝国の近代と海軍』山川出版社(世界史リブレット)、2004年)を読む。オスマン帝国では、19世紀に至るまで、民族的なアイデンティティは存在せず、自分たちをムスリムや正教徒という宗教的に区分していた。しかし、欧米における民族主義の台頭とともに、自立しようとした各民族が反旗を翻していく。その端緒とも言えるのが、オスマン帝国内にて初期に独立を果たしたギリシアであった。そして、これがオスマン海軍にとって重要な意味を持つ。
 そもそもオスマン帝国は、もともとの出自が内陸の遊牧系であったため、海軍が自民族によって担われず、土着の海賊やジェノヴァ人などに頼っていた。ただし、オスマン中期に至るまでの海軍は、軍事的にはうまくいっていた。ヨーロッパには遅れるものの、ガレー船から帆船への転換も行っている。その際に、海兵の主力は、ガレー船を漕いでいた奴隷から、航海技術に長けていた沿岸部に住むギリシア人の比重が高まっていった。しかし、19世紀初めのギリシアの独立によって、ギリシア人海兵に対して疑惑の念が向けられていく。
 そもそもオスマンは、外圧や官僚制の腐敗などが問題となるなかで、ヨーロッパの制度を受け入れつつ近代化を果たしていこうとする。だが、海軍においては、そもそも力を入れていなかった箇所なので、招聘された外国人に制度が担われていた。たとえば、トルコと利害関係の絡まなかったアメリカや、スエズ運河を重視するイギリス、オリエント世界への拡大を狙うドイツなどである。しかし、オスマン海軍による非協力的な態度や、単に技術者を招くだけで自国で技術者を育成しないなどの問題のため、あまりうまくいかずに終わる。そのため、新船団の購入により破産しかけたり、海軍の維持すら手抜きのような状態になるなどの結果となる。このため1890年代には、海軍費が国家予算の6〜7%から3%前後へと大幅に削減された。そうしたなかで海軍の人材育成を担ったのが、海軍が保持していた汽船会社であった。ただし、それも軍人経営のまずさによりやがてうまくいかなくなってしまう。
 仕事で必要なため読んだのだが、予想外に学ぶことが多かった。近代のオスマン帝国というと、弱体化と分裂で語られることが多いが、その具体的な姿が、海軍という当初から多民族的な寄せ集めであった海軍から見ると、よく分かるな、と。なお、これ以後20世紀のオスマン海軍について語られるのだが、そこは省略。オスマン最後のドレッドノート級の精鋭艦が沈没するのは、日本で言えば戦艦大和が沈んだようなのかもしれない(勝手な素人考えだが)。
 以下メモ的に。オスマン帝国内のギリシア正教徒は「ルーム」と呼ばれていた。これはローマ人を意味しており、もともとは東ローマ帝国の民を指していた(12頁)。
 ギリシア独立後の1847年、艦隊に乗船していたギリシア人たちは、キリスト教の祝祭日に礼拝のため下船して教会へ向かうと、そのまま戻ってこなかった。これを解決するた、キリスト教徒が軍艦内で礼拝を行えるように、司祭の乗船が具申された(39〜40頁)。著者も言うように、これが本当に認められるとは信じがたくもあるが、そのような配慮がなされねばならなかったほど、ギリシア人に依存していたとは言えるだろう。
 オスマンからはるばる日本へやってきたエルトゥールル号が和歌山県沖で遭難した事故は有名だが、そもそもこの船はかなりの老朽船であり航海すら危ぶまれていた。公式の目的は、明治天皇への答礼と公開演習であったが、その本義は寄港先でのイスラーム主義のプロパガンダであったようである。実際に、寄港地のアデン。ボンベイ、コロンボ、シンガポールなどでは、現地のムスリムから熱狂的に歓迎されたという。


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