前の月へ   トップに戻る   インデックスに戻る   次の月へ


2017年1月の見聞録



1月12日

 鳥飼否宇『昆虫探偵 シロコパκ氏の華麗なる推理』(光文社文庫、2005年(原著は2002年))を読む。ミステリ好きの冴えない葉古小吉は、目が覚めるとヤマトゴキブリになっていた。そして昆虫探偵のクマンバチの助手となり、クロオオアリの刑事と張り合いながら昆虫界ならではの事件を解決していく…。
 短編連作になっているが、個々の話の間につながりは特にない。クマンバチ探偵の迷推理がいつもクロオオアリ刑事に利用されて出し抜かれるというパターンなのだが、最後の主人公の設定を応用した伏線だということが分かる(やられた、という感があるようなものではないのだが)。虫を擬人化した童話は珍しくないが、虫をそのまま登場させてなおかつその習性を利用した作品であり、言葉を喋る以外はかなりリアルな虫が描かれているので、虫が苦手な人は本作はまず読み通せないだろう。それでも、虫と人間の男女関係について、虫の雄は他の雄に負けて交尾できなかったときに悔しいからといって、それを根に持って相手の雄や自分を振った雌に嫉妬するような無駄なことはしない、と聞いたゴキブリになった主人公の独白は、関心を持てるかもしれない。「人間は万物の霊長と教えられて育ってきたが、こうして昆虫になってみると、その教えがいかに独断と偏見に満ちていたかがよくわかる。昆虫は人間のように気を回したり頭を悩ましたりすることもなく、実にシンプルな行動規範に則って生活している。与えられたままの生命を謳歌している。人間がいかに束縛の多い生き物なのだろうか」(48頁)。人間は複雑に考えたからこそ文明を発展させることができたのだろうが、相対的な視点はなかなかに面白い。これは、「手のひらを太陽に」の歌詞にて「アメンボだって生きている」という意味での登場にアメンボが憤慨しているのも同じだろう。
 なお、糞虫でさえも自分自身の糞を食べることはないので、掃除屋を自称しながらも毎日ゴミを出している点で人間と同じではないか、と自問している場面がある(77頁)。これを読んだとき、中世ヨーロッパの都市にて、街路にまき散らされた人間の糞尿を放し飼いにされたブタは食べるが、そのブタの糞尿がたまっていったというオットー・ボルスト(永野藤夫・井本晌二・青木誠之共訳)『中世ヨーロッパ生活誌1』(白水社、1985年)の記述を思い出した。
 ちなみに、ハチはもっとも多様に進化した寄生性昆虫であり、ツチバチやコツチバチがいなければコガネムシが植物の葉を食い荒らしただろうし、ヤセバチやセネガアナバチがいなければ世界はゴキブリ天国となり朽ち木や残飯を食い尽くしていただろう、とある(310~311頁)。出典は明らかにされていないが(巻末に参考文献はあるがどれに依拠しているかわからない)、ハチによって生態系のバランスが守られているというのが本当だとすると興味深い。
 ところで、各話のタイトルが、ミステリのもじりになっている。読んだことのあるものでいえば、「哲学虫の密室」は笠井潔『哲学者の密室』、「昼のセミ」は北村薫『夜の蝉』、「生けるアカハネの死」は山口雅也『生ける屍の死』。のそれぞれのもじりとなっている。ちなみに、「蝶々殺蛾事件」は横溝正史『蝶々殺人事件』、「吸血の池」は二階堂黎人『吸血の家』(講談社、1999年)を、「ジョロウグモの拘」は京極夏彦『絡新婦の理』(講談社文庫、2002年)を、「ハチの悲劇」は法月綸太郎『一の悲劇』(祥伝社、1991年)のもじりだそうだ。検索してみるとあまり肌に合わなそうな内容なのだが、著者が本文や脚注めいた補足で紹介している文章を読むと、面白そうに感じてしまうのは、褒め方が上手いからだろう。


