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2017年4月の見聞録



4月8日

 山田邦明『日本史のなかの戦国時代』(山川出版社(日本史リブレット)、2013年)を読む。タイトル通り戦国時代についてまとめたもの。結論だけを言ってしまえば、荘園性では支配者とその地域が別れていたが、戦国を経て、各地に配置された領主が現地で分権的な支配を担った、というところか。村井良介『戦国大名論 暴力と法と権力』と同じく必要があって読んだのだが、あちらが専門的な記述が続いたのとは異なり、こちらは分かりやすい記述になっているけれども、やや物足りなさを感じてしまった。こちらが求めているのが勝手なわがままめいた考えであるのだから仕方がないものの、学術的な一般書の書き方の難しさを感じてしまった。
 以下メモ的に。明智光秀の謀反は非常に有名だが、主君殺しは当時は珍しいことではなかった。京都にいた公家たちは、事件のすぐ後に光秀と面会してお祝いすら述べている。周囲の人間も光秀を批判しているわけではなかった(6〜8頁)。
 戦国大名の元の百姓は租税だけではなく労働奉仕も求められた。ただし、無制限に搾り取られたわけではなく、労働奉仕についていえば、決まった日数を超えれば、一般的な額の賃金を払うとの約束があった(84頁)。


4月18日

 吉田裕・森茂樹『アジア・太平洋戦争(戦争の日本史23)』(吉川弘文館、2007年)を読む。書名通り、太平洋戦争を総体的に述べている。当時の日本が東アジア支配の野望を遂げるために戦うべきは中国とイギリスであって、アメリカではないと見なされていた。日本の対米戦争の目的は、アメリカを屈服させることではなく戦意を喪失させて交渉へ引き込むことであった、と当時の史料からは読み取れる。ただし、本来ならば政治的に達成されるべきであった。にもかかわらず、軍事的な成功から目指したがゆえに対米戦略は混乱をきたしてしまった。結果として、陸軍はアメリカの戦意を喪失させて大陸方面の防備と対ソ戦に力を注ぐべきと考えていたのに、海軍はアメリカとの国力の差が影響しないうちにアメリカを一気に撃破しようとするという、統一のとれていない状況に陥ってしまった。さらに海軍は、ラバウルやガダルカナルにまで進出したが、これは日本に敗れたマッカーサーがオーストラリアを反抗拠点としたためであった。これに対して陸軍は、フィリピンの米軍拠点を後略した後は、これを防衛して日中戦争を解決し、それに対する備えを固めようとした。だが、海軍に付き合わされた陸軍は兵力の逐次投入という愚を犯すことになってしまった。いわば陸海軍組織の分裂が失敗の大きな原因となった、とする。アメリカは当初は艦隊決戦を考えていたものの、開戦当初に太平洋艦隊の主力が壊滅したために、方針を転換して補給線の破壊を行うようになり成功させていった。日本は艦隊決戦にとらわれていたために、アメリカの方針転換に対応できず、決戦に備えようとするあまり目前の戦闘に全力を投入できないままに消耗していった。
 日本の戦争責任を高みに立って声高に唱えようとせず、あくまでも冷静な筆致で太平洋戦争の実情と敗因を分かりやすく説いている。もちろん戦争責任をうやむやにするつもりは著者にはなく、あくまでもまずは事実からきちんと抑えておこう、という姿勢なのだろう。
 以下、メモ的に。開戦時におけるアメリカの国民総生産は日本の11.83倍であったが、軍事予算は2.13倍にすぎなかった。これは日本が国力に相応しくない過重な軍事力を保有した事実を物語っている。ただし軍部は、国力に勝るアメリカが本格的に戦争に乗り出す前に、短期決戦に持ち込んで勝利しようとする見通しを持っていたと考えられる(60〜61頁)。なお、軍需生産の拡充のために、国民生活は極限にまで切り下げられた。1942年には、日中戦争勃発時の8割の水準を割り込んだが、そもそも1940年の時点で昭和恐慌の水準を下回っている。食生活も1人あたりのカロリー消費量は1931〜40年の平均を100とすると、1943年は87.2、1944年は85.7、1945年は66.2にまで低下している。
