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2017年10月の見聞録



10月5日

 ルイーズ・バレット(小松淳子訳)『野性の知能 裸の脳から、身体・環境とのつながりへ』(インターシフト、2013年)を読む。動物や人間の知能やそれに基づく行動は、脳だけではなく個々の生物の身体的な特徴とその置かれた環境も深く関わっており、脳・身体・環境を一体化して理解する必要があると主張する。簡単に言えば、動物や昆虫の賢そうな振る舞いを見ると、人間のように頭がよいと判断してしまう見方に対する批判を、具体例に基づきつつ説明していっている。たとえば、単純なセンサーを付けたロボットの実験はそれを示している。車輪付き小型ロボットの先端の左右両側にセンサーを付けて、左右のセンサーのどちらかが障害物を探知したら逆方向に曲がるようにセッティングしておく。障害物を除けて通るのだが、正面にあるものは探知できない。結果としてすいすいと除けながら歩いているように見えて、正面部分にものを集めていく。これを見ると賢く行動して掃除をしているように見えるが、実はそのようなものではなく、身体的な特徴と置かれた環境がそのような行動の結果にすぎないわけである(76〜77頁)。つまり、身体環境に役割を肩代わりさせているということになる。なお、著者は動物や昆虫を擬人化することそのものを否定しているのではなく、擬人化させて理解したと満足しないように戒めている。人間の認知も身体や環境と結びついている。たとえば、ハイハイをしている赤ちゃんに斜面を歩いて下らせると、全速力で降りようとして坂から転げ落ちてしまう。何度か挑戦させると坂の下り方を学んでいき、緩やかな傾斜を選ぼうともする。興味深いのは立って歩くようになってから同じことをさせると、過去の経験が活かせていないかのごとく、かつてと同じように全速力で斜面を下ろうとする。つまりハイハイという身体的な特徴と結びついて学習されたものは、立って歩くという身体的な特徴と結ぶいていないのでそれに基づいて学び直しているわけである(262〜263頁)。
 本当に少しの例だけを紹介したのみなのだが、こうした具体例に基づいた説明には十分に説得力があるように思われる。『攻殻機動隊 Stand Alone Complex』(リンクはAmazonのDVD)では、AIを搭載した多脚ロボットが心を持つかどうか、ということがストーリーと関わるが、人間とは異なった考え方をするのが当然なのかもしれないし、そもそも心を持つという考え方そのものが外れた見方なのかもしれない。