1月27日

 山室恭子『大江戸商い白書 数量分析が解き明かす商人の真実』(講談社選書メチエ、2015年)を読む。サブタイトルにあるように、江戸時代の商人に関する一次史料の調査データから、江戸の商人のリアルな姿に近づこうとする。江戸の町奉行は人口調査を行っているが、どの街に何人暮らしていたのかの内訳は失われてしまっている。ただし、「市中髪結沽券金高取調書」という史料から人口分布の推測が可能である。これは髪結たちの営業の権利証の額面の総計を列記したものである。髪結の料金は江戸全域で同一であるため、その額面は人口比に比例することになる。その結果、日本橋地区に45%の住民が住んでいたと判明する(16~17頁)。それをさらに小間のデータ(詳細な出典は本書にあるが省略)と組み合わせれば、人口密度も判明する。結果として、やはり日本橋は10坪あたり4.1~4.2人となりかなり窮屈である。これに対して浅草になると2.5人に減り、隅田川の向こうの深川や本所は0.7~1.3人とかなりゆったりとなる(22~23頁)。
 そうしたなかで商人はどのように商売を営んでいたのかについては、刊行されたばかりの『江戸商家・商人名データ総覧』に収録されている7万4千件のデータの統計から、その姿を推測できる。その中から、それぞれ屋号数で1位・2位・6位である伊勢屋・万屋・越後屋の3つの屋号について調べてみると、個々の屋号の存続年数は平均で15.7年にすぎない(40頁)。したがって、代々にわたって暖簾を受け継がせていくというイメージからはほど遠い。それを示すかのように、店舗の株も全体の49%は譲渡によるものであり、相続は9%にすぎなかった(46頁)。ただし、種類ごとに存続年数の違いはある。たとえば、最長の56.5年である石灰等仲買や、51.1年である公儀限定の金融業である札差に対して、炭薪仲買等は12.9年、米を扱う舂米屋は8.1年にすぎない(60~61頁)。前者は株の新設・廃絶も少ないが、後者はそれも多い。舂米屋や炭薪仲買等は生活に密着していて、江戸の各地に分布していた。舂米屋や炭薪仲買等は専門的な知識も必要ないために、需要が増えればそこに吸い寄せられるように新たに店を開いて参入し、それが減れば店を閉めて別の場所へと移る、というのを繰り返していたと考えられる。
 これを踏まえた上で、様々なミクロの商売の歴史物語を再構成していく最終章が続く。この部分は読み物として面白いのだが、まとめるのが難しいので省略する。
 いずれにせよ、江戸時代は専門性が高い商売を除いて、くるくると人が変わり続けていた、ということがメインテーマと言える。これは、これは、速水『歴史人口学で見た日本』にて示されている「都市アリ地獄説」に合致する気がする。この説は、江戸や大坂といった都市部は人口が増えておらず、都市は絶えず農村部より人を惹きつけなければその発展を維持することが出来なかったと、いうものである。代々続くことがなく人が変わり続けるのは、実は華やかな都市に潜む過酷さを物語っているのではなかろうか。なお、新雅史『商店街はなぜ滅びるのか 社会・政治・経済史から探る再生の道』によれば、近代に至るまでは商家そのものを存続させるために親族以外の奉公人が経営を引き継ぐ場合も珍しくなかった。これに対して近代に入ると、あくまでも血族という意味での親族しか後継者にならなくなった。結果として、跡継ぎがいなくて廃業という事例が増加した、とある。血族的世襲が前近代的でそこから離れるのが近代的、というよくある見方とはまったく逆であるのが興味深い。
 以下メモ的に。薬屋は盛んに広告を出していて、しかもかなり店ごとに異なっている。薬は利幅が大きいので参入希望者が多く、同業者間の競争が激しい。しかも軽くて運びやすく、日常的に消費する商品でもないので、消費者の近くに店舗がなくてもよい。そのうえ様々な種類が多い。こうした事情から日本橋北地区に集中して存在して、顧客がやって来ては色々な薬屋を見ていくという形態になったと考えられる(94~95頁)。これは、現在のショッピングモールに様々な服屋が固まっていることに近いように感じた。
 飲食店は1軒あたりの人口が204人とかなり低い。同様に居酒屋は275軒、菓子・甘味屋は171軒である。ちなみに、炭薪仲買は1軒あたり402人で、髪結は671人であり、飲食業はかなり少ないことが分かる。1日20人が店舗の採算ラインとすると、すべての人が6日に1度は暖簾をくぐってもらう必要がある。このデータからすると、江戸には外食の習慣がかなり根付いていたことが分かる(156~157頁)。
 なお、それよりもさらに低いのが古道具屋で、1軒あたりの人口は126人にすぎない(154頁)。これは江戸において人口の入れ替わりが激しかったことを意味する。これも、速水融『歴史人口学で見た日本』にて示されている「都市アリ地獄説」に合致するものであろう。江戸に惹きつけられるアリたちに対する商売によって潤う者がいたとわけである。


前の月へ   トップに戻る   インデックスに戻る   次の月へ