 こうした経済の問題は輸出も関連する。日本の外貨獲得産業だった紡績業は大量の原綿輸入によって支えられていたが、貿易統制の強化に伴い、第3国への輸出増大は困難となった。海上輸送が切断されると、それはさらに激しくなる(225〜226頁)。なお、カーター・J・エッカート『日本帝国の申し子 高敞の金一族と韓国資本主義の植民地起源1876−1945』によれば、日本は原綿の供給地として朝鮮半島に目をつけていたそうである。そのため、朝鮮産の原綿は日本に輸出され、朝鮮は質の劣るインド面を輸入せざるを得なかった。しかし、京紡による朝鮮産の綿製品は、日本統治下の大陸において売り上げを伸ばしたという。
 日本軍は、補給・衛生・情報戦を軽視していた。そのことを物語るように、1877年から1937年までに陸軍士官学校を卒業した2万3872名の軍人のうち、輜重兵は最下位の4%にすぎない(74頁)。さらに海軍も、資源を運ぶ商船隊の防衛を疎かにしており、極めて楽観的な見通しをたてていた(108頁)。
 零戦は徹底した軽量化によって性能を上げたが、そのために防御性と機体の強度が下がった。しかも備えていた20ミリ機関砲も、初速が遅く重量も重いため、命中精度が低く携行弾数も少ない。なお、設計者だった堀越二郎も、戦後初期には零戦の欠点や欧米期のまねをしたことを吐露していたが、まもなくその評価も変化したという。経済復興から高度成長のなかでの日本の技術という文脈で、零戦神話が必要とされたのであろう(91〜92頁)。
 陸軍において進級の基礎となったのは士官学校の席次であり、海軍の場合は兵学校の席次だった。そのため実績や実力による抜擢制度は実現しなかった。アメリカでは、一般に少将までしか昇進させず、それ以降は作戦の必要に応じて中将・大将に任命して、任務終了後に戻すという柔軟な人事配置をとった(99頁)。
 朝鮮人に対する徴兵制が遅れた理由の1つは、徴兵制の導入が参政権の付与とセットであると認識されていたからである。もうひとつは日本人の朝鮮人に対する恐怖心や不信感である(220〜221頁)。
 1944年8月から1945年8月14日までの戦死者数の合計は72万8千人である。戦没者の総数は約175万人なので、この時期だけで46%となる(247〜248頁)。
 女性の動員は、1941年の国民勤労報国協力令と1944年の女子挺身勤労令によってなされた。前者は14歳以上25歳未満の未婚女性に年間30日以内の勤労奉仕を義務づけ、後者は12〜40歳の女性に1年間の就労を義務づけた。ただし、基本的に未婚女性に限定されていた。政府は、既婚女性は家庭に残って家庭を守るという役割しか期待していなかった。これに対して英米では、既婚女性も積極的に動員する政策がとられ、女性労働者数は戦時下に飛躍的に増大した。ドイツは女性ではなく、占領地の外国人労働者を動員した。女性の兵士についても同様の傾向が窺える(216〜217頁)。日本でも1945年6月の義勇兵法では17〜40歳の女性を義勇兵に服させることを決めているが、それでも家庭の「根軸たる」女性、つまり既婚女性は除外されている(218頁)。


4月28日

 倉数茂『黒揚羽の夏』(ポプラ文庫ピュアフル、2011年)を読む。両親の離婚協議の間に、祖父のいる田舎に預けられた長男の千秋、長女の美和、次男の颯太。少女の失踪事件が起きたのだが、押入れから出てきた60年前の日記とリンクする。地元の少女たちと協力して調べていくなかで、数十年後に起きていた同じような事件と、古い奇妙な映画も不思議なくらい絡み合う…。
 ジュブナイルっぽいミステリとどこかで聞いて読んでみたのだが、個人的にはどっちつかずの印象だった。ジュブナイルとしては、登場人物の抱える内面の苦しみがどこか地に着かないままもやもやして終わった締まった印象があるし、ミステリとしてはそれほどうならされるものがあるというわけではない。とはいえこれはあくまでも個人的な印象なので、粘り着くようなやや狂おしいジュブナイルが読みたい人には向いているかもしれない。映画の内容が続いていくときに、改段もなく何ページも続いていく箇所は、一種の凶器めいたものを感じたので。


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