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2017年6月の見聞録



6月7日

 満薗勇『商店街はいま必要なのか 「日本型流通」の近現代史』(講談社現代新書、2015年)を読む。商店街が寂れいていく現状に対して、その歴史的背景を明治以後の商いのあり方を軸にしつつ、商店街、通信販売、商店街、スーパー、コンビニの順番で説き起こしていく。
 全体を通して読んだ感じでは商店街の話はそれほどメインではなく、小売店と大型店舗の関係性を見ているように感じた。なので、タイトルから期待して読んでいくと、少しずれてしまうかもしれない気がする。商店街そのものの歴史的展開については、新雅史『商店街はなぜ滅びるのか 社会・政治・経済史から探る再生の道』が詳しいし、その再生の道程に関しては、久繁哲之介『商店街再生の罠 売りたいモノから、顧客がしたいコトへ』が詳しい。昭和から現在の商業誌という点では、色々とデータや興味深い事実も挙げられているのだが、タイトルとはやはりずれている気がする。
 以下メモ的に。著者が大学生にアンケートを採ると、商店街やあの雰囲気は好きなので、なくなると寂しいから残ってほしいと答えつつも、実際には買い物をしていないししたいとは思わないという答えがかえってくるという(12~14頁)。
 小売店のデータからすると、日本は世界の他の国と比べると、メーカーと小売業者との間に多くの卸売業者が介在して、規模の小さな小売店が全国にたくさんある、と言える。ただし、小売店の総数は180年代初頭をピークに減少に転じており、1980年の約170万店から2007年の約120万点弱へと減っている(16~21頁)。
 そもそも日本の小売店は、江戸時代には店員がすべて接客して商品も選ぶ座売りというスタイルであった。これに対して三越は、江戸時代からあった誰にでも同じ値段で売る販売をさらに推し進めて、座売りを廃してすべての品を陳列販売で売るようになる。三越を中心とした百貨店は、昭和恐慌を背景にして小売店による反対運動を巻き起こした。
 店舗の取り扱い品物点数で見ると、コンビニが3000品、総合スーパーは3万から5万品だが、百貨店は40万から50万品ほどになる(31頁)。
 昭和恐慌時に、小売業への新規参入は盛んになる。当時は失業保険制度がなかったために、職を失った人々は食い扶持を求めて働かざるを得ない状況にあった(68~69頁)。このあたりの事情は、新雅史『商店街はなぜ滅びるのか 社会・政治・経済史から探る再生の道』が詳しい。なお、山室恭子『大江戸商い白書 数量分析が解き明かす商人の真実』によれば、江戸時代の小売商も新規参入の零細商売が大部分を占めていたらしい。小売商という観点からすれば、その形態は江戸から昭和まで連続的なのかもしれない。
 近代家族的な核家族が誕生すると、家事や育児に関わる主婦への要求水準が高まっていく。そのための情報源として婦人雑誌は広まっていく。商品をどのように使えばいいのかも婦人雑誌は紹介していた(114~115頁)。近代における核家族的なものと子育てに関しては、広田照幸『日本人のしつけは衰退したか』や大日向雅美『母性愛神話の罠』に詳しいが、そうした状況は婦人雑誌ともリンクしていたのだと分かる。
 明治期に入っても、江戸時代と同じく、日常品は店舗販売だけではなく行商人によっても行われていた。たとえばデータの得られる1896年の広島では、行商は60.3%にものぼった(145頁)。もしこれが事実だとすれば、山室恭子『大江戸商い白書 数量分析が解き明かす商人の真実』に関して、行商人のデータによる修正が必要になるのかもしれない。なお、1939年の広島では行商は9.0%にまで減る(145頁)。
 1975年に行われた中小小売商へのアンケート調査では、地元の町内会や商店会の催す御油時に参加するかどうかについて「いつも参加する」が36.1%、「時々参加する」が38.6%、「ほとんど参加しない」が25.3%であった。参加理由は「近所付き合い」が27.6%、「地域発展のため」が25.4%、「役員になっているから」が20.7%だが、「商売に役立つから」も20.4%あった(151~152頁)。
 スーパーマーケットでは、問屋とのつながりがないために、生鮮食品は職人による取り扱いとなっていた。職人は経営者に逆らうこともあり、効率性を追求する企業経営になじまないこともあった。そのために関西スーパーは加工作業の分業化で職人によらないシステムを1976年に導入した。これが、全国のスーパーで採り入れられていく(210~213頁)。