10月15日

 岩崎育夫『世界史の図式』(講談社(講談社選書メチエ)、2015年)を読む。世界を、アジア、中東、ヨーロッパ、アフリカ、北アメリカ、ラテン・アメリカ、オセアニアの7つの地域世界に分かれるが、時代によって「支配する側」と「支配される側」とに分かれていた。当初は、それぞれの地域で独立した国家が生まれ自立していた。地域内での支配と従属関係はあっても、自分たちの地域世界を超えた支配は行わなかった。これは中国やローマにあてはまる。初めて他地域を勢力下に置いたのはイスラーム勢力であった。イスラームはランド・パワーを拡大させて、ヨーロッパから中東、アジアの世界交易の中心的存在となった。税を払えば外敵からの保護と信仰の自由を与えつつ、優位勢力として君臨した。その後、大航海時代にシー・パワーを展開して、世界を植民地化していったヨーロッパが現れる。内部で覇権争いを繰り返した近世ヨーロッパでは、戦争に勝利するために、技術や戦術、常備軍の創設などが発展して、他地域を上回る軍事力を身に付けた。19世紀には、産業革命による膨大な製品の販売市場として、貿易港という点の支配から、領土を支配する面の支配へと転換した。なお、この植民地国家が、各地の新たな国家の類型となり、大戦後の独立時代に現代国家として定着する下準備を行った。ただし20世紀には、エア・パワーを手にした北アメリカが、世界各地の紛争に介入する新たな中心勢力となる。第1次世界大戦はヨーロッパ勢力間の権益の分配と植民の争奪戦だったが、その後の第2次世界大戦によってあまりにも疲弊してしまった。そのときにヨーロッパに代わってアメリカが台頭した。アメリカは他地域から海によって隔てられており、かつては発展の阻害要因となったが、海洋の交通手段が発達すると、むしろ交流の促進を促した。さらに他地域を攻撃するための空軍力を備えることで優勢な勢力となった。アメリカは民主主義と資本主義を、ヨーロッパ人に代わってより完成させた形で世界中へと広めていった。
 世界史の大きな流れについて、かなり分かりやすい説明であり、初学者であろうとある程度知っている人であろうと、読めばそれぞれに何か得るものがあると思う。ちなみに個人的には、ヨーロッパ人はアメリカから収奪したもので商売できたので、元手なしで商売できれば得に決まっているのだから他地域を越えた、という単純な理由ではないかと思う(この指摘は、関曠野『資本主義 その過去・現在・未来』(影書房、1985年)で読んだ)。
 あと、イスラームの衰退要因として世界各地におけるイスラーム勢力の覇権争いを挙げているが(102〜103頁)、同じように熾烈な戦争が繰り返された近世ヨーロッパはなぜ衰退しなかったのだろうか、と思った。ちなみに、中国も中東も強大な国家の支配が続いて戦乱がやんだため、戦争の技術が発展しなかった、と述べている箇所もある(131〜132頁)。
 なお著者は、現代では民主主義の規範に基づいてすべての主権国家を他国は侵し得ない、と合意されていると述べている。原理としては正しいのだが、現実にはそうではないのは言うまでもない。もちろん、平等であるように改善を行うのは大事だが、それが当然であるかのように主張しても、理屈倒れに終わるのではなかろうか。何度も繰り返しているし、自分自身にもあてはまるので偉そうに言えないのだが、歴史学(を含む人文学)は後付けで原因を探ることはできても、現実世界における具体的な提言はなしえないのだな、という気分にやはりさせられた。
 以下メモ的に。中国やインド、ローマが他地域を征服できなかった理由の第1は自然地理の制約である。たとえば、中国とインドの間にはヒマラヤ山脈が聳えており、マラッカ海峡を使おうにも両国とも陸の国家だったので不可能であった。第2に、匈奴やゲルマン人などの強力な外敵を本拠地のすぐ外に抱えていた。第3に、中華思想に代表されるように、国家間や社会宗教観のなかに、自らの地域世界を超えて他地域を征服・支配する論理がなかった。第4に、アジアは宗教や歴史文化で分節していたために、共通性がなかった(54〜57頁)。
 イスラーム都市の多くの壮大な建造物の建設に動員されたのは異教徒の捕虜であった。この当時のイスラームの豊かさと栄華は、他の地域世界の征服に伴う経済収奪に支えられていた(91〜92頁)。
 イスラームが優位勢力であった時代のアラブ人には、西ヨーロッパの地域世界を北方の寒冷地であり後進的な場所である、と見なす者もいた。十字軍も、けだものと見なし、勇気と戦う熱意以外には何もなく、動物が力と攻撃性で優れているのと同じ、と捉えていた(92頁)。
 ヨーロッパ人は、アメリカ大陸へ大量の移民を行ったが、これによって自国の人口過剰問題と貧困問題を解決しようとした。なお1846〜1932年には、ヨーロッパの主要国の移民者数は、5千万人以上を送り出している(154頁)。
 アメリカの使命感は、1つは建国に由来する使命感に基づく。旧来の国家に対して自由な国を作るという意識があったため、自由と民主主義を世界に広げることが指名であるという意識が生まれた。もう1つは、アメリカは神に選ばれた特別な国であるという明白な天命観である。これについてはキリスト教に基づくものというのは当たり前すぎて言及がないのかもしれないが、やはり一言補足は欲しかった気がする(このあたりについて本サイトで取りあげたものには、森孝一『宗教からよむ「アメリカ」』や大西直樹『ピルグリム・ファーザーズという神話』がある(堀内一史『アメリカと宗教 保守化と政治化のゆくえ』もそうかも))。


10月25日

 鈴木浩三『江戸の都市力 地形と経済で読みとく』(筑摩書房(ちくま新書)、2016年)を読む。家康の入府をきっかけに江戸が大発展を遂げたのは、中心地である以上は当たり前でもある。その発展の鍵となるものが重要となる。1つは、自然地形を活かしてコストと時間を最小限に抑えた点である。江戸は城下町が建設できる平地が少なく飲料水の確保も難しい場所でもあったからこそ、それをいかに解消するのかが重要だった。飲料水の確保のために神田上水や玉川上水が建設されたが、これは利根川が主な水源地となっている現在の東京水道にもつながる。そしてもう1つは、武家政権としての性格を備えているがゆえに、本拠地の防衛や安全保障に配慮がなされた点である。たとえば1602年に生母のための伝通院を小石川の高地に建立しているが、ここが敵方に落ちると、江戸城本丸が敵方に陥る危険性があったため、緊張関係にあった豊臣家に対する政治手法として、軍事施設を宗教施設と言い換えたのであろう(57〜59頁)。こうしたインフラ整備は経済的な発展を招く。たとえば参勤交代時の大名における江戸在住時の費用は実収入の50〜60パーセントに上るとされるが、もし大名の年貢の割合が七公三民ならば、江戸には全国の米の生産高の4割以上の富が集中していたことになる。さらに江戸普請のころにはより多くの富が集まっていた。(113〜114頁)。結果としてお金を支配する町人が経済面の実権を握る世の中を導き出した、とする。
 こうした全体的な流れに沿っているのだが、こちらの知識のなさゆえに全体を通して興味を持てたのかというとそうではない。地理歴史学に造詣が深ければもっと楽しめるだろう。
 以下メモ的に。岡野友彦『家康はなぜ江戸を選んだか』では、江戸はそれ以前にすでに発展していたからこそ家康は江戸を選んだとしている。それに対して、家康が秀吉よりも江戸に関する知識があったということはなく、織田家が円覚寺の荘園経営とそれに伴う鎌倉向け荘園の水運に関与していたため、秀吉に知識があったからこそ家康に江戸入りを命じた、とする(38〜40頁)。確かに細かくいえばそうなのかもしれないが、『家康はなぜ江戸を選んだか』では、江戸を選んだ家康の卓見が後代に強調すべくつくられたものにすぎない、と述べているのであって、大筋では変わらない気もする。
 『家康はなぜ江戸を選んだか』ともう1つ関連することが、銚子−利根川−江戸ルートに関して。日光東照宮の造営のために、利根川や鬼怒川の川普請が進められて、江戸と日光が結ばれるとともに、銚子から霞ヶ浦を経て利根川へつながるルートである「内川廻し」へと発展したとある(79〜80頁、なお、東北の軍事的な脅威に対して軍事輸送の便を向上させた側面も否定できない、とも述べている)。『家康はなぜ江戸を選んだか』によれば、このルートはすでに中世から存在していたらしいのだが、より発展したということなのだろうか。
 源平合戦のころに、江戸は江戸重長の勢力下にあった。重長は正統的な武士ではなかったが、武力を備えた豪商ないしは武装通運業者の頭目であった。当時の江戸湊には、多数の商船や商人が出入りして営業活動を行い、強力な武器商人を成り立たせるだけの富が集まっていた(25頁)。
 対日貿易に新規参入したオランダやイギリスは、スペインなどのローマ・カトリック側の国々による植民地での行為について、家康や幕府首脳部に折に触れて訴えている(152頁)。もしそうならば、スペインなどが貿易できなくなったのはわかるが、イギリスが貿易できなくなったのはなぜだったかの理由もあったとは思うのに忘れてしまった。
 江戸時代中期には諸大名による特産品作りがブームとなるが、それを商業ベースに載せるには、経済官僚でもあった町奉行配下の与力・同心の協力が欠かせなかった。与力・同心は世襲ではなかったものの、実質には跡取りが見習いとなって出仕することで世襲となっていた。最下級の武士だったものの、諸大名や町人からの付け届けで1人年間2000〜3000両に達したともいわれ、実際には大名・旗本並の生活をしていた。江戸時代の町人とは地主や家持階級のことであり、地借・店借は法的に町人ではなかった。新た地主になるためにはその町の地主の満場一致という厳しい条件があり、氏素性がわからなければ金持ちでもなれなかった(186〜187頁)。このあたりの厳しさは、南和男『幕末江戸社会の研究』や速水融『歴史人口学で見た日本』で描かれていることにも共通する気がする。それでも、山室恭子『大江戸商い白書 数量分析が解き明かす商人の真実』で描かれているようにしぶとく生き抜いている者もいたとも言えるかもしれない。


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