6月17日

 鍛代敏雄『戦国大名の正体 家中粛清と権威志向』(中公新書、2015年)を読む。戦国大名をめぐるいくつかのトピックから、戦国大名の特徴を示していく。
 下克上は戦国時代の特徴とされているが、ほとんどの戦国大名は分国の統治権を確立する過程で、粛正という家中の闘争を経験せねばならなかった。父親を追放した武田信玄、父親を幽閉した伊達晴宗、養父を追放した島津貴久、兄を討った今川義元、兄を謀殺した織田信長、譜代の重臣を粛正した毛利元就、臣下の多くを粛正した尼子晴久、臣下に殺害された松平清康など枚挙にいとまがない。戦国大名の分国は軍事によって正当性を支えられた主権国家であり、戦国大名が独自の権力をふるう領域であった。だからこそ、国印や国王印による印判状形式の公文書が統治権を行使するために必要となった。そのなかを治めるにあたって、しばしば家臣たちに自分の土地の見地をさせたデータを提出させていた。正統性を得るために、守護職をはじめとする官職を得る場合も珍しくなかった。寺社造営も権威を正当化する事例であった。ただし、そうした分国をきちんと治めねばならなかった。寺社造営も、神仏を保護して領民の安寧を司る権能を顕示するためでもあった。王殺しや主君追放も分国統治の安定を図るための正統な行為として一定の合意が形成された結果であった。
 なお、この頃の「天下」とはもともと天皇を中心とした機内を指す言葉にすぎなかったが、そもそも戦国大名は天下を目指していたわけではないし、日本の統一を意識していたわけでもない。信長が、畿内の天下を抑えた後に居城を変えた後の1577年ごろから、日本の統一構想の実現に向けて動き出したにすぎない。そうした分国は、荒廃した京都から公家たちの受け皿ともなり、雅な公家文化の地方への伝播を促した。こうした戦国大名が江戸期の地域分権へと受け継がれた。
 村井良介『戦国大名論 暴力と法と権力』や山田邦明『日本史のなかの戦国時代』よりも、個人的には面白く読めた。もっと奥深いものであればさらにいいのだけれど、実例も示しつつオーソドックスな入門書としては十分だろう。
 以下メモ的に。北条氏の家訓『早雲時殿廿一箇条』の第17条には、除くべき悪友とは碁・将棋・増え・尺八を好むものであり、それらを知らなくても恥ではない、とある(199~200頁)。
 信長は生きながらにして神体を宣言した。秀吉は豊国大明神となった。家康は東照大権現として祀られた。日本では、他国に優越すると信じられた神国の土台の上に構築された王権と仏法が相互に補完し合うと見なされた神国仏国論と、天皇から庶民に至るまで神の末裔と見なす神国の家族国家論によって、統一国家がイメージされた(232頁)。佐藤弘夫『神国日本』によれば、、中世末期から近世には、彼岸的な要素が薄れていき、それによって日本の優越性を「神国」思想に則って訴える動きに歯止めがかからなくなっていたとされるので、その先駆けは戦国大名によって各地で形成されたのかもしれない。


6月27日

 深見真『執行官狡嚙慎也 理想郷の猟犬』(マックガーデン、2015年)を読む。アニメ『PSYCHO-PASS』の外伝的小説。執行官・狡噛慎也は、監視官・常守朱とともに向かった現場で、肉体をゼリー状にして複数の引き出しに詰め込むという猟奇的事件に遭遇する。そのとき思い出したのは、まだ監視官だった時代の、人体をパズルのように一端バラバラにして組み合わせた殺人事件だった…。
 狡噛の監視官時代の舞台設定は、第1期の3話と4話の間のような設定である。1冊を1つの物語で使っているが、小品のような感じである。その意味で中編が収録されていた吉上亮『Psycho-pass asylum』に近い(グロさは向こうの方がはるかに上だが)。こちらも設定の細部をさらに詰めていくような感じなので、本編を観ていれば、軽い感じで読み進められるだろう。


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